老いて楽しく

余生を楽しむ

災い転じて福

2015-12-30 18:00:10 | 日記
 
江戸時代の小咄

 ある俳人が友人の俳人宅へ年始に行った、気心知れた同志、正月の事ゆえ、座敷に通され、新年のあいさつを済ませた、正月の祝い酒の前に何はともあれ、お茶をと御当主が細君にお茶の用意を命じた、細君 茶の用意をして、客人の湯飲みに茶を注ごうとした時、何かの弾みで土瓶を落として割ってしまった、御当主 妻の粗相の非礼を客人に詫び、『元日早々土瓶を割って、縁起でもない』と妻を叱った。

 客の俳人すかさず一句詠んだ
『元日に 貪(土)と貧(瓶)とを 打ち割って 後に残るは 金の弦なり』 
と詠んだ。

 奥さんの粗相を打ち消し、この家に今年金蔓が残り、御当家繁盛と詠んだのに、御当主 はたと膝を打ち、客の俳人に、『妻の粗相を打ち消し、当家に福を呼んでくれたと』、大いに喜ぶ、この後 正月の祝い酒は、奥さんも交え楽しく話が弾んだ事は言うまでもない。

  (注)今では茶を淹れる時は急須が主流だが、江戸時代は土瓶が多く使われていた。
 昔の長屋は別にして、一般民家の上り框は、大変高くて、一気に上がろうとすると、足を大きく上げ「どっこいしょ」と掛け声を掛けて上がるようだった、その為 踏み台の石が置かれていた、その踏石の上に、客人の雪駄を奥さんが揃えて置いた。
楽しい酒宴も話も尽きてきて、客の俳人がおいとますることになった。

客人雪駄を履こうと踏み石に足を下した、段差があるため、片方の足に力が入り同時に下腹にも力が入った、思はずそこで「プッ」と放屁ししてしまった、これは大変失礼なことだが、客人すかさず
『プッと出て 顔に紅葉の 置き土産』と上の句を詠んだ、御当主 間 髪入れず
『余りの臭さに 鼻向け(餞)もぜず』と下の句を詠み、大笑いして別れた。


  俳人とは機転が利き 頓智もあり 素敵で優雅な人種だ、小生もあやかってユーモアのある人間になりたいと思うが、どうしてどうしてこの年なるも足元にも及ばないぼんくら、せめて人と争いを起こさぬ「好々爺」で居たいと思う。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

江戸小噺

2015-12-20 15:02:21 | 日記
祝い言葉
正月にはまだ少し間があるが、正月の江戸小咄でも書いてみよう。

 元日に熊さんが大家さん宅へ新年の挨拶に行った、大家さん『オー熊さんかい、正月だ上がって茶でも飲んでいきなよ』と座敷へ招じた、正月の挨拶も終わり、熊さんが『ところで大家さん、目出てー句を詠ませておくんなさい』と云った、大家さん『その目出度い句ってのは何だい』と興味を示した、熊さんが『この家を 貧乏神が とり巻いて』と上の句を詠んだ、途端に大家さん『なんだい元日早々我が家を貧乏神が取り巻いてとは縁起でもない』と烈火の如く怒った、熊さん落ち着いて、『まあー大家さん、下の句を聞いておくんなさい』と『福の神の 出所なし』と詠んだ、これを聞いた大家さん「そうかい、今年一年我が家に福の神が居てくれるのかい」と機嫌を直し大いに喜び『おいばーさんや、何か見繕って熊さんに酒を出してあげな』と云った、熊さん大家さんで酒肴をご馳走になり良い気持ちで辞去した。

 道でぱったり熊さんと出会った八っつあん、『オー熊公昼から あけー顔して、正月だからいいけど、景気がいいな』と云った、熊さん「なーに只酒よ」と云った、八っつあんこれは聞き捨てならない、「正月から只酒を飲める所なんか有るのか」と熊さんに質した、熊さん『なーに大家さんで馳走になっただけよ』と云う、八っつあん、『あのしわん坊《けちん坊を江戸時代はこう云った》の大家さんが酒をふるまったのに、大いに驚き『一体何をして酒を振る舞われのだ』と聞く、熊さん例の貧乏神の祝いの句を話す「よしわかった俺もその手でごちになろう」と大家さんへ年始に行った。
 大家さん『おお八っんかい、マア上がんなよ、茶でも飲んでいきな』と座敷へ招じた、年始の挨拶を一通り済ませ、『ところで大家さん、お祝いの句を詠ませてください』と云った、大家さん『おお何かね』と先を促した、八っつあんが『この家を福の神が取り巻いて』と前の句を詠んだ、大家さんおおいに喜び『オオそうかいこの家を福の神が取り巻いてとは、縁起がいいね』大いに喜ぶ.

