老いて楽しく

余生を楽しむ

桜切る馬鹿 梅切らぬ馬鹿

2015-05-29 06:59:08 | 日記
 
 余りいい言葉ではないが昔から上記の様に言われていた、桜の木は自然に樹形が整えられ、美しい姿を見せ観賞に適している、下手に人間の手を加えて枝落としなどすると、自然の美しい樹形が損なわれてしまう、そこで昔の人は「桜切る馬鹿」と言ったのではないかと思う。

 片や梅の木は早春花を咲かせ、実が少し大きくなってきて、葉を茂らせる頃になると徒長枝が延びてくる、此の徒長枝は来年になっても花を付けず実がならない、所謂 書いて字の如し無駄に伸びる枝である、此の枝を刈り込まず野放図に延せば、此の木は何れ野木(野生の木)になってしまう、故に此の徒長枝は毎年刈り込まなければいけないのである、それが為に「梅切らぬ馬鹿」と昔の人は云ったのだろう、昔の人は無駄な事は云わない、良い言葉を残す。

 我が家でも20年程前になるだろうか、家内が近くの島忠園芸センターで、白梅の苗木千円以下だったと思うを買って来た、自然の恵みは有り難いもので、特に何をするでもなく、植えっぱなしでも毎年花を咲かせ、消毒は一切しないが、毎年4kg以上の綺麗な実を収穫して来た
 親指程だった苗木も20年経つと太くなり、樹高も2mを遥かに越し秋口の徒長枝刈り込みも、脚立を使わねばてっぺんの枝は切れない、年を取っての高い脚立は危ない、うっかり脚立から落ちて怪我でもしようものなら「年寄りの冷や水」と世間で笑われるのがせきのやま。
 現に同じ年の友人が70歳少々で脚立を使い、家の塗装を遣っていて落下、腰を打ってそれが原因で死んでしまった、矢張り年を取ったら危険は避けるべきである。

 そんな思いで危険は避けようと、来年は花が咲かなくても、実がならなくても良い、太い枝をバッサリ切って樹高1mくらいに低くしてしまった、3月初めになったら下枝に一杯蕾を付けた、上の太い枝を切られたので、「親分の仇とばかり」下枝に沢山の花を付けたのか、樹木の生命力は凄い、いっぱい花が咲き、可愛い実をつけ、梅雨前に収穫できそうだ、もうスーパーなどでは各地の梅を売っている。

 今迄家内が梅酒に漬けていたが、此の数年は何もしないで遺棄されていた、今年は自分で梅干し作りに挑戦してみようと思う、失敗は覚悟の上で。
 
枝をバッサリ切ってしまったが、下枝に花が一杯咲いた
 
花が終わって1週間もすると、小さな可愛い実が花殻を付けて誕生する
 
3日見ぬまの桜かなではないが、少し経つと驚くほど実が成長している
 
葉も成長し実も大きくなる
 
切り取った太い枝の切り口、実も驚くほど大きくなる
 
一番上の写真、花だけの木が、葉を茂らせるとこんなにも大きく見える
 
あと15日もすると収穫か
 
消毒しないからこのくらいの大きさになると落果が多い
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

相田みつお作品展

2015-05-21 15:36:27 | 日記

相田みつを作品展

 
 

 今年になって何故か芸術付いてしまった、3月には三菱1号館で、西洋画家の巨匠展、4月には日本橋三越本店ギャラリーで日本画の「院展」鑑賞、先日は相田みつおの作品展と、良い友に誘われ芸術品鑑賞の機会を得た、持つべきはよき友だ。

   今回は相田みつお作品展に誘われ、沢山の詩を読み、人の心のあり方を学んだ。
 
 相田 みつおという名前と、独特な書体の詩を書く人くらいの認識しかなかった、今回友達に誘われ、有楽町の国際フォーラムで開かれている「相田みつお展」へ作品鑑賞に行って来た。

 足利市の鑁阿寺の近くに生まれ、18歳の時「書」に目覚め、その才能が花開き数年で大きな掛軸に、素晴らしい楷書体の字を残している、そんな書への素質があったからこそ、独特の書体の詩が沢山生まれたのだろう。

    観音信仰が厚く仏教の教えが深く影響して、自分を見つめ、厳しく律して来たようだ、そんな中にこのユーモラスな言葉も生まれたのだろう、
 息子の一人さんに依れば
、自分の書の失敗は決してゴミとして出さないと云う、その理由は「自分の失敗作」を人の目に晒してはいけと、自家に焼却炉を置いて焼却処分していたと云う。


 脳出血のため67歳の若さで他界した、もっと長寿を保って、80歳~90歳まで生存していたら、もっと人生の枯れた教訓になるような、素晴らしい詩がたくさん生まれていたであろう、早すぎた死が惜しまれる

