老いて楽しく

余生を楽しむ

膝痛-3

2018-08-30 15:30:00 | 日記
踏んだり蹴ったり
 
 5年の間に左膝3度目の膝痛、1回目は医者へも行かずに治った、2回目は18回ばかり通って完治した、今回は20回を越して痛みが取れた、年々年と共に治療期間も長くなっていく。

 今回も通院20回を超し痛みもなくなり普通に歩行できるようになった、だが歩いてつれる感じが有り、少し違和感はあった、もう痛みもなくなり通院も止めようと思っていたところ、今日検査しましょうと、施術師が言う。

 しゃがんだ時に痛みはないか、両膝を曲げた時に角度の差はないか、両膝の太さを計り浮腫みはないかを調べ、明日から膝の裏側に、超音波治療を始めましょうと宣告された、素人判断でもう通院止めようと思っていたところ、エッ追加治療、年も取り膝痛の回数を追う毎に治療日数が増えている、ここはお医者任せに根気よく通院しようと決めた。

 膝痛を庇いながら歩いたせいか、その負担と言うか皺寄せと言うか、腰に来た、超音波治療を始める朝、床から起きる時に腰に痛みを感じた、時間を追って痛みが激しくなり、膝が治ったら今度は腰かよ、年を取ると一つの所をカバーしようとすると他に負担が掛かり、他に痛みが出てくる、これは年を取った人間の宿命か、だが断固として痛みを除去しなければならない。

 若い時は振り向きもしなかったサプリメント、年を取って弱気になったか、兎に角回復させようと、「溺るる者 藁をも掴む」の心境で、先日発注した製薬会社の栄養補助剤が配達された、少し気長に服用してみよう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

膝痛-2

2018-08-26 11:27:29 | 日記
痛み和らぐ
 

 今回で3度目の膝痛、8月初めから整形外科へ通い始め、医院が休みで無い限り根気よく毎日通い、皆勤賞ものだ。

 初日膝を各方向から何枚かレントゲン写真を撮り、医師の診断では、膝の緩衝盤も長年の使用で摩耗した部分もあり、それが痛みの原因の一つになっている、だが膝周りの筋肉はまだしっかりしているから、少し治療すればよくなるだろうとの診断、痛みのために家に閉じこもってはいけないので、少し歩くことが良いと言われた。

 膝の屈折には痛みはない、座っているか腰かけて居るかして立ち上がって左膝に体重が掛かるとずきんと激痛が走る、びっこを引いて歩く姿を、自分で想像して情けない姿と思う。

 自転車は体重が掛からないし、屈折には痛みがないので、左足でもペダルは踏める、家から医院の前まで自転車、痛みは感じないが、自転車を止めた時左足を付くと激痛が走り転倒してしまう、先ず右足を付いて、ゆっくり左足を付いて降りる、病院の待合室で名前を呼ばれ立ち上がるのに何かに掴まり立ち、治療室迄びっこひいて行く、何とももどかしい。

 20回程治療に通いここへ来て痛みが大きく改善され、体重が掛かっても痛みを感じなくなり、歩行も楽になった、だが歩行中びっこは引かなくなったが、左足に何か違和感がある。

 9月半ばにブドウ狩りその他を企画した催しが有る、以前から参加を申し込んでいたが、医者が言う少し歩いて休憩を繰り返して、足慣らししなさいと言う、団体行動となればそんな勝手は許されない、今回リーダーに不参加をお願いした。

 今新聞などで医薬品外栄養剤が、各種大きく広告に載っている、今迄栄養補助剤と言うのかサプリメントと言うのか、一度も飲んだことがない、今回3度目の膝痛、痛みが取れても以後のケアーとして、或る社のヒアルサンコンドロイチンを注文した、これは鎮痛剤 解熱剤の様に劇的に効くものではなく、長く服用して効果が表れるのか、根気よく試してみよう。

 
 
 
 
 
 
 
 

膝痛

2018-08-19 08:58:50 | 日記
もしかして持病
 
 今回左膝痛は3度目、一回目は平成25年8月15日、親しき同級生が御嶽山でボランテアを遣っていて、レンゲショウマの写真をよく送って呉れた、現物を見たくて御嶽山を案内して貰い、レンゲショウマの写真を撮り、レストハウスや 御嶽神社参拝 御師の家数軒を案内された。
 そこで留めておけばよかったのに、過信して七代の滝も見たいと言ったので案内してくれた、これが崖に丸太置いた急坂を下る、手摺もない、この崖がこたえて左膝が痛くなった、一歩よろけると前を歩く同級生を巻き込んで谷底へ転落大事故になる、何とか慎重に谷底へ降りて、大事に至らず、滝を見物、この時熱中症の初期症状だったような気がする、友が何本かペットボトルを用意していたのを貰い助かった。  
 帰りは同じ高さを上らなければならない、途中岩場は鎖梯子につかまり四つん這いで登る、何とか上の道に辿り着いた時は完全に足は悲鳴を上げていた、同級生の杖を借りケーブル駅までたどり着く、御嶽駅改札迄10数段が昇れない、蟹足登りで横に一歩づつ、電車に腰かけた時は救われた気がした。
 
