イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

「おもてなしライブ No.4 朗読編」告知パート2

2009年07月30日 12時15分34秒 | Weblog
今日はいい天気ですね。

さて、先日告知しました朗読会ですが、
いよいよ明日に迫ってまいりました。

マハロいとうさんのブログで告知情報がアップデートされましたのでお知らせいたします。

ぼくは童話を一篇と穂村弘さんのエッセーの一部を朗読させていただく予定です。

みなさま、ぜひお気軽にお越しください!


おもてなしライブ No.4 朗読編

日時:
2009年 7月31日(金)19:00 開場
19:10 開演 〜 21:00 閉演(予定)
*チャージ無料*

会場:
よしだ屋珈琲店(乃木坂or六本木より徒歩すぐ)
http://www2.plala.or.jp/yoshidaya/map-01.htm

ときには後ろ向きに、あるいは瞳を閉じて

2009年07月29日 00時38分06秒 | Weblog
ジョギングするとき、僕は公園の同じコースを動物園の白クマみたいにいったりきたりしていることが多いのだけど、同じ公園をいつも走っている常連の人たちと何度もすれ違ううちに、挨拶したりすることはないものの、だんだんとその人たちの顔を覚えていくようになった。そういう人たちは、たいてい僕からしたらかなりのハイペースで黙々と走っている本格的なランナーで、まあ動物にたとえれば、カモシカみたいに軽やかに僕の脇をすり抜けていく。こっちは白クマみたいにウロウロ(かろうじてジョギング)しているか、アルマジロみたいにモソモソ歩いているか、カマキリみたいにボーッと突っ立っているだけなので、そういう颯爽とした人たちの姿を見ると、なんとなく気後れしてしまったりもするし、相手からも「もうちょっと気張って走らんかい!」とでもいう無言のメッセージが送られてきているような被害妄想も感じてしまい、実際はそんなことないだろうけど、蔑んだ目で見られているような気になったりもするのだが、なにせここは1周5キロ、コースによってはそれ以上の距離のある広い公園で、一回すれ違ったらしばらくはまた自分の世界に没入できるので、お互いにテリトリーをおかすことなく、いい距離感を保つことができてきるような気がする。

そんな常連さんの一人に、いつも後ろ向きで走っているおじさんがいる。文字通り、前に進むのではなく、後ろに進んでいるのである。といってもこのおじさんは変態ではない。前向きに走ってばかりだと鍛えられる筋肉が同じなので、後ろ向きに走ることで身体の違う部分に刺激を与える。そういうトレーニング方法を取り入れているのだと思う。スポーツの世界では、トレーニングの一部として後ろ向きに走ったり横向きに走ったりすることは、決して珍しくない。とはいえ、ふと気がつくと前方に背中があり、それがこちらに向かってだんだんと迫ってくるのを見るのは、もう慣れたとはいえなんとも妙な感覚だ。人が後ろ向きでこちらに近づいてくる映像は、ビデオテープを巻き戻し再生しているのを見ているようなシュールさがある。視界には動くものは彼しかいないから、まるで目の前の現実がすべて巻き戻されているようにも思えてしまう。

彼が家を出て、また家に戻るまで、ずっと後ろ向きなのかどうかはわからない。おそらくそうじゃないだろう。人気のない公園の、僕がたまたまテリトリーにしているところだけ、後ろ向きで走っているのだと思う。やってみればわかることだけど、後ろ向きに走るのは決して楽なことではない。なにしろ、人間、残念ながら後ろに目がついているわけではないし、多くの野生動物のように360度の視界があるわけでもない。首を180度回転させることもできない。なので、ときどき後ろを振り返りながら、基本的には前を見て、後ろ向きに走るしかないのである。

彼が後ろ向きでこちらに近づいてくる。僕は前向きで彼が来る方向に向かって走っている。交差する瞬間、ふたりは同じ方向を向いて一直線上に並んでいる。寺山修司の実験映画のワンシーンみたいだ。ともかく、後ろ向きで走るという鍛錬を自らに課し、厳しくそれを実践している彼は、前向きな人だなあと思う(なんて)。でもひょっとしたら、彼は単に前向きに走るよりも後ろ向きに走る方が楽だという得意体質かもしれない。家でも会社でも常に後ろ向きに歩いているのかもしれない。朝、通勤電車に駆け込むときも後ろ向き。営業先でお客さんに挨拶するときもエビぞりになって挨拶する。彼は言葉で多くを語る必要はないだろう。だって背中が彼の生き様を物語ってくれているからだ。そしてそんな彼の背中に惚れている人も、何人かいるのかもしれない(なんて)。

