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『孟子』巻第十一告子章句上 百四十七節、百四十八節

2019-01-01 12:27:57 | 四書解読
百四十七節

孟子は言う。
「豊作の年には、若者も実りに安心し平穏であるが、凶作の年には、不安から乱暴を働く者が多い。しかし豊年の時も凶年の時も、天から与えられた若者たちの素質はみな同じである。ただ食糧不足などの不安により、心を惑わせ物欲に溺れてそうさせるのだ。たとえば、今大麦に喩えるならば、種をまいて土をかぶせたとして、土も同じで種をまく時期も同じであれば、やがてむくむくと成長し、夏至の頃になると皆成熟する。だが収穫量が違うとすれば、それは土地のよしあしや、雨露の具合や、人の手の入り方の違いなどによるものであって、種子の違いによるものではない。このようにすべて同類のものは、皆似かよっているものだ。どうして人間だけがそうでないと疑うのか。聖人も我々と同類なのだ。だから龍子も、『たとえ人の足の寸法を知らずに履を作ったとしても、もっこを作るようなことはしないだろう。』と言っている。寸法の違いはあっても履が似かよっているのは、世の人々の足が同類だからである。口と味の関係も、人が大体旨いと思うものは同じである。古の料理の名人である易牙は人に先んじて旨いものを見出した人である。人の口が旨いと感じるものが、犬馬と我々と類を異にするほど、人それぞれにより異なっていれば、世の人々が一様に易牙の味を旨いと思うはずがない。味に関しては、世の人々が皆易牙に期待するのは、それぞれの味覚が大体似かよっているからである。耳も亦た同じである。音楽に関しては、皆古の楽人師曠に期待する。それはそれぞれの耳の好みが大体同じだからだ。目も亦た同じである。子都と言えば、その美しさを知らない者はいない。子都の美しさが分からない者は、目がないのと同じである。だから私は言うのだ、『口が旨いと感じるものは、人皆同じである。聴きたいと思う美しい音楽は、人皆同じである。愛でたいと思う美しいものは、皆同じである。それなのに心だけが、皆一致して喜び迎えられるものがないといことはないはずだ。』それでは人の心が皆一致して喜び迎えるものは何か。それは理であり、義である。聖人は誰もが喜び迎えたいと願っているものを人に先んじて得ただけである。だから理義が我らの心を喜び満足させるのは、牛羊や豚狗の肉が我らの口を喜ばせるのと同じである。」

孟子曰、富歲、子弟多賴、凶歲、子弟多暴。非天之降才爾殊也。其所以陷溺其心者然也。今夫麰麥、播種而耰之。其地同、樹之時又同。浡然而生、至於日至之時、皆熟矣。雖有不同、則地有肥磽、雨露之養、人事之不齊也。故凡同類者、舉相似也。何獨至於人而疑之。聖人與我同類者。故龍子曰、不知足而為屨、我知其不為蕢也。屨之相似、天下之足同也。口之於味、有同耆也。易牙先得我口之所耆者也。如使口之於味也、其性與人殊、若犬馬之與我不同類也、則天下何耆皆從易牙之於味也。至於味、天下期於易牙。是天下之口相似也。惟耳亦然。至於聲、天下期於師曠。是天下之耳相似也。惟目亦然。至於子都、天下莫不知其姣也。不知子都之姣者、無目者也。故曰、口之於味也、有同耆焉。耳之於聲也、有同聽焉。目之於色也、有同美焉。至於心、獨無所同然乎。心之所同然者何也。謂理也、義也。聖人先得我心之所同然耳。故理義之悅我心、猶芻豢之悅我口。

