イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

翻訳そぞろ歩き12「夏目大さんと行く横浜編」11月21日(日)開催のお知らせ

2010年10月28日 00時21分28秒 | Weblog
先日告知いたしました横浜そぞろ歩きの件、ブログに告知をアップデートいたしました。
夏目さんと横浜を歩けるまたとないチャンス!みなさまふるってご参加くださいませ~(^^)/

翻訳そぞろ歩きのブログ

28年ぶりの島根県浜田市再訪記パートII ~いつまでも、僕は君を待っている~ その2

2010年10月25日 06時56分57秒 | 旅行記
8月13日。JR中央線「武蔵境駅」4時45分発の中央線に乗った。目指すは。浜田駅。広島から高速バスに乗り、予定通りなら到着は1時頃になるはずだ。駅ではイットマンが待っていてくれることになっている。

こんな早朝にもかかわらず、電車内は混んでいた。ガラガラの電車での快適な東京駅までの旅を予測していたので少々面食らう。こんなに朝早いのに、なぜこんなに混雑してるのだろう? みんないったいこれからどこに行くのだろう? でも考えてもしょうがない。行く先まではわからないが、ともかく今はお盆。全国津々浦々からやってくる人々が多く暮らす東京では、誰もが故郷を目指す時期なのだろう。それに、そう考えているのはみんなも同じかもしれない。僕だって車内のスペースを狭くしている要因のひとつなのだ。

中央線の車窓に映る見慣れた光景を長めながら、一年前の自分を思い出さずにはいられない。去年は、ものすごく気分が高揚していた。たしかあの時は前夜にほぼ徹夜してしまい、何が何だかわからないままダッシュして怒濤の中央線に飛び乗ったんだっけ。緊張のあまりスペースシャトルに乗り込む宇宙船の船員のような心境だった。浜田は、一年前の自分にとっては宇宙に匹敵するほどの未知の世界であり、ホームに佇む出発前の新幹線が、「スーパーおき」が、時空を超えて異次元に旅立つタイムマシンか銀河鉄道999のように見えた。実際、広島から高速バスにのるべきところを新山口経由の「スーパーおき」というアホなルートを選び、さらには新山口で3時間も待たされたあげく、ようやく夜の7時に浜田駅に到着したときは、月面に降り立ったアームストロングのような気持ちになったものだ。それが今や、社員旅行先の熱海に温泉旅行に出かける勤続18年目のサラリーマンのようなくつろいだ気持ちでいる。あまりにも緊張感を失いすぎだろうか。

一年前と、何が変わったのか? 何も変わってはいない。相変わらず僕は日々の暮らしに翻弄され、些末なことに視野を奪われながら、迷いの多い毎日を生きている。強いて言えば、変わったのは、ひとつ年をとったこと、そしてお腹周りの贅肉が増えたことくらいだ(推定、約5キロ増)。たしかに去年みんなと再会して、素晴らしい体験をして、僕は有形無形の大きな力を得た。だが、一年ぶりにみんなと会って、どんな気持ちになるのかはわからない。その答えは、数時間後に降りたった浜田の地が教えてくれるだろう。

去年の旅が、28年という長い年月をかけて氷のように固く冷たく風化させてしまっていた記憶を溶解させるものであったのならば、今回は、まだまだフレッシュな味わいが感じられるボジョレ・ヌーボーを、1年ぶりに解禁させる気分。前世での出来事かと錯覚するほど時間的隔たりのあった懐かしい友との幼少時代の記憶を辿るのではなく、昨夏の楽しい思い出が蘇る。僕は昨年のような決死隊のような心境ではないが、そもそも前回と同じように緊張するほうがおかしいのだ。

あっという間に東京駅。新幹線の切符を買ったのはほんの数日前だった。6時00分発のグリーン車。去年の浜田再訪では、もちろんグリーン車などには乗らなかった。だが、今年は経済的にもかなり余裕ができたので、迷わずグリーン車のチケットを購入した。というのは嘘で、前々から浜田に行くことはわかっていたはずなのに、ギリギリになってようやく切符を買いにいったので、指定席も自由席も満席で、グリーン車しかなかったのだ。

構内で弁当とお土産を買った。前の晩にタイミングよく見たテレビの駅弁特集で予習していたので、買うのは「深川めし」に決めていた。改札をくぐり、この際だから「毎回グリーン車に乗っている然」をさりげなく装って、さっそうと『のぞみ』に乗り込んだ。グリーン車はやっぱり何かがちょっと違う。何かが少しだけ違う。嫌味なくらい違う。スペースが広い。おしぼりも出てくる。飛行機みたいに前の座席の背面の網目のラックに雑誌も入れてある。僕はこの手の雑誌がとっても好きで、旅をすると荷物になるのがわかっていながら必ず旅の間中ずっと旅行鞄に入れて携帯する。光り物を好んで収集するカラスと同じだ。

