イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

やらんのか!

2007年12月09日 23時46分22秒 | 翻訳について
今年の流行語大賞は、「どげんかせんといかん」と「ハニカミ王子」。どっちも釈然としない。どげんかせんといかんなんて特に流行ってた記憶はないし、ハニカミ王子だってハンカチ王子の二番煎じだし。そもそも、「流行語」大賞というネーミングと実情が合致していない。「流行したもの」大賞にすればなんとなく納得できるけど、でもそれじゃ賞のインパクトがないんでしょうね。

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興味がない人はまったく知らないと思うんだけど、今年の大晦日に、「やれんのか!」っていうタイトルで格闘技イベントが開催される。今は消滅してしまったPRIDEの母体となっていた関係者や選手が、一夜限りで復活するというもので、格闘技ファンの自分としてはとても楽しみにしているのだけど、この「やれんのか!」のことを、ヨメが「『やらんのか!』ってなに?」と聞いてきた。

関西では、「やれんのか」とは言わないから、関西人の彼女の脳内で自然と「やらんのか」に変換されてしまったのだろうけども、「やれんのか!」と「やらんのか!」では微妙にニュアンスが違う。意味的には「やれんのか!」は「お前は本当にそれができるのか?」であり、「やらんのか!」は、「お前はそれをやるのか、やらないのか?」となり、語尾下がりで発音すれば、「何や、やると思っていたのに、やらへんのか」という風にもとれる。

こうしたごくわずかなニュアンスの取り違いというのは、実は、翻訳をしていると多発してしまうものである。原文の細かなニュアンスが取れないことも多々あるし、日本語の表現のところで微妙に意味合いが変わってしまうことがある。たった一文字の違い、前置詞の違い、単数形と複数形の違いが、訳文に大きな差となって現れてしまうのだ。これは怖い。本当に怖い。ヒョードルの氷の拳のように怖い。

アントニオ猪木が、藤波辰巳の頬を張る。猪木は叫ぶ。「やれんのか!お前に!」。藤波は猪木の頬を張り返す。やるよ、やれるとも。常にトップに君臨してきた猪木を、いつかは越えなくてはならない。いつまでも脇役じゃない。それが藤波の決意だった。「やりますよ」といいながら、突然自らの前髪をハサミで切りだしたあのときの藤波には、鬼気迫るものがあった。「やれんのか!」という言葉を聴くと、二十年前のこの飛龍革命のことを思い出す(プロレスファンにしかわからないセンチメンタリズムに一人酔う)。

ともかく、こういうちょっとしたニュアンスの違いには、きをつけなくてはならん。やらんのか!、でも、やれんのんかい!、でも、やらへんのか!、でも、やるのんけ?、でも、やったろか!、でもなく、「やれんのか!」。張られたビンタは張り返すだけの気力で、大晦日までやったるぜ!

蘇る勤労

2007年12月09日 00時20分02秒 | ちょっとシリアス
父は今、定年退職して自営業をしているのだが、会社員だった頃、住んでいた滋賀県から会社のある奈良県まで通っていた時期があって、いつも朝5時前には起きていた。

血液型がA型の彼の朝は、いつも判で押したように同じだった。まず風呂に入る。冬場は台所のガスの火をつけっぱなしにして暖をとり、簡単な朝食の支度をして、日経新聞の折り目のところを一枚一枚カッターで切り離していく。新聞を真っ二つに切るのは、通勤電車のなかで、隣の人の邪魔にならないように折り返して読めるようにするためだ。朝になると、ツーッ、ツーッというカッターの音が聞こえてくる。前日どんなに遅く帰っても目覚ましが鳴ると一発で起床し、同じ行為を繰り返している父を見て、すごいな、といつも思っていた。寝坊や遅刻をしたことはほとんどいっていいほどない人だった。

銀行員だった父は転勤が多く、そのために僕たち家族も転勤を繰り返していたのだけど、あるとき、家から本当に近いところにある支店に転勤になった。当然、奈良時代のように極端な早起きは必要なくなった。それでも父は、6時には起きウォーキングをしたりして、やはり朝のパターン化された儀式というものを自分なりに作って、一日の始まりを楽しんでいたような気がする。

僕をふくめ、何人もの人から「通勤が短くなって楽になったでしょう?」といわれたのだというが、父はその問いかけに対して、決まってこう反論した。「1日は24時間しかないのだから、何も変わらない。通勤時間が短くなったからといって、自分に与えられた時間が増えたわけではない」。つまり、彼の論理では、電車に乗っている時間が減ったといっても、プラスマイナスをすれば自分に与えられた時間には何も変化がない、ということなのである。僕は、そういうことじゃなくって、体が楽になったでしょ、とか朝をゆっくり過ごせるでしょ、とかそいういう意味なんだよ、というのだが、父は頑として自説を曲げない。元気だった父には、早朝にパッと早起きして、すいている電車で新聞を読むのがなかなか充実した時間だったのかもしれないから、それが本音だったのだろう。

ここしばらく、僕も僕なりに忙しい毎日を過ごしていた。朝に一仕事をし、ランニングをして、会社に行って働く。昼休みや電車の中も勉強や読書(いちおう、読書は半分仕事だと考えている)をして、仕事が終わると夜は資料の仕入れ(ブックオフ)をしたり、家に帰って一仕事することもある。出さなくてはならない課題もあるし、宿題もあるし、学校にも通っている。いろいろやっているわりには、何も身についていない気はするけれど。

そうした忙しい時間を過ごしているとき、結局一日は24時間しかないんだ、という父の哲学をよく思い出す。忙しいも忙しくないも、何のことはない。誰にも同じように与えられている24時間を生きているだけなのだ。

最近、鏡を見ると自分の姿が父親に似てきたな、と感じることが多い。自分が子供の頃に見ていた父親の姿と、鏡に映った自分の姿が被る。年齢を計算して、今の僕は、僕が何歳だったころの父親と同じ年だな、と確認しては、その頃の父親の姿を思い浮かべている。そうすると、当時、子供だった自分にはなかなか理解できなかった父親の内面が、なんとなく分かったような気がしてくるのだ。

ちゃらんぽらんで雑(血液型もO)な性格に生まれついたと思っていた僕ではあるが、実は、最近だんだん勤勉になりつつあるのかもしれない、と感じている。翻訳という目標を見つけたから? そうかもしれない。でも、はっきりとした理由はわからないが、おそらく、いや間違いなく、父親の血が自分のなかで呼び覚まされていることを感じるのだ。

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駅前のブックアイランドで7冊

『サッカーの敵』サイモン・クーパー著/柳下殻一郎訳
『源にふれろ』ケム・ナン著/大久保寛訳
『味な宿に泊まりたい』山本益博
『古本屋探偵登場』紀田順一郎
『誰のために愛するか』曾野綾子
『あきらめない人生』瀬戸内寂聴
『珠玉』開高健