イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ペアトランスレーションのすすめ

2007年10月31日 23時47分00秒 | ちょっとオモロイ
プログラミングの世界では「ペアプログラミング」が注目を集めているらしい。これは何かというと、ふつう、プログラムはプログラマーが一人で書くものだが(当たり前だ)、これを、二人一組でやってみよう、というもの。一人でできる作業を、二人でやるなんて非効率的じゃないか、と思うかもしれないが、それが意外や意外、二人で別々にプログラミングをするよりも、むしろ効率がよいケースが多いのだという。嘘みたいな本当の話なのである。

その理由は様々に分析されている。まずは視点が二つに増えることで、相互にチェック機能が働きエラーが少なくなる。プログラミングと同時にレビューも行うような感覚になるので、品質がものすごく高まる。お互いのスキルやノウハウを提供するからプログラマのスキルも上がるし情報共有もしやすい。なにより、二人でやっているから気が張って、一人で仕事をしているときみたいに2分おきにメールチェックしたりネットサーフィンしたり○×○したりできない。つまり、だらけない。緊張感と作業密度が高まるのだ。

ぼくは残念ながらプログラミングのスキルはないので当然ペアプログラミングは体験したことはないが、ソフトウェア業界で長い間翻訳者として働いていたので、似たようなことをやったことが何度もある。たとえば、一人が実機を操作してソフトウェアの画面を表示したりスクリーンショットを取ったりする。もう一人は相手をナビゲーションしながら翻訳が画面に即した内容になっているかを確認したり、マニュアルどおりにソフトウェアを操作できるか指示したりする。二人並んで同時に同じソフトウェアを違うOS環境でテストしたこともある。そうやって作業していると、確かに気は抜けないし、疲れるから2時間もたつと休憩でも入れましょうか、という具合になる。朝に2時間、午後に4時間でもやると、もうたっぷり働いたという気持ちになって、実際、作業もかなり進むものである。同じソフトウェアのUIの翻訳レビューで、僕が日本語版を先に担当し、ソフトウェアの操作を理解してから、韓国語、中国語のレビューアーに指示を出しながら一緒にレビューしたこともあった。そのときは僕の左右に外国人レビューアーがいたから、ペアではなくトリオだったが。

部屋の掃除とか、引越しなんかでも、一人でやっているとなかなか進まないけれど、二人でやると異常に捗ることがある。きっと同じ感覚だ。最近、こういうペアプログラミングのうわさを聞くにつれ、うらやましさがつのり、翻訳でもこれができないだろうか、と妄想をふくらませていた(が、まだ試したことはない)。

どんな風になるだろうか。Aが原文を読んでしばらく考え、カチャカチャカチャを訳文を入力する。するとBが横から「そこは『は』じゃなくて『が』のほうがよくないか」と言う(Aはうるさいな~、と思う)。Aが知らない単語を、Bは知っている。逆もある。見ず知らずの専門用語が出てきたら、Aが翻訳を進めている横で、Bがググって検索する。Aが疲れてきたら、じゃちょっと代わろう、といってBがキーボードの前に座る。車の運転を交代するみたいに(実際、ペアプログラミングも交代でやることがあるようです)。AもBも、お互いの訳を、なるほどと思いつつ、それはちょっとどうかな、とも思っている。でも、結局は二人の落としどころに落ち着くので、へんなくせのない訳文を作れそうだ。そして、一日が終わったら、一人でやるよりも質の良い訳文が、いつもの倍以上も作れていた...(でも、おそらくいつもの3倍は疲れるであろう)。

という夢のようなことを考えてしまうのであるが、実際翻訳はプログラミングのようにはいかないだろう点が多々あって、なかなか難しいのかもしれない。それでも、毎日とはいわないが、たまにこういうこともやってみたい。だって、ずっと一人じゃさびしいのです。それに、二人で丸一日翻訳したら、けっこういろんな発見ってあると思うんですよね。お互いそれぞれの技を盗み合えるというか。というわけで、だれか僕と、ペアトランスレーションでセッションしませんか。ぼくはけっこう懐深いです。けっこうどんな訳でも受け入れます。たぶんけんかにはなりません。一緒によい訳を考えましょう。で、やっぱり、二人の共同筆名は『無苦小富雄(ぶくおふお)』ではいかがでしょう(しつこく続けるこのネタ)。

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『屍肉』フィリップ・カー著/東江一紀訳
『偽りの街』フィリップ・カー著/東江一紀訳
『密送航路』フィリップ・カー著/後藤由季子訳
『熱き夜の香りに』サンドラ・ブラウン著/秋月しのぶ訳
『謎の女を探して』サンドラ・ブラウン著/秋月しのぶ訳
『虜にされた夜』サンドラ・ブラウン著/法村里絵訳
『あきらめきれなくて』サンドラ・ブラウン著/吉澤康子訳

荻窪店で7冊。フィリップ・カーとサンドラ・ブラウンで"フルハウス"



紙ヤスリ

2007年10月30日 23時55分37秒 | Weblog
翻訳家の池央耿さんが、訳文を推敲するときには「文章に紙ヤスリをかける」ようにするのだ、と語られていました(糸井重里さんのサイト『ほぼ日』http://www.1101.com/translator/index.htmlより)。その言葉が、ずっと心に残っています。自分の訳した文書を、何度も何度も練り直し、最後に紙ヤスリをかけるようにして仕上げていく。なんとも見事に推敲の髄をあらわしているように思えます。

僕のイメージでは、当然このとき訳者は(いつもの僕がそうであるように)〆切に追われて、あたふたとしていたりはしません。熟練の職人のように、静寂に包まれた仕事場の中で、黙々と作業に打ち込んでいます。そして、完成寸前の作品を手に取ると、最後にそこに魂を込めるかのようにもういちどすべてを点検して、足りないものを加え、不要なものを取り去るのです。このとき、妥協はしない。何度も何度も、これでもか、というくらいにこの作業を繰り返すのです。