前の席で携帯型のゲームに興じているは子どもをぼんやりと眺めながら、博多に向かう列車に充満する「西日本の気配」を感じた。東海、関西、中国、そして九州。僕の父親の故郷は福岡市の大名で、母親は山口県の向津具という辺境の地の出身だ。僕自身は鹿児島で生まれ、5才で浜田に越し、その後、金沢、舞鶴、京都市、大津市と転々として、10年前に上京した。つまり、僕の人生を地図上で辿れば、西から東への民族大移動なのであり、東京から福岡へと走り出そうとしている列車は、さながら僕の半生を時系列に沿って回顧する絵巻物のようにも思える。車内で人々が話す関西弁、広島弁、九州弁的な言葉が懐かしい。やっぱり自分は西の人間なんだとあらためて感じる。何しろ、茨城以北には行ったことがないのだ。

6時ちょうど、西日本軍団を乗せたのぞみ1号が走り出した。車窓に映る模型みたいな街並みが次々と過ぎ去っていき、徐々にリアリティが失われていく。これが僕の生きている場所なのか? 都市でのうたかたの日々を生きる僕のスイッチはオフになり、西の地で過ごした時代にいつも身近に感じていた、いにしえの自分に立ち戻っていくような気がした。

速報!! 翻訳そぞろ歩き12 「夏目大さんと行く横浜編」11.21(日)開催します!

2010年10月20日 13時11分09秒 | Weblog
===速報===

11月のそぞろ歩きは、私の師匠である夏目大先生をスペシャルゲストにお迎えして、横浜編として開催いたします。

開催時間は10:00~14:00頃を予定しております。
近日中に詳細を決定し、あらためて告知いたします。

横浜散策の達人、夏目さんと一緒に横浜をそぞろ歩けるまたとないチャンス。みなさまこの機会にぜひご参加くださいませ!



永遠のフィッシュ・ショップ

2010年10月12日 18時46分15秒 | Weblog
家の近所に、商店街がある。といっても、八百屋さん、お肉屋さん、そして魚屋さんの3件が隣接しているだけなのだけど。

ジョギングの途中でよく通る道にあるから、たまにこの3店で食材を買うこともあった。そこそこに繁盛しているようではあったが、おそらく地域の多くの人たちは、買いもののメインは大きなスーパーですませていて、ちょっと足りないものがあったときに、これらの店を利用しているのではないかと思われた。店構えはどれも年季が入っており、古き良き昭和を感じさせる。近くに大型のスーパーができる前は、おそらくこの商店街には今の何倍も活気があったのだろうと推測した。

面白いもので、八百屋さんは八百屋さんの、お肉屋さんはお肉屋さんの顔つきをしているような気がする。僕が一番多く利用しているのは魚屋さんで、500円くらいの刺身をよく買う。店舗は小さいが、主人であるかなりのご高齢の夫婦は、毎朝市場で仕入れてくるという新鮮な魚をガラスケースに敷き詰めた氷の下に綺麗に並べ、頻繁に打ち水をしたりして気持ちよい雰囲気を作り上げていた。こちらが注文した品を袋につめ、おつりを勘定しながら、「今日のイサキはイキがいいよ!」とか、「氷を入れておいたからね」とか、必ず一言添えてくれた。その仕草や言葉が、いかにも気っぷのいい魚屋さん然としていた。こんなちょっとしたやりとりに、いつも心温まる思いがした。

ここ最近、魚屋さんのシャッターが閉まっていた。気になって今日、注視してみると、シャッターに張り紙がしてあった。閉店のお知らせだった。何度か、臨時休業のお知らせの貼り紙をみたことはある。そのたびに、ご高齢のご主人の具合を心配してみたりもした。だが今回は臨時休業ではなく、永続的な終わりを意味する閉店のお知らせだった。

「明治、大正、昭和の時代から、皆様には大変お世話になりました...」閉店の知らせとともに、簡潔な文章で、長く懇意にしてきた客への礼が記されていた。歴史ある店だと思ってはいたが、明治の時代から営業していたとは思わなかった。当時、この地域にはどれだけの人が住んでいたのだろう? おそらくは今の何十分の一の人口しかいなかったに違いない。当時、この地域すむ人々の多くが、この魚店を訪れていたことだろう。