  八っつあん先に福の神を出してしまったので、貧乏神の出しようが無くなってしまった、切羽詰って『貧乏神の 出ところなし』と下の句を詠んだ、酒肴をご馳走になるどころか、丸太ん棒を持った大家さんに、追い回される羽目になった。
 

 人間て同じ意味でも言葉が前後したり、言い間違えると全く逆の意味になったり、相手に不快感を与えてしまうことが有る。

 国会議員や大臣にしても、失言や間違ったことを云い、辞任に追い込まれることもある.

 言葉と云うのは難しいし、気をつけねばいけないことだと思う。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

老いて交友を温める

2015-12-16 13:32:28 | 日記
 

 先日 気心の知れた親しき友人と静かな所で忘年会がてら一杯酌み交わそうと云う事になった。

 普通レストラン 食堂では、テーブルが隣り合わせ、他人の会話が嫌でも飛び込んでくる、そんな騒々しく煩わしさに囚われず個室で食事を楽しむ料理屋はいくらでもある。
 入間市駅近くの「魚一」は霞川河川敷の自然を見ながら食事ができる、三ヶ嶋に有る「梅の花」も小さな坪庭程度の庭を見ながら食事ができる、多摩湖畔にある「掬水亭」のレストラン「天外天」で暮れなずむ湖水を見ながらの食事も優雅だが、もっと自然を楽しめる料理店が東大和市に有った、だがこの店はどこの駅からも非常に遠い、西武球場前駅の駅頭にタクシーはない、歩いて30分を覚悟して、ほぼ6000歩くらいを歩く。

 定年退職後、第2の職場にいた時、東村山市に住む飲んベー友達が、「鳥山」へ行こうと誘われた.
中々雰囲気の良い所で何回か飲みに行った、多摩湖畔の雑木林に広大な敷地を持ち、大宴会場、2人から10数人迄で利用できる個室、バンガロー風の棟が20数棟ある、囲炉裏に炭火で山海の物を自分の好みの焼き加減で食べられる、他人の会話に邪魔されず、静かに語り合い 時には大いに笑い、窓の外を眺むれば、暖冬の為自然林の紅葉が遅くなり12月半ばと云うのに、まだ紅葉が見られる、ここは四季折々、春の新緑 夏の深緑 秋の紅葉 冬は雪景色  葉を散らした梢が青空に映える、こんな自然の景色を見ながらの一献素敵である、今回は紅葉景色を肴に乾杯。

 小さな個室に炉端、炭火のホッコリした温もり、山海の物を焼く香りが食欲をそそる、年を取りこんな雰囲気で静かに酒を嗜み、来し方 行く末を静かに語り、時には冗談を交え大いに笑う、年老いたら楽しまなければ損だ、だがこうゆう店は兎角支払いは高額になる、あの世へ金は持って行けない、老後を大いに謳歌すべきだ。

 ほろ酔い加減で鳥山を出て、来た時に使わなかった陸橋へ入った、これが間違いの素、陸橋と一般道と合流したところは来た道と全く違う風景、やたらラブホテルが軒を連ねていて、どうやら多摩湖の上湖の方へ出てしまったようだ、間違いに気が付き引き返す、ほろ酔い加減で西武球場前駅へ着く.
  所沢駅へ出て、駅中の鯛焼き屋「くりこ庵」で、酒を飲んで楽しんだ罪滅ぼしに、家内に鯛焼き5個を土産に買って帰る、酒を飲む楽しみ13000歩以上歩いた、いい運動だったかもしれない。

 小生のブログはデスクトップのワイド画面で作るため、ノートPC画面では、はみ出してしまうことが往々にしてあります、字が少し小さくなりますが75%画面でご覧ください。

