イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

おもてなし朗読会の報告

2010年11月29日 20時02分43秒 | Weblog
11月28日(日)の午後、マハロ伊藤さん主催によるおもてなしライブ「秋のおもてなし朗読編」 が、六本木の「よしだ屋珈琲店」で開催されました。

七人の方々が「食」をテーマに思い思いの題材で行う個性的な朗読を、美味しい珈琲を飲みながら堪能いたしました。

朗読の模様は、1966 bookradio のみなさんによってライブ中継されました。録画の映像をお楽しみください。


映像はこちら
※上記のマハロさんのブログで、朗読会の題目の一覧をご覧いただけます。


私も朗読させていただきました。

今回は「二十四の毛ガニ」というタイトルの自作の文章を朗読してみました。動画では、40分過ぎに登場いたします。

朗読した文章の全文を、以下に記載いたします。

とても楽しい朗読会でした。マハロさん、夏目さん、みなさま、どうもありがとうございました!

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二十四の毛ガニ

世の中に美味しいものは数あれど、なんといっても自然のなかにわけいり、自らの手で食材をとってきて、料理し、味わうことほど、楽しく、心躍る「食の体験」もないでしょう。しかしときにそれは、思わぬ結果を招くこともあります。

これからお話しするのは、事実に基づく物語です。登場する場所や人物はすべて実在のものですが、一部の団体・人物の名称は架空のものにしてあります。

*

昔、昔、今から三十年以上も前、昭和五十年代前半のある冬の日。山陰地方の小さな都市で、ひとりの銀行員が、定時ちょうどに仕事を終えた。名前は「善人」と書いて、「ヨシト」。年のころは三十代半ば。普段も特に残業をしているわけではないのだが、きょう5時きっかりに仕事を終えたのにはわけがあった。これから同僚たちと、「あるもの」をつかまえにいくことになっているのだ。先輩のOさん、後輩のウメさん、金ちゃん、ヨシトの四人は、そそくさと車にのりこみ、目的地に向かって出発した。

市街地を抜けた車は、夕暮れ時の海岸線を進んだ。沈みゆく巨大な夕陽が、雲ひとつない空を鮮やかなオレンジ色に染め、水面に反射する陽のきらめきのうえに、いくわものカモメの影が踊っている。「今夜はきれいな満月になりそうやの」。ヨシトより七つ年上の先輩、Oさんがいった。

車は、ほどなくして磯に到着した。銀行員四人組は、ここでカニを採るのである。カニ採りといっても、もちろん彼らは漁師ではない。とったカニは、その日のうちに自分たちで茹で、酒の肴にする。それが目的だ。

ここ島根県浜田市は日本でも有数の漁場で、海の幸とはきってもきれない関係にある。漁師町で生まれ育った地元の人たちは、魚をとるのがうまい。浜で魚を釣ったり、磯でカニをつかまえたり、浅瀬に潜ってウニをつかまえたりして、それらを食卓のおかずにする。会社帰りに酒の肴のカニを捕まえる。そんなのどかな時代だったのである。

四人は身支度をはじめた。ズボンを履き替え、膝のうえまである長靴を履き、軍手をはめる。準備が整うと、足場の悪い岩のうえを、ゆっくりと確かめながら歩き始めた。狭い場所を好むカニは、普段は波打ち際の、岩の隙間にいる。

磯に寄せる波の動きに合わせて、カニは前後に移動する。波が寄せれば隙間の奥に隠れ、波が引けばまた前に出てくる。正確には、横向きにしか歩けないカニにとって、すべてが左右の動きでしかないのではあるが。砕けた波で濡れた岩に足をとられないようにして、位置を確認し、素早く手を伸ばしてつかまえなくてはならない。岩で手や足を切るくらいは珍しくなく、下手をすれば、海に転落する可能性もある。そうなれば、カニの切れ目が縁の切れ目、あえなくこの世とさようなら、ということにすらなりかねない。

「カニは月夜に照らされて表に出てくるけえね」。地元とその近辺の出身である三人が、そう教えてくれた。今夜はうっとりするような満月だ。いつもとは違う神秘的な夜の光りに誘われて、カニはいつもより少しだけ無防備に、岩のうえにその体を晒すにちがいない。いってみれば、月夜のカニは、一塁ベースからずいぶんと離れたところにいるランナーだ。いつもは届かない牽制球でも、今日ならアウトを取れる。

