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小手指駅の今昔

2013-06-10 16:22:28 | 日記

 

 

 現在(平成25年)の小手指駅北口

 

 昭30年代後半所沢の小手指周辺は、行政道路から南を見ると西武線を越したはるか先まで人家はなく、雑木林と耕地が広がっていた、現在の小手指駅を外れた所から狭山ヶ丘駅までは、昼なお暗きと表現したくなる鬱蒼と茂った武蔵野の雑木林が単線の線路に覆い被さっていた。
 その当時は西所沢を発車すると、狭山ヶ丘まで駅が無く随分長い
距離だった、電車の速度も今よりずっと遅く、長く感じた。一時間に上下4本の電車が通るだけで、沿線住民も非常に少なかった、所沢市民も4万~5万人程ではなかったか。
 その後昭和32年~34年に掛けて新所沢に公団住宅ができ住民も増え、所沢市も企業誘致を積極的に行い、昭和35年に北中地区に「鷺宮製作所」が工場を開設、行政道路北側から、新所沢方面に住宅が増え始める、だがその当時の行政道路は宮本町交差点から北中の、昔からの農家集落まで、行政道路沿いには家は一軒もなく、駐留軍の車がやたら多くスピードを上げて走っていた、当時は無かった小手指駅北入り口の交差点近くに、「キンケイ食品」と「入間卵集配所」しかなかった、入間卵は今も存在する。
 
 
小手指駅は駅番号はSI19番、池袋駅から数えて19番目である、距離にすると、29,4kmある。
 昭和41年西武池袋線の車両基地が北野地区に建設され、その分岐点として信号所が開設された、
その後昭和45年11月20日に信号所が駅に昇格「小手指駅」として供用を開始した。
 
小手指駅名はこれが始めではなく、大正4年4月15日武蔵野鉄道が飯能迄開通した当時は、今の西所沢駅が小手指駅を名乗っていたが、同じく大正4年9月1日に西所沢に改名した、以後半世紀以上を経て小手指駅が復活した、開設当初は北口の北中辺には新興住宅もありサラリーマンも多く利用者も有ったと思うが、南口はかなり離れた所に、昔の農家の集落があって通勤客は少なかったと思う、周辺に民家は無く利用者も少なかったと思う、現在の小手指駅は朝のラッシュ時には1時間に上りは20本、下りも15本以上有る、1日の利用客は平成23年時点で47,000人が利用する駅で、本数は減ったが小手指発があり、特急は止まらないが、それ以外快速急行も止まる便利な駅なった

 

 昭和36年の小手指駅周辺(北野の耕地)見渡す限り人家は見当たらず  昭和43年代に北野地区の区画整理が始まる(現小手指南口)

 昭和35年に進出した鷺宮製作所の周辺も家は無い,通勤者は西所沢か狭山ヶ丘を利用したのだろうか、それではかなりの距離になる、行政道路をバスが走っていたかもしれない。

 昭和42年頃北野を通る江戸道 左の道。
この頃は幹線道路以外は未舗装で、雨の日は泥濘と化し、晴天には土埃を巻き上げた、当時荷物の運搬手段はリヤカーと大八車が多かった、車が通ることは滅多になく、偶に裕福な農家の三輪車が通るくらい

 昭和42年頃北野を通る青梅道(この先に誓詞ヶ橋)  この道が今のバイパスで上下4車線、広い歩道を持つバイパスとなっている、当時の誰が今を予想したであろう.
 右は川越道、茫漠とした景色がひろがる

 昭和42年頃小手指地区に車両基地が建設される、基地から未だ建設されていない小手指駅方面を見ても家は一軒もない
 昭和44年北野地区、小手指信号所南側の区画整理が始まる  昭和45年11月20日信号所から昇格して小手指駅開設、一般に供用される
 開業当時の小手指駅は平屋で改札口は北口のみ、
構内踏切を渡らないと改札へ行けない
 駅南側に流れるプール公園が完成、開設期間だけ
南口臨時改札を開いた
 昭和55年に橋上駅に改築される、駅前には未だ雑木林が広がる、駅の先には建設中の陸橋が見える、
昭和56年3月完成一般に供用される。
 この頃になると周辺にマンション 個人住宅も増えてくる
 昭和55年小手指陸橋工事が右手に見える、その昔は鷺宮製作所前から南に延びる細い農道が線路を跨ぎ小手指と北野を結んでいた、三輪車が1台やっと通れる小さな踏切だった、この写真では少し拡幅されている。 この道は昔からの住民は川越道と呼んでいた
 昭和52年頃の小手指駅北口から行政道路へ延びる道路は、西友も個人商店もなく淋しいものだった、通勤者が道路の両脇へ車も自転車も無秩序に放置して出勤していた