可憐なレンゲショウマを写しレストハウス 御嶽神社参拝 御師の家を案内され、ここで止めとおけば無事平穏に済んだ、己を過信大失敗
 
滝壺へ降りた時は、お昼を食べる気力もなく、少し脱水症状が有った。
 
自分のペットボトル同級生のペットボトルを貰い水分補給して、木の根と鉄格子に掴まり四つん這いで登る、この日は同級生に心配をかけた、この時は医者へ行く事も無く数日で治った
 
 
2回目左膝痛は平成29年1月29日東大和市郷土博物館へ、展示品鑑賞に行った帰り、バスへ乗り込むときに起きた
 
展示品鑑賞も終わり、友が用意して呉れた昼食を食べ、分かれてバス停へ、
バスのステップへ左足を掛け、力を入れた時に激痛が走った、膝が崩れ落ちた、両手で手摺を持っていたからよかったが、そうでなかったらバスの下に転倒していたと思う、東村山終点に着いて降りるのに一苦労、何とか我が家へたどり着いた。
翌日明治座公演を見に行ったが、乗り換え等が有り浜町まで遠かった、終わって新宿へ出て一杯飲むのが恒例だが、友が今日は真直ぐ帰ろうと言ってくれた、有難かった。この2回目は整形外科へ14日通い完治した
 
 
3回目は猛暑日続きで毎夜クーラーを入れた、足が冷えるので薄物を掛けると足が火照ってしまう、関節の緩衝盤の多少の摩耗も有るが、冷えが原因かもしれない、今日で13日間医者へ通って大分痛みが薄れた、もう少し通えば完治するだろう。
3回目となればもう持病だと思う、今回痛みが取れても、今後かなり気を使わないと、再発はすぐ起きるだろう、手術なんてこと無い様気を付けよう
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

終戦の日

2018-08-11 08:56:26 | 日記
長い戦争が終わった
 
昭和20年8月15日に放送された、「昭和天皇の玉音版」現在はNHK放送博物館に、永久保存のため厳重に保護され、展示されている
 

 昭和20年8月15日終戦の日は山梨へ疎開中だった、朝6時か7時のニュースで「今日正午天皇陛下のお言葉がある」と放送されて居た様だ、朝ご飯を食べている時に父親が話していた。

 終戦の日は朝から強い太陽がぎらぎら、甲府盆地の擂鉢の底のような地形は暑くなった、それでも30度を少し超すくらいの気温だった、近年の様なバカげた気温にはならなかった。

 沖縄戦も6月に終結し、8月6日と9日には「特殊爆弾」(当時は原子爆弾とは発表されていなかった)が広島と長崎に投下され、B29の空襲が有っても、立川飛行場 所沢飛行場から迎撃する戦闘機は一機もなかった。
 正午の陛下のお言葉は、最後に本土決戦に備えて、国民に奮起を促す放送と父親は思って居た様だ、当時米軍が本土上陸をするなら九十九里浜だろうと専らの噂だった、確かに海岸線は長いし、艦艇も集結し易い、首都圏にも近い、昼前村中へ出てみると其処此処に大人が集まり、陛下のお言葉の憶測話、殆どが本土決戦を覚悟して居た様だ。

 当時長兄は中支へ兵役で派兵されていた、次兄は軍属で輸送船 白山丸に乗り込こんでいた、長兄は21年正月に丸々太って、背中に背負えるだけ背負って両手に大きな荷物を持って帰ってきた、次兄も魚雷に遣られる事も無く、戦後復員船で活躍した。

 当日両親 3兄 小生 妹5人がラジオの前の集まった、昭和10年代のラジオは縦型が多く、我が家は横型の比較的性能のいいのを持っていた、だが周波数を合わせるのが微妙で、少し狂うとガーガーピーピー、聞き難い、父親が調整して陛下のお言葉に聞き入った。

 陛下の話は難しくてよく理解できなかった、お話の中に「堪え難きを耐え、忍び難きを忍び」日本は降伏したのかなと思った、放送全部を聞き終わって、父親がぽつり「戦争が終わった」と言った。
 日本はそれまで戦争に負けた事がなく、本土決戦を覚悟していた人達も、落胆した表情の中にも何故かホットした安堵感のようなものが漂った。
 灯火管制で外へ明かりが漏れないように、暗い部屋で生活を強いられていたが、今夜からは電気を煌々と点けて暮らせる、こんな声も上がった、戦争のために抑制された生活を送っていたのが、解放されたのは喜びだった。