九州は博多出身の都会っ子で、海のイロハもよくしらないヨシトは、銀行員だけにカネの扱いにはなれていたが、カニの扱いにはまったく不慣れだった。だから自分はまったく戦力にはならないことはわかっていたが、チーム全体としては、そこそこの数のカニを採れる十分な目算はあった。梅さんと金ちゃんは地元浜田の出身で二十代と若く、特に梅さんは銀行員にしておくにはもったいないほどの抜群の運動神経の持ち主で、海のことも、カニのこともよく知っている。今晩美味しいカニを肴にビールが飲めるかどうかは、彼の両腕にかっていた。

夜のとばりがおり、月夜に照らされた磯に、冬の波が打ち寄せる。ヨシトの目に、長靴でさっそうと岩場を飛び跳ねるウメさんが姿が、頼もしく映った。

*

夫たちは無事にカニを捕まえて帰ってくるのだろうか――。三人の幼い子供たちの夕飯も終わり、ヨシコはカニの、いや夫の帰りを待っていた。時計の針は七時を回っていた。ソワソワしていると、家の前で車が停車する音が聞こえた。勝手口から、魚入れを手にしたヨシトたちが満足そうな顔を浮かべて入ってきた。「大漁、大漁! 24匹も採れたけえね」。男たちがいった。「おかえりなさい」ヨシコが容器のなかを覗くと、そこには48個のつぶらなカニの瞳が輝いていた。ヨシコにはカニの正式な名前はわからなかった。足にはすね毛のような剛毛がはえ、見た目もこぶりなケガニといったところだった。今夜の労をねぎらいながら、さっそくカニ料理にとりかかろうとした。

あの、これはどれくらい茹でたらいいんでしょうか。出雲市出身のOさんに聞くと、「奥さん、40分はゆでにゃあかんね」豪快に笑いながら、自信たっぷりに言った。まだ生きているカニを、大鍋に沸かした湯のなかに入れていった。熱湯に放り込まれたカニたちは必至にもがいたが、しばらくすると抵抗力を失っていった。茹で続けると、ピンク色の甲羅が、次第に真っ赤に染まっていく。四十分は少々長いのではないかと思ったが、そのときはOさんの言うなりに、きっちり時間通り茹であげた。後日、近所の漁師の奥さんにカニのゆで時間を聞いてみたところ「二十五分よ」とあっさり言われた。

ヨシコはゆであがったカニをざるにあげた。もういちど数えてみたら、24匹いたはずが、23匹しかいない。夫たちはヨシコが用意していた別のおかずでビールを飲み始めていた。一匹足りないことを告げると、おかしいなあ、24匹とってきたはずなんやけんねぇ、絶対に24匹あったんよ、と口々に訝った。男というものは、たとえ普段は銀行員という堅気の仕事をしていても、いったん狩りに出れば、仕留めた獲物の数にやたらと固執するようになるらしい。

ゆであがったカニをテーブルに運び、酢醤油でいただいた。食べられる身の部分は少なかったし、少々茹ですぎの感もあったが、身は引き締まっていて美味しく、夫たちの顔をみても、自分たちで捕まえてたカニを肴に飲む酒はやはり旨そうだった。まだ起きていた子供たちも、一緒にカニを頬張った。聞けば、やはりほとんどのカニをとったのは梅さんだということらしい。さすがである。

あっという間にすべてのカニがたいらげられた。義経の八艘飛びさながらに月夜の岩場を飛び跳ねた梅さんの武勇伝で盛り上がっているうちに、気がつけばもういい時間になっていた。明日も仕事がある。Oさん、ウメさん、金ちゃんは帰っていった。子供たちもとっくにベッドのなかだ。いつも飲み始めてから二時間後にきっかり眠りに落ちるヨシトも、もう寝息を立てている。台所でひとり、食器を片付けていると、うずたかく積まれたカニの殻が目に入った。ほんの数時間前までは月夜の磯辺を横歩きしていたカニたち。まさか今日人間に捕まえられ、生きたまま茹でられるとは想像もしていなかっただろう。生きるために、人は他の生き物を殺生しなければならない。それはしかたのないことだとわかってはいるけれど、生ゆでにされたあげく、脳みそまで吸いつくされて文字通り抜け殻になってしまったカニたちの姿に、少しばかりの哀れみを覚えずにはいられないのであった。

