老いて楽しく

余生を楽しむ

よき友はいつまでも

2018-07-29 09:44:03 | 日記
楽しき仲間達
 
 この月末にかけて、飲み会と言うか暑気払いと言うか、食事会が重なった、先週金曜日に或るサークルの食事会があった、女性と男性半々ほどのグループ、男性もあまり飲めない人が半数、アルコール少なかったが暑気払い会になった。

 小生今回は会場選択の責任が有り、日本料理店を予定して、予算を組み計画をしていて、参加人数も確定したので、その店に予約申し込み電話をした、「現在この電話は使われておりません」のコール、疑問に思ってネットで検索その店のHPに都合により6月26日を持まして閉店しましたとあり、びっくり仰天慌てて他の心当たりに電話する、昼食時間帯を予定していたので、なかなか見つからず、所沢プロペ通り「大戸屋」で座席数 時間帯が予約できホッとした。

 庶民的な食事処「大戸屋」気楽な店でそれぞれの料理を頼み、ビールも少々入り、ここ数年、年何回か食事を楽しむ会、先行き考え暗い話や自慢話はなく、過去の失敗談を思い出し大笑い、長いお付き合いで気心が知れゆっくりと談笑、楽しいひと時を過ごし、次回は秋麗の候10月末頃の会合が決まる。

 年を取って家に籠ってはますます老け込む、親しき友と酒を酌み交わし、楽しい会話をする事が活性化につながる、何でもいい色々な活動に参加することで、延いては健康年齢の延長になる。
 
皆さん年を経ても変わらなく若い、健康を祝して乾杯
 
酢豚と言うか野菜あんかけと言うか、お吸い物にご飯、香の物に野菜サラダ白飯の他五穀ご飯もある
 
小生小食が進み、ご飯 香の物 お吸い物総て省く、野菜サラダ完食、あんかけ料理 鶏肉 蓮 ブロッコリー 人参 茄子一切れずつ食べただけで後は何も入らず下げて貰った、そんな小食でも痩せもせず、夏バテもない
 
ダイエー地下の「銀たこ」でたこ焼きを、お土産に2パック買って帰る
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

殺人的暑さ

2018-07-24 15:39:52 | 日記
猛暑 酷暑 炎暑
 

 昨日の暑さは表題のどれを表現したらいいのか分からない、炎熱地獄とでも言おうか。 

 昨日23日熱さの記録を5年ぶりに、熊谷市が更新した、41.1度 青梅市が40,8度 岐阜多治見市 山梨甲府市が40度超え、我が町所沢市も39,8度40度少し手前、小生も長い事人間家業を遣ってきたが、今年ほど暑い夏を経験したのは初めて、気温40度の話が出てきたのはまだ20年に満たない、地球の温暖化が急速に進んでいるのだろうか。

 我が家に温度計がいくつかあるが、二階の温度計 一階の温度計両方が40度を指したのは初めて、午前中は扇風機で何とか凌ぐが、午後は熱風をかき回しているだけ、体温調節にはならない、午後から朝起きるまで居間と寝室のクーラーは切れない、熱中症は防げるが、冷房による障害がある、それまでなんでもなかった首が、回すと痛い、夜寝ている時ふくらはぎがこむら返しを起こし、痛みで目が覚めるこれは冷房病か、足の保温に何かを掛けると足が火照って眠れない、熱中症にしても冷房病にしても、健康を維持していくために年寄りには過酷な炎暑だ。

 
二階の温度計が40度を表示した
 
応接間の温度計も40度を示す
 
この暑さ、外へ出ると道路の照り返し、空気は体温を超す暑さ、熱風を吸い込んでは体温も上がってしまう、この熊の様にグテーとして何も遣らない
 

親しき友と以前から約束をしていた暑気払い、先週はこれ以外は何もしない、夏休みの一週間。
今週は何かと用事があり、炎天下外出が多くなる

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

今回の水害に思う

2018-07-15 09:22:21 | 日記
生死を分ける事もあった
 

 昔から怖い物を総して「地震 雷 火事 親父」と言われていた、最近は、親父の権威地に落ち全く怖くない、小生の父親明治生まれで怖かった,躾は厳しいが普段は優しい父だった。 親父を除いて付け加えたい怖い事、水害 津波 山崩れだ。
 人生長い間に生死を分ける恐ろしい体験をする人も多いと思う。小生も幾つかの怖い事に遭遇したが、地震(大きな地震には遭ったが、命に危険を感じるものではなかった) 津波 山崩れは体験していない。