閉店の理由は「一身上の都合」。前々からご引退を決められていたのかもしれないし、そうであって欲しいと願うけれど、かなりのご高齢にもかかわらずハードワークを続けておられたから、ひょっとしたらご主人または奥様に万一のことがあったのかもしれないと心配もしてしまう。100年近く、あるいはそれ以上続いた伝統のお店が、ひっそりと姿を消していく。もうあのご夫婦の笑顔に触れることもできない。たった一枚の貼り紙に、万感の思いが込められているような気もしたが、その重さは僕などが軽はずみに言葉にできるようなものではない。思いの深さは当人たちにしかわかりえないものなのなのだろう。

出合いがあればかならず別れがあるように、始まりがあればかならず終わりがあるように、僕が日常だと感じているすべてのものにも、必ずいつか終わりのときがくる。僕の「イワシ翻訳店」にもいつか、シャッターを下ろし、貼り紙で閉店をのお知らせを告げるときがくる。僕の職業人としての人生はまだまだこれからだというのに、そんな風に黄昏れているわけにはいかないのだけど。あの魚屋さんは本当にプロだった。魚を買う度に、いい品を安く提供し、客を気持ちよくさせる言葉を投げかけてくれるこのお店に、働く者としての凄みを教えられるような気がした。分野は違えど、諸先輩方が刻んできた歴史に敬意を表しつつ、今はただ、いつか必ず訪れるその終わりのときに向けて、毎日を生きるしかない。



自営業のための、自衛のルールズ

2010年10月11日 06時29分49秒 | Weblog
自宅でパソコンを使って仕事をしていて、何が困るかっていうと、
仕事道具であるパソコンそれ自体が、最大の誘惑要因であるってこと。

例1:
仕事をしている。うまく訳せない箇所や、調べ物が必要な箇所に出くわす。
ググっていろいろと調査する。それでもわからない。いつのまにか、Youtubeの樹海を彷徨っている。

例2:
仕事をしている。メールをチェックする。yahooメールをチェックしたついでに、yahooニュースの見出しが目に入る。「芸能人の誰々と誰それが熱愛云々」とかいう文字が瞬間的に海馬にインプットされる。たいして興味はないはずなのに、ほとんど無意識にその芸能人についてググり、Wikipediaで出身地から何からひとしきりその人となり、生き様を回顧してしまう。そしていつのまにかまた、Youtubeのサハラ砂漠を彷徨っている。

他にも、twitterやパソコンで聴くpodcastなど、仕事を妨げる要因は数限りなく存在する。仕事が捗らないときは逃避で、仕事が捗っているときは「"ながら"でも大丈夫だろ」という余裕で、これらのメディアにアクセスしてしまうのだ。これはかなり深刻な問題である。

以前はインターネットの誘惑を遮断するため、LANケーブルを抜いたりしていたこともあったが、それはそれでなんとも捨て鉢な気分になってしまっていいようのない寂寥感に苛まれたりもしたので、以下のようなルールを設定することにした。

・メールチェックは2時間に1回。
・ブラウザは立ち上げない(調べ物はハードディスクにインストールした辞書で。ググる必要があるときは、チェック時にまとめて調べる)

これを実践すると、集中力はかなりアップした。
また、1時間に1回、強制的に休憩を取るようにしたら、途中でだらけなくなった。

実際はこのルールを守れず、ぐだぐだになる時間帯もあるのだが、ともかくこのようにディシプリンを自分に課していくことは、自己管理能力が極度に低い僕にとっては必要だと自覚している。

その他にも細かい工夫の余地はたくさんある。追々、それらについても言及してみたいと思っている。

翻訳そぞろ歩き11「阿佐ヶ谷編」10月30日(土)夕~に開催いたします。

2010年10月08日 20時56分02秒 | Weblog
先月雨のために中止いたしました阿佐ヶ谷散策ですが、10月30日(土)の夕方に開催することにいたしました。

今年はあまりも夏が強烈だったからか、秋の存在をあまり実感できていないのですが、月末も近づけばそのチャンスも増えてくるのではなかろうかと思います。中央線精神にのっとり、阿佐ヶ谷から高円寺にかけて、気の向くままそぞろ歩いてみたいと思います。ご興味のある方、ぜひお気軽にご参加くださいませ。

ブログに告知をアップいたしました

週休3日制な世界

2010年10月07日 13時05分27秒 | Weblog

ずいぶんと以前から、寝るときに布団のなかでなぜか考えてしまうのだ。「全国的に週休3日にしたら世の中もっとよくなるんじゃないかなあ」、と。僕は自由業だから休日は関係ないのだけど。