 
12月半ばと云うのに多摩湖湖畔はまだ紅葉が見頃、矢張り今年は暖冬なのだろう、鳥山敷地内も紅葉が見頃
 
鳥山敷地内の紅葉 広い敷地内に受付が有る、可愛い女将が対応する
 
広い敷地内に点在するバンガロー風個室 個室内部、雑音にj邪魔されず外の景色を見ながらの食事
 
何はともあれ、料理よりこれがなければ物事は始まらない、酒は人を朗らかにし楽しい会話の糧になる、愉快に楽しもう
 
磯の便り 里の宴
 
炭火でじっくり焼く加減を待つ間が楽しい 生もの刺身の盛り合わせ
 
 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

赤穂浪士討ち入り

2015-12-13 15:00:41 | 日記
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四十七士討ち入りの日

 日本の歴史の中に3大仇討と云うのがある、1つは親を弓で殺害され、仇 工藤 裕経を富士の巻狩りの時に、曽我の五郎 十郎兄弟が討ちを果たし本懐を遂げた.
 
二つ目は義弟渡辺 数馬の恨みを晴らすベく剣豪、荒木 又衛門が助太刀して、伊賀の国上野 鍵屋の辻で河合 又五郎を討ち果たし遺恨を晴らした、
  三つ目は赤穂浪士の吉良邸討ち入りである、明日がその日になる。

 浅学の小生が三大仇討をうんぬん書くより諸兄姉の方が詳しいと思うので記述は控えるが、討ち入り前日の逸話を書いてみよう。

 四十七士の中に大高 源吾と云う人が居た、この人は俳句を好み、赤穂の時代から俳句を嗜み俳号「子葉」を得ていた。
 松の廊下の事件後、弟大学の擁立もならずお家断絶で浪人になった赤穂浪士、仇討の為浪士四十七人、赤穂から身分を隠し艱難辛苦して東下りして江戸に入った、江戸入府して、討ち入りまでの生活の糧を得る為、四十七人いろいろな職業に身を窶し生活していた、大高源吾も暮れの煤払いの竹を売り歩き生業としていた。

 大高 源吾江戸入府後も俳句の道で、「室井 基角」に師事していた、討ち入り決定の昼間、なりわいの煤払い竹を売りをしている時に、両国橋で師匠の基角にぱったり出会った、師匠の基角が源吾の姿を見て哀れに思い、「年の瀬や 水の流れれと 人の世は」と上の句を源吾に呈した、源吾すかさず「明日待たるる その宝船」と返した、その夜身を賭しての討ち入り決行、覚悟と喜びを表していたが其角若しかして討ち入り前夜と感じたか、その意味分からず、或る大名に話したら討ち入りが有ると話したとか、諸説あるが、室井 其角と大高源吾の両国橋の出会いは真実のようだ。

 因みに浅野内匠頭の辞世の句は「風誘う 花よりも尚我は亦 春の名残ぞ 如何にとやせん」悔しさを強く滲ませている、この主君の悔しさを晴らした赤穂浪士の快挙の日である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

74年前大東亜戦争始まる

2015-12-08 15:42:37 | 日記
太平洋戦争始まる

 小生も古い人間になったのか、太平洋戦争をつい大東亜戦争と云ってしまう、「八紘一宙」を唱え世界を一つにと壮大な理想を掲げ74年前に戦争が始まった。

 昭和16年12月8日朝、家族で丸い卓袱台を囲んで朝御飯を食べていた、当時は当然テレビはなく、ラジオが一般時事放送をしている時突然「臨時ニュースを申し上げます」とアナウンサーの2回連呼があったと思う。

 その臨時ニュースは「大本営陸海軍部発表 本8日未明帝国陸海軍は、南太平洋に於いて米英軍と戦闘状態に入れり」と云う大本営発表を伝えて居た、小生まだ小学2年生、何となく事の重大性は感じたが、さほど深刻には思っても居なかった、ニュースを聞いた父親は少し眉を顰め深刻な表情をして、「とうとう始まったか」とつぶやいた、此の事が日本を破滅に到らしめた始まりだった、その辺の所を読んで眉をひそめたのか。

 話は遡るが弘安4年元が数百隻の船で4万の軍勢を率いて博多沖へ攻めてきた、当時の幕府にすれば由々しき一大事、博多周辺に軍を集め、侵攻に備えた、だが折しも丁度よく台風が襲来、元の船は大半が沈没、残った船も戦意を喪失母国に逃げ帰り、我が国の国難が去った、これを神風が吹いた、「天佑」などと云う、確かにいい時に台風が吹き荒れ元の船が沈んで国難が去っだけの事。