孟子曰く、「富歲には、子弟、賴多く、凶歲には、子弟、暴多し。天の才を降すこと、爾く殊なるに非ざるなり。其の、其の心を陷溺する所以の者然るなり。今、夫れ麰麥(ボウ・バク)、種を播して之を耰(ユウ)す。其の地同じく、之を樹うる時又同じ。浡然(ボツ・ゼン)として生じ、日至の時に至りて皆熟す。同じからざる有りと雖も、則ち地に肥磽(ヒ・コウ)有り、雨露の養い、人事の齊しからざればなり。故に凡そ類を同じうする者は、舉相似たり。何ぞ獨り人に至りて、之を疑わん。聖人も我と類を同じうする者なり。故に龍子曰く、『足を知らずして屨を為るも、我其の蕢(キ)を為らざるを知る。』屨の相似たるは、天下の足同じければなり。口の味に於ける、同じく耆むこと有るなり。易牙は先づ我が口の耆む所を得たる者なり。如し口の味に於けるや、其の性人と殊ること、犬馬の我と類を同じうせざるが若くならしめば、則ち天下何ぞ耆むこと皆易牙の味に於けるに從わんや。味に至りては、天下、易牙に期す。是れ天下の口相似たればなり。惟だ耳も亦た然り。聲に至りては、天下、師曠に期す。是れ天下の耳相似たればなり。惟れ目も亦た然り。子都に至りては、天下、其の姣を知らざる莫きなり。子都の姣なるを知らざる者は、目無き者なり。故に曰く、『口の味に於けるや、同じく耆むこと有り。耳の聲に於けるや、同じく聽くこと有り。目の色に於けるや、同じく美とすること有り。心に至りて、獨り同じく然りとする所無からんや。』心の同じく然りとする所の者は何ぞや。謂わく、理なり、義なり。聖人は先づ我が心の同じく然りとする所を得たるのみ。故に理義の我が心を悅ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悅ばすがごとし。」

<語釈>
○「富歲」、趙注:富歲は豊年なり。○「頼」、諸説有るが、服部宇之吉氏が、頼恃む所ありて安心し、至って平穏なるをいう、と云うのを採用する。○「爾」、然りの義。○「麰麥」、趙注:麰麥(ボウ・バク)は大麥なり。○「耰」、種をまいて土をかぶせること。○「浡然」、急に勢いづくことで、むくむくと成長する貌。○「日至」、夏至。○「肥磽」、土地のよしあし。○「蕢」、土を運ぶ道具、もっこ。○「子都」、古の美人、男女の別は定かでない。○「姣」、朱注:姣は好なり。美しさ。○「芻豢」、「芻」(スウ)は草食動物、牛・羊、「豢」(ケン)は穀食動物、豚や狗。

<解説>
類を同じくするものは、その然りとする所も同じであるから、人間もその然りとする所、乃ち理義を誰もが持っているのである。
趙岐の章指を紹介しておく、
「人の稟性(以て生まれた性)は、俱に好憎有り、耳目口心の悦ぶ所の者は同じ、或いは君子為り、或いは小人為るは、猶ほ麰麥の齊しからざるがごとし、雨露然らしむるなり、孟子是を言うは、勗(キョク、努力する意)して之を好む所以なり。」

百四十八節

孟子は言う。
「齊の牛山も昔は木々が美しく生い茂っていた。しかし大都会の郊外にあるので、大勢の人が斧や鉞で木々を伐採したために、美しいとは言えなくなった。それでも日夜成長する生命力と雨露の惠によって、芽生えやひこばえが生じないこともないが、そこへ牛や羊を放牧して新芽を食わせてしまうので、あのようなつるつるの禿山になってしまったのだ。人は今の禿山を見て、昔から材木と成るような木が生い茂っていなかったのだと思うだろうが、木がないのは山の本性ではないのだ。人間の本性も同じことで、どうして仁義の心がないと言えようか。仁義を行う良心を失念させてしまうのは、斧や鉞で伐採して木を減らして行くのと同じである。毎日毎日木を伐るように、良心を削り取っていったら、美しい心でいられようか。日夜成長する生命力により、山に芽生えやひこばえが生じるのと同じように、明け方の明るく清らかな心が芽生えるのだが、善を好み惡を憎む心が、人間としての本性に近づく者がごく稀にしかいないのは、日中の行いが良心を拘束して失わせるからである。この拘束が繰り返されると、夜の清明の気も存在することが出来なくなる。清明の気がなくなれば、もはや人間も鳥や獣とほとんど変わらなくなる。人はそのような鳥や獣と同様になった人間を見て、人はもともと仁義の心はないのだ、と言うのだが、それがどうして人間の本性だと言えようか。だから正しい養育を与えれば、何物も成長しないものはないが、養育を間違えれば何物も消滅する。孔子に、『しっかり持っていれば存するが、放置すれば無くなってしまう。出入りには決まった時がなく、その居場所もわからない。』と云う言葉があるが、恐らく人の良心について言ったものであろう。」