そして、そうやって微小な凹凸までもが削られた訳文はなめらかさを増していき、いつかは水晶のような透明な輝きを放つことができるようになるのでしょう。翻訳、ひいては文章を書くということは、やはり最後のこの推敲、ここでどれだけのことができるかが問われてくるのではないかと思います。

そういうある意味崇高な翻訳体験というものには強く惹かれるのですが、悲しいかなわが身を振り返ると、そういう精妙で落ち着いた気持ちで訳文を作ることは、ほんとうにごく稀にしかありません。それができない原因は多々ありますが、一番の問題は、やはり時間。時間に縛られ、時間に追われ、能力のなさが故に、いたずらに時間を浪費する。ああ、情けなや。それに、実力がなければ、いくら時間をかけて念入りにやったとしても、よいものはできません。最後の最後に決められる力がなければ、よい訳は作れない。ゴール前まではボールを運ぶことができても、決定力がなければ、点が取れないように。

そういう決定力のなさは嫌ほど身にしみてはいますが、上達のためには、読んで、訳して、直して、の作業を精魂こめてひたすら繰り返すしかないのだと思う秋の夜なのでした。なんだかまったく文章にオチがありません(^^;

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吉祥寺、よみた屋で以下7冊。
『ダ・ヴィンチ』×1998/9 1999/11 2001/11
『トウモロコシ畑の子供たち』スティーブン・キング著/高畠文夫訳
『デトロイトの復活』榎泰邦
『シルクロード[一]』篠山紀信
『星へのたび』吉村昭

BO吉祥寺店。原田宗典でフラッシュにするかどうかかなり迷ったが、単品買いに変更。10冊。
『ペット大往生』ペット大往生委員会
『ぼくの不思議の国ニッポン』デーブ・スペクター
『苦悩』京本政樹
『インタビュー日本の出版社』小林二郎
『反定義 新たな想像力へ』辺見庸×坂本龍一
『競争力』リチャード・K・レスター著/田辺孝二+西村隆夫+藤末健三訳
『ゼニで死ぬ奴生きる奴』青木雄二×横田濱夫
『アングロサクソン・モデルの本質』渡部亮
『田中真紀子研究』立花隆
『老兵は死なず 全回顧録』野中広務

「機」について

2007年10月29日 23時48分43秒 | Weblog
少し日がたってしまったが、先週の金曜日、NHKで10時から放映していた『菅野美穂 インド・ヨガ聖地への旅』という番組を観た。ヨガを初めてまだ1年ながら、かなりの入れ込みようが伝わってくる菅野美穂さんが、ヨガ発祥の地、インドを求めて旅するという話。

実は僕も15年くらい前に一人でインドを1ヶ月くらい旅したことがある。今回彼女が辿った経路は、デリーから、ガンジス川に面するハリドワールに行き、北上してビートルズが訪れたということで有名なリシケーシへ向かうというもの。ほぼ同じ場所に僕も行ったから、番組はとても興味深かった。特にリシケーシではぼくもかなりの日々を過ごした。画面には、まさにぼくもここに行った、という場所がいくつも出てきて、ちょっとびっくり。あの頃とまったく変わっていない風景もあった。

三島由紀夫は「インドには行ける者と行けない者があって、インドに呼ばれる時期も運命的なカルマで決定される」というような意味の、何とももっともらしいことを言ったが、そういう意味では、菅野美帆さんは、たしかにインドに「呼ばれて」いたように思えた。だが、番組の中で、彼女の旅は何かを求めていきながらも、結局はこれだという答えは見つからないまま終わったように思えた。高僧にあっても、神秘的な場所にいっても、そこで何かが劇的に変わることなんてないだろう。

僕の旅もまさにそうだった。インドは予想通りすごいところだったけれど、それで僕の人生が変わってしまうわけもなかった。そもそも求めていたものが何かもわからないのだから、答えを得られなくても当たり前だった。でも、本当に大切なことの答えなんて、きっと簡単にわかるものじゃない。ただ、旅のひとつひとつの記憶が、今でも心に残っていて、たまに蘇ってきては、いろんなことを教えてくれるような気がしている。

インドが感じさせてくれるものの1つに、「機」があるのではないかと思う。つまり、物事には、時期がある、ということ。たとえば、番組でも菅野さんに「(ヨガを極めたいのなら)グルを探せ」と言っていた怪しいお兄さんが出てきた。そのグルと呼ばれる指導者、師との出会いがまさにそうだ(ちなみに、グルって英語ではビジネスものなんかでもすごくたくさん使われていて、非常に翻訳しづらいのである。プンプン)。自分に準備ができていなければ、グルと出会ってもそれがグルだと気づかない。あるいは、目の前にいるのがグルだとわかっていても、そのときの心はグルを求めていないかもしれない。つまり、グルに出会うには、機が必要なのだ。翻訳でも同じだ。翻訳の師匠となるべき人を探したくても、出会えない。翻訳を理解しようと思っても、それができない。その理由は、この「機」を逃しているからなのかも知れない。

己を磨き、研ぎ澄ました眼で周囲を見て、何かを求める旅に出る。そのとき自分の準備が十分であれば、真の師に出会えるかもしれない。それは必ずしも人である必要はない。一冊の本かも知れないし、青い空かも知れない。柴犬かもしれない――インドについて考えるとき、そういうことをとりとめもなく考えてしまうのだ。

P.S. 今年、『インドの虎...』の書籍を翻訳するチャンスを得た。旅から15年たって、めぐりめぐってこんな形でインドと再会しようとは。インドとの縁を深く感じた体験だった。ありがとう、インド。

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『幻獣変化』夢枕獏
『玄鳥』藤沢周平
『恋する男たち』篠田節子他
『最後の将軍』司馬遼太郎
『盗まれた恋心』ノーラ・ロバーツ著/芹澤恵訳
『病院で死ぬということ』山崎章郎
『オトナ語の謎』糸井重里監修 ほぼ日刊イトイ新聞編
『ジョイ・ラック・クラブ』エイミ・タン著/小沢瑞穂訳
『アメリカン・サイコ』(上下)ブレッド・イーストン・エリス著/小川高義訳

