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『呂氏春秋』巻第十五愼大覧

2017-12-24 10:44:38 | 四書解読

巻十五 愼大覧

一 愼大

一に曰く。賢主愈々大なれば愈々懼る、愈々彊ければ愈々恐る。凡そ大なる者は、鄰國を小とし、彊き者は、其の敵に勝つなり。其の敵に勝てば則ち怨み多く、鄰國を小とせば則ち患多し。患多く怨み多ければ、國彊大なりと雖も、惡くんぞ懼れざるを得んや、惡くんぞ恐れざるを得んや。故に賢主は安きに於て危きを思い、達せるに於いて窮するを思い、得るに於て喪うを思う。周書に曰く、「深淵に臨むが若く、薄冰を履むが若し。」以て事を慎むを言うなり。桀、無道を為し、暴戻頑貪、天下顫(ふるえる)え恐れて之を患う。言う者同じからず、紛紛分分として(高注:「紛紛」は殽亂なり、「分分」は恐れ恨むなり)、其の情得難し。干辛(高注:干辛は桀の諛臣なり)、威に任せ、諸侯を凌轢(力づくで侵入して踏みにじる)して、以て兆民に及び、賢良鬱怨す。彼の龍逢を殺して、以て群凶(桀に逆らう者たち)を服す。衆庶泯泯(乱れ亡びる)として、皆遠志を有し、敢て直言する莫く、其の生は驚くが若し(高注:「驚」は亂るる貌、民、敢て其の生を保たざるなり)。大臣患いを同じくして、周からずして畔く。桀愈々自ら賢として、過ちを矜り非を善とす。主道重塞し、國人大いに崩る。湯乃ち惕懼(テキ・ク、懼れ憂えること)し、天下の寧からざるを憂え、伊尹をして往きて曠夏(国内が虚ろな状態になっている夏)を視しめんと欲するも、其の信ぜられざるを恐れ、湯由りて親自ら伊尹を射る(高注:夏の伊尹を信ぜざるを恐る、故に由りて言を揚げて、親自ら伊尹を射て、伊尹の罪有りて亡ぐるを示す、夏をして之を信ぜしむ)。伊尹、夏に奔りて三年、反りて亳(ハク、湯の都)に報じて曰く、「桀は末嬉(桀の寵妃)に迷惑し、彼の琬琰を好みて(「琬」(エン)は、角のない圭、「琰」(エン)は、角のある圭であるが、ここでは美人の名))、其の衆を恤えず、衆志堪えず、上下相疾(にくむ)み、民心怨みを積み、皆曰く、『上天恤(あわれむ)まず、夏の命其れ卒きん。』」湯、伊尹に謂いて曰く、「若の我に曠夏を告ぐるは、盡く詩の如し。」湯と伊尹と盟いて、以て必ず夏を滅ぼさんことを示す。伊尹又復た往きて曠夏を視んとし、末嬉に聽く。末嬉言いて曰く、「今昔、天子、西方に日有り、東方に日有り、兩日相與に鬭う,西方の日勝ち、東方の日勝たざるを夢む。」伊尹以て湯に告ぐ。商、涸旱するも、湯猶ほ師を發して、以て伊尹の盟いを信にせんとす。故に師をして東方從りして國の西に出でて、以て進ましむ。未だ刃を接せずして桀走る。之を逐い大沙に至る,身體離散し、天下の戮と為りて、正諫す可からず。後に之を悔ゆと雖も、將た奈何す可き。湯立ちて天子と為るや、夏の民大いに說び、慈親を得たるが如し。朝は位を易えず、農は疇を去らず、商は肆を變ぜず、郼に親しむこと夏のごとし(高注:「郼」(イ)の讀みは「衣」の如し、桀の民、殷に親しむこと夏氏の如くするを言うなり)。此を之れ至公と謂い、此を之れ至安と謂い、此を之れ至信と謂う。盡く伊尹の盟いを行い、旱殃を避けず,伊尹を祖して世世商を享せしむ。武王、殷に勝ち、殷に入るや、未だ轝(輿に同じ)を下りざるに、命じて黄帝の後を鑄に封じ、帝堯の後を黎に封じ、帝舜の後を陳に封ず。