会社員時代、祝日がきたら嬉しかった。みんなもとっても嬉しそうにしていた。いつもなら働くべき日のカレンダーの数字が、赤で表示されていると、とてもラッキーな気がしたし、大型連休にもなると血が騒いだ。みんな、ここぞとばかりに、旅行にいったり、遊びにいったり、家庭菜園の畑をいじったり、秋葉原のメイド喫茶に行ったり、それぞれ好きなことをして時間を過ごす。

自分もまったく同じ気持ちだったのだけど、ひとつ、不思議に感じていたことがあった。

ほとんどの人が休日を好ましいと考えているようなのに、なぜ誰も休日を増やすための努力をしないのだろうか?

そんなに休みが好きなら、祝日を増やすための行動をとればいいじゃないか。毎週金曜日を全国的に休日にするような活動をしたっていいじゃないか? 1ヶ月、強制的にバケーションをとらなければ禁固刑とかにすれば、もっとみんな自由を満喫できるじゃないか(といいつつ、僕も何にもしていなかったのだけど)。

ただし、問題もある。日本全体がたとえば金曜日を祝日にしてしまったら、企業の国際的な競争力が落ちる。世界が必至に働いているときに、日本だけが休んでいたら、あいつらはグータラ者だと思われるし、海外と取引している企業は、仕事上いろいろと支障がでるだろう。

だから、僕の寝る前の妄想計画では、国民全体を月~木まで働く人と、木~日まで働く人の2つにわける。そして、会社は月~日まで休み無く稼働するようにするのだ。

そうすることで、雇用も増えるし、企業の競争力も高まる。会社のインフラを有効に活用できる。企業が休み無くフル稼働すれば、海外が休んでいる土日の間に、日本の企業は大きく前進できる。

木曜日だけは、全社員が出社する。そこでいろいろと引き継ぎしたり、会議をしたりするのである。嫌な上司が月~木で働いていたら、木~日のシフトに変えてもらう。そうしたら、その嫌な上司と会うのは木曜日だけで済む。シフトを変えてもらえなかったとしても、週4日我慢すればいい。少なくとも3日は仕事を忘れて自分の時間を過ごせるのだ。

「日本は週休3日らしい」という評判が海外にも伝わって、日本は働きやすい国、人生をエンジョイできる国として、世界からよい人材も集まってきてくれるかもしれない。

サービス業もほぼ毎日平均的にお客さんの入りを見込めるし、人が休んでいる土日に働かなきゃいけない、というネガティブな気持ちを抱かなくてもいい。通勤ラッシュだって改善されるだろう。

と、妄想はどこまでもつづくのであった。

自分はもう会社員ではないし、たとえ週休3日の世界が実現したとしても、今と同じでほとんど無休で働かなくてはならないだろう(翻訳会社が毎日営業していたら、土日でもいつ仕事の依頼がくるかもしれないとおもって落ち着かなくなりそうだ)。

いったいなぜこのようなことを考えてしまうのだろうか? 3日ほど休みをとってじっくり考えてみたいところである。



感想戦

2010年10月06日 13時30分16秒 | Weblog
翻訳は将棋に似ている。相手(原文)の動きによってこちらが打つべき手(訳文)が変わるところ、絶対に正しい手というものがないところ、ひとつとしてまったく同じ内容の対局(仕事)が存在しないところ、集中力がとても重要であるところ、ひとつの仕事に数時間から数日が必要なところ、納期(時間制限)があるところ、年をとっても続けられる仕事であるところ、頭が冴えていなければよい仕事ができないところ、座ったまま仕事をするところ、髪の毛に寝癖が残っていても特に大きな仕事への支障はないところ(羽生さん限定)、などなど、その共通点を挙げていけば枚挙にいとまがない。それだけに、プロ棋士の方々の仕事への取り組みとか、考え方にはとても興味があるし、学ぶべきことが多々あると感じているのである。

テレビで将棋の対局をみていて、これは見習いたいと思うのは、対局が終わった後も、すぐにその場を立ち去るのではなく、お互いに手をさかのぼって振り返りながら、ああでもない、こうでもない、あそこはよかった、ここが失敗したと、感想を述べ合う点である。これを、「感想戦」というらしい。粋な言葉、粋な風習ではないか。

感想戦の最中のふたりの棋士の表情は、対局中の険しさはすこし和らいでいるものの、真剣であることには変わりなく、むしろそれまでよりもいきいきと目を輝かせていたりする。仕事への情熱が大きければこそ、だ。そのとき、棋士の表情のなかに、将棋に熱中していたかつての将棋小僧の面影が覗くような気もする。