荻窪店で、10冊。

縦のものを横にする

2007年10月28日 23時57分42秒 | Weblog
「横のものを縦にする」といえば、翻訳業界ではすなわち翻訳のことを指す。横書きで記述された外国語のテクストを、縦書きの日本語に置き換えるからだ。

コンピュータの普及もあって、仕事文のほとんどは横書きになっている。特にIT系では一般的な読み物風のもの以外は、すべて横書きであるといってもいいだろう(縦書きのプログラム本ってあるのでしょうか)。だから個人的にはIT分野ではまったく横書きに違和感はない。

フィクションや一般向け書籍では、縦書きが主流だが、最近小説でも横書きのものが増えているらしい。特にケータイ小説と呼ばれる分野ではそれが顕著なのだという。縦書きではケータイっぽさのニュアンスが失われるだろうし、そもそも記号や顔文字など縦書きでは上手く再現できそうにないものもあるから当然なのだろう。

この時代の流れには、逆らうことはできない気がする。デジタル化と縦書きは、相性が悪い。何十年かたったら、書籍において横書きが標準になっているのかもしれない。横書き本の氾濫には、売るほうも買うほうも「楽に読みたい」という節操のなさ、見もふたのなさをさらけ出しているようで、そういう点では嘆かわしくもある。横書きの本に夢中になっている十代の少年少女たちよ、縦書きの本の良さを知らないまま大人にならないでくれ、という気持ちがして、古きよきものが失われつつあることへのさびしさを感じる。

でも、縦書が正統なもので横書はどこか軽い感じがする、というのは実は現在の日本という局所的な枠組みを基準にしているからであって、確かに文化的な背景は大切にしなければならないが、元々はどちらもニュートラルなものに違いないのだ。

悔しい

2007年10月27日 22時42分50秒 | Weblog
時間がなくて悔しい。やるべきことがたくさんあるのに通訳学校行かなくちゃいけない自分が悔しい。予習してもなかなか頭に入らない。覚えなければ、というあせりから集中力が高まり、宿題範囲を声に出してなんども読む。だんだん頭に入ってくる。ちょっと嬉しい。あっという間に午後3時。学校に行く前に三鷹でやっている吉村昭展に寄って行くつもりがあきらめる。今日が最終日だったのに。激しく悔しい。雨の中かさをさして歩く。なんでこんな日に雨なんだ、なんでこんなに風が強いのにオレは半日かけて学校にいかなくちゃいけないんだ。つらい。余裕持って家を出たはずがなぜかつくのはギリギリ。いつもこう。はがゆい。学校について授業開始。英語が聞き取れない、しゃべれない。情けない。うまくやろうとしてもだめ、変なプライドは不要。だけどうまくやらなきゃだめ。うまい人は、自然にうまい。いやみがない、けれん味がない、バランスがいい。すばらしい。たった2時間の授業。ここで学んだことをいかに日常で実践していくかだ。毎回、現在の自分の力と進むべき道を点検し、新たなアイデアと意欲が湧く。これでいい。帰り道、雨はさらに激しい。かさが飛びそうになる。腹立たしい。家に着く。ご飯を食べて、やるべきことをする。むずかしい。はかどらない。悔しい。すべては己が撒いた種、手前に力がないから、だから苦しいだけなのだ。やっていることが間違っているとは思わない。納得しているつもり。だけど、悔しい。

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荻窪店で新書8冊

『チャーチル』河合秀和著 中公新書
『ケータイを持ったサル』正高信男著 中公新書
『コーポレートガバナンス』田村達也著 中公新書
『文明の技術史観』森谷正規著 中公新書
『執行役員』吉田春樹著 文藝春秋
『英語の学び方』渡部昇一×松本道弘著 ワニのNEW新書
『英語に強くなる多義語200』佐久間治著 ちくま新書
『新日本語の現場』橋本五郎監修 読売新聞新日本語企画班 中公新書ラクレ

古典新訳という新しい眼鏡

2007年10月26日 23時58分53秒 | Weblog
朝日新聞の朝刊に『翻訳新世紀』と題して古典新訳の特集がありました。
3ページにわたり充実の内容が記載されています。

『カラマーゾフの兄弟』亀山郁夫訳 自身による解説
『白鯨』メルヴィル 八木敏雄訳(岩波文庫)/巽孝之氏による解説
『ロリータ』ナボコフ 若島正訳(新潮文庫)/沼野充義氏による解説
『赤と黒』スタンダール 野崎歓訳(光文社古典新訳文庫)/堀江敏幸氏による解説
『変身』カフカ 丘澤静也訳(光文社古典新訳文庫)/奥泉光氏による解説
『ドン・キホーテ』セルバンテス 牛島信明訳(岩波文庫)野谷文昭氏による解説

『赤と黒』なんて、はるか昔に読みましたが、読むのに苦労した記憶があります。
これがあの野崎さんの訳で蘇るわけですから、素直に読みたい、と思わずにはいられません。
(といいつつ、読むのはいったいいつになるのやら)

光文社の新古典文庫、河出書房新社の世界文学全集ともに、これからも目が離せません。
新訳に対しては、賛否ありますが、わたしはどんな訳であれオプションが増えるのはよいという立場です。光文社については訳者の選定にも理が感じられ、わくわくした気持ちを覚えます。

ちなみに、沼野充義氏の解説で印象に残った一文があるので引用します。

「若島訳のほうがはるかに正確だが、それは必ずしも美文になったというわけではない。言わばもやもやとぼかされてなんとなくきれいに見えていた古ぼけた写真が、急にシャープになったかわり、変な細部も見えてきた、という印象なのである」

然り。古典新訳全般に感じられる感覚を見事にあらわしていると思いました。眼鏡をかけたらいきなりすべてがくっきりと見えたかわりに、クラスの女の子が思っていたほど美人ではないことに気づいてがっかりした、というどこかで誰かが書いていた言葉を思い出しました。

