ウィークエンド [DVD] | |
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紀伊國屋書店 |
「ウイークエンド」WEEK END
1967フランス/イタリア
監督:ジャン=リュック・ゴダール
脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウール・クタール
音楽:アントワーヌ・デュアメル
出演:ミレーユ・ダルク、ジャン・ヤンヌ、ジャン=ピエール・カルフォン、ヴァレリー・ラグランジェ、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルト、アンヌ・ヴィアゼムスキー
いやもう正直言って一回観ただけでは記憶がごちゃごちゃなのです。
もう一度観たいのです。
タッチとしては60年代の傍若無人なゴダールがさらにエッジをハードに立てはじめたという印象で、画も音の使い方も実に人を食ったやり方。
基本はどたばた、一切説明なし。
ミレーユ・ダルクが愛人?とベッドで夢で見た淫靡な出来事を語る場面で、唐突にデュアメルの(だと思う)内省的な音楽が濃厚に鳴り出すが、それはどういうわけか音量を随時操作され、小さくなったかとおもうとにわかに会話が聞き取れないほどに大きくなりまた去ってゆく、といった調子。
この音の感覚はもちろんゴダールではおなじみというか普通のことなんだけれども、それでも本作より前の作品たちでは、まだ別種のふてぶてしさにとどまっていたように思うのだ。
同じ時期には『中国女』『メイド・イン・USA』『彼女について私が知っている二、三の事柄』が撮られている。いずれもそれ以前のたとえば『アルファヴィル』『気狂いピエロ』などとはかなり趣が違っているように思える。
このあと68年には例の5月革命があり、その後のゴダールは70年代のほとんどを、人間の手によるものとは思えない作品によって過ごすことになる。その変転は5月革命の影響によるものと考えることもできるが、それ以前にすでにゴダール自身が勝手になにかを掬い取って傍若無人に振舞い始めていたということができるのだろう。
これについてはゴダールが言葉を残していて、引用する。
私はまだ完全には存在していなかった出来事から着想を得いていたということです。つまり、私はある種の出来事を、―それが存在する以前にではなく―、人々が《それは存在している》と言いはじめる以前にとりあげたということです。
(「ゴダール/映画史 II」、奥村昭夫訳・筑摩書房より)
これは、「ウイークエンド」の翌年に5月革命が起きたことについて、その関係を述べたものだけれど、まあ、革命を先取りしたとか先導したとか(あるいはその失敗さえ予言したとか)いうことではなくて、他の人々と同じように時代の変化の中を生きていて、映画作家としてその変化が形になっていたと、そしてそれはたまたま「事件」として事態が名づけられるより前のことだったということなのだろう。
そういうことで、ワタシ的には『ワン・プラス・ワン』『東風』『ヒア&ゼアこことよそ』とかの恐ろしさよりも、さらに『彼女について~』やこの『ウイークエンド』のほうが恐ろしい感じがするのですね。名付けられる以前に凶暴になってしまった表現者の痕跡という感じで。
また、そういう変転を経て人間離れしたところをさまよったあとの、80年代以降のゴダールを自分なりに考えてみる上でも、この67年ころの作品はなにか重みを持っていると思うのよね。もう後戻りできない人間が生き延びるということ、みたいなことを考える上で。
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有名な自動車大渋滞+事故頻発シーンはやっぱり可笑しいよな。
ジャック・タチ『トラフィック』の反映があるね、といいたかったけれど、『トラフィック』のほうが後に撮られているようだ。
自動車がたくさん連なることの可笑しさというのは『トラフィック』以前にも『ぼくの伯父さん』『プレイタイム』でみられたことなので、タチの影響を受けたゴダールということを考えられなくもないし、その逆もあるかもしれない。
最も、タチはあんなに悪趣味に車を燃やしたり死体をごろごろさせたりはしないだろうけれど。
タチの影響をかなり明示的に作品にとりこんでいるトリュフォーに対し、ゴダールはその影響をこれまたふてぶてしく自分らしい毒を注入して我が物にしているという感がある。この資質の違いがまた面白いよね。
(もちろん、両者がタチの影響を受けている、という前提つきの話だけれども・・・まあ、間違いない。)
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「ゴダール・ソシアリスム」公開記念ゴダール映画祭にて
2010.12.13mon
↑考えたら、以前あった「フォーエバーゴダール」(だったっけ?)という企画のときのラインナップを取り込んだアンソロジーでしたな。
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↑なにとぞぼちっとオネガイします。
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