平田先生の哲学は女性にも入って行きやすく、ミトコンドリアが元気になって、スピリチャルにつながって行くようです。
悟りについてもシンプルに「内を観たとき」ということを書かれています。
難しいことなしなので、その瞬間さとりの境地に、救われます。
内を観た瞬間に人間はみんな悟っている。
内外一如ということも言える。
それは死ねばわかる。
それまでは内を観て悟る他はなく、またかくして人間はさとるように出来てい
悟るのが自然である。
外に求めては萬学を集めても断じて悟れない。
悟りを外に求めても悟れない。
求めるということは悟っているのを棄てることである。
名利というものは外にあるものである。
世界の大学の先生をすべてあつめても内なる知識には及ばない。
内にはかの天地宇宙を包んでいる大天地があって、それが皆自分のものである。
雨に日には内には銀の雨がふる。
自分の魂を奥底まで見ると空であった。
その空はどんどん降って萬物になった。
口や筆でつたえうる事賓は外にある。
内にある事賓はつたえる必要がない。
詩人は雲や月に詩句を発見することはできない。
美しいものは皆内にあった。
宇宙が崩れるようなうなことは外をみている者に任せておけ。
寺院や教会や外なるものでないとはどうしても思えない。
長たらしい文章を作るということは外から集めた材料を並べることである。
正座法 平田内蔵吉著より