 戦時中「鬼畜米英」と宣伝されて居いたので、米軍が進駐してくると、婦女暴行 略奪が有るのではないかと、住民の不安が広がった。

 昭和20年11月わが村に一小隊が進駐してきて、我が校の3教室を占拠した、暫くすると米兵も慣れて、手招きするので行って見ると、直径20センチ高さ30センチくらいの大きな缶にコンビーフが一杯、白いパンを出して食べろと言う、腹一杯食べたら、チョコレート ガムを出して持って行けと言う、アメリカ兵は陽気で心優しく、こんな物資が豊富な国と戦っても勝てる訳がないと思った、以後時々アメリカ兵にご馳走になった。

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

何処まで続くこの暑さ

2018-08-05 09:36:26 | 日記
殺人的暑さ
 
 普通8月に入り「立秋」に近くなると何となく秋めいて、それまで無風状態だったのが、少しそよ風が感じられるのだが、今年はそよとも空気が動かない、強い光線で道路も家も熱せられ、淀んだ体温より熱い空気を吸い込んでは、熱中症にもなりかねない。

 7月23日列島 最高気温の記録を更新したが、8月3日も暑かった、それまでは40度を超す都市は地方都市が多かったが、大都市名古屋で40度以上を記録した、我が家の温度計も、遂に40,8度を記録した。
 
 8月に入ると日中の暑さは厳しいが、夜には窓から涼風が吹き込むが、今年は全くその気配なく、30度以上の気温、湿度も高く、どんより重い空気そよとも動かない。
 
 湿気を帯びどんより淀んでそよとも動かない重い空気、寝苦しいこんな時は怪談噺の出番だ、 「草木も眠る丑三つ時、何処で打ち出すのか、遠寺の鐘が陰に籠って物凄く、ごおおおおんと響く、お歯黒どぶの柳の下に、恨めしやー」 と幽霊が出る、四谷怪談 番町皿屋敷 その他講釈師の出番の時だが、秋風が立っては怪談噺も興ざめになる。

 今年はいつになったら秋風や虫の声が聞かれるのだろう。

 
7月23日国内最高気温を熊谷市で記録した41,1度、当日我が家の温度計も40度を指した、だが8月3も暑かった大都市名古屋で40度超。
我が家の二階 南北の窓4ヶ所を開け放ち風を入れる、湿気を含み重く淀んだ空気は動かない、もしやと思いカメラを持って二階廊下の温度計を見に行った、案の定40,8度を指していた、デジタル温度計瞬時に0,2~0,3度変化する、もしかすると41度を指した事も有ったかも知れない。
 兎に角幼児 年寄りには過酷な夏である。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

暑気払い

2018-08-01 14:31:43 | 日記
楽しい仲間達
 
 先月末は何故か飲み会(暑気払い)がいくつか続いた、アルコールを好む小生としては、誘いがあった会合を断る理由がない、喜んで全部の酒宴に参加させて貰った、1対1の酒宴から7人程、20数人の酒宴、それぞれ趣が違って楽しい、小生も超高齢年代に入っているので、余分な発言はしない、若い人の話を楽しんでいる、日々進化する現代、若い人の話を聞かないと、急激に進化する現代に追いつかない、最もいくら話に耳を傾けても理解できないことが多くなった。

 皆さんの話を聞きながら笑い楽しんだ暑気払いだった、小生の周りの人は皆善人、人は皆心優しい、自分が心を開けば人も心を開いてくれ、包み隠しないと会話がとても楽しい、先日の暑気払いもとても良い触れ合いだった。
 
所沢プロペ通りのダイエー近くにある、無国籍料理の「海峡」無国籍料理とはどんなものか、参加前から期待が膨らむ
 
間口はあまり広くないが、奥行きがあり、ヘエーこんな店が有ったんだ、初めて行った店、最初に迎えてくれたのは、テーブルの上に切り抜きの鶴
 
皆さん三々五々集まりあと数人を待つのみ、手前にメモにボールペン会計をする人、会費を集め、追加アルコールなどきっちと清算こうゆう人は貴重だ
 
今年は梅雨明けが早く、酷暑が続き皆体力の消耗もあるが、20数人元気に集まり、会長の音頭で乾杯、楽しいひと時が始まる
 
ムム なかなかいい雰囲気だぞ、
 
無国籍料理 ビーフシチュウ蓮根 蒟蒻添え 巨大唐揚げ2個 煮込み大根長ネギ乗せ 卵焼き(出汁巻き卵だったらよかった)大根卸し添え 刺身盛り合わせ 茄子と赤株の香の物 味噌汁 ご飯 中ジョッキ2杯付き¥2,200
悪くなかった、小生にはとても食べ切れない、大半が残った