孟子曰、牛山之木嘗美矣。以其郊於大國也、斧斤伐之。可以為美乎。是其日夜之所息、雨露之所潤、非無萌櫱之生焉。牛羊又從而牧之。是以若彼濯濯也。人見其濯濯也、以為未嘗有材焉。此豈山之性也哉。雖存乎人者、豈無仁義之心哉。其所以放其良心者、亦猶斧斤之於木也。旦旦而伐之、可以為美乎。其日夜之所息、平旦之氣、其好惡與人相近也者幾希、則其旦晝之所為、有梏亡之矣。梏之反覆、則其夜氣不足以存。夜氣不足以存、則其違禽獸不遠矣。人見其禽獸也、而以為未嘗有才焉者、是豈人之情也哉。故苟得其養、無物不長、苟失其養、無物不消。孔子曰、操則存、舍則亡。出入無時、莫知其鄉。惟心之謂與。

孟子曰く、「牛山の木、嘗て美なりき。其の大國に郊なるを以て、斧斤之を伐る。以て美と為す可けんや。是れ其の日夜の息する所、雨露の潤す所、萌櫱(ボウ・ゲツ)の生無きに非ず。牛羊又從いて之を牧す。是を以て彼の若く濯濯たるなり。人、其の濯濯たるを見て、以て未だ嘗て材有らずと為す。此れ豈に山の性ならんや。人に存する者と雖も、豈に仁義の心無からんや。其の、其の良心を放する所以の者は、亦た猶ほ斧斤の木に於けるがごときなり。旦旦にして之を伐らば、以て美と為す可けんや。其の日夜の息する所、平旦の氣あるも、其の好惡、人と相近き者幾ど希なるは、則ち其の旦晝の為す所、有た之を梏亡すればなり。之を梏して反覆すれば、則ち其の夜氣以て存するに足らず。夜氣以て存するに足らざれば、則ち其の禽獸を違ること遠からず。人、其の禽獸のごときを見て、以て未だ嘗て才有らずと為す者は、是れ豈に人の情ならんや。故に苟くも其の養いを得れば、物として長ぜざる無く、苟くも其の養いを失えば、物として消せざる無し。孔子曰く、『操れば則ち存し、舍つれば則ち亡す。出入時無く、其の鄉を知る莫し。』惟れ心の謂か。」

<語釈>
○「牛山」、趙注:牛山は齊の東南の山なり。○「息」、朱注:「息」は成長なり。○「萌櫱」。「萌」(ボウ)は芽生え、「櫱」(ゲツ)はひこばえ、伐った草木の根や株から出た芽のこと。○「濯濯」、趙注:濯濯は、草木無きの貌。朱注:濯濯は、光潔の貌なり。この二注の意を汲んで、つるつるになった禿山と解す。○「旦旦」、旦は朝の意、朝朝で毎日の意。○「平旦之氣」、朱注:平旦の氣は、未だ物と接せざるの時の清明の気を謂うなり。夜明けの清明の気。○「梏亡」、朱注:梏は械なり。「械」は『説文』に桎梏なりとあり、足かせ手かせのことで、「梏亡」は拘束して失わせること。○「孔子曰~」、孔子の言葉は四句までとする説と、最後までとする説がある。私は四句までの説を採用した。どちらでもそれほど変わらない。○「鄉」、居場所。

<解説>
この節も性善説について説かれている。趙岐の章指を紹介しておく、
「心を秉りて、正を持てば、邪をして干さざらしむ、猶ほ斧斤を止めて牛山を伐らざれば、則ち木茂る、人は則ち仁を稱う。」

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