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萬代橋の歴史こそ文化財としての価値を高めている

2020年11月14日 | 土木構造物・土木遺産


新潟ブルースつながりではないが、新潟をまちあるきする機会があったので、萬代橋(ばんだいばし)を紹介しておきたい。これまた新潟県民ならずとも、新潟のシンボルとして誰もが知っている橋である。

日本一の長さを誇る信濃川。そこに1886年(明治19年)に初代の木製橋が架橋されて、現在の萬代橋は3代目。鉄筋コンクリートのアーチ6連、橋長306メートル、幅22メートルで、1929年(昭和4年)6月に竣工した。
当時としては、最新のコンクリート橋で、充腹アーチ橋として国内最大の支間長を誇った(中央部の2連)。
言わずと知れたニューマチックケーソン工法(空気潜函工法)で橋脚の基礎が作られたが、初めて日本人技術者のみでこの工事を行った。



側面に御影石を張り付けて、石積み風の化粧張りが風格を醸し出しているほか、橋上のライトや橋側灯がアクセントとして設置されている。
当時新潟県が建設した橋であるが、財政厳しい折に、このような意匠にお金を費やすことに、大きな議論を呼んだようだが、結果、これらがあったからこそ国の重要文化財に指定されるに至ったようだ。(2004年(平成16年)指定。これをきっかけに、「万代橋」とされていた漢字表記を「萬代橋」に戻した。)

初代は、橋長780メートルもあったという。現在の東詰めは、中州の万代島で、当時は東側にさらに川があった(万代シティなどは川の中?)。新潟市(左岸、古町等がある現在の新潟島。旧長岡藩)と沼垂町(右岸、旧新発田藩の河港・内陸水運の拠点として栄えた)の古くからの対峙を架橋により結び付けたとされる。
新潟大火(1908年、明治41年)で半分以上焼け落ちた初代をリニューアルして完成した二代目は、広大な土地を抱える沼垂町に現在の都市機能を形成する意味で、文字通り大きな橋渡しとなった。1914年(大正3年)新潟市と沼垂町は合併。沼垂に市営の港が設置された。

三代目の最大の危機は、昭和39年の新潟地震。太平洋戦争の空襲に会わなかった新潟(原爆投下の候補地だったから?)だが、天然ガスと地下水の汲み上げで地盤沈下が頻発。そこに、液状化という言葉が初めて使われた新潟地震の影響で、現橋は1.2メートルも沈下。(その後も沈下して、当初より1.4メートルのマイナスとなっている。)しかしながら、上流に架けられた完成間もない昭和大橋が落橋したのに対し、萬代橋は物資補給路としての機能を担い、災害復旧に貢献したのである。

単に、当時の最大級の構造物としてだけでなく、苦難を乗り越え、地域を結んできた歴史も、萬代橋の風格や趣に花を添えているのかもしれない。だからこそ、国の重要文化財として、土木学会選奨土木遺産としての価値も高い。



実は三代目は、電車軌道が敷設される予定で、当時としては破格の橋幅がとられていた。そういえば、新潟交通が白山前と燕間で営業運転していた電鉄線があった。新潟駅まで延伸されていれば、いまの新潟市街地の交通体系も変わっていたはず。
クリーンな動力で、東大通のグリーンな並木の中を、「新潟グリーンレール」とか言われては路面電車の姿、見たかったなー。

そして、橋を設計したのは、かの田中豊(関東大震災後、永代橋や清洲橋などの墨田川の橋梁建設に携わる。東京帝国大学(現東京大学)教授。土木学会会長)という説があるが、実はその指導を受けた若い技術者・福田武雄という人(大阪市出身。東京大学・名古屋大学・千葉工業大学教授を歴任。土木学会長)。それも24歳の時、5カ月で設計を終えた。これまた凄い!

橋などの土木施設を、単なる構造物だけとして見てはダメですよ!私たちに便利を提供してくれる中に、歴史とその歴史を作ってきた人をしのび、感謝しなければなりません。














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