翻って自分の場合はどうか。恥ずかしながら、納品を終えたばかりの仕事の内容を、じっくりと腰を据えて振り返ることは皆無に等しい。翻訳にも、感想戦は必要なのだ。

チェッカー「ここのthatの意味を取り違えてましたね」
翻訳者「ええ、うかつでした」
チェッカー「箇条書きのところで、ですます体と、である体が混在していますね」
翻訳者「ええ、...(言いかけた言葉をグットの見込む)」
チェッカー「ここは上手に訳せてると思いますよ」
翻訳者「(息を吸い込んで)いえいえ、とんでもないです(といいつつ、まんざらでもなさそう)」
...

きっとこの感想戦で得た洞察やひらめきは、次の試合におおいに役立つことだろう。フリーランス3年目。今後は納品メールの「送信」ボタンをクリックした後も、それで仕事が終わったと一息つかずに、じっくりと終わった仕事のポストモーテムをしてみたいと考えているところだ。

先日、翻訳仲間(そしてトンカツ仲間)のOさんとトンカツ会議をしたとき、お店に行く途中でいろいろと情報交換をしていてひらめいたのであるが、この仕事後の解剖作業、やおら仕事後に手をつけようとしても難しい。次にやるべき案件があるし、終わった仕事のために貴重な時間を費やしくはないからだ。なので、納品前の最終チェック時に、訳すのが難しかった単語や表現、「使える」と思ったTipsなどをチェック作業と同時にデータベース化できるようなしくみを作るのが一番だろう、と。

原文を残したまま最終チェックを行い、そのファイルをコピーして残しておいて、最後に原文を消したファイルを納品すれば、コピーしたファイルはそのままコーパスとして使える。ファイルにマーキングやコメント(納品前に一括して削除できるようなしくみで挿入)を入れておけば、それも貴重な情報となる。

納品を終え、軽く休憩を取った後に、まだ余韻(と寝癖)の残る頭で、お茶をすすり、そのファイルを長めながら感想戦を始めるのである。

納品後の自分「ここはいかにも翻訳調でしたね」
納品前の自分「ええ、もう何の言い訳もできません」
納品後の自分「この単語は何度も出くわしているわりに、毎回同じように苦しんでますね」
納品前の自分「おっしゃるとおりです。今後は過去の資産をいかしたいと思います」
などなど...

学ぶ意志なきところに成長なし。単に仕事をしているだけでは駄目なのだ。

愛と推敲

2010年10月05日 22時31分55秒 | Weblog
少々古い話で申し訳ないのだけど(意味のない一人時間差)、先月17日の金曜日、六本木の青山ブックセンターで催された、翻訳家、岸本佐知子さんのミニトークショーに行ってきた。『いちばんここに似合う人』(ミランダ・ジュライ著 岸本佐知子訳 新潮社)の刊行記念だ。トークショーにさそってくれたFさん、岸本さんの大ファンのTさんのふたりの翻訳仲間も一緒。

生の岸本さんを見るのは初めて。とても美しく、話も面白く、イメージ通りのお方だった。印象に残った言葉はいつくもあったのだけど、特に2点。

・惚れ込んだ本を訳すときは、その本と結婚するような気持ちになる(=訳す本に大きな愛着を感じている)。

・訳者としては寡作で、推敲にとても時間をかけている。

至極当たり前のように思えるけど、この希代の翻訳者がなぜこれほどまでに素晴らしい仕事をし、多くの支持者を得ているかについて、かなり本質的なことを突いていると思われた。

「結婚」というのは岸本さん一流の比喩なわけだけど、僕のような端くれ翻訳者にもその気持ちはわかる。翻訳者は訳す対象のテキストのことが好きになればなるほど、よい訳を作れる。あるいは、テキストの内容を理解すればするほど、よい訳を作れる。だから、結婚したいほど好きな人を相手にできるのは、翻訳者としてこれ以上幸せなことはないし、それはかなりの確率でよい仕事につながるだろう(好きすぎてまわりが見えなくなるという陥穽もあるのかもしれないけれど)。テキストを好きになる――これは「よい翻訳の法則」の1つとして認定してもよいだろう。