轝より下り、命じて夏后の後を杞に封じ、成湯の後を宋に立て、以て桑林を奉ぜしむ(高注:桑山の林は湯の禱る所なり、故に之を奉ぜしむ)。武王乃ち恐懼し、太息流涕す。周公旦に命じて殷の遺老を進めて、殷の亡びし故を問わしめ、又衆の說ぶ所、、民欲する所を問わしむ。殷の遺老對えて曰く、「盤庚(殷の中興の祖)の政を復せんと欲す。」武王是に於いて盤庚の政を復し、巨橋の粟を發し(高注:巨橋は紂の倉の名)、鹿臺の錢を賦し(高注:鹿臺は紂の銭府、「賦」は布なり)、以て民に私無きを示す。拘を出だして罪を救い、財を分かち責(サイ、「債」に通ず)を棄て,以て窮困を振う(高注:「振」は「救」なり)。比干の墓を封じ、箕子の宮を靖んじ、商容の閭を表(表顕)し、士の過ぐる者は趨らしめ、車にて過ぐる者は下りしむ。三日之內,與謀の士は封じて諸侯と為し,諸大夫は賞するに書社を以てし(里は二十五家で、里ごとに社を立てるので、社は里を指し、書社とは社に住んでいる人間を記帳したもので、それを与えることは領土と人民を与えることを意味する)、庶士は政を施(ゆるめる、「弛」に通ず)め賦を去る。然る後に河を濟り、西に歸りて廟に報ず。乃ち馬を華山に税き(高注:「税」は「釋」なり)、牛を桃林に税き、馬は復た乘らず、牛は復た服せしめず。鼓旗甲兵に釁し、之を府庫に藏し、終身復た用いず。此れ武王の德なり。故に周の明堂は外戶閉じず、天下に藏せざるを示すなり。唯だ藏せざるのみならんか、以て至藏を守る可しとなり。武王、殷に勝ち、二虜を得て焉に問いて曰く、「若の國に妖有るか。」一虜對えて曰く、「吾が國に妖有り。晝星を見て、而して天、血を雨らせたり。此れ吾が國の妖なり。」一虜對えて曰く、「此れ則ち妖なり。然りと雖も、其の大なる者に非ざるなり。吾が國の妖、甚だしく大なる者は、子は父に聽かず、弟は兄に聽かず、君令は行われず、此れ妖の大なる者なり。」武王、席を避けて之を再拜す。此れ虜を貴ぶに非ざるなり、其の言を貴ぶなり。故に易に曰く、「愬愬(おそれる貌、恐る恐る、用心深さを表している)として虎の尾を履む、終に吉なり。」趙襄子、翟を攻め、老人・中人(共に城の名)に勝つ。使者をして來たりて之に謁せしむ。襄子方に食し、飯を摶して憂色有り(「摶」(タン)はまるめること、飯を食べずに丸めている事)。左右曰く、「一朝にして兩城下る,此れ人の喜ぶ所以なり。今、君憂色有るは何ぞや。」襄子曰く、「江河の大なるや、三日に過ぎず(黄河が溢れても三日を過ぎない)。飄風暴雨、日中須臾ならず(はやて暴雨もすぐに終わる)。今趙氏の德行、積む所無きに、一朝にして兩城下る。亡ぶること其れ我に及ばんか。」孔子之を聞きて曰く、「趙氏は其れ昌えんか。」夫れ憂うるは昌ゆるを為す所以なり。而して喜ぶは亡ぶるを為す所以なり。勝つは其の難き者に非ざるなり。之を持するは其の難き者なり。賢主は此を以て勝つを持す。故に其の福は後世に及ぶ。齊・荊・吳・越皆嘗て勝てり。而れども卒に亡を取るは、勝ちを持するに達せざればなり。唯だ有道の主のみ能く勝ちを持す。孔子の勁き(高注:「勁」は「彊」なり)、國門の關を舉ぐれども、肯て力を以て聞こえず。墨子の守攻を為すや、公輸般服せしも、肯て兵を以て加えず。善く勝ちを持する者は、術を以て弱きを彊くするなり。

二 權勳

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