旅先3日目の朝――徐々にその土地のリズムに慣れ、いつもと違う場所にいることへの戸惑いが少しずつ収まりを見せ始める頃だ。目覚めたときに、ここが自宅ではなく清君の家であるということを昨日よりはすんなりと理解できた。それでも、窓の外に映るどんよりとした曇り空を眺めながら、この1日半の間に遭遇したあまりにも多くの出来事のことを、半ば信じられない気持ちであらためて思い返したりもした。リビングには清君、靖子さんがいる気配がするし、かぺ君もマキちゃんもエイコちゃんもみんなも、ここ浜田にいて、同じように朝を迎えているのだ。それが不思議でならない。
それと同時に、早くも旅の日程の半分が過ぎ去ってしまったことにふと気づいて、少しだけ寂しさを感じてしまったりもする。清君とは今晩も一緒にエイコちゃんの家でバーベキュー大会を楽しめるけど、靖子さんとはもう少しでお別れなのだ。3泊4日って、あまりにもあっけない。明日の昼過ぎにはバスで浜田を去る予定だから、明日の今頃はもっと痛切に旅の終わりを感じていることだろう。だけど今日は、来るべきラストシーンをひとまず忘れて浜田をもっと体験することができるはずだ。
おはようございます、と言いながらリビングルームに入ると、清君と靖子さんが笑顔で挨拶してくれた。土曜日の朝は、幸せな夫婦にとってもっともくつろげる時間帯なのかもしれない。靖子さんが用意してくれている朝食のよい香りがする。暖かい部屋の空気を心地よく感じながら、新聞を広げテレビのニュースに見入っていた清君に昨日の出来事を報告する。デジカメで撮った学校の写真を見て貰い、先生の様子を伝えた。先生からいただいた茶碗も披露した。清君も景山先生を思う気持ちは僕と同じだし、校舎の内部の写真にも目を輝かせてくれた。靖子さんも同じ教師として興味深く僕が語る先生の話に耳を傾けてくれた。
清君夫妻はゴルフが共通の趣味で、テレビが伝える石川遼選手の試合の結果にとても関心を持っていた。かぺ君もコマッキーもゴルフが大好きだ。僕は一度もプレーしたことはなく、唯一、小学生の頃に『プロゴルファー猿』を熟読していたことくらいしかゴルフとは関わりを持たないのだけど、ふたりの話を聞いていると、とても面白そうだなあと思った。仕事と翻訳の勉強、ランニングでもういっぱいいっぱいだから、当面はゴルフを楽しむ時間もお金もない生活が続きそうだ。だけどもし僕が浜田に住んでいたら、きっとみんなと一緒にプレーしたいと思って始めていただろうな、と思う。きっとそれは、ものすごくいい人生だ。
靖子さんが作ったものすごく美味しそうな朝食を載せたお皿が、テーブルに並べられた。食べる前から満ち足りた気持ちになりそうなご馳走だ。一宿一飯の恩義は一生忘れられないというけれど、もう来世まで忘れられないくらいのおもてなしを受けている。美味しいご飯を食べ終わると、ちょっと近所を散歩しようということになった。ふたりがよく歩いている45分くらいのコースで、靖子さんはジョギングすることもあるらしい。ここに来る前、清君からは、よかったら家の周りを散歩したりジョギングしたりしましょうと提案されていたこともあり、ジョギングシューズを履いて来ていた僕は、喜んで一緒に歩かせて貰うことにした。
ふたりが住んでいるのは、美川という地名の山合の地域だ。地名の通り美しい大きな川がエリアの中心を流れていて、静かで落ち着きのある少数の家並みが豊かな自然に囲まれている。歩き始めてすぐに鮮やかな緑が目の前に広がり、濃い空気が全身に染み入ってくる。
ふたりについてゆっくりと歩を進めた。清君が歩きながらいろいろとこの土地の説明をしてくれる。同級生や同級生の家族の家もあり、ここは誰それ君、誰それさんの家だよ、という風に教えてくれた。靖子さんはここ美川で生まれ育ち、ご両親もすぐ近くに住んでいる。出身の小学校、中学校の前も通った。生まれ育った愛すべきふるさとに、こうして愛する人と住んでいる。彼女にとってこの土地はどれほど大きな意味を持ち、大きな愛を感じさせるものなのだろうか。身近なものを愛せることは素晴らしい。だからこそ、彼女自身もまた周囲から愛されているのだ。
