老いて楽しく

余生を楽しむ

初恋 そして悲しい別れ

2017-03-26 11:30:04 | 日記

若き日の甘くて切ない思い出 
 

 時は昭和26年頃か、東京空襲の焼け跡が広がり、戦前の繁華街の池袋も、東口に立って線路の向こうを見れば西口が見渡せる、見渡す限りの焼野原、戦災孤児が繁華街に屯し、傷痍軍人が路上で物乞いをするのが当たり前の風景、そんな焼け野原の西口には、焼棒杭と焼けトタンを組み合わせた闇市が軒を連ねていた。
 この闇市に一日の労働を終えた人達が一杯の酒を求めて賑わった、だが日本酒は3分の1を水で割り、水っぽい酒だった、焼酎と云えば、メチルアルコールに赤い甘い液体で割り梅割り、紫の液体で割るブドー割り、メチルアルコールの臭みを消し甘味で飲み易くしていた、エチルアルコールならいいが、メチルアルコールは体内に蓄積されると失明する、当時失明者が続出、厚生省がメチルアルコールの一般販売を禁止した、こんな荒んだ世の中だった、小生はまだこの闇市の飲み屋へ、成人に達していたが、首を突っ込む事は無かった。

 だが少しずつ復興の槌音も聞こえ、本建築の店も出来始め、戦前からの映画館「ロサ」も開館、此の映画館の隣に出来た甘味店「笹周」甘味店なのに、マカロニグラタンが途轍もなく旨かった、まだ多くの食品が出回らなかったせいもあるが、旨かった。
 この新築された映画館では、アメリカ映画 喜劇役者ボップホープの「腰抜け2丁拳銃」が上映され、総天然色、底ぬけに明るく楽しく笑わせる映画だった、戦後直ぐこんな楽しい色彩映画を作る国と戦争をしたのは、間違いだったのではないかと思った。

 そんな世相の時、「青少年育成」の為、豊島区役所が「夜間成人学校」を開設した、夕方6時から8時まで2時間の授業、火 木の週2回 3ヶ月の講習、1教室30人、その教科の一つ謄写版科に入学した、今ではPCに文字を打ち込み、写真やイラストを挿入して、簡単に綺麗な文書を印刷できるが、当時は鑢の上に蝋紙を置き鉄筆でカリカリ字書いた、学校の先生方は試験の答案用紙は皆謄写版で書いて生徒に配布していた、大変な労力を要した。
 
 その当時物資は少しずつ出回り始めたが、まだまだ服装は貧しいものだった、そんな教室に、こざっぱりした服装で、可憐楚々とした、掃き溜めに鶴が降りたような可愛い子が居た、小生一目で好きになった、別に告白したわけでもないが、(当時そんな勇気はなかった)以心伝心彼女も好意を示してくれた、小生の初恋だ。

 前出の映画館で映画を見て、甘味処で食事をして、彼女の家まで送って行った、彼女の家は西武新宿線の鷺宮駅から少し離れた所に、門構えに塀を巡らし庭の奥に日本建築の母屋が見えた、戦災に遭わず屋敷が残った、だがこの門内へ入る事は1度もなかった、当時西武新宿線は、高田の馬場が始発駅、のろのろ運転の電車、鷺宮までは遠かった、だが好きな人との時間を過ごすのには、のろのろ運転もよかった。

 講習が有る日が待ち遠しく、心浮き立つ日々だった、ある日新聞に、三つ峠で転落死という記事が有り、その人の名は「村瀬 祥子」、同姓同名の人が居るものだと思って読んだ、後日詳細が分かり、初恋の人と分かった、一瞬頭は真っ白、心は上の空失意のどん底、とても悲しかった。

 あの可憐楚々とした人が、ロッククライミングを遣っていたとは一言も聞いていなかった、ザイルが切れたのか、ハーケンの打ち込みが緩く、抜けて落ちたのか、彼女になんでそんな不幸が起きたのか、信じられなかった。

