10月24日から10月31日迄所沢ミューズ展示館で「所沢市美術展」が開かれている,会場の都合か今回は書と写真が展示されていた。 |
西武池袋線の稲荷山公園駅と入間市駅の間の線路脇に「狭山市立博物館」がある、大分以前がら行って見ようと思いつつ、ついぞ行きそびれていた、先日朝からの好天とその日は何の予定もなく、今日がいい機会と見学に出かけた。 東大和市郷土博物館 プラネタリュウム |
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250万年~100万年前、日本が大陸と陸 |
アケボノ象の化石発見のレプリカ、自分でも定年後、市の臨時職員として、何か所か遺跡発掘に携わったことがあり竪穴住居跡も何か所も発掘した、どんな遺物が発見されるか、無傷の土器など発見したらとてもうれしい、発掘は非常に夢がある。 |
まだ銅や鉄が使われる前の石器農機具 | 発掘された土器類 |
竪穴住居レプリカ 竪穴住居跡も何か所も掘った | 鉄類が使われ始めた農具、耐久性がぐんと伸びる |
水車小屋で使われた木製歯車、うまく組み 合わせ計算されている、人間の知恵は凄い |
昭和初期の庶民の居間 八角時計や立て長 ラジオが見える |
モミとごみを風力で選別する唐箕 後ろの3枚羽は足踏み扇風機、やはりごみを飛ばす道具 | 江戸期から昭和期くらいまで続いた、婚礼の祝い膳、当時も結構素敵な料理を食べていた |
明治期の交通手段 乗合馬車 | 戦後GHQの命で黒く塗りつぶされた教科書 |
竹下 夢二展 | 竹下 夢二が描いた団扇画 |
竹下 夢二作品ー1 | 竹下 夢二作品ー |
所 沢 祭 り |
所沢市は昭和25年に市制を施行して今年はちょうど65年目になる、小生所沢へ移り住んだのは昭和36年正月だ、当時所沢市の人口は、4万人を少々越す人数、当時所沢の中心部は、上町 上中町 下中町 浦町 下町 河原町 金山町 日吉町の8町会だった、昭和30年代前半に、新所沢周辺の八丁山と言われた広大な雑木林の中に公団住宅が建設され、人口も一挙に7千人ほど増え、字上新井が緑町に変更になり、旧町に加え周辺の町もできて人口も5万人を超した。 その頃は所沢の祭りは、鎮守神明社の秋の祭礼「9月15日」に山車を引いたのが母体となって「山車祭り」が行われた、当時は毎年祭りが行われたのではなく、何か祝賀行事がある時祭礼が行われた。 因みにその例を列挙してみると。
山車も明治期は各町内にあったわけではなく、時を経て少しずつ各町内が作製、昭和期に入ると一気に山車が増えたようだ。 近年は催し物も増え、浅草サンバカーニバルが大人気、よさこいソーラン踊り、ヒョットコ踊り連 手古舞 大道芸 女神輿その他各種パホーマンスがあるが、この祭りに欠かせないのが「重松流祭囃子」だろう、大変楽しい祭りになり近年は20万人以上の人出でにぎわう。 |
昭和34年の山車祭り 、所沢の一番の繁華街銀座通りをゆく山車、所沢市街も蔵造りの商店が多く高い建物でも二階建てだった,,この頃はまだ歩道と車道の区別はなかった、当時数少ない車が山車引き回しの中を走っている。 所沢市史 民族編から借用 |
昭和45年の山車祭り、昭和34年当時と町並みはさほど変化はないが、この以後所沢銀座通りも大きく変化していく。 所沢市史 民族編から借用 |
今年の所沢祭りは午前中は雨、午後雨も止み、サンバカーニバルが開催された、音楽が始まり動き出す |
このカーニバルのメインダンサー、パートナーと踊りが始まる |
この美しい姿態プリップリ |
大きな角をつけバッハローに扮した踊り子、無我の境地で大きな太鼓を叩き歌い踊る |
こんな可憐な衣装の踊り子達も |
山車の上から観客に威嚇を表現する鬼 |
鼻毛を抜いて観客に向かい鼻毛を吹き飛ばすユーモラスな仕草 |
この写真展は東京都の校長先生を対象にした人たちの集まりで「東京都退職校長会 写真クラブ」という、やはりそれなりに教養 素養 見識もあり、定年後も地域社会で役員などに就き社会貢献しているようだ、年齢は60代後半から90歳くらいの人も参加している、趣味をを生かし、余暇に四季折々の景色を求め、海 山 渓谷 森林 公園 祭り 人物 建造物等あらゆる分野の美を求めて切磋琢磨している、春は一人2点、秋は1点60人以上の人が出品するので60点から120点鑑賞する、毎回その技術の高さに感動する。 この会に所属する同級生から毎回招待状が届く、都合のいい人が数人集まり、会員の当直時間が過ぎると、中野から新宿へ繰り出して親交会を開く、この同級生達は、昭和14年小学校へ入学した70数年来の友である、80歳半ばに近い年齢になれば、黄泉の世界へ籍を移した人も多い、だが一人として痴呆症を発症して他界した人はいない。 昭和40年初頭だっただろうか、ある学者が昭和一桁に生まれた人は、長生きできないと学説を立てた、その理由は、少学生時代体を成型する大切な時期に、食糧難で栄養不足、大人になった時に軟弱体質で、長生きはできないという、その頃は漠然と、そう言われてみるとそうだなーと少し納得した、しかしどっこい早死にを宣告された我々は皆70歳以上まで元気な人が多かった、上記のように痴呆症も発症しない、今こうして何かの機会をとらえてみんな顔を合わせ、結構よく飲み昔を語り合い、楽しく過ごし足を取られるれることもなくそれぞれ帰宅する、老後旧友と楽しく語り合えるなんて、ほんとに「老いて楽しく」である、あの早死に説はいったいなんだったのだろう。 |
案内看板 |
写真鑑賞前 お茶を飲みながら談笑 |
オイオイそれは方向違いだよ |
出品者の写真の前で記念に収まる、いつまたこの顔をが揃うことか |
写真鑑賞よりこちらの方が楽しいか |