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吉祥寺店でロバート・ゴダード5冊。フラッシュ。

『千尋の闇』(上下)ロバート・ゴダード著/幸田敦子訳
『鉄の絆』(上下)ロバート・ゴダード著/越前敏弥訳
『惜別の賦』ロバート・ゴダード著/越前敏弥訳

カフェイン断ちを開始

2007年10月25日 21時56分02秒 | Weblog
放っておくと、ついついコーヒーを飲みすぎてしまい、胃が重くなったり、悪心がしたりする。眠れなかったり眠れても浅くなったりで、生活のリズムも狂ってしまうので、月曜日からコーヒーおよびいっさいのカフェインを断っている。カフェイン断ちは何度かやったことがあるが、毎回しばらくは頭痛がする。これはカフェイン禁断症状として、多くの人に見られる現象ということだ。眠りは深くなったような気がするし、へんに気が移ろったりしなくなる。こころなしか体調も上向いてきたような気もするが、いろいろと禁断症状はあるようだ。頭が痛いし、なんとなくだるい。いつまで続くか分からないが、しばらくこのまま我慢してみよう。



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『短歌という爆弾』穂村弘
『岸辺のアルバム』山田太一
駅前の新古書店で2冊

一に心、二に手綱、三に鞭、四に鐙

2007年10月24日 22時25分12秒 | Weblog
――信州の草原を疾風のごとく駆け抜ける優駿、CoCoさんに捧げる――


乗馬の心得に、こんな有名な言葉があるのだそうです。


「一に心、二に手綱、三に鞭、四に鐙(あぶみ)」


まずその馬と心を通い合わせ、
手綱さばきで馬を支配し、
鞭を使って強弱をつけ、
あぶみに入れた足で踏ん張って、自分の身を支える

なるほど、と思わずはたとひざを打ちたくなるような響きがあります。
このようにして、人馬一体となってこそ、
初めて上手に馬に乗ることができるのだそうです。

思うに、この言葉が指していることは、
どんな分野、どんな道にも通じるのではないでしょうか。

対象と心を通わせ、
うまくそれを捌いて、
ときには(愛の)鞭をいれ、
つかず離れずついてく

まさに、翻訳も同じですね。
馬にたとえるべきは、原文、訳文、訳者としての自分、依頼元?
などなどさまざまでしょうが、
荒々しいこの翻訳馬を上手く乗りこなすためには、
乗馬にも通じる、極めるべき奥深い道があるということでしょう。



といいつつ、わたしの頭の中は、

「一にブックオフ、二にブックオフ、三にラーメン、四にブックオフ」

という状態です。ブックオフ道なら十分究められそうですが(^^;
そろそろ、落馬ですかね...

一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一

昼休み、東中野の無添加ラーメン『好日』にて、つけめん。非常に素晴らしい店。
BO東中野店にて以下の5冊。東中野店は店の雰囲気が落ち着いていてとてもよい。

『大岡昇平』講談社 現代の文学6 (s47年初版)
『コード トゥ ゼロ』ケン・フォレット著/戸田裕之訳
『かくれんぼ』ジェイムズ・パタースン著/小林宏明訳
『ありきたりの狂気の物語』チャールズ・ブコウスキー著/青野聡訳
『文豪ディケンズと倒錯の館』ウィリアム・J・パーマー著/宮脇孝雄訳

100点満点の翻訳

2007年10月23日 23時59分06秒 | 翻訳について
はしくれ翻訳者とはいえそれなりに訳者としての経験年数を重ねていると、以前とくらべて、それなりの訳をそれなりのシチュエーションに応じてそれなりに提出する術を、それなりに身につけ始めているようではある。

むかしなら、50点程度の訳をやってしまったところ、あるいは下手したら赤点取ったとおもえるところも、なんとか、70点くらいの訳は、がんばればできるようになってきたのでは、という感じがしてきた。ただこれはあくまでも昔の自分と比べて相対的に言っていることなので、こんなこと抜かすのは「お前にはまだ早い」とお叱りをいただくかもしれないが、どうぞご勘弁を。

で、自分のなかでの70点の訳が、以前と比べると楽にできるようになってきたとき、さらにここぞ、というとこころでグッと力をこめると、85点くらいの訳もできるようになってきたような気がする。ものすごく調子がよければ、90点、いや奇跡が起これば95点の訳も可能かもしれない。ただし、どうしても100点の訳、というものが作れない。

100点の訳を作ろうとするときは、「トランプでピラミッド作る人」みたいに慎重になって完璧さを追求する。でも、これは完璧だ! という訳ができたためしがない。何度修正しても、どこかに地雷が埋まっているし、どこかに気に入らない場所が残っている。そしてさんざん手を加えた結果、初めに訳したときのフレッシュな感じがなくなって、どこかいいわけがましい訳になっていたりする。しかも、訳文に完璧さを求めるあまり、逆説的にもこうした訳文は、たった1ヶ所の瑕疵によって無残にも粉々になってしまうようなガラスの繊細さを帯びているような気もする。そして、例外ないく、案の定、たった一つの語尾や訳語の選び方によって、自分の描いていた完璧な訳のイメージというものは無残にも崩れ去ってしまうのである。

だが、良く考えてみると「満点の訳文ができた」と思うのは、実は単なる自己満足なのかもしれない。ニコニコして「わたしの訳は満点です」という人がいたらその人はちょっとうさんくさい。それでも、100点の訳を求める気持ちはとても大切だと思うのだ。70点でも90点でもなく、100点。満点をめざし、針の穴に糸を通すような感覚で語を選び、文を作り、文章からうねりを生み出していく。この作業こそが、訳者の技量をあげてくれるものだと信じたいのである。

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『東京タワー』リリー・フランキー
『トレンチコートに赤い髪』スパークル・ヘイター著/中谷ハルナ訳
『何をいまさら』ナンシー関
『似ッ非イ教室』清水義範
『SIDE EFEECTS』Micheal Palmer著
『The Catcher in the Ray』J.D.サリンジャー著/村上春樹訳