清君と靖子さんは一度もケンカらしいケンカをしたことがないそうだ。お互いが譲り合い、相手の存在すべてを認め受け入れているからこそ可能なのだろう。夫婦間の諍いもたまにならお互いの関係を見つめ直すための妙薬になることもあるだろうけど、できれば不要なエゴのぶつかり合いは避けた方が賢明だ。友達だからこう書くのではない。真剣に、真面目に、僕はこのふたりから本当にいろんなことを学ばせてもらった。夫婦の、人間関係の、理想的なあり方のひとつの形をみた。ふたりに引き合わせてくれたのも、天の思し召しなのだろうかと思わざるを得なかった。
靖子さんの実家のお墓がコースの近くにあったので、そこに寄ることになった。清君が目を瞑り、神妙に手を合わせていた。彼の心に、大きくてまっすぐな強い芯のようなものがあるのを感じた。こんなにも近くに幸せがあり、暖かい家族がいる。だからこそそれを守りたいと思うのだろうし、こうして常にそれを願っているからこそ、幸せもまた彼の下を訪れてくれているのだ。
家に戻り、1時間ほどくつろいで過ごした後、時刻は11時過ぎだからまだ少し早いけど、お昼を食べに行こうということになった。今日は午後からはエイコちゃん、マキちゃん、由美ちゃんと軽くどこかに行き、夕方からはエイコちゃんの家でみんなが集まりバーベキューをしてそのままエイコちゃんの家に泊めてもらうことになっているから、清邸とはこれでお別れだ。短い間だったけど、本当にお世話になった。なんだかもう他人の家とは思えない。いっそ、ここに住みたい。カペ君がここで我が家のように寛いでいたわけがわかった。目の前に空き地があったので、とりあえずは一坪ほど購入して犬小屋ならぬイワシ小屋を建ててみようかと妄想してみた。畳一畳分のスペースがあれば、きっと生きていけるはずだ。
お出かけの時間になった。荷物をまとめたらなんだかちょっと寂しくなってしまったけど、また必ずふたりに会えることを信じて、靖子さんの運転する車に乗り込んだ。そうだ、わしの実家に寄っていこう。清君がそう言い、昔しょっちゅう遊びに行っていた彼の家に行くことになった。清君の実家はJRの線路の近くにあるので、浜田に着いた日の夜、スーパーおきの車窓からもその懐かしい姿を見ることができた。お父さんとお母さんに会うのも本当に久しぶりだ。緊張する。
車が止まり、小高い丘の上にある家を眺めた。かつて何度となく往復した家の前の階段を三人で上った。家の前の溝を見て、ここでザリガニ飼いよったろう、と清君が嬉しそうに笑った。突然の訪問だったけど、家に上がらせてもらって、お父さんお母さんに挨拶した。おふたりの姿を拝見したら、昔の記憶がたちまち蘇ってきた。元気で豪快なお父さんと、ものすごく優しくてしっかりとしたお母さんだった。おふたりとも変わっていない。僕のことも覚えてくれていた。僕の顔を見つめながら、昔のこっちゃんを思い出してくれているようだった。お父さん、その節はクワガタの角を送っていただいてありがとうございました、と言ったらお父さんが笑った。子供の時は気づかなかったけど、清君ととても似ている。明日は清君のお兄さん、清君、コマッキー、そしてかぺ君でゴルフをするとのこと。みんな幼なじみとこうやって今でも楽しく暮らしているのだ。靖子さんはご両親ととても仲がよさそうで、その様子がとても微笑ましかった。お茶とお菓子をいただき、楽しくおしゃべりをしてお別れした。短い時間だったけど、会えて本当によかった。お父さんお母さん、いつまでもお元気でいてください。