死ぬまで勉強、何時までも若い心を持つべきか
成る程 人偏に為と書けば偽りだ、人は騙されるのは良い、騙してはいけない
自分の後姿は見えねーもんなー、 その後ろ姿こそ気をつけねば、他人はよく見ているぞ
災害被災地の物資配給の奪い合い、日本人は秩序が守られ整然と待つ、世界から賞賛
人間てそうだよな- 一生順風満帆なんて有り得ない
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

大関ケ原展

2015-05-08 13:05:46 | 日記

                                                                            大関ケ原展

 5月17日迄江戸東京博物館で「大 関ケ原展」を開催している、天下分け目の大合戦、
歴史では勉強してきたが、興味が有ったので去る4月29日に見学してきた。子供の頃
習った歴史と、大人になって見つめる関ヶ原合戦、東軍にしても西軍にしても、各武将が
身の安全 地位向上の思惑で動くのや、身を賭して主君に忠誠を誓う武将、色々な思惑を

以て始まった戦争、権力を掌握するためのドロドロした穢い闘争でしかない、どんな策略 
作戦を用いようとも勝てば「官軍」である、子供の頃学校で習った歴史と、大人になって見
つめる目は違っていた。

特別展示室は撮影禁止、音声案内を借り要所々々音声案内が有り、歴史で学んだ事と
差して変わりはないが、家康 三成其々の性格 思惑 人心の掌握 戦略 根回しは「たぬき
じじい」と言われた家康が勝っていた様だ、西軍が圧倒的
有利だったが、表面西軍に属す
としながら東軍に寝返った武将、戦況の優劣を見て寝返った武将、武士の風上にも
置けぬ
卑劣な行為、毛利秀元の16,000の大軍が東軍の一軍に阻まれ、実質関ヶ原で実力を
発揮できなかったのと
、寝返りが西軍敗北の一因のようだ。寝返った武将は江戸幕府開設
後、減封 改易になったのは言うまでもない、二心ある部下など信用する上司などいる
筈が
ない。

 
 今迄何か催し物が有ると江戸東京博物館はよく行った、何時行っても入場券を買うのに
並ぶ事はない、4月29日何も
考えずに思い立って行った、開場9:30分、開館時間より少
し遅れ9:40分に入館したところ、館内長蛇の列およそ300
人弱いたか、切符購入に20分
待たされた、こんな事は初めて、何も考えずに行った小生が馬鹿だった、GWの初日皆関

ある特別展、開館前に並んでいた様だ。


特別展示館は展示品前に3重~4重の人垣、来たからには一番前で展示品を傍でを見たい、
当日は25℃を越す夏日、
館内冷房は弱く人いきれで暑い事、大汗をかいて展示品鑑賞。
 家康の甲冑 佩刀 武具 日用品や、徳川四天王の甲冑 武具など陳列、三成の遺品は少
なく、ここにも勝者と敗者の差
は歴然、関ヶ原激戦の陳列品を鑑賞、美術館 博物館の展示
品を鑑賞するのは普通に歩くより疲れる、足が棒のように
なってしまう。

 特別展示館を見て、常設館は今迄も何回か見ているのでパスしようと思った、だが係員が
常設館の展示品を3分の2入れ替え、リニューアルしたので見て行くようにと云われ、
重い足を引きずり常設館へ、以前の展示品が入れ替わり、江戸時代 明治 大正 昭和の戦前
戦後の急速な生活様式の変化、特に各地にできた団地はダイニングキッチン 各戸に水洗
トイレ 風呂場が有るのはそれまでの生活を一新する文化生活で、団地族言われ、あこがれの
的で、入居
抽選はいつも40倍~50倍の競争率だった、その時代時代に沿った生活用式の
展示と一緒に、学校給食の変化が添えられ
ている、生活の向上と共に学校給食の質の向上
も展示されている。

 
戦時中の空襲の火災模様や投下された爆弾 焼夷弾などが陳列されている、東京空襲で
爆弾の炸裂、焼夷弾に
依り大火災、火に囲まれ逃げ場を失った体験者も、もう少なくなった。

 祭日だったせいか、芝居小屋の前でジャグジーと微妙なバランス曲芸が有った、GWの
特別演技だろう、今まで
こんな催を見た事がない祭日で特別だったのだろう、、しばし曲技を
楽しみ昼過ぎ退館する、驚いた事に切符購入者が
館内蛇行して並び、外へ出たら館外にも
行列ができたいた。

