イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

28年ぶりの島根県浜田市再訪記 ~君の唄が聴こえる~ その2

2009年08月20日 19時02分45秒 | 旅行記
十才は、子どもが一番、子どもらしくいられるときかもしれない。まだ大人じゃない。まだ「大人の始まり」でもない。子どもが全面的に子どもでいられるとき。子どもが子どもとしての完成形を迎えるとき。山本山の海苔が、上から読んでも下から読んでも「山本山」であるのと同じように、身体も心も頭のなかも、どこから見ても子どもなとき。

十才の僕たちは、大人の世界の入り口のすぐ近くにいながら、自分たちがこれから大人になろうとしていることを実感できないまま、あるいはそんなことなどまるで考えてもいないかのように、子どもだけの世界をひたすらに駆け回っていた。十才は、子どもであることの天才(十才だけに、テンサイ)なのだ。

小学生も高学年になると、やがてみんな大人の世界に入り始める。子どもという幼虫の時代を終えて、大人になるための長い「さなぎ」の時代に入っていく。子どもであることを止め、大人になろうとする。自我に目覚め、性に目覚め、社会に目覚め、その他もろもろに目覚める。音楽を聴く、煙草を吸う、化粧をする、夜更かししてラジオを聴く。目覚まし時計が鳴っても起きられなくなる。何もかもが面倒くさくなる。そうして大人になっていく。それはワクワクするけど、辛いことでもある。だが、十才の子どもには、大人になることへの不安を感じるヒマはない。子ども稼業が忙しすぎるのだ。

純粋に子どもでいることができた時代の終わり、子どもであることを名残惜しみ、残りすくない「子ども時間」を燃やし尽くすかのように、僕たちは毎日を生きていた。学校が終わると、ランドセルを家に置いてすぐに外に飛び出し、日が暮れるまで遊んだ。授業中も同じだった。とにかくよくしゃべり、動き、本能のままに行動し、笑った。勉強と遊びの区別はあまりなかった。

そして、誰にとっても特別な十才という年齢をさらに特別なものにしてくれたのが、4年2組の仲間であり、景山先生だった――。振り返ると、それがいかに幸福な出会いだったのかがよくわかる。今でもこれだけ大きな思い出として残っているのは、単に僕が十才だったからだけではない。十才という特別な時間を、さらに特別なものとして生きることができたからだ。

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返事を出してから44分後、エイコちゃんからまたメールが来た。なぜ僕にメールを出したのかという経緯が、23行にもわたって記されていた。28年分の時間が圧縮された、zipファイルみたいなメールだった。

※前から二列目左から二人目が僕です(なぜかしかめっ面)。

(続く)

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3 コメント

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同じ場所で (たら)
2009-08-21 01:05:45
校門入ってすぐ右にある庭園?みたいな場所。
今回同じ場所に立ってみたけど、当時記憶し
てたのより小さくってmakoちゃんと驚いた。
私らの身体がおっきくなったから…。1.5倍くらいになってるもんね。
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小さかったね (iwashi)
2009-08-21 09:56:14
当時のたらさんも小さかったけど(^^)、あの場所自体こんなに小さかったなんて驚きだったね。でも、28年ぶりに会ってすぐあの場所で写真撮れて感動したよ。この写真はやっぱり忘れられんね~。
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この写真 (大畑 貴行)
2017-09-24 17:01:13
この写真
もってるわー
懐かしい^_^
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