車の窓から見える浜田の町並みを見ながら、清君が浜田の今を語ってくれた。少子高齢化が進み、地元でなかなか職が見つからないこともあって、市の人口は昭和50年代当時の5万5千人から4万5千人に減った。公共事業関係の優良企業に勤める彼だから、そのあたりの人口動態にも詳しいのだ。そういえば、長浜小学校の職員室近くの廊下に飾られた歴代の卒業生の記念写真も、年々減少する生徒の数を如実に表していた。最近の卒業写真に映る六年生の数は、えっ?というくらい少ない。だがこの状況は浜田だけのものではない。右肩上がりの時代は終わった。経済が果てしなく成長を続け、すべては膨張し続けていくだろうという幻想を抱くこともなくなった。無限だと思われたものは実は有限で、ひょっとしたらすべての終わりすら非現実的な妄想とは言えないところまで、人類は来てしまった。それはちょうど、僕たちの世代の成長とも重なっている。豊かな自然と暖かい大人たちに囲まれて、疑うことなく明るい未来を信じることができた子供時代を終え、大人になって直面した現実は、かつて感じていたような絶対的なものではなかった。近くには越えてはならない臨界点がいくつもあり、その瀬戸際に立たされている未来を決めていくのは、自らの意志と行動にほかならない。
「どさんこ」でラーメンを食べようと清君が提案してくれたのだけど、店が混んでいたのであきらめて、別の店に行くことになった。そうだ、「再来軒」ちゅう、ちゃんぽんの美味しい店があるんよ、そこにしよう、と清君が言った。仕事場が今の場所に移転する前に、昼食時に足繁く通った店なのだそうだ。市街地の駐車場に車を停め、路地を歩いて店の前に着いた。清君が、この扉は「押す」ゆうて書いてあるけど引かんと入れんのよ、と言って笑った。そして「PUSH」と書いてあるのに「PULL」しないと開かない扉を引いて中に入った。多分、蝶番の調子がおかしくなってそうなっているのだと思うが、それをずっと放置しておく店もすごいし、それを普通に受け入れているお客さんたちもすごい。浜田スタイルの真髄とは、すべてをありのままに受け入れるLet it beの精神なのだ。
ちゃんぽんはとても美味しかった。二日前の夜は興奮していたけど、今日は少しだけ落ち着いて、自然とお互いの日々の暮らしについて訊ねたりしながら麺をすすった。お店の名前が「再来軒」っていうの、今回の再会を表しているような気もするし、また浜田に来いよってことなのかもしれないね。ちゃんぽんはご馳走してもらった。何から何までお世話になりっぱなしだった。本当にありがとう。
店を出て、浜田の新名所、「お魚センター」まで送ってもらうことにした。そこでしばらくひとりで過ごした後、みんなと合流することにしたのだ。車が浜田川の脇を通ったとき、靖子さんが教えてくれた。昔は公害ですごく汚れていたんですけど、市民の努力でずいぶんきれいになったんです。魚も戻ってきたんですよ。静かな川の流れが土曜日の落ち着いた午後にさらなる安らぎを与え、さざめく水面はこれからのふたりと浜田の未来を映し出しているようだった。ゆっくりと確実に進んでいく川の水は、昔も今も決して途絶えることのない時の流れを感じさせ、あらためて僕はふたりから、今を生きることの大切さを教わったような気がしたのだった。人は過去の世界に生きることはできない。人には何よりも大切な今があり、これからの人生がある。過去に対する過剰な憧憬も、冷ややかな態度も要らない。ただ過ぎ去ったすべてを愛おしみ、こころにそっとしまい込んでおければいい。いつかまた、それをみんなと分かち合えるときがくるから。
お魚センター付近で車が止まった。靖子さんとはここでお別れだ。ありがとう、また遊びに来てくださいね。はい、ぜひまた戻ってきます。再来します。握手をして、そう言った。靖子さんたちも東京に来ることがあればぜひ案内させてください。僕のうちは豪邸ではないけれど、畳6畳の寝室はあります。本当にありがとう。切ない気分に襲われた。なぜなんだ、せっかくみんなに会いに来たこの場所で、また別れの時間を味あわなくてはいけないなんて。
手を振って見送った車がだんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。
ふたりには、ふたりにしかわからない哀しみも寂しさもあるだろう。だけど、清君と靖子さんがいることで自然にわき上がってくるような相手を思いやる愛情は、日々を新しく、輝けるものに変えていく。その力があれば、今ここにいることに疑いを感じる必要もない。何も心配はいらない。明日も明後日も、きっと素晴らしい一日になる。今日と同じように。
