ボッコボコに遣られた |
前回、道祖神のとんと焼き櫓造り、子供としては一大事業で、同級生 先輩 後輩皆が力を合わせなければ出来ない事だ、みんな仲良く楽しんで事業を完遂させた、その地元の生徒達と仲良くなるには、大変な試練が有った。 東京からの疎開者は、田舎の生徒の仲間になるには、強烈な洗礼を受けないと仲間入り出来なかった。 その理由は、昭和19年当時の田舎の生徒は、ほとんど洋服だったが、中には筒っぽの着物の子もいた、女子生徒の中には弟や妹を背負って授業を受けるのもいた、教科書ノート筆箱等教材は十文字に縛って、他の教材や弁当は袋に入れて持って来た、履物は自家製草履か下駄だった、ランドセルの子は居なかった。 疎開者は、学童服に学帽、ランドセル、運動靴を履いて登校、田舎の子と疎開の子と服装の差が有り、その事だけではなく、他にも何か反発するものが有ったのだろう。 学校の脇に古墳を思わせる高さ10m程の小山が有り、頂上は狭いながらも平地が有る、疎開して暫くすると、昨日山で疎開者が地元生徒に総殴りに遭ったと聞かされ、そんな事を何回か聞いた、何時自分に番が回って来るか、心が慄いたが運命の日は来た、「放課後山へ来い」と宣告された。 山へ行ったら獰猛な顔付きの奴等10人程に囲まれた、これはボコボコにされるなと覚悟した、兎に角我武者羅に暴れ回り、鼻血を出す奴、唇を切る奴、痣が出来る奴、だが多勢に無勢たちまち抑え込まれボッコボコ、頭は瘤だらけ鼻血、痣、ポケットは千切られボタンは全部取れて、大の字にひっくり返っていた、悪童共これで良しと引き上げた。 小学校正門前に村役場が有り、叔父が兵役係で勤務して居た、取り敢えず叔父の処へ行った、親元を離れそうでなくても心細いので、叔父の顔を見たら一気に涙がこぼれた、役場の女性が傷の手当をしてくれ、叔父が帰って洋服を繕って貰えと言って呉れた。 疎開者が受けた暴力事件も10数件に及んだが、当時吉岡校長と言うのが居たが、これがどうしようもない校長、何の改善策も講じないで居たが、見兼ねた父母 村民から暴力阻止を学校へ申し入れた、暴力行為は止んだ、この校長も後に更迭された。 暴行を受けた小生としては腹の虫が収まらない、何か復讐をと思うが腕力では多勢に無勢敵わない、 だが意外と早くその機会が訪れた、ある朝登校すると、暴力を振るった悪餓鬼3人が宿題遣って来たか」と言う、「遣って来たよ」と答える「見せて呉れ」という「宿題は自分で遣るもので、見せる物では無い」と突っ撥ねる、さらに見せて呉れという「ヤーダヨ」と断る、悪餓鬼も先生に怒られるのが怖いらしい、さらに見せて呉れと懇願される、此処で完全に主客転倒した、宿題を見せてやる、こんな事がきっ掛けで暴力を振るった悪餓鬼と交流が始まる。 当時戦争は末期、ガソリンが無くて、松の根っこから松根油を採るため、樹齢50年を越した松の木の根っこ堀りに動員された、小学生には重労働である、疎開者の小生祖母が用意して呉れた弁当を持って参加した、祖父母は農家だったので食料は不足なかったが、疎開者と言う事で、暴力を振るった悪餓鬼が、「俺お握り余分に持ってきた、これ食えよ」とお握りを呉れた、他の者も俺も持ってきた遣るよと言って呉れた、完全に悪餓鬼との心が繋がった、嬉しかった。 悪餓鬼達も本当は心根は優しい、都会の子と田舎の子と肌が合わなかった鬱憤を晴らし共に仲間だという、暴力行為も仲間入りとしての洗礼だと今は思っている、その仲間達と野球チームが結成され、山梨県下中等野球大会で優勝した、もう70数年前の痛みを伴う楽しい思い出である。 |
第一回山梨県中等野球大会優勝記念 真ん中は温厚篤実な斎藤校長先生、後列に並ぶ一番背の高い今で言うイケメン先生が担任、目を掛けて呉れた佐藤先生、前列に座っているのが暴力を振るった悪餓鬼共、真ん中立っている左から2人目が小生、この時は暴力沙汰の恩讐を乗り越え、とても良い友達だった。 |
今でも行われているのか |
