百七十七節
孟子は言った。
「誰もが心の中に持っている理義を極めつくせば、人の本性が本来善であることが分かる。本性が善であることを知れば、それを与えてくれた天をも知ることになる。己の心を常に省みて察し、善なる本性を養うことが天に仕える道である。短命か長命かなどと気に掛ける事無く、ひたすら身を修めることに務めて天寿を待つ、それが立命乃ち天命を守る道なのである。」
孟子曰、盡其心者、知其性也。知其性、則知天矣。存其心、養其性、所以事天也。殀壽不貳、修身以俟之、所以立命也。
孟子曰く、「其の心を盡くせば、其の性を知るなり。其の性を知れば、則ち天を知る。其の心を存し、其の性を養うは、天に事うる所以なり。殀壽貳せず、身を修めて以て之を俟つは、命を立つる所以なり。」
<語釈>
○「盡其心者、知其性也」、『正義』に謂う、「盡」は「極」なりと。服部宇之吉氏云う、「天下の人心同じく理義を好まざるは無し、此れ心に固有するところなり、心の固有するところを盡くし極むれば、人の性もと善なるを知る。」○「存」、安井息軒氏云う、「存」は「察」なり。○「俟之」、「之」の解釈も諸説あるが、安井息軒氏云う、「之」の字は殀壽を指す、之を俟つは、天、己を壽せば則ち壽し、己を殀せば則ち殀す、復た心を二者の間に勞せず、唯だ身を修めて以て其の至るを待つのみと。通釈はこれに従う。○「立命」、朱注:立命は、其の天の賦する所を全くし、人為を以て之を害せざるを謂う。天命を守ること。
<解説>
心、性、天とは、何であるか。分かっているようでよく分からない概念である。儒教の中心的な概念の一つであると言えるだろう。『中庸』の冒頭に、「天の命、之を性と謂い、性に率がう、之を道と謂い、道を修むる、之を教と謂う。」とあり、この「天命」について、鄭玄は、「天命は天の命じて人に生ずる所の者なり。是れを性命と謂う。」と述べている。更に理解を深める為に私のホームページ(http://gongsunlong.web.fc2.com/)から『中庸』を参照してほしい。
百七十八節
孟子は言った。
「凡そ人の寿命は皆天から与えられたものであるから、それを正しく受け入れて従うことが大事である。だからそれを知っている者は、岩石が崩れ落ちそうな所や壊れそうな垣根の側には近寄らない。天から与えられた善の道を尽くして死ぬのは、正命であるが、罪を犯して刑罰で死ぬのは正命ではないのである。」
孟子曰:「莫非命也,順受其正。是故知命者,不立乎巖牆之下。盡其道而死者,正命也。桎梏死者,非正命也。」
孟子曰く、「命に非ざる莫きなり。其の正を順受す。是の故に命を知る者は、巖牆の下に立たず。其の道を盡くして死する者は、正命なり。桎梏して死する者は、正命に非ざるなり。」
<語釈>
○「命」、この節の命の解釈も諸説ある、趙注云う、「命に三名有り、善を行い善を得るを、受命と曰う、善を行い惡を得るを、遭命と曰う、惡を行い惡を得るを、随命と曰う。」朱子は、「人物の生、吉凶禍福は皆天の命ずる所なり。」と述べ、前節の解説で紹介した鄭玄は、「天命は天の命じて人に生ずる所の者なり。」としている。私は下文との関係から、天から与えられた寿命の意味に解釈する。○「巖牆」、安井息軒氏云う、危巌壊牆を謂うと。危ない岩石や壊れそうな垣根のこと。
<解説>
前節との関係が深い節であり、併せて読めば、短い文章でありながら色々と考えさせられる。
百七十九節
孟子は言った。
「求めれば得られるが、放置しておけば失われる。このようなものは求めることが、それを得るのに有用である。それは己の内に在る天から与えられた仁義礼智を求めるからである。それを求めるには手段方法があるが、得られるかどうかは天命によるのであって、必ず得られるとは限らないようなものは、無理に求めても、それを手に入れるには役立たない。それは己の外に在る富貴栄達などを求めるからである。」
孟子曰、求則得之、舍則失之。是求有益於得也。求在我者也。求之有道。得之有命。是求無益於得也。求在外者也。
孟子曰く、「求むれば則ち之を得、舍つれば則ち之を失う。是れ求めて得るに益有るなり。我に在る者を求むればなり。之を求むるに道有り。之を得るに命有り。是れ求めて得るに益無きなり。外に在る者を求むればなり。」
<語釈>
○「在我者」、朱注:在我者は、仁義礼智を謂う。既述の天爵である。○「在外者」、朱注:在外者は、富貴利達を謂う。既述の人爵位である。
<解説>
趙岐の章指に云う、「仁を為すは己に由り、富貴は天に在り。故に孔子曰く、『如し求む可からずんば、吾の好む所に從わん。』」
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