武蔵境駅前の新古書点で、脈略なく上記6冊。

翻訳.doc

2007年10月22日 23時23分33秒 | Weblog
翻訳するときにコンピュータでのファイルのやりとりは不可欠です。

というわけで、唐突ではありますが、
今日はわたしのファイル命名方法の習癖についてお話させてください。
(特に目新しい内容ではありません。ほとんどの人にとっては有益な話にはならないでしょう。どうぞすっとばしてください。)

まずは、依頼元からファイルが送られてきます。
これを翻訳してください、といういわゆるひとつの「翻訳対象ファイル」です。

そして、そのファイルの翻訳作業が終了すると、納品します。
これがいわゆるひとつの「納品ファイル」というやつです。

わたしは、この納品ファイルには、
たとえば和訳の場合、以下のような命名規則に従って名前をつけます。

<<オリジナルファイル名>>_J.doc

つまり、_J をつけただけ、という何の芸もないやりかたです。

同じファイルを何度か納品することがある場合などは、

<<オリジナルファイル名>>_J_2007_1022.doc

と日付を入れることもあります。日付は末尾に、これがミソ。

または、個人翻訳者の場合は、以下のように名前を入れてもよいでしょう。
ファイルのステータス(翻訳済み)がわかりやすくなります。出来栄えがよかったときにも、アピールのために、ぜひ。

<<オリジナルファイル名>>_HonyakuTaro_J_2007_1022

わたしがファイルの命名規則で気をつけているのは以下のような点です。すべて基本的なことですが。

1. ファイル名にスペースを入れない
システムによってはエラーになることもあるから。読みやすさを高めるためにはアンダースコア(_)をつかう

2. 付加情報はファイルの先頭にではなく末尾に
先頭に付加情報を入れると、オリジナルのファイル名との対応がわかりにくくなる
末尾にすると、ソートしたときオリジナルの前後に位置されるからわかりやすい。
日付を入れることで、翻訳ファイルにいくつかのバージョンができた場合もきれいにソートできる。

3. できればファイル名にマルチバイト文字は使わない(ftpなどでエラーになることがある)。
ちなみに、#1もそうですが、最近はそんなに神経質にならなくてもよいのかも知れません。

4. なるべくファイル名は変える。できればミニマムの _J or _E で。
同じファイル名だとファイル移動の際に、翻訳済みファイルでオリジナルを上書きしてしまうかもしれない。
(あるいはその逆もある。これは恐怖)。
それに、どちらがオリジナルで、翻訳ファイルなのか開かないとわからない。
ただし、人様のファイル名を変えるというのはあまりよくない、という考え方もあるので、
変えたときは相手に一言添えるとベターかもです。といいつつ、わたしはあまりしません。

と、こんなところでしょうか。自分でファイル名をつけて納品するときは、

<<ファイルの内容>>_<<ステータス>><<作業主体>>_<>>.txt

みたいになります。

何とか様向け○×関連販促資料_翻訳済み_□☆翻訳社_2007_1022.txt

と、かなり長くなりますが、まあ、これだけ長くしておけば、なんとなく
おお、なかなかきっちりしてるじゃないの、
と思われるかもしれないなんていう気もします。

ちなみに、翻訳を頼まれるとき、依頼元が、


翻訳.doc


みたいなものすごいシンプルなファイル名で送ってくるときが結構あります(^^;
もう単刀直入というか、「フロ、メシ、ネル」みたいな世界ですね。

たしかに、頼む側から見れば、「とにかくこれ翻訳してくれ」という気持ちがまずあって、
それがファイル名によく表れているということなのかもしれません。

なんとなく、マラソン大会のゴールでランナーを待ち構えてくれている、
ラーメンの屋台みたいです。
ゴールすると、「ラーメン」ののぼりがハタハタとゆれている。
とりあえず、「さあ、ラーメンあるで!」という空気が屋台からは出ていて、
ランナーも、「おお、ラーメンあるか!」みたいな気持ちで、屋台に駆け寄ります。
こういうときは、頼むとき、
「塩チャーシューラーメン、大盛り麺太目、こってりで」
というところまでのディテールまで考える余裕がないというか、
(もともとそこまでメニューがない)
とにかくもうラーメンがあればそれでいい。
だからとにかく頼むときは「ラーメン1杯!」としか、言わないものです。
そういう切実さを、この「翻訳.doc」に感じます(こう感じるのはわたしだけ?)
(オブジェクト指向的に言えば、完全に「翻訳.doc」という言葉にすべての情報がカプセル化されているということなのでしょうか)

それから、メールの件名にも、同じようなことがあります。
まず依頼するとき見積もりから始まるので、
「翻訳見積り依頼」
みたいなまったく具体性のない件名がけっこうあり、
しかもみんなそれに返信を延々と繰り返していくので、
とうとう数週間後に納品するまで、
「翻訳見積り依頼」がずっと件名のままで、
そしてそれでプロジェクトが終了してしまうこともあります(^^;
先方が翻訳をめったに頼まない会社ならそれでもよいのでしょうが、
こっちはほとんどが翻訳案件だから、けっこうわかりにくいものです。
しかし、さきほどの屋台のラーメンと一緒で、
依頼元の切実な思いを感じられるので、まったく問題ありません!
こちとら客商売ですから!

しかし、こちらから納品するときには、
勝手に適当なファイル名を変えてしまわないように、気をつけたいものです。
たまに、オリジナルのファイル名をまったく無視して、

納品.doc

みたいなファイル名で納品している人がいますが... (^^:
それはいかがなものかと..
まあ、それはそれで納品にかける切実な思いが
伝わってくるような気がしないともいえませんが...