 それから暫くして心の痛手も少し癒えた頃、当時流行の歌声喫茶で、スリーグレイセスが歌う「山のロザリア」が大流行、あの歌詞が、山で命を失った彼女に結びつき、忘れえぬ曲になった。

 戦後ラジオドラマに「君の名は」と云う菊田 一夫氏作の名ドラマが有り、このドラマがが始まると女湯が空になると云われた物語、その中に菊田 一夫氏が「忘却とは 忘れ去る事なり 忘れ得ずして 忘却を誓う心の悲しさよ」と書いている。

 初恋の人は印象が深く、まして不幸な事でサヨナラした為か、年を重ねても脳裏の片隅に残って居る、亦其れに纏わる歌が有ると、深く印象に残る、「山のロザリア」の歌を聴くと、今でも胸がキュンとなる。

 謄写版教室の生徒達が、講師を囲んで飯能の奥、「棒の嶺」へ登った、彼女が撮ってくれた、60数年前の写真が良く残って居た、唯一彼女との写真だ。

 
謄写版講習後茶話会に集まった会員 
 
謄写版教室の会員が、講師の提案で飯能の棒の嶺へハイキング 
 
当時カメラを持っている人少なく、彼女2眼レフカメラを使っていた 
 
講師がコースを打ち合わせるところを、覗き込む小生 
 
 
 
 
 

ど根性と迄はいかないか

2017-03-20 08:46:44 | 日記
何処に咲こうと大きなお世話
 最近ど根性と云われる植物が紹介されている、コンクリの割れ間から大根が成長したり、アスフェルトとブロック塀の隙間から西瓜が実ったり等、植物の生命力の強さが紹介されている。

 我が家にもそんな事象が起きた、外の流し台のブロックトコンクリに固められた下から、一昨年ヒヤシンスが芽を出した、ヒヤシンスと云うのは、種だか球根だか知らないが、撒いた事も植えた記憶が無い、昨年花を咲かせ、今年も花を咲かせた。

 {おい なんでこんな狭い所から堅苦しく芽を出し、花を咲かせるのだ、もっと広い所で咲けよと」云いたくなる、だが花には花の言い分があるのだろう。此処に定着したかったと。

 でもこんな狭苦しい所でも健気に花を咲かせる、こんな植物にパワーを貰う。
種だか球根か知らないが、なんでこんな窮屈な所へ芽を出すのだろう 
 
ブロックとコンクリの下から根を張り、花を咲かせる、 
 
 
もっと広い所へ根を下せばと思うが、ヒヤシンスにも考えが有るのだろう
 
こんな硬い下から芽を出し花を咲かせる、小さい花、その生命力に、パワーを貰う
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

東京大空襲

2017-03-11 11:45:17 | 日記
九 死 に 一 生

   昨日の新聞の投書欄を見ると、72年前の東京大空襲の悲惨さを何人かの人が書いていた、だが年齢70歳代の人が多かった、詳しく知る人は80歳を越えた人でないと、分からないかも知れない、幼い年齢だったから、恐怖心は強かったと思う。

 東京大空襲の10日程前、団子坂から谷中に掛けて(今の文京区谷根千)、爆弾投下に見舞われた、我が家から300mも離れていないところ、500㎏爆弾の炸裂音が連続して響く、生きた心地は無かった、直ぐ投下場所へ行って見た、土が大きく抉られ、その土が防空壕を埋めていた、地元民が直ぐ掘り出しに掛かtったが一家3人生き埋めになった、警察 憲兵隊が来てその後は立ち入り禁止、
人間生き埋めの死など最悪だ、あんな死に方をするなら、焼夷弾の直撃 爆弾で一気に吹き飛ばされる方が楽だと思った、その以後防空壕には絶対に入らなかった、小学6年生の決断である。、
 
