ジローのヨーロッパ考

デンマークやドイツの農家に長期(?)滞在、体験したり感じたことを綴ります。

臨時: 大阪・寝屋川事件に思う

2015-08-25 23:00:25 | 日記
2015年8月25日、今月中旬に発生し、数日前には逮捕者が出た痛ましい事件です。被害者は中学1年生になったばかりの男女二人であり、人生これからと言うところで、無惨にも命を絶たれました。犯人が単独犯であろうが、複数であろうが、他にいかなる理由があったと仮定しても、極刑以上の重罰しか考えられません。

今日現在、報道の伝えるところによると、逮捕された山田浩二は黙秘しているようで、事件の詳細は大半が未解明の状況が続いています。しかしながら、女子の平田さんを車に乗せたことは認めているし、男子の星野君の遺棄現場に自ら立ち寄っている事実からして、殺害された二人に対し、言い逃れのできない犯罪を犯していることは間違いないことでしょう。

万が一、共犯者がいたと仮定しても、この憎むべき・許すことのできない凶行に走ったことは間違い無く、傍観者であったとしても、凶行を止めなかったことは実行犯と同等の責任を負うべきであり、いかなる責任逃れの事由を取り繕ったとしても、その責から逃れることは断じて許されません。

そして、単独犯と言うことが後に判明した場合は、アリバイ作りや犯行偽装等の悪質性も含め、極刑を複数回科すぐらいの償いをさせなければならないと考えます。


一方、関連する報道番組を観ていると、夜間・深夜・早朝等に若者が街をたむろする云々にも問題があるかのようなコメントも聞かれますが、一義的には、加害者側に対する抑止を考えたり、その原因・防止策を言及すべきで、そのことを差し置いて被害者側の非を先に論じることには異を唱えたいと思います。

過去の私の主張(犯罪等に関する)にも記述していますが、被害者にも多少の落ち度(?)のような部分もあるのでしょうが、それよりも、悪意を持って、意図的に人の意に反することを強制するようないわゆる犯罪行為をする加害者は、強烈に断罪されるべきです。

ややもすると、加害者の人権が不当なほどに丁重に扱われているキライがあります。法治国家であることに違いはありませんが、被害者やその家族・親族・知人等の気持ちを踏みにじるかのような加害者側への人権保護意識は、バランス感覚においても違和感を禁じ得ません。


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ものごとを評価・判断する場合(一般論ですが)、数値化できる部分と、数値化できない部分の両分野に二分されると考えられます。言葉を変えるならば、定量化の部分と定性化できる部分ともいえるでしょう。しかし、後者の表現は若干わかりにくいところもありますので、前者の数値化できる・できないの論で述べたいと思います。

犯罪によって、尊い命が奪われた場合、その被害者の年令や収入や、将来稼ぐであろう金銭等々で被害額・損害額のようなものは積算され数値化は可能かもしれません。しかし、奪われた当人の人生の喜び・悲しみ・苦しみも含めて人間の経験する様々なことがらや心情等の数値化は不可能です。仮にできたとしても、本当の価値を表したものには成りえません。

そうした意味でも、単に、服役したとか、賠償金額を生涯を通じて弁済続けた・・・とか言ったとしても、真の意味での償いにはなり得ないのです。

法律的には償っていると言う人がいたと仮定しても、それは、人間界の約束事に過ぎず、見かけ上の償いにしかならないのです。被害者本人や関係する方々の多くの「総和」のくやしさや思いに応えることは不可能としか言えません。それぐらい、意図的犯罪者の罪は重いものでしょう。

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現段階では、犯人が特定できた段階ではありませんが、いかに山田浩二が言い繕ったとしても、若き二人の命を無惨にも奪った(加担した)罪からは絶対に許すことはできません。

これに限らず、人(個人)の意思に背いて、ものごとを強いる行為は、何人(なんぴと)たりとも許されることがあってはなりません・・・と考えています。



ここ数日、事件解明の進展を注視していましたが、遅々としていますので私の思いを綴らせてもらいました。