老いて楽しく

余生を楽しむ

足利の大藤

2012-03-31 13:39:35 | 日記

 

前回足利学校の「字降松」と鑁阿寺の大銀杏を紹介したが、
足利と言えばフラワーパークの大藤を外すわけにいかない、
花の時季になると大変な賑わいを見せる。

 

角度を変えてみると亦それなりに趣がある。

 東松山市に箭弓稲荷神社がある、野球とは関係ないが、
語呂が合っている為、現役野球選手の参拝も多い、
この箭弓稲荷は境内の牡丹園と、それを囲むつつじがつとに
有名だ、この牡丹とつつじが咲く一角に藤の木がひっそり
花を咲かせている、この藤の木は東武東上線創設者、
根津 嘉一郎氏が、東上線開通を祝い、
武蔵野に有った樹齢100年以上の藤を、箭弓稲荷境内へ
移植した、既に250年以上経た古木だが、足利の藤の様に
大木ではなく、牡丹園の一角にひっそり咲いている、
樹形が何ともユニークだ。
 

狭いながらも花を付け、甘い匂いを漂わせている

 何ともユニークな根と幹


字降松(かなふりまつ)

2012-03-25 13:08:44 | 日記

 足利学校に、巨木ではないが有名な松が有る「字降松」
(かなふりまつ)と読む、小生が説明するより、下の説明版を読まれ
たし。

 

 鑁阿寺にも銀杏の古木が有る、樹齢550年 樹高31,8m 幹回り
8,3m、地上2m程で二股に分かれているが、一本で有れば、
もっと見事かもしれない。

駒繋ぎ大欅

2012-03-16 10:39:26 | 日記

 秩父市の中央に位置する今宮神社は延喜式に載る古社で、武甲山に降った雨が数十年経て、今宮神社の境内にこんこんと湧き出ている、この水を秩父神社に奉納して、秩父地方の田植えが始まる、この水なくしては秩父の農作業が始まらない。

熱気球 こちらも見てネ

 数百年いや数千年絶えることなく湧き出る清冽な水は、日本百名水にも選ばれている。
 写真撮影と処理が未熟でピンボケになったり、見難かったりはご容赦ください。

 この境内に樹齢500年とも1200年とも云われる大欅が有る、龍神木と言われ亦 1名駒繋ぎの欅と言われる、主幹には洞が有り八大竜王(洞内に自然に出来た仏像の姿)が鎮座している。


羽黒山千年杉

2012-03-09 14:45:34 | 日記

 

グルメ
 出羽三山の内羽黒山には、国宝の五重塔が有る、よく見かける色彩豊かな五重塔と違って、鬱蒼とした杉林の中に、木の肌の温もりを持ち古色蒼然としたたたずまいを見せている。
 平安時代平将門の創建と言われているが定かではない、640年ほど前 南北朝時代、羽黒山別当 武藤政氏が再建したと伝えられる、三間五層高さ29m非常に均整の取れた塔で、東北最古の五重塔。
 神仏習合の羽黒山は、明治の神仏分離令に拠り羽黒山は神社となり仏閣はすべて取り壊されたが、五重塔だけ残され、昭和41年国宝に指定された。
  此の五重塔の直ぐ間近に御神木の千年杉が有る。

 国宝五重塔のそばにしめ縄をめぐらした御神木、樹齢千年と言われる杉の古木が有る。
 通称「爺杉」と言われている、近くには「婆杉」もあったが、落雷により倒木、根元から1m程のこして切り株が存在する。


奇木?銘木

2012-03-04 10:44:09 | 日記



 浜離宮庭園へ入ると直ぐ左手に樹齢300年、枝ぶりが少し変わった松が有る上へ伸びずに横へ広がり、樹高は低いが横に広がった面積は大きい、黒松で男松と言われ、隣には赤松の女松が植えられ、夫婦松になっている。
 以下にその説明文を載せるが、少し読み難いのはお許しください。

 