*

翌日。気持ちのよい冬晴れの日。すがすがしい朝の空気のなか、ヨシトと三人の子供たちはいつものように元気に出かけていった。家族を見送ったヨシコは、食器を片付け、NHKの連続テレビ小説を見ると、お茶をすすってすこしゆっくりしてから、洗濯をした。お昼近く、箒で玄関を掃き掃除をしていると、近くから奇妙な音が聞こえてきた。

「カサカサカサカサ」

ゴキブリだろうか、ムカデだろうか。耳を澄ませた。

「カサカサカサカサ」

ヨシコは奇妙な胸騒ぎを覚えた。

玄関に備え付けの靴入れには脚があり、たたきの部分との間には10センチほどの隙間があった。ヨシコはそうっとたたきに両手を突き、隙間に顔を近づけて、闇のなかを覗いた。

暗闇に、ふたつの瞳がきらりと光っていた。やはりきのう、茹でられる寸前に、一匹が脱走していたのだ。泡を吹きながら、奥の方に身を潜めている。その泡は、ここがいつもの磯辺ではなく、波音も塩水もない不気味な異空間であることへの戸惑いの証のように思われた。あるいはすべての事情を把握しているそのカニが、自分だけが生き残ってしまったことへの後悔や、死んでしまった友たちへの弔い、そして悪しき人間たちへの呪詛を言葉をつぶやいているようにも思われた。

昨日まで磯で自由にくらしていたのに、いきなりつかまえられ、仲間もすべて食べられてしまったなんて、なんて可哀想なんだろう。普段のヨシコなら、一見グロテスクなこのケガニをみて、そう考えたかも知れない。だが、そのときのヨシコは、なぜか目の前のカニに哀れみを与えるような心境になれなかった。

お昼時が近づいていた。昨日、酢醤油につけて食した、香ばしいカニの食感が、舌に蘇ってきた。

*

夕方になり、帰宅したヨシトが晩酌をやりながら、思い出したようにいった。そういえば、昨日のカニ、一匹少なかったのは、やはりどこかに逃げたんかなあ。

ヨシコは平然と答えた。「ああ、あれ、玄関のところに隠れていたので、湯がいてお昼に食べました」

ヨシトはギョッとした表情を浮かべた。「えッ。食べたん?」

「だって、海に生きていたものを、陸に逃がしてあげても、どのみち長くは生きていられないと思って」

*

ヨシトは僕の父であり、ヨシコは僕の母である。

あれから三十年以上たったいまでも、家族があつまると、あのときの母のカニ捕殺事件が笑いのネタになる。「隠れていた一匹を茹でて食べるのが残酷なら、23匹をまとめてゆであげるのもまた残酷なことじゃないの」、と母は言う。

たしかにそうだ。たしかにそうでは、あるのだけど。

~完~

翻訳そぞろ歩き12「夏目大さんと行く横浜編」11月21日(日)無事終了いたしました。

2010年11月21日 23時23分05秒 | Weblog
本日、夏目先生の引率のもと、無事横浜をそぞろ歩いて参りました。

夏目さんをはじめ参加していただたいみなさまのおかげで、とても楽しい集まりになりました。
みなさま、本当にどうもありがとうございました。

そぞろ歩きのブログにレポートをアップいたしました。

~魚心あれば水心~――御礼「大」大成功! 翻訳そぞろ歩き12「夏目大さんと行く横浜編」開催レポート

一応、これで今年最後のそぞろ歩きになる予定です。
来年は隔月ペースで開催したいと思います。
よろしければまた一緒にそぞろ歩きましょう!

あらためましてみなさま本当にどうもありがとうございました。

秋のおもてなし朗読会

2010年11月17日 01時11分34秒 | Weblog
11月28日(日)に、マハロ伊藤さん主催による「おもてなしライブ」の朗読編、「おもてなしライブ朗読編」が開催されます。

今回は食欲の秋ということで食をテーマにした朗読が行われます。

マハロさん、夏目さんを始め様々な方々が思い思いに自分の選んだ題材で朗読します。
私も朗読をさせていただくことになりました。

会場はとてもいごこちのいい、雰囲気満点の喫茶店「吉田屋珈琲店」です。
ご興味のあるかたはぜひご鑑賞ください。

おもてなしライブ「秋のおもてなし朗読編」

翻訳そぞろ歩き12「夏目大さんと行く横浜編」11月21日(日)詳細決定のお知らせ

2010年11月14日 09時43分45秒 | Weblog
翻訳そぞろ歩き「夏目大さんと行く横浜編」

夏目さんに素晴らしいコースプランを考えていただきました!