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『スノーグース』ポール・ギャリコ著/矢川澄子訳
『雪のひとひら』ポール・ギャリコ著/矢川澄子訳
『ジェニイ』ポール・ギャリコ著/古沢安二郎訳
『旅行者の朝食』米原万理
『ガセネッタ&シモネッタ』米原万理

荻窪店で5冊。ポール・ギャリコと米原万理氏で「フルハウス」

女もすなる翻訳というものを、男もしてみむとてするなり

2007年10月21日 20時26分07秒 | 翻訳について
某Fアカデミーの課題で、ロマンス小説の翻訳に取り組む。前期にも、リンダ・ハワードのテクストを訳したことがあったので、わずかだが免疫はある。作者も女性、登場人物も女性、内容は、母親と娘の会話が中心。さすれば当然、訳者も女性になった気持ちで臨むべきだろう。そのために、今日は一日、女装して作業に取り組んだ(これはうそ)。

普段、ほとんどといっていいほど、原文の執筆者の性を意識することはない。実務翻訳では、書き手の名前が前面に出てくることはあまりないし、文章もユニセックスな文体で書かれている。ビジネス系では有名どころがものした記事など訳すことがあるが、たいていはおっさんである。だから、男性のわたくしとしては、自分がおっさんになったつもりで訳せばいいので、それほど苦にはならない。すでに自分はおっさんであるともいえるし、おっさんの気持ちは、女性の気持ちよりは、はるかによく分かるような気がするからだ。そもそも、実務翻訳や堅めのノンフィクションの世界では、著者の個人性がベッタリ表れることはないし、砕けたセリフや感情描写もほとんどない。だから著者が男か女かということは、それほど問題にならないのである。

翻訳業界は、女性が多いところだ。まったくの主観だが、翻訳者に限れば、おそらくは7:3から8:2くらいで女性の方が多いのではないだろうか。少数派の男性としては、なんとなく肩身が狭いような気もするときもあるが、少数派なりの特性を活かしていければよいのではないかと思っている。通訳の場合、さらに女性の比率が高い。ただ、男性通訳者も少数派だけに有利な点もあって、聞くところによると、たとえばとても女性が行けないような僻地などでの通訳には重宝されることがあるらしい。喜んでいいのか悲しんでいいのかわからないが。

しかし、女性に囲まれるのが悪い気がするわけもなく、またそんなことで悩んでいられるほどいろんな意味でもはや余裕もなく、業界に長くいて慣れてしまったこともあって、普段は特に自分が男性であることを意識したりはしない。

ただ、今日のように、作者が女性であることが明確で、さらに登場人物も女性、というものを訳していると、さすがにいつもと勝手が違って、性を意識せざるを得ない。うまく訳せないのはもちろん(原因はもっと根本的なものかもしれないが)、普段自分がいかに男性主義的なものの見方をしているか、ということも痛感する。この業界で多数派を占める女性も、男性が書いた文書を訳すときに、男にはわからない苦労をしているのだろうな、ということを感じるのである。

男性が書いた文章の中で、女性の台詞が書いてあるとき、それはまだ訳しやすい。一度、男性というフィルターを通して書かれた女性だから、なんとなくそれなりの女性像というものを心に描きやすいのだ(男性から見た、理想化した女性?)。だが、作者が女性であるということがわかっていると、やはりどうしてもこのごまかしは通用しない、という気がする。

とはいえ、男性が書いたものを女性が訳したとき、男性ー男性の視点だけでは生まれてこない、多面的な視座がひらけるのも確かだろう(逆もまた然り)。そこには、より客観的な、性を超えた人間像というものが感じられる気もする。

しかしよく考えてみると、これは男女の性だけの問題(もちろん、「性」というのはもっと多様なものである)ではなさそうだ。翻訳者なるもの、作者の年齢であるとか、その文章が書かれた年代であるとか、もっといえば作者の性格であるとか、育ち方とか、そのほかもろもろの作者情報を鑑みて、その作者を演じる、ことが求められているのだから。

ただ、そうはいっても読者はやっぱりロマンス小説の訳者は女性であってほしい、と思うかもしれない。そういうわけで、今回の課題は、「無苦小富子(ブクオフコ)」のペンネームで提出してみたいと考えているのである。

二兎を追うもの it を得ず

2007年10月20日 21時28分32秒 | Weblog
朝6時に起きる。やらなくてはいけないことがあるからだ。今日は夏目チルドレンの勉強会、「あさま組」に初めて参加させてもらう日。何度か、参加メンバー6人が提出した訳文を読みかえす。言葉は人なり、というけれど、それぞれが自分にはない語感を持っている。見習うべき点が多々あって、なるほど、と思わされることしきり。いったい、どんな風に勉強会は行われるのだろう。

それからおもむろに通訳学校の宿題をするが、山もりの宿題を前に、プチ8月31日状態。といいつつ、この危機感をよそに、天気のよさに誘惑されて、ジョギングに。柴犬を追いかけているうちにちょっと走りすぎ、時間オーバー。あわてて家を出る。駅までの徒歩20分の道のりは、通訳学校の宿題範囲の単語を暗記するために、両手で冊子を持って音読しながら歩く。この「二宮金次郎」方式の単語暗記法は、前期でも常套手段だった。歩くことで脳が刺激されるのか、実はこれかなり効果的だ(ちなみに、通勤時、私的な読書をしているときも、よく金次郎してます)。ただし、信号を渡るときは危ないから気をつけた方がいい(誰へのアドバイス?)。

銀座のルノアールにダッシュで到着するも、遅刻。みなさま、どうもすみませんでしたm(__)m。錚々たる顔ぶれの夏目会の面々を前に、借りてきた猫のようになりつつも、勉強会に潜入させていただく。勉強会は真剣そのもの。鋭い意見が飛び交う。ふ~っ。緊張。夏目さんがコメントすると、夏目さんの授業を受けていた、2年前の記憶が蘇ってきた。あっという間に2時間が経過し、終了。あらためて、遠方よりお越しのHさんの熱意、人としての偉大さに感服する。みなさま、ありがとうございました。ゆっくりお話できず、残念でした。次回は昼食会、参加させていただきたいと思います。今度は、俎上に乗ります。容赦なくお願いします(ただし、命だけはとらないでください)。