これからのふたりの人生に、幸あれ。僕は、漁港を目指して歩き出した。
(続く)
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それと同時に、早くも旅の日程の半分が過ぎ去ってしまったことにふと気づいて、少しだけ寂しさを感じてしまったりもする。清君とは今晩も一緒にエイコちゃんの家でバーベキュー大会を楽しめるけど、靖子さんとはもう少しでお別れなのだ。3泊4日って、あまりにもあっけない。明日の昼過ぎにはバスで浜田を去る予定だから、明日の今頃はもっと痛切に旅の終わりを感じていることだろう。だけど今日は、来るべきラストシーンをひとまず忘れて浜田をもっと体験することができるはずだ。
おはようございます、と言いながらリビングルームに入ると、清君と靖子さんが笑顔で挨拶してくれた。土曜日の朝は、幸せな夫婦にとってもっともくつろげる時間帯なのかもしれない。靖子さんが用意してくれている朝食のよい香りがする。暖かい部屋の空気を心地よく感じながら、新聞を広げテレビのニュースに見入っていた清君に昨日の出来事を報告する。デジカメで撮った学校の写真を見て貰い、先生の様子を伝えた。先生からいただいた茶碗も披露した。清君も景山先生を思う気持ちは僕と同じだし、校舎の内部の写真にも目を輝かせてくれた。靖子さんも同じ教師として興味深く僕が語る先生の話に耳を傾けてくれた。
清君夫妻はゴルフが共通の趣味で、テレビが伝える石川遼選手の試合の結果にとても関心を持っていた。かぺ君もコマッキーもゴルフが大好きだ。僕は一度もプレーしたことはなく、唯一、小学生の頃に『プロゴルファー猿』を熟読していたことくらいしかゴルフとは関わりを持たないのだけど、ふたりの話を聞いていると、とても面白そうだなあと思った。仕事と翻訳の勉強、ランニングでもういっぱいいっぱいだから、当面はゴルフを楽しむ時間もお金もない生活が続きそうだ。だけどもし僕が浜田に住んでいたら、きっとみんなと一緒にプレーしたいと思って始めていただろうな、と思う。きっとそれは、ものすごくいい人生だ。
靖子さんが作ったものすごく美味しそうな朝食を載せたお皿が、テーブルに並べられた。食べる前から満ち足りた気持ちになりそうなご馳走だ。一宿一飯の恩義は一生忘れられないというけれど、もう来世まで忘れられないくらいのおもてなしを受けている。美味しいご飯を食べ終わると、ちょっと近所を散歩しようということになった。ふたりがよく歩いている45分くらいのコースで、靖子さんはジョギングすることもあるらしい。ここに来る前、清君からは、よかったら家の周りを散歩したりジョギングしたりしましょうと提案されていたこともあり、ジョギングシューズを履いて来ていた僕は、喜んで一緒に歩かせて貰うことにした。
ふたりが住んでいるのは、美川という地名の山合の地域だ。地名の通り美しい大きな川がエリアの中心を流れていて、静かで落ち着きのある少数の家並みが豊かな自然に囲まれている。歩き始めてすぐに鮮やかな緑が目の前に広がり、濃い空気が全身に染み入ってくる。
ふたりについてゆっくりと歩を進めた。清君が歩きながらいろいろとこの土地の説明をしてくれる。同級生や同級生の家族の家もあり、ここは誰それ君、誰それさんの家だよ、という風に教えてくれた。靖子さんはここ美川で生まれ育ち、ご両親もすぐ近くに住んでいる。出身の小学校、中学校の前も通った。生まれ育った愛すべきふるさとに、こうして愛する人と住んでいる。彼女にとってこの土地はどれほど大きな意味を持ち、大きな愛を感じさせるものなのだろうか。身近なものを愛せることは素晴らしい。だからこそ、彼女自身もまた周囲から愛されているのだ。