翻訳者なら誰でもそうだろうけど、訳し始めるとき、できるだけ相手=テキストのことを好きになろうとつとめる。すぐにこちらの想いが通じて相思相愛になればいうことなしなのだけど、実際はそうはうまくいく場合ばかりではない。それでも、もうやめた、と終わらすことはできない。お付き合いを始めた以上(仕事を受けた以上)、なかなか心を開いてくれない相手に対しても、できるかぎりのことをしなければならない。「もう赤の他人同士じゃないんだから、少しはこっちの言うことを聞いてくれてもいいじゃん。こっちがこれだけ尽くしてるんだから、そっちからも歩み寄ってくれてもいいじゃん」と思うのだけど、最初に「相性がよくないかも」と思った相手というのは、途中であれこれ小細工をしたり、瞬間的に心が通じた、という場面がいくつかあっても、結局が最後までぎくしゃくした関係で終わってしまうものである(つまり、快心の訳にならない)。

実務翻訳の場合、対象となるテキストを書くのは書くことのプロではない場合も多く、意味がわかりにくかったり、かなりの専門知識がないと内容を理解できないことも多い。そういうテキストは訳す人を選ぶ。だから、選ばれなかった人にとっては、とってもつれない相手と巡り会ってしまったことになる。だけど実務翻訳の場合、お金だけはちゃんと入れてくれる(きちんと納品すれば、ワード数分のお金は振り込まれる。ただし訳がひどいと、次からの仕事の保証はない)。だから、そういう家庭を顧みないような人(テキスト)でも、なんとか結婚生活を続けていけるのだ(もちろん、実務翻訳にも愛情に溢れた仕事をしている人はたくさんいるし、僕もかくありたいと思って毎日仕事をしているのである)。

文芸翻訳の場合、経済的に厳しい面もある。売れたら増刷がかかった分だけ追加の印税が入るけど、それはあくまでも偶発的な「授かり物」であって(当然、力のある人が訳した本は売れる可能性が高まるわけだが、原書のもつ力やその他様々な要因によって売れる売れないは大きく左右されるものだから)、文芸翻訳の仕事だけで生計を立てていくというのは、よほどの腕前とある程度の運に恵まれた人でなければ難しい。

だからこそ、文芸の場合は訳すテキストに愛情を感じなければ仕事を続けていくのが困難になる。むしろ、このテキストLoveというのは必須のものなのではないだろうか。「お金はなくても、愛があれば生きていける」――と言ったら大げさかもしれないけれど、極端にいえば「タダでもいいからこの本を訳したい」というくらいのテキストへの惚れ込みようが心のどこかになければ、本当にいい仕事はできないのかもしれない(本当にタダだったら困るけど)。

もう1点の、推敲に時間をかけるというのもとっても大切だ。推敲によって文章を練り上げていく作業というのは、翻訳に限らずあらゆる文章作成において基本中の基本ともいえる作業なわけだけど、おそらく岸本さんの推敲にかける時間と労力は並外れている。あくまで僕の推測に過ぎないが、彼女の訳文を読み、その文章をじっくりと眺めてみると、幾度もの推敲作業の軌跡が浮かび上がってくるような気がする。ぞんざいな言葉の選び方はなく、実に自然なリズムで滑らかに日本語が続いていく。訳出したばかりの訳文がもつ、ゴツゴツした感じや、モタモタした感じがまるでない。訳出と同じくらい、あるいはそれ以上の時間を推敲にかけるという翻訳者の話をたまに聞くことがあるが、岸本さんもおそらくそうなのではないだろうか。

実務翻訳の場合、納期の都合や経済的な理由によって、見直しに訳出以上の時間をかけている例はかなり少ないと思われる。僕の場合もまさにそうで、あくまで訳出がメイン作業という位置づけであり、見直しは時間との戦いのなかで必至に体裁を整え、エラーをつぶしていくというレベルのものである。だから訳文には湯気の立つような初訳時の雰囲気が残っていたりする。本当は、そこから何度も組み立て直し、練り直しすればもっとよいものになる可能性を残しているはずなのに。

そんなわけで、

1.原文に愛情を持つ
2.推敲の時間を増やす

という、基本中の基本の重要性をあらためて痛切に感じたのであり、名翻訳家と言われる人はおそらくこの2つの基本を意図的にあるいはごく自然なものとして実践されているのではないかと思った次第。
(といいつつ、このエントリはほとんど推敲しないままアップロードされています^^)

テキストを愛すことができるのも、推敲のための時間とその意欲を生み出すことができるのも、実力のうち。

---
ちなみに、トークショー後のサイン会で、名前を書いてもらおうとおもって、あらかじめ用意していただいた紙に「イワシ」と書いてお願いしたら、僕の手書きの字があまりにも汚かったために、岸本さんは少々迷われた結果、「イワツ様」と書いてサインしてくれた。そのとき僕は少々舞い上がっていたので、シがツになっていたことに気づかなかった(気づいたとしても、まったく問題なかったのだけど)。

イワシではなく、イワツ。

その後FさんTさんとお茶しながら、これからはイワツオサムを第2のペンネームにしようか! と盛り上がった。名付け親があの岸本さんなんて、最高じゃん、と言われた。いいイベントだった。FさんTさんありがと~!