 
 同じ浜離宮邸内で、小生初めて見た木が有る「アメリカデイゴ」と言うそうだが、変わった枝ぶりをしている。
葉が茂っている所も見たいと思う。

 山形県鼠ヶ関に「念珠の松」と言う、変わった松が有る、幹ではなく枝が横に張り幹の太さを凌ぎ、長さは10数メートルある、その横に這った枝ぶりは、あたかも龍が伏せているが如くと言われ、「臥龍の松」ともいわれるようだ。
 この松も奇形に入りそう。

 川越市の農家の入り口にも、念珠の松とは違い枝を伸ばしたのではなく、幹を曲げて門冠りにした変わった松が有る


ある卒業式

2012-03-02 15:24:26 | 日記

 

 昨年311日東日本に大震災、大津波、続けて原発事故で被災地住民は各地へ避難を余儀なくされた、家族は引き離され、小中高の児童 学童 生徒等も、旧友と別れ見ず知らずの土地で新たな友を作らねばならなかった、だが子供の事ゆえ直ぐ友達も出来たであろうが矢張り母校の旧友は忘れがたいものが有ったであろう。
 その離ればなれになった高校生が、母校の講堂がないまま、近くの学校の講堂を借りて、各地へ散った旧友たちが一堂に会して卒業式を行った、さぞかし嬉しかった事だろうと思う。中には津波で犠牲になった同級生の遺影を抱いて卒業証書を貰い、一緒に卒業した子もいた。
 今朝
32日の朝刊にこの写真と記事が載り、読んでいて涙が止まらなかった。

 

原発事故で散りじりになり他所の高校で分散して勉強していた高校生が、矢張り母校の講堂がなく間借りの講堂で卒業式を行い涙をぬぐう生徒の写真が掲載された、この涙がどんな感情の涙か分らない、苦労して卒業した喜びか、旧友と共に卒業できた喜びか、多分複雑な感情の表れであろう。

 

 これは昭和20年2月の空襲で焼失し、その後再建されることなく、昭和22年に廃校になった、我が母校「富士前小学校」の校章である.

 

昭和16年に勃発した戦争も19年末には戦況悉く不利に、本土空襲も熾烈を増し、
学童疎開が始まり、縁故疎開する者 集団疎開する者、旧友たちが散りじりに分散して仕舞った、昭和20年3月卒業の為疎開先から帰って来たが、母校は焼けて跡形なし、当時としては珍しい鉄筋作りの隣の昭和小学校屋上で卒業式が行われたが、
空襲警報が鳴り卒業式中断、その後藁半紙に印刷された卒業証書を受け取り、
何れ正式の卒業証書を渡す約束がそのまま放置された。
  昭和20年から50年後に旧友の名簿作りが始まり、疎開時3クラス180人余いた同級生が、名簿には80人余しか記載できなかった。
 2年間準備の末文京区役所 教育委員会、同区の校長先生、隣の昭和小学校の
校長先生には一方ならぬお世話になり、各界の協力の下、昭和小学校の全教員、
同校5~6年生全員、その父兄の皆様、我々の先輩諸氏が同席の上、平成9年3月1日多くの人に祝福され、見守られ、52年目にして小学校の卒業証書を手にする事が出来た。

 

 当日3大新聞社、テレビ局何社か来て録画、同日夕翌朝
放映された。
 我々が体験した友と別れる辛さ、新しいところで友を作る苦労、
食糧難の苦しみ、現在の高校生以上に艱難辛苦の道を歩んだ
かもしれないが、その苦労を忘れ、卒業式を無事終えた事の喜
び感激に涙を浮かべる者が多かった。
 そんな自分達の苦労を思い出し、震災 放射能で我々と同じ
苦労した現代高校生の卒業写真を見て涙した。
 我々は力強く立ち上がり、戦後日本の産業戦士として、戦後の
日本を復興させ経済大国として
日本を立ち直らせた。
 
現代高校生諸君もくじけず、しっかり勉強して力強い青年に成長して
欲しい。