 昭和15年6月20日、夕刻から発達した雷雲が、東京市上空を覆い時間を追って雷が激しくなり、停電して蝋燭の火の下、小学校低学年にはその雷鳴と稲妻がとても恐ろしく、父親の胡坐の中へ顔を埋め、ひたすら雷の治まるのを待った、此の猛烈な雷が大蔵省に落雷焼失した、記録に残る怖い大雷雨、今 所沢に住んで、秩父で発達した雷雲、発生したばかりの生きが良いまま所沢上空で大雷雨、子供の頃の恐ろしい体験で、今は雷に対する恐怖心はない。

 昭和19年後半から20年前半、アメリカのB29の爆撃が各都市に広がった、始めは散発的空襲で、今どの辺が燃えていると 高見の見物の様だったが、昭和20年3月9日深更から10日未明に掛けての絨毯爆撃は凄かった、身の周りに焼夷弾がパラパラ落ちて炎上する、よく直撃に遭わなかったと思う、焼夷弾の破片を受けて大量出血の人の介護や、消火に夢中になっている間にあたりは一面火の海、何処も逃げ出す隙間がない。
 父親が家族みんな集まれと言った、多分覚悟を決めたのだと思う、だが天は見捨てなかった、奇跡的に火が収まり我が家周辺の町会は焼け残った、九死に一生とは此の事か、翌朝火が収まった街を歩いたが、正に地獄絵図だった、身の毛もよだつ恐ろしい体験、猛火に包まれた中よく生きていたと思う

 昭和20年3月10日の空襲で此の侭では家族が危険と父親が決断、一家は父母の生地山梨県 日川村へ疎開した、終戦直前3里離れた甲府市が空襲を受け、空を真っ赤に染め全市消滅した、火の海に囲まれた者にすれば対岸の火事だった。
 終戦後物凄いインフレ、一夜明けると米一升の値段が変わっていた、だが命に係わる事ではない、親類の休耕田畑を父親が耕し、平穏な生活が続いた、それも長く続かなかった。
 昭和22年6月21日から降り始めた豪雨、3日3晩降り続き総雨量600ミリを超した。

 武田 勝頼滅亡の天目山を源にする日川、普段は水深30~40cmで裸足で渡れ、魚とり水泳が出来る清流だが、、降り出しから2日目の昼には河川敷(幅約100m)一杯に山の土石を含み茶色な水が、堤防の7分目まで満たしている、山の土石を含んだ水は、粘りが有り力を増す、水中をゴツン ゴトンと大きな岩石が重い音を立て流れていく。
 人は得てしてこんな状況に興味を持って危険を冒して見に行く、堤防は下が大きく抉られ、濁流を見ていた人が足元が崩れ濁流に飲まれていった、それを目撃した小生も、大きな危険を冒していた。
 昭和22年情報伝達の手段は何もない、豪雨3日目の午前中、上流の村の土手が決壊の危険と情報が入り、父親が何も持つな空身で逃げろと言った、他の小高いへ避難した、田舎と言うのは父母の親類が一杯あり、親類宅へ行った、直後堤防が決壊した。

 勝沼から甲府盆地へ向かっての傾斜地、轟轟と流れる濁流、ひたひたと浸水するなんてものではない、家 風呂桶 牛 馬ありとあらゆる物が急激な濁流に流されていく、甲州街道(国道20号線)は濁流が轟轟と流れ、周辺田畑に広く浸水した。
 上流の山の雨が止めば、水は急速に引いたが、国道は大きく抉られ、床上浸水1、5m床下 床上にも山の赤土(かつら)が20cmも溜まり、水を含み粘った赤土をかき出すのに大変な労力を要した、田畑にもこのかつらが20cm以上堆積していた、この山の土は作物の耕作が出来ない。
 当時終戦直後、情報網は口伝て、ボランテアなど全くなく、戦争で疲弊した国の支援もない、各人家の整備、田畑の復元を遣った、炎天下大人も子供もない、総ての労力を動員して、村の復興を図り、一部の田畑では秋の麦撒きが出来る程復興した。

 父親の判断もあり、安全な地で水害の濁流を眺め、余り身の危険を感じなかった、寧ろ大きなドラマを見ている感じだった、だが一歩間違えば濁流に飲まれていたかもしれない。

 戦後昭和天皇が戦争被災地の慰問に全国を行幸された、9月に水害現場を視察され、真近に陛下を拝んだ、戦中小学生時代陛下を真近に拝謁した経験がある。

 大きな災害はどんな形で遭遇するか分からない、興味本位で危険な場所など絶対に近寄らない、これが鉄則だし、早めの避難が身を守る。

 人生も長くなると幾つもの死に直面する体験をする、その経験が生きて後世への助言となる。

 
昭和22年に大水害を起こした日川の写真。
前方の山を越すと富士五湖が有る、普段は川幅10m程の穏やかな清流で、鰻取り、小魚釣り、夏には水泳を楽しむ、河原の草は家畜の餌に誰もが自由に刈って行く、昔は長閑だった、写真中央の細い流れは日川の支流 田草川。  
平成14年5月16日写す
 