ダッシュして通訳学校に。こちらはセーフ。しかし単語テストでは案の定、無残な結果に。二兎を追うもの,,,なのか。頭を切り替え、通訳訓練に集中。通訳に問われるのは、瞬発力。翻訳が将棋なら、通訳はあっちむいてホイ。露骨に差があらわれる、力の世界。日本語または英語を立て板に水のようにきかされ、さあそれを訳せといわれる。誰が当てられるかはかわからない。ちょっとこれは当ててほしくないな、と思っていると当てられる。じゃあ自分に当て欲しいと思うと当てられないか、というとそうではなく、空気を察知されるのかやっぱり当てられる。答えられないとき、時はとまる。1秒は1分の重みで進んでいく。

早口の英語を聞かされ日本語にしろといわれて身じろぎもできず

と、真っ白な頭で一句詠みたくもなる。力を振り絞って終了。やはりこれはこれでトレーニングとして続けていくべきだ、と再確認。

々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々々

『クッキング・ママは名探偵』ダイアン・デヴィッドソン著/矢島尚子訳
『クッキング・ママの操作網』ダイアン・デヴィッドソン著/加藤洋子訳
『クッキング・ママの名推理』ダイアン・デヴィッドソン著/中井京子訳
『クッキング・ママの召喚状』ダイアン・デヴィッドソン著/矢島尚子訳
『東京恋愛事情』永倉万治
『荒木のおばさん』永倉万治
『みんなアフリカ』永倉万治

荻窪店で上記7冊。母親が好きだったクッキング・ママシリーズと、まだほとんど読んだことがなかった永倉万治氏で「フルハウス」

翻訳は誰のものか

2007年10月19日 23時06分33秒 | 自薦傑作選
最近すっかり頭の中が翻訳のことで一杯なので、コロっと忘れていたのであるが、良く考えてみると、ちょっと前(といっても十年以上前だが)、ちょうど今、眼が覚めている間のほとんどの時間、翻訳についてあれやこれやと考えているのと同じように、僕は映画についてあれこれと思いをめぐらせていた。

あるいは、映画の世界ではなかなか自分の居場所がみつからなかった僕は(正確には、居場所をみつけ出そうとする根性も行動力も才能もなかったのだが)、映画というテーマを考えるフリして、自分の行く末を案じていただけなのかもしれない。映画が好き、ということと、自分の一生をどう生きていけばよいかということが、いくらあがいても、うまくリンクしなかったのだ。

映画の周辺をウロウロとしていたそんな時代、おなじく映画について絶えず考えている友達がいた。僕以上に映画を深く考え、映画そのものを生きていた。彼は、本気だった。映画という夢に向けて、常になんらかの行動を起こしていた。だから僕は、彼といると、ちょっとした負い目を感じて、落ち着かない気分になることもあった。その友人がポロリといった言葉で、なぜだか今もとても心に残っているものがある。

「映画は誰のものでもない」それが、彼が吐いた言葉だ。何の変哲もない科白。映画は誰のものか――、そのときの話題が何だったのかはわからないが、おそらくはそんな話をしていて、たぶん評論家と呼ばれる立場にいた誰かが、映画について、よくある「こうでなくてはならない」式の語りをしたのだと思う。友人は、苛立っていた。

確かに、映画は誰のものでもない。脚本家がいて、監督がいて、出演者がいて、プロデューサーがいて、そのほかたくさんの製作関係の人がいて、観客がいて、その映画を好きになった人がいて、その映画を嫌いな人がいて、その映画にまったく興味を持たない人がいる。でも、映画はその誰のものでもない。誰もがその映画を手にすることができると同時に、それは誰かが所有できるようなものではない。個々の映画についてもそうだし、総体としての映画についてもそうだ。誰かが映画とどう関わりあうかということを、誰かが規定することなどできない。自分が求める理想の映画像を、他人に強制することもできない。友人の言葉を耳にしたとき、手に入れかけていたものが、すっと指の間からこぼれ落ちていったような気がした。肩の力が抜けたような、目の前の霧が晴れていくような、あるいは、ちょっとした悟りにも似た気持ち。

あるとき、映画仲間の先輩が、「本編が終わった後に流れるエンドロールには、映画を作った人たちの名前が書かれている。だから、映画を愛する人間ならば、作り手に敬意を表するために、本編が終わっても、エンドロールをきちんと最後まで見納めるまでは、席をたってはいけない」のだ、と言った。若かった僕は、その教えを神妙に受け取って、その後しばらくは、毎回映画をみるたびに、エンドロールをひたすらに眺めていた。必死に作り手の人たちのことを想像しながら。

今でも、その考えには共感できる。エンドロールを眺めながら、これだけたくさんの人が一本の映画作りに携わったのかと、嘘偽りなく、感慨深さを感じている自分がいる。それがよい映画であればなおさら。そもそも、何もあわてふためいて、場内が暗いうちからそそくさと外に出る必要はない。そんなに忙しいのなら、初めから映画なんか見なかったらいいのだ。でも、こんなことは本当に当たり前すぎて書くのもはばかれるけど、エンドロールを最後まで見るべきだ、というその先輩の考えは、単なる一つの意見、考え方にすぎない。だから、それを「すべきだ」と人に言うことではないのだ。なぜなら、映画はその先輩のものではないし、誰かが映画をどうみるか、ということが先輩によって決められてよい理由などどこにもあろうはずがないからだ。もちろん、先輩にどこまでその気があったのかはわからないし、その言葉を真に受けてしまった自分も青かった。だから彼個人を責める気持ちはもはやない。