 和服にちょんまげ二本差しの江戸時代の侍姿から、維新後急速に近代化した日本は、日清 日露と世界の大国を相手に戦争をして勝つた為、少し慢心していたところがあるのではないか。

 宣戦布告して始まったので、紛争 事変ではない正式に戦争だ、その宣戦布告の詔勅は中々の名文だ、だが冒頭
「天佑を保有し 万世一系の皇祖を踏める大日本帝国天皇は 明らかに忠誠勇武なる汝有衆に示す」とある、天の助けが有とる冒頭に述べているが、戦争に天の助けなどない、過酷で非情なものである

 確かに開戦当時は戦勝に次ぐ戦勝、真珠湾でアメリカ太平洋艦隊を殲滅し、南方諸国はニューギニア ボルネオ ヒリッピン  ジャワス スマトラ マレー半島 ビルマを制圧破竹の勢いだった、シンガポールは昭南島と改名し、マレー半島クヮンタン沖ではイギリス艦隊の旗艦プリンス オブ ウエルズ 副艦レパルスを航空機攻撃で撃沈 加藤ハヤブサ戦闘隊は縦横無尽に活躍し勇名を馳せた、民間人ではマレーの虎(マライのハリマオ)と称され日本軍に大いに貢献した。

 そんな輝かし戦勝に始まった開戦記念日である。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

泣きっ面に蜂

2015-12-05 15:43:18 | 日記

 人の一生は幸より不幸の方が多い,得てして不幸は重なる事が多い。連続してよくないことが起きた時に使う言葉は沢山ある、「泣きっ面に蜂」「踏んだり蹴ったり」「弱り目に祟り目」「一難去って亦一難」枚挙に暇がないが、大したことではないが自分の身にも最近起こった。

 11月初旬柿を食べ種を嚙んで歯が折れてしまった、掛かり付けの歯医者で治療を重ね、明後日差し歯が入るという日に10数年いや20年近くなるか、差し歯した歯がポロッと抜けてしまった、何と云う事だ,、差し歯に数万円かけて入れるのが連続して起きた、今年の年末はとんだ散財の年になった。

 でも物事は良い方向に考えよう「災い転じて福を成す」来年は良い事尽くめの年になるだろう。

 だが考えてみると、あの世へ金を持って行けるわけではない、自分で稼いだ金は、老後を楽しむ為に使い果たして死んだ方が得だ、なまじっか金など残すと残った者の相続争いで骨肉の争いになる、そんなことにならぬ様「子孫に美田を残さず」に徹した方がいい、残された者はそれなりに生活を切り開いていくものだ。

 江戸時代紀伊国屋文左衛門が嵐の中を紀州から船出して、危険を冒して蜜柑を江戸へ運び、江戸では長く続くしけの為蜜柑が枯渇していた、そんな折だから蜜柑が高値で売れ、巨万の富を築いた、江戸でも「紀伊国屋」と言われ屈指の豪商として名を馳せたが、一代で没落してしまった、その理由が亦可笑しい、親が苦労して貯めた財産を苦労知らずで育った放蕩息子が、遊郭などで小判をばら撒き豪遊して、一代で使い果たし没落した。
 現代でも親が一代で築いた財産を、息子がすべてを無くしたのを譬えて「紀伊国屋文左衛門の倅」と云う、最近はあまり言われず死語になりつつある。

 現世で少し悪辣なことをして蓄財した男が、金を持ってあの世へ旅立った、あの世で閻魔大王に会い、袖の下を渡した、閻魔大王が云った、「この清廉潔白な大王に対して賄賂を出すとは言語道断」閻魔大王烈火の如く怒り、「此の強欲亡者」を即刻 血の池地獄か針の山地獄へ突き落せと命じた。

 夢々あの世へ金など持って行かぬ方がいい、三途の川の渡し銭、六文銭だけ持って行くがいい。
 

 
 
世田谷区奥沢に「九品山 浄真寺」が有る九品仏と云えば誰もが知る有名なお寺である、このお寺の広大な敷地の中に大きな祠の中に、閻魔大王が鎮座している、この大王に嘘を吐いたら即地獄行きだろう。