清君と靖子さんは一度もケンカらしいケンカをしたことがないそうだ。お互いが譲り合い、相手の存在すべてを認め受け入れているからこそ可能なのだろう。夫婦間の諍いもたまにならお互いの関係を見つめ直すための妙薬になることもあるだろうけど、できれば不要なエゴのぶつかり合いは避けた方が賢明だ。友達だからこう書くのではない。真剣に、真面目に、僕はこのふたりから本当にいろんなことを学ばせてもらった。夫婦の、人間関係の、理想的なあり方のひとつの形をみた。ふたりに引き合わせてくれたのも、天の思し召しなのだろうかと思わざるを得なかった。
靖子さんの実家のお墓がコースの近くにあったので、そこに寄ることになった。清君が目を瞑り、神妙に手を合わせていた。彼の心に、大きくてまっすぐな強い芯のようなものがあるのを感じた。こんなにも近くに幸せがあり、暖かい家族がいる。だからこそそれを守りたいと思うのだろうし、こうして常にそれを願っているからこそ、幸せもまた彼の下を訪れてくれているのだ。
家に戻り、1時間ほどくつろいで過ごした後、時刻は11時過ぎだからまだ少し早いけど、お昼を食べに行こうということになった。今日は午後からはエイコちゃん、マキちゃん、由美ちゃんと軽くどこかに行き、夕方からはエイコちゃんの家でみんなが集まりバーベキューをしてそのままエイコちゃんの家に泊めてもらうことになっているから、清邸とはこれでお別れだ。短い間だったけど、本当にお世話になった。なんだかもう他人の家とは思えない。いっそ、ここに住みたい。カペ君がここで我が家のように寛いでいたわけがわかった。目の前に空き地があったので、とりあえずは一坪ほど購入して犬小屋ならぬイワシ小屋を建ててみようかと妄想してみた。畳一畳分のスペースがあれば、きっと生きていけるはずだ。
お出かけの時間になった。荷物をまとめたらなんだかちょっと寂しくなってしまったけど、また必ずふたりに会えることを信じて、靖子さんの運転する車に乗り込んだ。そうだ、わしの実家に寄っていこう。清君がそう言い、昔しょっちゅう遊びに行っていた彼の家に行くことになった。清君の実家はJRの線路の近くにあるので、浜田に着いた日の夜、スーパーおきの車窓からもその懐かしい姿を見ることができた。お父さんとお母さんに会うのも本当に久しぶりだ。緊張する。
車が止まり、小高い丘の上にある家を眺めた。かつて何度となく往復した家の前の階段を三人で上った。家の前の溝を見て、ここでザリガニ飼いよったろう、と清君が嬉しそうに笑った。突然の訪問だったけど、家に上がらせてもらって、お父さんお母さんに挨拶した。おふたりの姿を拝見したら、昔の記憶がたちまち蘇ってきた。元気で豪快なお父さんと、ものすごく優しくてしっかりとしたお母さんだった。おふたりとも変わっていない。僕のことも覚えてくれていた。僕の顔を見つめながら、昔のこっちゃんを思い出してくれているようだった。お父さん、その節はクワガタの角を送っていただいてありがとうございました、と言ったらお父さんが笑った。子供の時は気づかなかったけど、清君ととても似ている。明日は清君のお兄さん、清君、コマッキー、そしてかぺ君でゴルフをするとのこと。みんな幼なじみとこうやって今でも楽しく暮らしているのだ。靖子さんはご両親ととても仲がよさそうで、その様子がとても微笑ましかった。お茶とお菓子をいただき、楽しくおしゃべりをしてお別れした。短い時間だったけど、会えて本当によかった。お父さんお母さん、いつまでもお元気でいてください。
車の窓から見える浜田の町並みを見ながら、清君が浜田の今を語ってくれた。少子高齢化が進み、地元でなかなか職が見つからないこともあって、市の人口は昭和50年代当時の5万5千人から4万5千人に減った。公共事業関係の優良企業に勤める彼だから、そのあたりの人口動態にも詳しいのだ。そういえば、長浜小学校の職員室近くの廊下に飾られた歴代の卒業生の記念写真も、年々減少する生徒の数を如実に表していた。最近の卒業写真に映る六年生の数は、えっ?というくらい少ない。だがこの状況は浜田だけのものではない。右肩上がりの時代は終わった。経済が果てしなく成長を続け、すべては膨張し続けていくだろうという幻想を抱くこともなくなった。無限だと思われたものは実は有限で、ひょっとしたらすべての終わりすら非現実的な妄想とは言えないところまで、人類は来てしまった。それはちょうど、僕たちの世代の成長とも重なっている。豊かな自然と暖かい大人たちに囲まれて、疑うことなく明るい未来を信じることができた子供時代を終え、大人になって直面した現実は、かつて感じていたような絶対的なものではなかった。近くには越えてはならない臨界点がいくつもあり、その瀬戸際に立たされている未来を決めていくのは、自らの意志と行動にほかならない。
