二十八節
孟子は言う、
「賢者を尊び有能の士を用いて、すぐれた人物が其の位に即きそれぞれの職務を行えるようにすれば、天下の士は皆進んでその国に仕えたいと願うだろう。市場では店舗には課税をするが、荷物は課税しない、又は法により市場の秩序を守り、課税は一切しないようにすれば、天下の商人は皆進んでその市場に商品を持ち込みたいと願うだろう。関所では不信な人物や物を取り締まるだけで、税金はかけないようにすれば、天下の旅行者は皆喜んでその國の街道を通りたいと願うだろう。農耕者には井田法により、公田を耕作する義務だけ課して、私田には課税しないようにすれば、天下の農民は皆進んで耕作に励むだろう。住居に対する税や人頭税が無ければ、天下の民は皆進んでその国の移住民になりたいと願うだろう。実際にこの五つが実行できれば、隣国の民もその君を父母のように仰ぎ見て慕うだろう。そうなれば、隣国の民は子弟のようなものである。子弟を率いて父母を攻めるなどということは、人間始まって以来、一度として成功したことがない。だからこのようになれば天下に敵対する者はいなくなる。つまり天下無敵の者は天命を執行する天の役人である。そうなって天下の王とならなかった者は、かっていないのである。」
孟子曰、尊賢使能、俊傑在位、則天下之士皆悅而願立於其朝矣。市廛而不征、法而不廛、則天下之商皆悅而願藏於其市矣。關譏而不征、則天下之旅皆悅而願出於其路矣。耕者助而不稅、則天下之農皆悅而願耕於其野矣。廛無夫里之布、則天下之民皆悅而願為之氓矣。信能行此五者、則鄰國之民仰之若父母矣。率其子弟、攻其父母、自生民以來、未有能濟者也。如此、則無敵於天下。無敵於天下者、天吏也。然而不王者、未之有也。」
孟子曰く、「賢を尊び能を使い、俊傑位に在れば、則ち天下の士、皆悅びて其の朝に立たんことを願わん。市は廛して征せず、法して廛せざれば、則ち天下の商、皆悅びて其の市に藏せんことを願わん。關は譏して征せざれば、則ち天下の旅、皆悅びて其の路に出でんことを願わん。耕やす者は助して稅せざれば、則ち天下の農、皆悅びて其の野に耕さんことを願わん。廛に夫里の布無ければ、則ち天下の民、皆悅びて之が氓と為ることを願わん。信に能く此の五者を行わば、則ち鄰國の民も之を仰ぐこと父母の若し。其の子弟を率いて、其の父母を攻むるは、生民自り以來、未だ能く濟す者有らざるなり。此の如くんば、則ち天下に敵無し。天下に敵無き者は、天吏なり。然り而して王たらざる者は、未だ之れ有らざるなり。」
<語釈>
○「市廛而不征、法而不廛」、この二句は共に異説の多い箇所である、上句については、安井息軒云う、「廛」は、旅商の貨物を藏する所の處、「廛而不征」は、其の廛税を収めて、其の貨に征せず、と。店舗税は徴収するが、荷物には税を課さないという意味。下句については息軒の説には賛同しがたく、朱注が引く張載の、市の役人が法で取り締まること、とする説を採用する。「征」は税の意で、動詞に読めば課税する意になる。○「關譏」、「關」は関所、「譏」はしらべる、取り締まること。○「耕者助而不稅」、「助」は、井田法により、八家が共同して公田を耕す意、八家の私田には課税しない。○「廛無夫里之布」、この廛は居宅の意、「布」は銭、周禮地官の載師に、宅に毛あらざる者は里布有り、とあり、その注に、宅に毛あらざる者とは、桑麻を樹えざるを謂う、とあり、同じく閭師に、凡そ職無き者は、夫布を出だす、とある。「夫里之布」は夫布と里布のことで、大まかに言えば宅地の税と人頭税のこと。○「氓」、移住民。
<解説>
孟子の王道論である。隣国の民からも父母の如く仰ぎ慕われたなら、他国の侵略もなく、まさに天の使者として天下の王となれる、と簡潔に述べている。
二十九節
孟子は言う、