昭和19年から20年に掛けてB29の空襲が激しくなり、学童疎開が始まった、東京の学校では絶対体験出来な事を田舎の暮らしで、数々の貴重な体験をした。 昭和21年正月7日門松が取れると、中学生がリヤカーを引いて全戸を回って、門松を初め、注連縄、牛蒡連縄、縁起物、昨年神に祀った飾り物一切を回収して歩く、その家に依っては、米を少々とか餅を幾つか、或いは現金を呉れたりする(当時戦後の大インフレが始まっていて、幾らだったか)集めた正月用品はの倉庫に保管。 田んぼの真ん中に小さな祠の弁天堂があり、敷地200坪くらいだったか、周りの田んぼは、2毛作の麦あり、灌漑用の小川が流れ、ドントを燃やしても延焼の心配はない。 ドント焼きの柱になる木を、土手の補強に植えられたポプラの比較的真っ直ぐな枝3本切り出す、子供達だけの為危険防止に、青年団か大人何人か立ち会ってくれる。 10日頃になると4m程のポプラの枝を立ち上げ、3層に分ける、この時も大人が助言して呉れる、子供主体なので余り手を出さない、一番上は、火持ちを良くする為河原で拾った流木や薪類を詰め、2層目は比較的燃え易く火持ちする物、一番下は藁、豆殻、胡麻殻など火付き良い物を入れる、櫓の周りは門松で飾り緑でとても綺麗だ。 12日頃には完成させ15日のドント焼きに備える、だが何時の世にも悪い奴は居るもので、完成したドントに15日前に火を付けるのがいる、実際15日前に燃やされてしまった例もある。 放火防止に一番下の層に、筵や毛布で囲い防寒して、布団を持ち込み、蝋燭の明かりの中で、集めた餅やご飯を炊いて食べる、寒い中3~4人が雑魚寝で泊まる、3晩くらい泊まるが、子供心には何か冒険をして居る様でとっても楽しい行事だった。 15日の夕方になると、の人達が集まり、数百人の輪が出来る、子供達だけで綺麗に作ったドントに、自分達が火をつける、何故かとっても誇らしい気分になる、子供達だけでドントを作り、大人が見守ってくれ、子供の成長を確かめるのだろう。 火が付き勢いを増すと、書初めを棒の先に吊るし火にかざし、上昇気流に乗って高く舞い上がると、字が上手になると言われる、少し火勢が静まると、柿の枝に刺した繭玉や餅を焼いて食べる、火勢が衰えると村人も三三 五五帰っていく、我々は小川から水を運び火を消す、大人が完全消火したのを見届けて解散、七草以後一週間ばかりドント焼き造りをして、一つの行事を完成した。 この後お天神講と言うのが有って、の宿になった家で、集めた米や食品を使い、お母さん方が集まり、赤飯 汁粉 その他沢山の料理を作ってくれ、ドント焼きに関った子供達にご馳走してくれる、大人達も集まって酒宴を張る、こうゆう事が村人の絆なのだろう。 田舎へ疎開したから出来た事、とてもいい体験だった。 |
日没近く櫓に点火 |
1月の乾燥時期たちまち燃え上がる |
宵闇が迫ると火の明かりが鮮やかに |
櫓も崩れ火の塊に、相当な熱気で近付けない |
書初めも燃やし、繭玉を焼く ウエブ上の画像を拝借 |
東久留米七福神巡り |
毎年初にウオーキングの会で、都内はじめ近郷の七福神めぐりに連れて行って貰う、そのご利益かも知れない、毎年風邪一つ引かず無病息災で過ごしている。 今年は西武池袋線の東久留米駅周辺の七福神を巡った、駅前広場は整備され、マンション群が建ち並び、瀟洒な家が軒を連ね整備されていい街並みを見せている、こんな市街化された街中に落合川 黒目川二つの清流が有る、どちらも湧水を水源として、透き通る流れに鴨 白鷺が羽を休め大きな真鯉 緋鯉も散見できる、川沿いには遊歩道も整備され、流域には原風景を思わせる自然も多く残っている。 東久留米周辺にはこれという有名寺院はないが、各寺院其々の趣が有る、特に大圓寺は広大な寺域を有し、本堂 山門 鐘楼 伽藍を有し、開山から1,100年以上経つ古刹だ、このお寺、寿老人、福禄寿、恵比寿大黒三福神を祀り、七福神巡りも五つのお寺を回れば済む、7寺回らずに済み大変楽だった。 人間歩くことが一番の健康法、総ての欲から解放され後に残るのは健康、元気でいれば楽しい事が一杯ある、この七福神巡り19,000歩 歩いた、足腰が鍛えられ体も丈夫になる、この健康が七福神が与えてくれたご利益なのかもしれない。 毎年各企画をしてくれるリーダーに感謝している |
