老いて楽しく

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民主党代表決まる

2011-08-30 08:34:39 | 日記

 衆参院のねじれ、政権与党は「脱小沢」「親小沢」と党内を2分して捻じれている、2つ捻じれては政権運営も上手く行く筈もなく、停滞してしまった。
 バブル崩壊からリーマンショックでデフレから脱出できず、長引く0金利時代で経済不況、そこへ追い打ちの大震災、福島原発事故、アメリカ経済の先行き不安で株価暴落円高ドル安、北方4島、尖閣諸島、竹島の領土問題、北朝鮮の不法拉致問題、全て停滞してしまった。
 目まぐるしい政権交代で信をなくし、日本の債権格下げ、世界における日本の地位の凋落、外交問題一つとして疎かに出来ない喫緊の問題を抱えている。
 
 脱小沢  親小沢など云っている暇は無い、野田さんの就任挨拶で「挙党態勢」で臨み、今からノーサイドと発言していた、新規発進に対して、小沢さんが挙党態勢も言葉だけでなく、実を見せろと云う、自分の子分を党人事や閣内の重要ポストにつけろと云うことか。
 小沢さんに何のしがらみもない野田さんなら、鳩山さんの様な傀儡政権にはならないと思う、適当なポストを配分して、党内を纏め野党とも協調を図り、堅実に政権運営して欲しい、
自分で云っているように 田舎のどんくさい人間で良い、誠実 確実に事を行えば必ず前進する、野田さん期待していますよ。


代表選

2011-08-22 09:48:33 | 日記

  菅総理の退陣で大勢の候補者が名乗りを挙げた、26日に代表候補決定、29日に投票、会期末の31日には次期総理が決まる、各候補者がどんな政策を進めるのか、何も分らないまま民主党議員の投票で、次期総理が決まってしまう、大変危険なことである、小泉さん辞任後5年で6人総理が変わっている、何とも腰の軽い内閣ばかりである、これでは外国首脳も本腰を入れて外交問題に取り組まないだろう。

 新聞に今度の代表選びは「B級グルメ」と言っている、民主党のベテラン 重鎮議員が立候補しずらい立場にあり、今回6人の候補者になったが、なんとなく軽量級だ。

 立候補予定者も、自説を少々曲げても、数を頼りに大人数を擁する派閥にすり寄っていく、これで総理になっても自分の政治は出来ない、派閥領袖の意向を受ける傀儡政権になってしまう、大体民主党が2つの分れていること辞退不自然だ、そんな事や2代に亘る失政で民主支持者が自民支持者を下回る結果になっている。

 兎に角しっかり腰を据え、ゆるぎない長期政権を維持して外国の信頼を回復して欲しい。
英国の有力雑誌「エコノミスト」の表紙に富士山を背景に、アメリカオバマ大統領と、ドイツのメルケル首相が着物姿で並び、タイトルに「ターニング ジャパニーズ」まごまごしていると日本みたいになるぞと、警告を発しているよ、日本も転換期に来ているようだ。


終戦記念日

2011-08-14 08:17:18 | 日記

             

   66年前 其の日の甲府盆地は朝から強い日差しの快晴、気温も朝からウナギ登りに上昇、昼頃には今で云う猛暑日になっていたのではないか、兎に角うだるような暑さを記憶している。
 甲府市から3里ばかり東へ寄った日川村で、盆地の擂鉢の底の様な所で暑さも倍増の土地。

  当日 7時と記憶するが報道(ニュース)の時間 放送員(ニュースやアナウンサーは敵国語で使用禁止)が 「本日正午 賢あたり(当時は陛下の事を”かしこきあたり”と表現した)から重大放送があるので、聞き漏らさぬように」 と再三放送があった、其の放送を聞いた父親は、沖縄は占領され、新型爆弾を 広島 長崎に投下され、本土決戦を覚悟していたので、国民総決起を促す陛下の「玉音放送」と受け止め、「いよいよ本土決戦か」と漏らしていた、日本が負けるなんて想像もしていなかったと思う。

 12時ラジオの前に家族全員そろった、長男は中支(当時中国の国名は支那と云い、其の中部地方)へ出兵し、二男は軍属に徴用され輸送船 「白山丸に乗船」 していた、3兄は東京の学校へ在籍していて、ラジオの前には両親 小生と妹4人だった。

 「玉音放送」は難しくて、中学1年の小生には理解できなかったが、その中に「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」と云う言葉があり、子供心にもあれっと思うところがあった、放送が終わった後、父親が「戦争は終わった、日本は負けた」とポツリ一言、悲しい様などこかほっとしたような表情だった、本心は長男が中支から、二男も軍属が解けて無事に帰って来ることに期待したと思う。
  「今夜からは枕元に防空頭巾とゲートルを置かなくても済むし、灯火管制もなくなり明るい電灯の下で暮らせる」と云い、戦争に負けた悔しさも大きかったであろうが、戦争の重圧から解放された安堵感の方が大きかったかとも思う。

 それまで甲府盆地へ (甲府市は7月7日空襲を受け灰燼と帰していた) 時々艦載機が飛来しては、列車や集会所へ機銃掃射を浴びせたり、農作業の人に銃撃を加えたりしていて、我々子供も田んぼの一本道(機銃掃射の良い標的)をのんびり歩いているわけにはいかなかったが、安心して歩けるようになった、何にもまして勉強時間より多い勤労動員が (航空燃料を作るために、松の根を掘って松根油にした、樹齢数十年の松の根を鍬で堀起こすことは、とてつもない重労働だった) なくなったことは、大いに救われた。

  この終戦の日の5ヶ月前は東京都文京区(当時は本郷区)に住んでいて、あの3月9日深更から10日未明にかけてB29 300機超の「首都絨毯爆撃」に遭い、火の海に囲まれ九死に一生を得た、「此の侭では一家皆殺しに遭う」 と父親が郷里へ疎開を決断して、四月に入り山梨へ一家疎開して終戦を迎えた、疎開した後、4月末に本郷の我が家は空襲で焼失した。

 終戦以後、深刻な食糧難時代に突入する、それと想像を絶するようなインフレに見舞われる、庶民が営々と蓄積した財産が、無に等しいほど価値がなくなってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


世界旅行の娘さんへ

2011-08-12 13:28:37 | 日記

 同級生のお孫さんが世界旅行の最中だ、東南アジアからベトナム  中国を経て今はスエーデンに住む従姉妹のところへ滞在中の様だ、もう日本を離れて数カ月、毎日と迄はいかないが其の日の出来事を、詳細にブログへ投稿している、実にきめ細かく観察して記事にしている、行く先々の国で言葉も違うし不便だろうが、よく克服して、何とか意思の疎通を図っているらしく、其の時遭った人との会話、感情 好奇心 優しさ等をよく表現している、このブログを読む限り、ホームシックなど全くなさそうで、のびのびと明るく旅を楽しんでいるようだ。

 それでもたまには、国内の事をブログに載せて少しでも日本の様子に触れさせてあげたらと、まして身内の事を知らせてあげられたらと、お爺さんが撮った写真をブログに載せて、見させてあげようと投稿した、娘さんのブログのコメント欄にURL添付してあげよう。

 下に添付した写真は8月11日早朝、旅行者のお爺さんが早朝多摩湖畔の日の出を写したもので、湿度が高かったせいか、非常に珍しい色の太陽になっている。