 
 その時の日本の高射砲の性能は9,000mが限界だった、その上を行くB29は悠々と飛び去って行く、所沢飛行場には迎撃する戦闘機もなく、特攻機として九州の賀屋基地に行っている、時折り戦闘機が迎撃する、B29の周りに、赤トンボが飛んでいるようだった、でも迎撃するのは頼もしかった。
、1万m高空のB29は15sm位に見え、4つの発動機もはっきり見えた、4つの発動機から発する爆音が編隊を組んで来ると、ブーンと云うかグーンというか、腹に響く爆音だった、
   米軍も身の安全を図って1万mの超高空から、編隊を組んで爆弾 焼夷弾を投下していた、3月10日以前にグァム島の司令官が代わり、それまで超高空から無差別攻撃だったのを、低空からランダムに絨毯攻撃に変えた。


 ある時快挙が有った、高射砲弾がB29の胴体を直撃した、機体は2つに割れ、主翼部分はくるくる回転して千葉へ?落下、尾翼部分は綺麗な弧を描きながら東京湾に落下、後日引き揚げ日比谷公園に陳列され、後日見に行ったその尾翼の巨大さに圧倒された。

 3月10日未明から始まった帝都大空襲は状況が違った、それ迄の高高度からの爆撃ではなく、高度3,000m迄下げ、編隊ではなくランダムに押し寄せてくる、高空で15㎝位に見えたB29は子供が両手を広げた程の大きさ、片側は照明灯の青 片側は火事の赤さで赤く2色に染まり、そこへ曳光弾が赤い光跡を残してB29に吸い込まれる、腹に響く猛烈な爆音、廻りは火の海、死の恐怖が無くなり、敵機と周りの火に美しさを感じた、。

 B29から投下された焼夷弾は、高空の時はヒューと空気を切る音だが、地上近くなるとザーと夕立のような音がする、我が家の脇に細い路地が有り、奥に3軒ばかり住宅が有った、その路地に焼夷弾が落下、我が家の3軒ばかり先の蕎麦屋の親父さんが、濡れ筵(むしろ)を持って消しに行った、その途端焼夷弾が炸裂、焼夷弾の蓋が親父さんの太腿に刺さった、「やられたー」の声に父親がその人を広い道路に引き出し蓋を除去して、手拭その他を使って止血に努めた、他に手当の仕様が無い、10数分後に出血多量で死んだ。

 その時は周り中火に囲まれていた、何処にも逃げ道はない、お父さん逃げ道が無いよと云った、父母も死を覚悟したのかもしれない、兄 私 妹を両親が囲み輪になって居た、.だが明け方近くなって奇跡が起きた、周りは下火になり、我が町会一帯が焼け残ったのだ、九死に一生の幸運である、あの時焼け残らなければ、今の小生はない。

 翌朝 未だ残り火が燃え煙が広がる焼跡を歩いた、電車は骨組みを残し 消防車も焼けていた、コンクリート建物の他は皆焼け、今まで見えなかった町が遠方迄見渡せ何もなくなっていた。、
 我が家の近くに何を保管しているのか知らない倉庫が幾つかあった、焼けて見て保管物が分かった、一つは炭の倉庫 一つは紙の倉庫、保管した炭全体火が付き巨大な火の山、、消防車が水を掛けても、水のかかったところは、黒く消えるが、、放水場所を変えればすぐ真っ赤、20m以上離れても熱い、結局手の施しようが無く、3日3晩燃え続けた。
 他は紙の倉庫、紙を積み込むとあの猛火でも、周りが2cmほど焦げるだけでほかは無傷、戦時中でもこんな良質紙が有ったのかと思った、大量の全版紙だったが、警察が出向く前に、火事場泥棒が皆持ち去った。

 その後父親も此の侭東京に居ては、一家が全滅になると郷里へ疎開を決意した、家具20個まで輸送できるので荷造りして、駒込駅から田舎へ発送した。

4月24日の空襲で我が家も燃えてしまった。

 
鉄筋の建物以外はすべて灰燼に帰す            震災記念館資料より
 
余りの悲惨さにぼかして掲載                 震災記念館資料より