多聞寺 |
落合川流域に残る自然風景 湧水場所 |
米津寺 (べいしんじ) |
千年以上経た古刹 大圓寺 三福神が祀られている |
市街地の中の清流 黒目川 |
法泉寺 |
淨牧院 |
立派な山門 |
外見も内容も同じ物を |
外見は鏡餅、中身は鏡餅の意味をなさない切り餅、神を欺く内容に驚いた、年間を通して、スーパー等で切り餅を売っているメーカーだ、今年から此のメーカーの餅は一切買わないことにする。 |
中型お供えは型の通りお供えの格好をしている、大型お供えも形は悪いが、お供えの形(外見だけ)をしている写真を撮って気が付いたが、中型お供えと、大型お供えの色が違う、中型は透明で内容が分かるが、大型はコーテイングされているようで中身が見えない |
矢張りからくりが有ったか、大型お供えから出て来たのは、切り餅七個、今年は11日の鏡開きのあられ切りの作業が無くなった、中型お供えは切り餅にする |
v |
縁起物を途切らせると |
40年程前友人に川越(北院)喜多院初大師参拝に誘われた、正月3日が初大師、大変な賑わいで拝殿から山門を経て、一般道まで6列に並んだ長蛇の列、参拝迄1時間超を要した、友 数人とお喋りしながらで良かったが、何とも寒空の下無駄な時間を費やした、参拝後 家内安全お札、交通安全お札、縁起物の達磨を買った、この達磨を買った為に、40年間川越へ通う事になった、3日初大師は参拝者が多くて、時間の浪費、日にちが違っても、ご利益は変らないだろうと、2日早朝に達磨収めに行くのが習慣になった。 因みに40年前は写真の達磨の値段¥800程だったか、年を追って随時値上げされ、今は¥2,500する |
新規購入達磨、まだ目玉が入らないこの後直ぐ、一年間の願い事を込めて、目玉を入れる |
喜多院の達磨収め処には、多くの達磨が収められている、中には黒目が小さく白目ばかり目立つのが有る、白目が多いと少し不気味だ、達磨さんの目は白目を少なく大きく入れてやる方が、迫力が有る |
所沢神明社 |
所沢の鎮守神明社へは元日の朝7~8頃家から徒歩で初詣に行く習慣が40年来続いている、信仰心もあるが健康のための意味もある。 以前は神明社まで30分少々で行ったが、今では足の筋力の衰えによる歩幅が狭くなったせいか、40分弱掛かる様になった。 以前除夜の鐘の頃深夜歩いて参拝したことが有る、拝殿から階段下、そして旧市役所裏まで、参拝者が並んでいた、参拝を終えて所沢駅へ行ったところ、終夜運転はなくなり、終電延長をしていたがそれももう無い、終夜運転が無くなったとは思っても居なかった、所沢駅から深夜の街をとぼとぼ歩く羽目になった、途中コンビニの前、居酒屋の前、酒に酔った若者がグループで気勢を上げている、「老人狩り」など流行っていて少し怖かった、以後深夜参拝は止めた。 今年も8時前に境内に、何時もなら直ぐ参拝出来るのに、今年は階段下まで並んでいた、おみ籤を買う人も階段下まで並んでいた、店じまいする熊手屋も有ったが、開いている熊手屋は、参拝を待つ間の10分くらいの間に4回も、拍子木と手拍子で祝儀をしていた、昨年は好景気だったので、熊手の売れ行きも良かったようだ。 |
例年になく多い参拝者列を作る |
初詣をする善男善女 |
好景気のせいかよく売れる熊手、拍子木と手拍子でご祝儀 |
早々に店じまいの熊手屋、ほかの店はよく売れているのに |
早朝故に客足が疎らな売店、日が暖かくなると日中の初詣客が増えるだろう |
帰る頃には初詣客さらに増える |
元日朝9時過ぎの所沢銀座商店街、日頃の人通り、車の喧騒がひっそり、嘘の様 |