「どさんこ」でラーメンを食べようと清君が提案してくれたのだけど、店が混んでいたのであきらめて、別の店に行くことになった。そうだ、「再来軒」ちゅう、ちゃんぽんの美味しい店があるんよ、そこにしよう、と清君が言った。仕事場が今の場所に移転する前に、昼食時に足繁く通った店なのだそうだ。市街地の駐車場に車を停め、路地を歩いて店の前に着いた。清君が、この扉は「押す」ゆうて書いてあるけど引かんと入れんのよ、と言って笑った。そして「PUSH」と書いてあるのに「PULL」しないと開かない扉を引いて中に入った。多分、蝶番の調子がおかしくなってそうなっているのだと思うが、それをずっと放置しておく店もすごいし、それを普通に受け入れているお客さんたちもすごい。浜田スタイルの真髄とは、すべてをありのままに受け入れるLet it beの精神なのだ。
ちゃんぽんはとても美味しかった。二日前の夜は興奮していたけど、今日は少しだけ落ち着いて、自然とお互いの日々の暮らしについて訊ねたりしながら麺をすすった。お店の名前が「再来軒」っていうの、今回の再会を表しているような気もするし、また浜田に来いよってことなのかもしれないね。ちゃんぽんはご馳走してもらった。何から何までお世話になりっぱなしだった。本当にありがとう。
店を出て、浜田の新名所、「お魚センター」まで送ってもらうことにした。そこでしばらくひとりで過ごした後、みんなと合流することにしたのだ。車が浜田川の脇を通ったとき、靖子さんが教えてくれた。昔は公害ですごく汚れていたんですけど、市民の努力でずいぶんきれいになったんです。魚も戻ってきたんですよ。静かな川の流れが土曜日の落ち着いた午後にさらなる安らぎを与え、さざめく水面はこれからのふたりと浜田の未来を映し出しているようだった。ゆっくりと確実に進んでいく川の水は、昔も今も決して途絶えることのない時の流れを感じさせ、あらためて僕はふたりから、今を生きることの大切さを教わったような気がしたのだった。人は過去の世界に生きることはできない。人には何よりも大切な今があり、これからの人生がある。過去に対する過剰な憧憬も、冷ややかな態度も要らない。ただ過ぎ去ったすべてを愛おしみ、こころにそっとしまい込んでおければいい。いつかまた、それをみんなと分かち合えるときがくるから。
お魚センター付近で車が止まった。靖子さんとはここでお別れだ。ありがとう、また遊びに来てくださいね。はい、ぜひまた戻ってきます。再来します。握手をして、そう言った。靖子さんたちも東京に来ることがあればぜひ案内させてください。僕のうちは豪邸ではないけれど、畳6畳の寝室はあります。本当にありがとう。切ない気分に襲われた。なぜなんだ、せっかくみんなに会いに来たこの場所で、また別れの時間を味あわなくてはいけないなんて。
手を振って見送った車がだんだんと小さくなり、やがて見えなくなった。
ふたりには、ふたりにしかわからない哀しみも寂しさもあるだろう。だけど、清君と靖子さんがいることで自然にわき上がってくるような相手を思いやる愛情は、日々を新しく、輝けるものに変えていく。その力があれば、今ここにいることに疑いを感じる必要もない。何も心配はいらない。明日も明後日も、きっと素晴らしい一日になる。今日と同じように。
これからのふたりの人生に、幸あれ。僕は、漁港を目指して歩き出した。
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