今となっては、友人が苛立っていたことが、このエンドロールのたとえと同じようなことに対してだったのかすらもわからない(おそらくはもっと形而上学的なテーマだったと思う)。ともかく、その言葉が僕の心に今でも鮮明に残っているのは、映画を愛し、映画に入れ込むあまり、映画を独占し、映画が自分の意のままにあってほしい、と思う心への、はっきりとした拒絶を示していたからだと思う。そして、それがどうやら真実めいたものを表しているだろうことも、そのときなぜか直感的にわかったのだ。

誰のものでもないのは、映画に限らない。自分の所有物だと法的に認められているものですら、ひょっとしたら自分のものではない。愛する人の心も、自分のこの体も、大好きなあの歌も、この本も、実は自分のものではないし、誰のものでもない。そして、もちろん翻訳も。

翻訳への愛や情熱は、常に危険と隣りあわせだ。そうした心は、ときに翻訳を独り占めし、翻訳が自分の思いどおりでなくてはならない、との錯覚を生む。目の前に翻訳はある。手で触れることもできる。もちろん、「仮に」あるいは「一時的に」翻訳を所有することはできる。そしてそれを深く愛することもできる。人間だから、そして僕のように不完全な人間ならなおさら、愛する翻訳を自分のものだと思いたがる。そして結果的には、不本意だけど、僕も他人からみたら「エンドロールの先輩」の一人だと思われていることもあるのかもしれない。だけど、心の奥底ではこう思っている。翻訳は、誰のものでもない。

’’’’’’’’’’’アア,ナンテチュウショウテキナハナシ…スミマセン’’’’’’’’’’’

荻窪店で以下の7冊。今日は、ジェフリー・アーチャー×永井淳で「フラッシュ」

『百万ドルを取り返せ!』ジェフリー・アーチャー著/永井淳訳
『ケインとアベル』(上下)ジェフリー・アーチャー著/永井淳訳
『ロスノフスキ家の娘』(上下)ジェフリー・アーチャー著/永井淳訳
『十二本の毒矢』ジェフリー・アーチャー著/永井淳訳
『新版 大統領に知らせますか?』ジェフリー・アーチャー著/永井淳訳



フルハウス

2007年10月18日 23時57分39秒 | Weblog
なんだか、公私ともにだんだん忙しくなってきた。
まわす皿の数が多く、あちこちに気を配っている。すべてが大事な皿。
(でも、何枚かはすでに地面に落ちて粉々に砕け散っているようにも思える)
キャパは満杯、フルハウス。
あの件で電話、この件でメール、その件でレビュー、例の件で会議。
会社の外でも忙しい。むしろこっちが本番か。
何やってんだ俺、とわれに返り、自分最適化を実行。
そういうときに限って、新規案件さん、いらっしゃい。
まるでビリーミリガン。しかも頭の中では、絶えず別なストーリーが進行中。
でもかまわない。必要は発明の母。自分ストレステスト。
忙しさの中からこそ、新しいメソッドは生まれるのだ。

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『羊たちの沈黙』T・ハリス著/菊池光訳
『ハンニバル』(上下)T・ハリス著/高見浩訳
『冷たい夏、暑い夏』吉村昭
『私の文学漂流』吉村昭
『遠い幻影』吉村昭
『死のある風景』吉村昭
『史実を追う旅』吉村昭
『光る壁画』吉村昭
『桜田門外の変』(上)吉村昭 ※よくみると上巻だけ

荻窪店で、上記含め12冊
T・ハリスと吉村昭で「フルハウス」

ファーストキス

2007年10月17日 22時51分26秒 | Weblog

仕事のあと、8時から、
吉祥寺のイタリアンレストラン『プリミ・バチ』で、
とある女性と待ち合わせて食事。そう、ヨメです。
http://r.gnavi.co.jp/primibaci/

われわれはめったに外食などしないのですが、
うちらもたまにはひとなみにジョージタウンにシーメでもいこうか!
ということになり、
職場に吉祥寺在住暦の長い方がいらしたので、
その人にいくつかオススメのお食事どころを
教えてもらっていたのです。ステキな店ばかり、5件。
今日は、その中の1件に、というわけでここに。

料理はすべて美味しかったのですが、麺好きのわたしとしては
「ズワイ蟹と渡り蟹をふんだんに使ったスパゲティ」が気に入りました。
パンも美味い! パンは、オリーブオイルとバルサミコ酢につけて食べるのですね。
おかわり2回もしたら、メインディッシュがくるまえにハラ8分目に(^^;

ギャルソンもとても感じがよくて、テラス席で優雅に食事をしていると、
なんだか外国にきたみたいです(飛行機代、浮いた)。

なんだかんだと話をしながら、あっという間にときはすぎる。
話題の中心は、わたしの口からはやはり翻訳Love話、すると
負けじとヨメの口からは司書Love話が。お互いに相手の話、聞いてません(^^;
豪華なデザートを食べ終え、店を出る。ああ、一夜の幻。

すぐ近くにやきとりの『いせや』あり。井の頭公園をぶらり。雰囲気ありますね~。
Myプランでは、このままブックオフにいって、
ヨメに「さあ、ここがぼくがいつもきている古本屋だよ、どう?楽しいところでしょ?」
と、かっこよく男の世界を垣間見せよう(自分のオタク行為を正当化しようと)
と思っていたのですが、飲みすぎてにわかに気持ち悪くなった
ヨメはそれどころではなく、家に直行。やっぱりほっこりして落ち着く。
「あ~やっぱり家が一番」と、どちらからともなくいい、
「だったら最初から外出すな」、と嘉門達夫並のツッコミを同時にふたりで。

そんなわけで、今日は1冊も本買わず。断食ならぬ、断ブク?
ちなみに、気がつけば、新たな〆切にむけ、小さな炎が... やばい。

「プリミ・バチ」の意味をギャルソンに訊いたら、
イタリア語で、ファーストキス、という意味だと教えてくれました。
由来は、いつも初々しい気持ちを忘れないように、とのこと。

「なるほど、そうなんですか。ロマンチックでいいですね~」といいつつ、
はるか遠くの記憶を思い起こしていたためか、その瞬間、
われわれふたりの目線は、虚空をさまよっておりました。