先日成田山新勝寺へ参拝するサークルが有った、小生そのサークルの会員ではないが、飛び入りで参加させて貰った、昨年 成田山へ永年行っていないので参拝に行こうかなと漠然と考えていた、そこへ幸いにもあるサークルが、新年成田山詣でを企画したのを知り、会員ではないが飛び入り参加した次第である。 小生成田山詣でをしたのは、昭和26年頃だったと記憶する、当時は空襲の焼け跡も整備され復興の槌音も高まり始め、食料 物資も出回り始めたが、まだ貧しいものだった、そんな折朝鮮動乱が始まり、日本は対岸の火事で、国内企業が「特需景気」で活気付き、日本復興の足掛かりになった、そんな世相の時だった。 当時大晦日には鉄道が終夜運転をしていた、血気盛りの友人5人ばかりで、大晦日夜中の電車に乗って成田山へ行こうじゃないかと、若者だから話は早い急遽終夜運転の電車で成田山詣でをした、何せ半世紀以上65年前の話である記憶も薄れほとんど覚えていない。 明け方成田駅から参道を歩き、参道の土産店も参拝者へ食事提供で心を砕いて居た様だ、食品も乏しく各店工夫してお客に食事を提供していた、旨い物などあるはず無いが、店の人が工夫して作った食事、皆それで満足していた時代、我々も腹を減らしておでん屋へ飛び込んだ、お客が多くて煮込みが間に合わず、半煮えのおでんを食べてひもじい思いの成田詣でだった、でも若い事は素晴らしい、今ほど電車のスピードもなく長い時間が掛かった成田詣でだったが、楽しい思い出になった。 そんな事で65年を経て変わったであろう成田山へ、再度成田詣でを考えたので、グループに連れて行って貰ったのはよかった、 記憶は薄れたとはいえ、参道は変わらなかたが、居並ぶ土産店は大きく変貌して立派になり、並んでいる商品もこれでもか これでもかと工夫し旨い物を提供している、戦後疲弊した日本、目覚ましい復興をして経済大国になった日本、成田山参道の土産店で65年の差を実感した。 65年前成田山境内をお詣りをしたけど、総門 仁王門 本堂全く記憶にない、若かったから物見遊山の感じで適当に参拝して居たのだろう、今回サークルに参加させて貰って、新勝寺をゆっくり参拝、要所を90枚程写真に収め、冥途への良い土産になった。 |
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松の内も過ぎ17日、成田山詣での人は参道を埋め尽くしていた、土産店の軒先には輪飾が飾られている、二十日正月まで飾るのか。 |
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参道の道端には石作りの干支が置かれている | ||||
此れは羊さんか | ||||
アレ髭を生やしどう見てもこれは狐だよネ 十二支にないが マアいいか硬いこと言わずに | ||||
新勝寺総門 彫刻を鳩害保護で網が張られている | ||||
仁王門 阿吽の形相の仁王さん居たっけ(重文) | ||||
関東に点在する名刹の中の一院 威容を誇る本堂(重文) | ||||
本堂前にある三重の塔(重文) | ||||
大塔(多宝塔) 所澤にも多くの多宝塔が存在するが、自分で見た多宝塔では一番立派 素敵な建造物 | ||||
鐘楼と一切経堂 | ||||
アレ夢殿違うよネ六角だよネ | ||||
各種有名な額が納められている「額堂」 歌舞伎七代目団十郎の石像が有る(重文) | ||||
新勝寺公園にある噴水 | ||||
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本堂で護摩供養に行く僧侶の列、衣の色 袈裟の色其々坊さんの格式の違いか。 | ||||
新年4日に茶の湯の先生宅へ5人ばかり招待された、御当主はお父さんも茶の湯の先生をしていた、御当主も生け花の免許を持ち、焼き物にも精通された、とても多彩な御仁だ、だが至って気さくなお人で、話し易い、大らかなお人柄。 |
床の間と対角線上にある壁面、小さい額と置物が飾られている |
食卓には白い椿と赤い椿が飾られてある、この謂れを聞いたが 忘れた |
この緑の大皿は御当主の焼いた物 この大きさになると、窯の中で 割れが出て難しい |
この赤いチョロギは最近、正月料理にも余り見掛けなくなった、 此れは漢字で書くと長老喜 長老木 千代呂喜と書き目出度い食 品 詳細は読者皆様検索して御勉強あれ |
カマンベールとセロリがとても合う、プロセスチーズは相性はあまりよくないようだ |
野菜ステックも少し塩味が効いてお洒落 |
白味噌仕立てのお吸い物 百合根等入り上品な味だった |
ウニの燻製の様な物 その他珍味を出さたが、小食になった今 |