詳細を、翻訳そぞろ歩きのブログ
にアップいたしました。

夏目さんのブログでも告知をしていいただいております!

ご興味のある方はぜひお気軽にご参加くださいませ。


銭湯のスーパー・ダブルスタンダード――人生で本当に大切なことはナニか、いや何か――

2010年11月12日 04時06分31秒 | Weblog
近所にスーパー銭湯があって、最近よく通うようになった。

その施設は、私がほぼ毎日走っているジョギングコースである公園のすぐ近くにある。ランニングの後にひとっ風呂浴びることもできるし、休日に――私にとっては毎日が営業日であり同時に休日なのであるが――日頃の疲れを癒しにやおら向かうこともある。会員になったので平日は750円。中に入れば高級旅館の温泉にもまったく遜色ない豪華な数々のお風呂を堪能できるので、そう考えるととってもお得だ(湯に浸かりながら、ここは箱根だと自分に言い聞かせている)。他のスーパー銭湯も試してみたが、やはり家の近所のここが一番よい。

内湯にはジェットバスや水風呂などもあり、屋外にも岩風呂や五右衛門風呂のような桶風呂、寝転び湯といって地面に寝っ転がって満点の星空を眺めながらウトウトもできるスペースもある。寝転び湯に大の大人が○○○○を丸出しにして一列に並んでいる様は、まさに壮観で、それはおとぎの国のソーセージ工場を思わせる。日本珍百景の1つと呼んでもいいかもしれない。そこで星空を眺めていると、まるでアフリカ大陸のサバンナの夜空に果てしなく広がる星雲を眺めているような気分になって、つかのまここがスーパー銭湯であるという事実を忘れることができる。

サウナも2つある。奧内には大きなサウナが、屋外には珊瑚石で作られたというエキゾチックなスチームサウナがある。珊瑚の方では巨大な壺がおいてあり、そのなかに塩がいっぱい入っている。中に入るやいなや、誰もがその塩をおもむろにガバっと掴んで珊瑚の椅子に座り、全身を塩揉みするのである。最初は少々戸惑ったが、これがまたえもいわれぬ気持ちよさなのである。サウナは大好きなのだ。スーパー銭湯を堪能し、汗をどっさりかいた夜は、本当にぐっすりと眠れる。海の底に沈んだみたいに。

ところで――。

ここに来るといつも不思議に思うことがある。考えてみれば当たり前のことなのではあるが、それでもいつも不思議に思う。そう、ここでは誰もが裸なのだ。しかも、○○○○をオープンにしている人も少なくない。もちろんタオルで前を隠している人もいるが、私を含めそんなことはまったく気にしないオープン○○○○(ルビ:マインド)な人もたくさんいる。みんな日頃服を着て、かしこまっているのは何だったのか? あれは偽りの姿だったのか? いつもはスーツなんかきて真面目そうにしているのに、なぜここではフルチンモードでここまであけっぴろげに振る舞えるのか? それが不思議でならない。

確かに若い頃は私にも少々の恥じらいのようなものがあって、銭湯や温泉に入るときにはほとんど無意識に白タオルで前を覆っていた。今にして思えば実にナイーブだった。だが、長い年月の果てに、もはやそのようは恥じらいは私の辞書から消えてしまった。そのような羞恥心はリバプールの風と共にどこかに去って行った。誰かのナニが大きかろうが小さかろうが左向きだろうが右向きだろうが、そんなことに気を取られている暇は私の残り少ない人生にはもはやない。今の私は他人の○○○○のスペック(サイズや色や形)になんてまったく興味はないし、他人にもこちらの○○○○に必要以上の興味を持って欲しくはない。そんなのどうだっていいのだ。

ともかく、ここでは前をまったく隠そうとしない人々がいる。人生に疲れ、他人と争うことに疲れ、他人と○○○○の大きさを競うことに疲れ、その結果、もはや前を隠そうとする意欲と気力を失った人たちが、右往左往している。その人たちの○○○○も右往左往している。あるいは、単に堂々と○○○○を開陳したるわ! という猛者もいるのであろう。だから、湯船に浸かって目を細めていると、湯気の蜃気楼の向こうから、のっそのっそとオッサンが○○○○を揺らしながら歩いてくるのが否応なく視界に飛び込んでくる。寝転び湯に身を横たえていると、水平線の彼方から褐色のウインナーがこっちに向かって近づいてくるのが見える。そしてそれが私には不思議に思えてならないのである。

