暮らしの差し色

慢性腎臓病の夫と二人、静かな生活です

迷い子になった記憶

2017-08-15 19:24:41 | 日記
幼児のとき、海で迷子になった記憶がある。

たぶん4歳のときだ。

母のきょうだいとそのこどもたち、つまりいとこたちと大勢で海水浴に行った。

親戚一同、都内に住んでいたが、叔父が神奈川県の逗子に転居していたので、逗子の海に皆で行ったのだ。

母は7人きょうだいだったので、いとこたちの数も多かった。

海岸でパラソルの上に印はこれで、迷子になったら行くところはあそこだよ、と説明してくれた。

    


こどもたちで海に入って、波に浮き輪で浮かんで楽しんでいたが、私は泳げなかったので、自分で行きたい方向へはいけない。



そのうち、波に連れて行かれて、みんなからは離れてしまい、押し寄せられて砂浜に打ち上げられたが、流されて見たこともない場所だった。

波が陸へ押し寄せるだけでなく、左右にも運んでしまうので、出発した浜辺の位置からは違うほうへ波に連れて行かれたのだ。

初めに説明を受けた風景などどこにもない。

浮き輪を腰にひたすら歩いた。

キョロキョロしてみても、みんながいたパラソルなんてないのだ。

救護センターもわからない。

そのうち、うしろから声を掛けられた。

母だった。

とたんに、ワッと泣いた。



母は笑っていたし、パラソルまで連れて行かれたら、親戚一同笑っていた。

これが目印だと言ったでしょう、とか、救護センターはあそこなのに、行かなかったの? とか、大人のセリフだ。


だいたい、流されたのが、少し離れたとはいえ、浜辺だったからよかったものの、沖に流されていたらどうなっていたか、お気楽な親戚だ。

海の中に付き添っていた大人はいなかったのだろうか。

なんか、テレビの迷子の報道を見ていたら、思い出して腹が立った。

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学生の小遣い 40年前

2017-08-13 22:56:06 | 日記
40年前、大学生だった私は、自宅から都内の私立大学に通っていた。

当時、小遣いはどうしていたかというと、母が決めたことなのだが、10日で1万円。1のつく日に受け取った。月に3万円だ。

多いように思われるかたもおられると思うが、この金額の中で、学業に必要な書籍も、着て行く洋服も、サークル活動の費用も、毎日の学食の食費も、すべてこの中で賄うように言われた。

当時、大学の友人で地方から上京して一人暮らしをしている人は、月に5万の仕送りで、4畳半の下宿屋の部屋代が月に1万円だった。

       


それで、私はこれでは足りなかった。

学生課に貼りだされるアルバイトを見つけては、休日に1日仕事で稼ぎに行ったこともたびたびあった。

そのうち、水曜日が多少休んでもなんとかなる授業の日だったとき、1日事務のアルバイトに行くこともあった。

3年のとき、卒論に付く予定の先生からご親戚の姪御さんで小学生の受験生がいらして、家庭教師をする気はあるかと打診があった。

今までそのお嬢さんを教えていた大学院生の先輩が辞めるのでその後任をやらないかというのだ。

先輩とともに、小学生のお宅へ伺い、お母様と面接となり、お寿司をごちそうになって、話し合いの結果、お引き受けすることになった。


小学生のR子ちゃんは、優秀な児童で、私立中学を受験するため、四谷大塚の進学塾にも通っていて、私の役目は、四谷大塚の課題でできなかったところを解説して、理解してもらうことだった。


R子ちゃんは、四谷大塚のテストで、名前が上位に載るほど出来がよく、私の手助けなどいらないように思われたが、自信がないのだそうだ。

私は中学受験をしていないので、算数でいえば、よくある〇〇算は、得意ではない。

4教科の受験が必要だが、主に算数の解説をしたことが記憶に刻まれている。

R子ちゃんがテストでできないものを私がわかるわけはなく、解説本を見て説明をする。

そして、テストの解答を見て良いか?とR子ちゃんに聞くと、いい、というので、答えを見て、なるほど、こうなるのか、と答えに行きつくプロセスを組み立て、解説し、理解してもらったところで、数値を変更して例題を出し、R子ちゃんに解いてもらうとあっという間に解いて、わかった、という。

初めは、週に2日の家庭教師の日だったのを、R子ちゃんの希望で週3日になった。

秋から私が引き継いで、私立中学の試験が1月で、R子ちゃんは、見事志望校に合格した。

そして、R子ちゃんの家庭教師は卒業となった。

そのあと、近所の小学生の姉弟を同時に教える家庭教師となり、大学卒業まで続けた。

家庭教師は、週に2日で、月15000円くらいだったのではないだろうか。

2万円だったかもしれない。


最近は衣類が安いが、昔は高かった。

靴も足が大きいので、ワシントン靴店で買うので1万はした。

学術書も高かったが、図書館で借りるより、買って勉強するのが好きだった。

外食もいまのような割安な食事はあまりなかった。

学食で食べることは多かったが、それでも、毎日となると、食費はかさんだ。


というわけで、なんかキュウキュウの学生生活だった。

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株主優待品 今年は当たり!