 
徳川家康着用甲冑 石田三成着用甲冑
 
関ヶ原で家康が最初に布陣した地 合戦前家康本陣を移動
 
三成が布陣した小高い丘
 
関ケ原激戦の地
 

 源氏車紋散糸巻太刀拵(げんじくるまもんちらしいとまきたちこしらえ) 江戸時代、大名は儀礼の際には、

衣冠に糸巻拵の太刀を帯びるのが決まりであった、太刀とは,儀仗・軍陣に用い、刃を下向きにして腰に

つるすのを通例とする刀剣、幕府内でも正月儀礼には必ず使用されていた、此の源氏車紋散糸巻太刀

拵は、その典型である。
普通武士は大小太刀を落とし差しと言い、刃を上に向け腰に手挟む、刀を抜いて構えた時には刃は下を

向き臨戦態勢に入れる。上級武将の儀礼時は刃を下向き水平に腰に下げる、相手に敵対感情はなく、

衣冠束帯に拵太刀を佩いての姿は優雅である。

ここからは常設館展示品になる,常設館はフラッシュをたかない限り写真撮影はOK 

大名火消の火事装束

上級武士の火事装束頭巾、、当時江戸には
大名火消し、町火消しが有り火事現場では
両者が激しく
衝突する事が有ったらしい。

 
芝居小屋前の曲芸披露
 

戦前東京市内にはフォード製セダンが「円たく」として走っ
ていた、東京市内何所まで行っても1円均一、当時の1円
は高額だった、因みに当時の煙草の値段を紹介しよう。
金鵄(ゴールデンバット)が15銭 光30銭 鵬翼20本入り
50銭米1升32銭くらいだったか、庶民には中々利用でき
ないタクシーだった。

戦後発売された日産のダットサン貨物車、他に
おおたと言う小型貨物メーカーが有ったがいつ
の間にか消えていた。小生この貨物自動車で
練習して免許証を確保した、兎に角運転席が狭い、
ブレーキを踏むのに膝がハンドルにぶつかり、
大変狭くて運転し難い車だった、今から65年前で
は仕方ないか。
 

都内に落とされた500k爆弾の不発弾、これが炸裂
すると直径15m深さ5m
以上の穴が開く、

油脂焼夷弾と黄燐焼夷弾、此の長さは3分の一くらい、
実物は1,5mくらいある
 
朝は切符購入で20分待ちだったが、午後は館内から館外まで大変な行列
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

塩船観音

2015-05-01 13:49:01 | 日記
青梅 塩船観音寺つつじ見物
 
 塩船観音のつつじは見事だと噂には聞いていた、中々行く機会がなくて行けなかった、先日あるサークルが塩船観音へつつじ見物に行くと聞き、其のサークルには所属していないが、飛び入りで参加させてほしいと申し込んだところ、歓迎しますと快く参加を認めてくれた。

 当日は快晴の好天 気温は25℃を越し汗ばむ程の陽気、 電車を2回乗り換えJR青梅線河辺(かべ)駅に到着、駅前からバスで塩船観音の前まで行く、バスはご老人数グループで満員、目的地に着いたらバスは空っぽ。

 斜面に囲まれ真ん中に本殿が有る、山号は大悲山  塩船観音寺、青梅の山中に何故「塩船」なのだろう、考えると塩には余り縁はなさそうな土地柄、その地名の発祥には諸説あるが、小生が蘊蓄を傾ける程の知識は無い。
 1300年以前の古刹で縁起式内社、国指定重要文化財、本殿他にも県指定 市指定の文化財が点在している。擂り鉢状の傾斜地の中心に本殿が有り、その傾斜地には2万本を越すつつじが植えられ、色とりどりの花を咲かせ関東でも有数のつつじの名所、他にも季節季節によってその時期の花を楽しめるようだ、境内には樹齢数百年の大杉が御神木になっている、ご神木の由来は書いてなかった、残念ながら見物時期が1週間程早く満開にはなっていなかった。

 帰りは塩船観音寺から歩いて東青梅駅へ向かう、途中宗泉寺の巨木「大かや」を見学、幹回り4,3m高さ24,5m昭和30年の台風で枝が吹き折られた、枝の年輪が130年とか、枝にして130年幹の樹齢は千年を越すか?、少し行くと師岡神社が有りここの椎の巨木は小生が今まで見た巨木で一番だった、幹回り5,3m 樹齢 樹高は不明。

 皆元気に東青梅駅に到着順調に所沢まで帰り、西武8階のレストランで15人程で懇親会、酒を飲み語らい楽しい一日を過ごさせて頂いた。
 
 
真っ青な空に緑の中つつじの赤が冴える 
 
本堂を囲んですり鉢状の傾斜に2万本を超すつつじの競演 
 
帰途駅に向かう途中満開の藤の花が迎えてくれる 
 
 宗泉寺の大かや
 
師岡神社 椎の巨木の根元 
 
 塩船観音全体像