「人は誰でも人の難儀を見過ごしにできない心が有る。昔のすぐれた王にはこの心が有った。だから人の不幸を見過ごしにできない政治が行われた。人の不幸を見過ごしにできない心に基づいて政治を行うならば、天下を治める事など、手のひらの上で物を転がすようにたやすいことである。なぜ人は誰でも人の難儀を見過ごしにできない心が有るかといえば、今、かりに幼児が井戸に落ちそうになっているのを見れば、人は誰でも驚き懼れ、可愛そうにと走り寄って助けようとするものだ。それはこれをきっかけに幼児の両親との交際を求めようとしたり、村人や友人に褒められたいという為でもなく、見殺しにしたと言う悪評がたつのを恐れて助けたわけでもない。このことから見てみると、傷ましく思う心がないのは人間ではない。不善を恥じにくむ心がない者は人間ではない。人に讓る心のない者は人間ではない。物事の是非善悪を判別する心のない者は人間ではない。傷ましく思う惻隱の心は仁の端緒であり、不善を羞惡する心は義の端緒であり、人に讓る辭讓の心は禮の端緒であり、是非を判別する心は智の端緒である。人間にこの四つの端緒が有るのは、あたかも身体に手足の四肢が有るようなものだ。このように人間には四つの端緒が有るのに、自ら善を為すことができないと言う者は、自分で自分を害する者だ。また自分の仕えている君主は善を為すことが出来ないなどと言うのは、主君を傷つけるものだ。すべて人間にはこの四つの端緒があるのだから、これを拡大して中身を満たしてゆけば、仁義礼智の徳を身につけることが出来ることを理解できるはずである。この四つの端緒は燃え出したばかりの火、湧き出したばかりの泉のように、ごく小さなものでも、やがて猛火、大河となるように、それを拡充していけば、天下を安んじ治める事が出来るし、逆に拡充しなければ、父母に仕えるという身近の事でも満足にできなくなってしまうだろう。」
孟子曰、人皆有不忍人之心。先王有不忍人之心、斯有不忍人之政矣。以不忍人之心、行不忍人之政、治天下可運之掌上。所以謂人皆有不忍人之心者、今人乍見孺子將入於井、皆有怵惕惻隱之心。非所以內交於孺子之父母也。非所以要譽於鄉黨朋友也。非惡其聲而然也。由是觀之、無惻隱之心、也。無羞惡之心、也。無辭讓之心、也。無是非之心、也。惻隱之心、仁之端也。羞惡之心、義之端也。辭讓之心、禮之端也。是非之心、智之端也。人之有是四端也、猶其有四體也。有是四端而自謂不能者、自賊者也。謂其君不能者、賊其君者也。凡有四端於我者、知皆擴而充之矣。若火之始然、泉之始達。苟能充之、足以保四海。苟不充之、不足以事父母。
孟子曰く、「人皆人に忍びざるの心有り。先王、人に忍びざるの心有り、斯に人に忍びざるの政有り。人に忍びざるの心を以て、人に忍びざるの政を行わば、天下を治むること、之を掌上に運らす可し。人皆人に忍びざるの心有りと謂う所以の者は、今、人乍(たちまち)ち孺子の將に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隱の心有り。交わりを孺子の父母に内るる所以に非ざるなり。譽を鄉黨朋友に要むる所以に非ざるなり。其の聲を惡んで然るに非ざるなり。是に由りて之を觀れば、惻隱の心無きは、人に非ざるなり。羞惡の心無きは、人に非ざるなり。辭讓の心無きは、人に非ざるなり。是非の心無きは、人に非ざるなり。惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。人の是の四端有るや、猶ほ其の四體有るがごときなり。是の四端有りて、而して自ら能わざると謂う者は、自ら賊う者なり。其の君能わずと謂う者は、其の君を賊う者なり。凡そ我に四端有る者は、皆擴して之を充たすことを知る。火の始めて然え、泉の始めて達するが若し。苟くも能く之を充たさば、以て四海を保んずるに足る。苟くも之を充たさざれば、以て父母に事うるに足らず。」
<語釈>
○「孺子」、趙注:孺子は、未だ知有らざるの小子なり。幼児のこと。○「怵惕惻隱」、怵惕(ジュツ・テキ)は、驚き懼れる、惻隱(ソク・イン)は、深く傷ましく思う、
<解説>
冒頭で、「人皆人に忍びざるの心有り。」と述べ、その心の発動は、利害や評判や名声に関係なく起こるものであるとしている。それはまさに人の良心である。ここに孟子の性善説の一端を垣間見ることが出来る。
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