 平成25年の小手指駅北口から行政道路へ伸びる道路、左の写真から36年の歳月はこんなにまで変貌させるか、然し40数年前には、道もなく雑木林と畑だけ、夜は街灯もない真っ暗闇の農地だった

 平成23年駅前超高層ビル建設に伴い、駅からマンションに通じる渡り廊下になる為、隣接の商店が解体される  平成24年12月左の古い店がリニューアルされ、屋上に駅からマンションまでの通路が完成
 平成25年の小手指駅前、後ろには27階と30階の高層マンション、南口にも中高マンションが有り、54年には小手指西友が開店、、高々30年~40年前の茫漠とした景色が超高層マンションを含む北口一帯は一大商圏になった、歳月が市街地化させ、1時間に4本しかなかった発着電車が、今ではラッシュ時には上下30本以上の電車が発着する賑わいの街になった。

東京造幣局見学

2013-06-03 11:04:32 | 日記
造幣局東京支局

 

 日東京造幣局見学の機会を得た、見学者は東池袋駅からぐるり歩いて西門から入場する。造幣局は、幕藩体制の通貨から、世界に通用する貨幣を明治維新政府が、大阪に造幣局を開設近代的貨幣の製造を開始した。
 その後東京と広島に支局を開いた、今も大阪造幣局の桜は時期になると局内が解放され、桜の名所としても知られる。

 

  貨幣博物館は最古の「冨本銭」から現在までの貨幣を陳列している、これを見るだけでも楽しい、日本人の手先の器用さと、高度の技術で精巧な貨幣が作られている。
 今流通している500円硬貨も、500の丸の中に、見る角度によって白い棒であったり、500の文字が浮き上がる、そして周りのギザギザは斜めに刻んである、これは日本だけの高度な技術で、外国の追随を許さぬ技術とか。
 博物館内は撮影自由だが、勲章展示場は厳重撮影禁止、以下の勲章の写真は館内で配られたパンフレットに掲載されたものを転写、もちろん工場内は全面撮影禁止になっている。

 精巧な貨幣を作る技術を生かして、勲章も作られている、長年技術を培った熟練者が、型を切り抜きやすりで磨き、塗料を埋め込み焼いて七宝焼きに仕上げる、後パフで磨き上げぴかぴかに仕上げる、ほんとに細かい手の込んだ立派な勲章を作り上げる。

 日本最高位の勲章で、今上天皇と吉田 茂 佐藤 栄作の3人にしか与えられてい
ない、菊の御紋章の両脇の彫刻装飾は総て明治の文字が図案化されて彫刻されている
とか。以下いくつか勲章を並べてみた

 

 

 小生が小学生の頃通貨は「銭」単位だった、親から1銭貰って駄菓子屋へ行く、1銭で飴玉5個買えた、映画館は子供は5銭、 網の目の様に張り巡らされた都電は、何回乗り換えしても7銭だった気がする、上野不忍池のボートが30分7銭だったか10銭だったか。
 戦前本郷区(今の文京区)に住んでいた時に、我が家の近くに富士神社が有り、節分には豆撒きが有り、豆と一緒に1銭 5銭 10銭のおひねりが混じる、数少なく滅多にない事だが50銭銀貨を拾う事が有る、これを拾った人は大変な幸運である、子供と言わず大人も良い小遣いになったのではないか、現在80歳前後の人は下記の50銭銀貨をご記憶かもしれない。

 

富本銭から和同開珎 寛永通宝など
初期の小判から小粒銀
大判小判小粒金
各時代の大判、これ一枚で首が飛ぶ時代も有った

千両箱の重量は20kg超、男なら左程に重く感じない、土蔵破りも簡単に持ち
出せる重さ

戦前の銭単位貨幣 前述の如く80歳前後の人は使った記憶があるはず