考えてみて欲しい。もしここが会社だったら? ここがコンビニだったら? あなたは床に全裸で寝そべっている。裸で寝っ転がっているあなたの脇を、○○○○を無防備に晒した状態で全裸の部長や店員が通り過ぎる。そんなシチュエーションは絶対にありえないし、あってはほしくない。だが、まさにその奇跡的なドラマが、このスーパー銭湯で日夜繰り広げられているのだ。これは、ものすごいことではないだろうか? 私は他人の○○○○にはまったく興味がないが、人々がそれらを丸出しにして闊歩している、その空間の異様さには若干の興味がある。

岩風呂に入った。3人組が、岩場に腰掛けてなにやら真面目な話をしている。まったく関心のないフリをしながら聞き耳を立てていると、どうやら彼らは会社の同僚らしいことがわかった。技術職らしく、機械の操作と思わしきテーマについて熱心に語り合っている。リーダー格のがっしりした体格の男が、岩場に腰掛けている。2人の若手は、湯に浸かりながらリーダーの意見を聞いている。若手2人には問題はない。だが、リーダー格の男は、岩場に腰掛けているので尻から上が丸出しだった。そして、その○○○○はまったく隠されていなかった。

リーダーは○○○○を丸出しにしながら機械の操作方法について熱っぽく話を続けていた。話の内容は門外漢の私にはよくわからないし、リーダーの○○○○そのものを1つの機械として捉えた場合に、それがどのような潜在的パフォーマンスと特性をもっているのかについてもよくわからない。だが、リーダーが○○○○を丸出しにしながら話を続けているというそのシュールな光景そもののが、私の脳裏を捉えてはなさなかったのだった。

考えてみて欲しい。会社の会議室で、リーダーが○○○○を丸出しにしながら話をしていたら、どうなるだろうか? 重要なプレゼンテーションのときに、○○○○を丸出しにしていたらどうなるであろうか? きっと彼は色んな意味で伝説の社員になるだろう。そういう行為は、社会や会社が禁じている。なのに、ここでは○○○○を丸出しにすることがいともたやすく許可されている。「所変われば品変わる」というが、ある場所では絶対に禁じられていることが、別の場所では風に吹かれてユーラユラなのである。そのダブルスタンダード、すなわちダブルゴールデンボールズ基準法が規定するその基準のあまりの豹変ぶり、融通無碍さに私は驚かずにはいられないのである。

このようなダブルスタンダードは、スーパー銭湯での○○○○丸出し以外にも、人生の様々な局面にある。世間が「○○○○の丸出しはダメだ」といっても、あるところではあっさりと許可されたりする。

私は思う、常識や慣習なんて、あくまで便宜的なものにすぎないのだ、と。

もちろん、私たちはそのような常識や慣習に従って生きていかなければならない。だが、私たちが短い人生のなかでもっとも大切にすべきなのは、前をタオルで隠すことでも、逆に開き直って丸出しにすることでもない。それらの便宜的な諸々を相対化した上で、その地平線の彼方にある本当に大切なものを見据えることなのだ。常識や慣習に従いつつ、それらを尊重しつつも、それらに縛られずに、もっと大切なことを考え、愛おしむ時間を大切にしなければ――。

そんなことを夢想しながら、私は寝転び湯の台の上に身を横たえる。湯気の向こうから、本当に大切な何かがユラユラとやってくる。本当に大切な物とはナニか、いや何か。本当に大切なリーダーの○○○○が、こっちに向かってやってくる。私はじっと、真実を見据える。リーダーの○○○○を私の眼球が捉える。

人生において、本当に大切なものは何か――。私は今日も考える。ある場所では絶対に開陳されない何かも、ある場所では無防備にその姿を晒す。

いくら着飾っても、いくら出来もしないことを口走っても、最終の審判の日には、おそらくそれは岩風呂でのリーダーの○○○○と同じくらいあられもなく、この眼前に突きつけられる。

あるいはそれは、誰もが生まれた瞬間から持っている、ありのままの無垢なナニか、いや何か。

生まれたままの姿で、星空を見上げながら、そんなことを思う。