日川から下流の甲府市方面を望む。
こんな穏やかな清流も、一旦豪雨が続くととてつもない暴れ川に変貌する、終戦前少しと、戦後数年を住んだだけなのに何故か懐かしさを感じ訪れてみた。
手前の小さい農地は早起き少年会の農地、小生達が遣って居た事を後輩が後を継いでくれていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

こんなことでいいのかなー

2018-07-11 14:09:32 | 日記
塗炭の苦しみを味わっている人
 

九州から中部地方にかけて、広域に大水害 土砂崩れ多くの人が逃げ惑い、死者や行方不明者が出ている時に、自民党のお偉方酒盛りでどんちゃん騒ぎ、口ばかり達者で国民の事は何も考えていないのかなー。

 
 

旨い焼き鳥

2018-07-01 11:17:05 | 日記
東松山の味噌だれが良い
 
 人は食品の好みも味も千差万別、人に押し付ける気持ちはさらさらないが、自分では家の近辺の焼鳥屋へは行く気がしないし食べる気もない、焼き鳥を食べるなら東松山の焼き鳥を食べたい。
 先日何故か味噌たれ焼き鳥を非常に食べたくなり、東松山駅前に本店を構える ひびきが各地へ支店を出し、比較的早い時間から開店する、東上線川越市駅前に支店が有る、この店の焼き鳥、東松山の焼き鳥の形態をしているが、地元でも旨くないとの評判、仕方ないが我が家からはそこが一番近い、午後3時開店、電話で予約して3時には焼き上げて呉れると言う、32度の炎天下電車で買いに行く、久しぶりのせいか20本二人でぺろりと平らげる。

 東松山に焼き鳥屋は50数軒あると言う、焼き鳥組合を持つのは全国でも東松山だけだ、だがスナック バーでも焼き鳥を出す、50数軒では済まないだろう、若い頃はよく焼き鳥を食べに行ったが、全部の店を試食するほど酔狂ではない。

 幾つかの店を食べ歩いてここだと思ったのは、森林公園駅から徒歩5分ほどの所にある焼き鳥屋「新盛」だ、この店に決めてから随分通った、帰りには20本いつも土産に買ってきた、肉の焼き加減、柔らかさ 挟んだ深谷葱の香り 付ける味噌だれの味加減絶妙だ、この店の開店は近隣の工場の終業時に合わせ17時開店、川越市駅から更に森林公園迄、昔は平気だったが、今は体力の衰え気力もなくなり15年ほど行っていない。

 ひびきの肉は固く、葱も筋っぽく味は落ちるが、何とか東松山の焼き鳥の味はする。

 東武東上線に武蔵嵐山駅と言うのが有る、昭和30年代から40年代初めは、東松山駅を出ると一駅の長い事、畑と雑木林の中をひたすら走って到着した、今は中間に森林公園 つきのわ駅も出来た、そんなの農村地帯のひなびた駅前で、韓国籍の金さんと言う人が、駅前で焼き鳥屋を開いていたが、豚の頭からとれる頬肉 盆のくぼ肉は匂いと癖が有り、余り活用されて居なかった、これに目を着け癖を消すため葱を挟み、味噌にニンニク 蜂蜜 リンゴ 唐辛子 胡麻などを混ぜ込んだ味噌たれを考案、店で売り出したところ大評判になり急速に広がった様だ、小生も昭和40年代初めに嵐山町に住む友が、変わった焼き鳥が有るから食いに来ないかと誘われ行った、その焼き鳥は小生にとって衝撃的だった、以来この焼き鳥に嵌ってしまった。

 この東松山の頭肉 味噌たれ焼き鳥の発祥には諸説あるようだが、嵐山町の古老の話と店主の話を信じている。
 豚肉を使っているのだから焼きトンではないかと言うが、通常東松山の焼き鳥で通っている。
 
暑いさなか汗を流して買ってきた、東松山の焼き鳥
 

うーん何故か見た目肉が堅そうだ、食べても堅かった、矢張りうまくない、5本食べてやめた

 
付けてくれた味噌だれ、色々ブレンドされているので、余ったのは生胡瓜に付けても旨く食べられる
 
森林公園駅から程近い焼き鳥の店「新盛」夕方5時には殆ど満席
 
上記パック入りの焼き鳥より、肉にふっくら感ある、ひびきとは全く違った食感矢張りうまい、これなら今でも10本以上はいける
 
刷毛で塗る味噌たれ、各店それぞれブレンドを工夫しているが、何処の店より旨い味噌たれ