10月4日はイワシの日

2010年10月04日 21時46分42秒 | Weblog


10月4日はイワシの日ということを友達が教えてくれました。
そう、1=イ、0=ワ、4=シ、です。

気になって調べてみたのですが、3月8日はやはり「サバの日」でした(サンマの日は確認できませんでした)。

というのも、僕はイワシよりサバが好きなのです。正確には、魚としての存在そのものが好きというのではなく、食べる対象の魚として好きなのです。サンマもとっても好きですが、やはり一番好きなのはサバです。


ああ、サバの塩焼き。


焼きたてのサバに、レモンをかけ(なくてもOK)、醤油をたらして大根おろしと一緒にいただく。

最初の3つまみくらいで、ごはん1杯目は速攻でなくなります。2杯目からが本番です。

あとは温かいお味噌汁と、できれば小鉢を一皿(書いていたら、また食べたくなってきました。明日の昼ご飯は、サバの塩焼きで決定!)

そんな幸せな気分を味わうたびに、自分の最後の晩餐が、サバの塩焼き定食だったらいいなあと思います。幸せな人生だったなあと、笑顔で天国にいけそうです。

そんな日が来るのは、そう遠くないような気もいたします。


ところで、1年を4分割して、13週間×4クールとした場合、今日は最後の4クール目の開始日です。
(といっても、開始日はいろいろと任意に設定できると思うので、あくまで僕の尺度なのですが)

今日からちょうど13週間後が、来年の1月2日です。1日はあっという間に過ぎ去ってしまいますし、1週間も嗚呼っという間に過ぎ去ってしまいます。でも、4分の1年という時間があれば、いろいろなことが達成できるはずです。減量したり、エクササイズを始めたり、新しい何かに挑戦したり、いつもと同じような日常生活に変化をもたらして、その変化がもたらす結果を体感するのに、ちょうどいいスパンではないかと思います。そんなわけで、僕は1年を4分割するのがとても好きです。日々の様々な側面を記録して、自分の成長、変化を辿ってみたいと考えています。

たまたまそんな新たなクールの開始日が、イワシの日であったと知りました。これも何かの縁。あらたなチャンスも到来してくれました。仕事を依頼してくださった方々の期待に応えるためにも、サバの塩焼きを食べて頑張ります!

イワシ君、ごめん。でもイワシは今年は豊漁だったみたいです。少しは食べてあげないと!
















まだまだ、のその先に

2010年10月02日 00時03分02秒 | Weblog
---ご無沙汰してしまい、すみません!---


一昨年の9末に会社を辞め、フリーランスになってから、昨日で丸二年。今日から3年目だ。

水曜日に大きな納品を終え、いいタイミングだったので、大掃除をした。
忙しさにかまけて放置していた大量の本と書類、その他もろもろを整理した。むろん、1日や2日では、すべてをすっきりとは片付けられなかった(そもそも、僕が「片付けられない人」だからこそ、部屋のなかは異様なまでに散らかるのだ)。それでも、「ずいぶんと前からその状態にあるけど、その中身が何かはとっくに忘れてしまった山脈」の多くを取り崩し、それらがいったい何だったのかを確認することはできた。

ありていに言えば、それらはモノであると同時に、僕の過去であった。

会社に勤めながら「いつかはフリーランスに!」と心に誓っていた長い長い鬱積した年月の間にため込んだ、大量の資料やメモ。独立する前には必要だったそれらの情報も、今となっては懐かしい卒業アルバムの写真のように色褪せてみえた。

脱サラして心機一転、人生の大勝負に出ました――。そんな人たちを取り上げた雑誌や新聞の切り抜きが、たくさん出てきた。当時はそんな人たちのことを、とても羨ましく感じたものだ。記事には、自分の好きなこと、得意なこと、儲かりそうなことに、様々な境遇を生きてきた様々な年齢の人たちが果敢に挑む様がいきいきと描かれていた。

僕自身の軌跡も辿ることができた。悶々とした思いを書き綴ったノート、独立したときに役立つだろうと思い保管してきた様々な資料。今にすれば自分でも信じられないくらいの馬力で奮闘していたプロジェクトもあった。その当時、めまぐるしいほどの日々の最中に書き殴った、メモの数々も出てきた(ほとんど意味不明の記号だったが…)。たった2年前のことなのに、ずいぶんと昔のことに思える。

