老いて楽しく

余生を楽しむ

野球観戦

2013-04-29 09:10:54 | 日記

 

 定年後アルバイトで勤めたところの上司が西武系のお偉方で、退職後も西武球場のネット裏特別席へ年に1~2回招待してくれる、特別席は4名なので、当時勤めていた仲間3名と上司を加えて4人、もうそこも退職して10年以上も経つが、何故か気が合い毎年会い野球観戦と酒を酌み交わし、旧交を温めている。
 野球は楽天戦だったがホームランを2本打たれ8-2で負けた、増して楽天通算500勝を、西武が提供した、野球は負けたが。
 春の良い陽気の中デーゲーム、自然の風が吹き込む球場で、回りの新緑も眺められそんな中で、酒を酌み交わし旧交を温めた、楽しい半日だった。


宙玉写真

2013-04-18 10:56:27 | 日記

 

 

 最近 上原 げんじさん提唱の「宙玉写真」が静かなブームをよんでいる様だ、小生も同級生が取り組み、其れに刺激され、手ほどきを受けながら挑戦してみた、中々上手く行かないが変わった手法の写真、面白い物が出来そうだ、ゆっくりと自分に合ったペースで楽しんで行こうと思う。

 

 67mmのアクリル板に透明のビー玉が付いたもの、¥2,000 送料¥600他にステップアップリング2個ボリュームアップレンズ等の費用がかかる。
 これの為に相応しいカメラを買ってしまったが、手持ちカメラで充分活用できる。

 焦点を合わせるための胴体はチップスターの筒がぴったり、此の長さを調整してピントが合うようにする、焦点距離を合わせる為に、試行錯誤おかげで、チップスターを3個買った、中身を食べれば良いが、小生の年には油と塩分が強過ぎて体に毒だ、中身をお子さんに上げると言っても、何処の馬の骨だか分からない爺さんがお菓子を上げると言っても、お母さん方が毒でも入っていないか心配して貰って呉れる訳がない、勿体ないとは知りつつ廃棄処分した。
 

 上の写真はミラーレス一眼レフカメラに宙玉を装着した写真、長さの調整がまだ未熟、使い易いが決してミラーレス一眼カメラなど必要ない事を記しておきたい、どんなカメラでも装着可能。
 
チューリップの宙玉写真ピントが合っていないのが玉にきず、時間を掛けて精進しよう。


アベクロミクスの危険度

2013-04-07 09:48:08 | 日記

 戦時中軍部が掌握していた政治が、戦費を捻出するため「戦時国債」を乱発、当時の通貨単位は「円」ではない「銭」である、
当時のサラリーマンの給与は平均60円~70円、100円の月給取りは高級サラリーマンでそんなに多くは居なかった。
その時代の紙幣は100円札が最高額、100円札なんてとんでもない高額紙幣で、小学生の小生は滅多お目にかかれなかった
当時の紙幣は「兌換券」と云って1円札を日銀へ持っていけば1円分の金と交換できる、貴重な紙幣だった、当時家を建てるにも、余り贅沢を云わなければ2000円もあれば我が家を持てた、そんな貴重なお金も戦争の為協力した資産家もいて、数千円 数万円 或いは数十万円戦時国際を買って国に協力した、結果国は敗れた、「国破れて山河あり」中国の古事にもあるが、国破れても風光明媚な山河は残った、いかし国に協力して多額の私財をなげうった資産家も、終戦で全てが零、莫大な財産の債券が何の価値もない紙屑に変身、1夜にして全財産を失った、其の後戦後のインフレは筆舌につくせぬものになり、一夜明ければ米の値段が上がっている、数百倍のインフレである、その時は「銭」単位ではなく「円」単位になっていた、この終戦時の大インフレを知る人は少なくなっただろう。