2017-08-12 21:06:39 | 日記
一部上場会社の今年の株主優待品のひとつに、家具職人が作る木のサイドテーブルがあった。


 



ベッドサイドに、こじんまりとして、思った以上に便利だ。

これまでは、リモコンやメガネはベッドの横に置いたドレッサーの上に置いていた。

寝室の模様替えをして、ドレッサーがベッドから遠くなったので、小さい本棚をベッドの隣りに置いて、リモコン類の置き場にしていた。

特に不自由も感じていなかったが、いいタイミングで株主優待品でサイドテーブルがもらえたので、使うようにした。

寝室は改善すると、使いやすい。

テレビもいい角度に置くようにしたら、横になってテレビを観る時に、首が疲れなくなってよくなった。

まえは、クッションをベッドの頭の所に置き、寄りかかって観ていた。

足元にテレビがあったからだ。

そうすると、首が極度に折れて、よく首が凝っていた。

整骨院にマッサージにいくと、「4回ねじれてる」と先生に言われた。

無茶な姿勢でテレビを観ていたんだろうと思う。

今は、肩が凝らない。

15年も寝室のレイアウトはそのままにしていた。

なんでだろう 

  
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ほとんどいなかった両親の友人

2017-08-11 09:01:23 | 日記
母は学生時代の友人が少なかった。

友人の名前すら聞いたことがない。

だが、小学校、高等女学校、その上の女子専門学校の同窓会にはよく出席していた。

J女子専門学校よりも、D高等女学校の同級生のほうが気取らずに話せて良い、と聞いていた。


母が54歳の時だったか、私が就職した年のことだった。

母は、耳下腺のあたりのリンパの腫瘍になり、働いていた臨時教師の仕事を急きょ退職し、治療に専念せねばならなくなった。

治療が始まった頃か、母の高等女学校のクラス会があった。

病院のあとに、クラス会に遅れて出席する旨 知らせてあり、会場に遅れて入った。

クラス会の中で、次回の幹事を決める段になり、母は、みんなの視線が自分に向いていることに気づいた。

司会のかたから、

「座っている椅子の背に赤いリボンが結んである方が次回の幹事です」

と、発表があり、すでに先に来ていた方たちはそれを知っていたのか1席だけ空いていたし、ひとり遅れて出席した母の椅子に赤いリボンが結ばれてあることを、それが何を意味するかを知っていたとしか考えられない周りの様子だったという。

みな、にやにやと母を見て笑っていた。

母は、病気治療で、遅れてきたのであり、これからも治療に専念するため、クラス会の幹事などできるはずもなかった。

母は、腹を立てて帰ったという。

その後、母がクラス会に参加しなくなったので、あとから、その話を知った。

  


私の両親は学生時代や若いころからの友人が少ない。

親しくしていて、子供ごころに覚えていた友人も、そういえば最近つきあってないなあ、と思い、聞いたところ、父が事情を話した。

父は同僚だった友人に借金を頼まれて貸したところ、返済が滞った。

そこで父はその友人のボーナスの日に職場に出向き、職場の事務室で、待っていて、

「やあ!」

と、素知らぬ顔で出会った風で声をかけ、その場で借金を返済してもらい、それっきり、絶交したのだそうだ。

そのようなわけで、2,3人の名前は聞いたことがあったのだが、ずっと付き合いがあるような友人は知らない。


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研究室の同窓会

2017-08-08 09:54:43 | 日記
5年前に定年退官されたK先生を囲む会が開催され、40名の門下生が都内のホテルに集まった。

生化学の研究室で、K先生のご指導を受けて、大学の卒論の研究や、大学院での研究をした女子たちが60代から若い方たちまで敬愛するK先生との再会と同門の縦のつながりで想い出話に花を咲かせた。


  


先生はそれぞれの研究をよく覚えていてくださった。

3年のとき、4年生から実験のテクニックを伝授され、植物の細胞を培養する手ほどきを代々継いでいくため指導された。

その先輩もいらしていたが、お世話になった先輩は40年前のことでもあり、覚えていらっしゃらなかった。

先生と16年ぶりに再会したことはとてもうれしいことであった。

お元気そうで表情は当時のままだった。


先生は、卒業してまだ数年のかたと年配の卒業生のことを

「お若いかたも、大きいかたも・・・」

とおっしゃって、卒業生に笑いが起こった。


退職後も人権の活動をされていた。

あのように、年齢を重ねたいものだと思った。

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