自分が会社員をやっていたなんて、今となっては信じられない。毎日さまざまな人と言葉を交わし、メールをやりとりし、会議をし、上司がいて、同僚がいて、お客さんがいて、取引先がいたあの時代。

今、電車に乗り、街を歩けば、そこで出合い、行き交うスーツを着た人たちが、別世界の住人に見える。たしかに今も僕は、仕事を通じて、企業や世の中と繋がってはいる。会社という組織に守られておらず、先方の信頼を失えば明日にも仕事がなくなるという恐怖を思えば、むしろ僕は以前よりもはるかに大きく、直接的にその「システム」と関わっている。だが、それでも、もはや同じ世界の住人でなくなってしまったことが、理屈ではなく直感としてわかる。

たまに仕事関係の打ち合わせがあると、何を着ていけばいいのかわからない。普通のスーツにネクタイという恰好は、もうできない(よく考えてみるとなぜだかはわからないが)。とりあえずそれなりのフリーランスらしい恰好をしてみる。もともと服のセンスがないのに加えて、やはりまだまだ僕には自由業者として全体からにじみ出してくるような風格というものがないのだろう、鏡に映してみた自分の姿が、なんとも貧相で、なんとも中途半端で、なんとも現実にマッチしていなくて、唖然とする。一言でいえば、とにかく「うさんくさい」。

それでも、お前は一体何なんだ? と聞かれれば、「フリーで翻訳をしているものです」と答える自分がいる。いくら自分がうさんくさい存在だとしても、それは紛れもない事実なのだ。翻訳者を名乗ることに、もはや気恥ずかしさやためらないはない。そろそろ、初心者マークは取ってもいいころなのかもしれない。

長すぎた助走期間を経て、2年間の試行錯誤があった。僕はまだ何も成し遂げていないし、職業人としての真の力もない。だが、無駄の多いこれまでの歩みではあったにせよ、振り返れば僕はたしかに、それらの過去の集積のうえに立っている。自分はまだまだだ、と思えることは、それだけ自分を客観視できるようになったことなのかもしれないし、その「まだまだ」の先にある何かが少しずつ見え始めて来ていることの証なのかもしれないとも思う。

先人の仕事から学ぶべきことはあまりにも多く、仕事も日々、苦難の連続ではある。だが僕はいつか真の仕事人になり、真の仕事をしたい。翻訳の新たな境地を切り拓きたい。それができるまでは、死んでも死にきれない。人生は短く、仕事を第一線でできる時間も限られている。自分が目指すべき境地が、考えているほどは遠くない場所にあるのか、それとも残された時間のなかでは、今のような取り組みのなかでは到達できないほど遠くにあるのかはわからない。だが、僕はそこに向かっていくしかないし、そのために、この2年間で経験してきたすべてが、力になってくれるものだと信じている。

フリーランスになるまでに、そしてフリーランスになってから、本当に多くの方々にお世話になった。あらためて心から御礼を申し上げたい。そしてこれらの方々のためにも、よりよい仕事ができるようになるために、精進したいと強く感じている。そのためには、あらゆる面において、変化が必要だ。

---------------------

フリーランス3年目の今日。某社に新たな仕事の打ち合わせに伺い、充実した話をすることができた。これまでの右往左往と悪戦苦闘が、最近になって徐々にではあるば、別の形となって実を結び始めている。意志あるところに道はひらける。正確にはまだ仕事はこれからなので、「実」ではなく、それは今後の自分の仕事の出来にかかってはいるのだが。ともかく、少しずつ自分の目指す方向に水が流れ始めているのかもしれない。有り難いことだ。素晴らしい出会いと機会に感謝! 

--------------------

大掃除の最中、高校時代の友人から22年ぶりに連絡があった。めちゃくちゃ懐かしく、嬉しい。京都府北部の市にある某府立高校の3年2組の同級生だったM君。来年の正月に同窓会をやるとのこと。僕を捜してくれて、このブログで見つけてくれたらしい。とても大きな楽しみが、またひとつ増えた。M君ありがと~!!

--------------------

旅行記は中断してしまっていますが、必ず最後まで書き終えます! いましばらくお待ちを~!

そぞろ歩きの阿佐ヶ谷編仕切り直しの告知も近日中にアップいたします。
それから、11月は夏目先生と歩く横浜編を予定しております! 乞うご期待!