 今 アベクロミクスを政府日銀が結託して2年間で2%のインフレにし物価上昇を図る政策を実施、確かに円安になり、株価は上がり1万3000円台に近づいた、刹那的に儲けを狙う人は今儲ければいい、円安で輸出産業は喜ぶ、だが半面も考慮すべきだ、実態のない経済に少し浮かれ過ぎではないか、2年間で2%のインフレを起こす事は大変なことだ、とんでもない話、日銀が銀行に溢れるほど金を回し銀行が溢れた金を何処へ融資するのか、世界のトヨタにしても3年間は設備投資をしないと云っている、造船 重電  家電産業 その他産業も多大な負債で事業を縮小している、他国産業から資本の提供を受けやっと息をついて存続を図っている、銀行に金がジャブジャブ余っていても銀行から融資を受けて設備投資する産業が見当たらない、設備投資もままならず、働く労働者の賃金も、一時金アップで定昇は無いこんなで庶民がジャブジャブ金を使う訳がない、公共事業に多額をつぎ込んでも一時的なもの、給料が上がるのはまだ先、輸入物資は値上がりする、少ない年金生活者の負担は上がる、年金額引き下げ、年金支給年齢引き上げ、介護保険上昇、年金生活者は苦しくなる一方、益々格差が広がる、バブル以後失われた20年と戦後の大インフレをを再現さぬよう、苦しい庶民をあまりいじめぬよう、阿部さん 黒田さん頼まっせ。

 



 

 


文京ふるさと歴史館

2013-04-02 11:18:03 | 日記

文京ふるさと歴史館

  先日友人らと「文京ふるさと歴史館」を訪れる機会が有った。此の歴史館へは17年前、平成8年3月16日にも訪れている、その時は「東京空襲と学童疎開展」を展示していた。

   これを語るには話を70年程前に遡らなければならない、小生らは当時の本郷区駒込にある「富士前国民学校」に在籍していた。

   時は昭和19年太平洋戦争も熾烈を極め、南方地域 南方諸島で、玉砕 撤退が相次ぎ日本の敗色も色濃くなってきた、南方諸島を手にした米軍はそこを基地にして、本土空襲を激化させてきた、B29数十機が1万メートルの高空から、爆弾 焼夷弾を無差別に投下してくる、その時の日本軍の高射砲は9千メートルしか届かず、B29の下で炸裂、B29は悠々と旋回帰投していた、だが後には高射砲も性能が上がり、B29へ直撃弾が当たるのを目にした、主翼と尾翼が分離、尾翼は大きな弧を描きながら東京湾に落ちた、後に引き上げ日比谷公園に展示されたが、その大きさには度肝を抜かれるほど。

   日本の将来を担う小学生を当時「小国民」として、空襲の犠牲にならぬよう、学童疎開を政府は打ち出し、国民学校4年生から6年生迄に学童疎開を実行した、田舎に縁故が有るものは親類に預けられ、縁故のない者は地方都市の、お寺 旅館等に分散して、団体生活をした、親元を離れ淋しさと空腹に苛まれ厳しいものだったようだ。

   空襲も熾烈さを加え、昭和20年3月10日未明には3百数十機を越す過去にない大規模なB29が3千m~4千mの低空で、ランダムに飛来無差別攻撃、東京の下町を中心に山の手も、都内大部分が焦土と化した、そんな中6年生は卒業を控え3月末には帰京した、卒業式を遣るにも、母校は灰燼に帰し跡かたもない、隣の学校は当時としては珍しい鉄筋作り、そこを借りて卒業式を行ったが、途中で「空襲警報」が発令され、サイレンの鳴り渡る中避難して、卒業式は中途で終わってしまった。

  時は移り終戦から50年目の平成7年に、同級生有志が都内3大新聞に、富士前国民学校昭和20年卒業生の名簿作りを掲載した、これにより多くの同級生が判明、その有志の交友関係 人脈を通して52年目に、修了証書を貰う会を結成した。

  その第一回会合が折しも「文京ふるさと歴史館」で行われていた空襲と学童疎開展を見学、あと会場を移して「文京婦人会館」現在「文京男女平等センター」の会議室へ、1組 2組 3組の幹事10数人が集まり、「52年目の卒業式」を行う会が発足したのである、事後2ヶ月に一度くらいの割合で準備会を開き、平成9年3月1日に卒業式の挙行が決まった。
 母校は空襲による焼失後、復活する事無く昭和21年に廃校になってしまった、改築新装なった隣の昭和小学校の講堂を借りて挙行する事になった。

 平成9年3月1日、文京区長 教育委員会 昭和小学校の全教員 同校在校生5年生 6年生全員その父兄方、
富士前小学校の先輩方、新聞社 テレビ局も来て、盛大かつ厳かに52年目の卒業式が行われた、そんな経緯がある為文京ふるさと歴史館には大きな思い入れが有る。