で、そんな彼を見ていて思ったのだけど、後ろ向きに走るのも大変だけど、目を瞑って走るのも大変だ。誰もいない広い通りを走ったり歩いたりしているときでさえ、まぶたを閉じると怖くて10歩と進めない。すぐに目を開けてしまう。だけど、目を閉じることによって、ちょっとした非日常を味わうこともできる。何かが見える、ということによって身構えていた何か、常に何かが見えている、という世界に生きることによって強いられている緊張感、そんなものたちから、わずかだけど、解放されているような気がする。身体の内面との一体感が増し、肩の力が抜け、時間の進み方も遅くなる。一応、立って走ったり歩いたりしているから、まぶたを閉じても眠くはならない。さすがに眠りながら走れる人はいないだろう。だが瞳を閉じて歩を進めることには、眠りの世界に落ちるときにも似た、異界への入り口に立つ感覚がある。そして、この解放感は、まぶたの筋肉ひとつ動かすだけで得られる小さなトリップではないかと想像してみたり、すべてから解き放たれる瞬間があるっていいもんだなと、ふとそんなことを思う。

何の障害物もない、誰もいない広大な草原で、目を閉じて1時間ほど歩いたりジョギングしたりしてみる。それはきっと、神秘的な体験になるに違いない。そういう場所はなかなかないので、実現するのは難しいかもしれないけど、数秒間でもいいから後ろ向きに走ったり、目を瞑って走ったりすることで、日常生活のなかに小さな夏休みを作り出すことができるのかもしれない、なんてことを妄想しております。




Running Backward


ちなみに、後ろ向きに走る人を見ると、昔テレビの『びっくり日本新記録』の「後ろ向きマラソン」で轟二郎さんがぶっちぎりの優勝をしたシーンを思い浮かべてしまう。あれはすごかった。


専門書の効用

2009年07月27日 23時40分58秒 | 翻訳について
翻訳関連のものの本によく書いてあることではあるのだけど、翻訳対象の文書のテーマを扱った専門書を読むことで、仕事がものすごくはかどることを実感している。あまりにも小さな案件だと本を購入している暇もないし収支的にもわりに合わないことになってしまうから、毎回というわけにはいかないが、たとえば1万ワードを超える大きめの案件で、内容がかなり専門的な場合は、できるだけ専門書を買うことにしたい――と、ここ数ヶ月の経験から強く思うようになった。

専門書は決して安くはない。それでも買う価値は十分にある。もちろん、本の内容が訳している原稿のテーマとうまく重なっていなければせっかく大枚をはたいてもスカしてしまうことになるわけだけど、これまでの数少ない僕の経験からいうと、何がテーマであれニッチな分野の専門書というのは決定版と思わしきものが1,2冊あるものだ。Amazon等でちょっとリサーチすれば、すぐにこれだ、という1冊が目につくし、内容的にもまず外すことはない。テーマが絞り込まれているから専門書の数も少なく、その道の第一人者が書いた1冊があれば当面の間は需要も満たされるということなのだと思う。もちろんインターネットでも調べ物はする。だけど、テーマにもよるがネットで収集できる情報には限界がある。かなり専門的なテーマの場合、専門書ほど深く細かくまとまった情報は、ネットでは見つけられないことが多い。

たとえばISOには様々な規格があり、そのうちの1つについて書かれた本はごくわずかしかない。だかそれはその規格についての文書を翻訳している者にとっては、宝の山のような情報が詰まっている。当該規格を全体的に理解できるのはもちろん、専門用語についても定訳を見つけられることが多い。翻訳対象の文書は、文書の性質やボリュームの制約などによって、専門書ほど細かい情報は記載されていないのが一般的だ。だから概念や用語についての記述も簡潔なものが多いし、文書自体がある程度の基礎知識を持った人が対象読者であることを前提に書かれていることもあるので、その文書だけを読んでいては理解できないことが多いのだ。もちろん翻訳者には専門の領域があり、その領域の知識を常日頃から高める努力は不可欠である。だけど、実際にいただく仕事は分野は同じでもまさに千差万別。そのすべての専門知識を持つことは不可能なのだ。

原文を読んでも意味がよくつかめなかった部分も、「?」で頭をいっぱいにして専門書をひもとくと、一気にいろんな謎が解けて理解が深まっていく。これはかなりの快感だ。出口の見えないトンネルの彼方に一筋の光明を見いだしたような安堵感もある。世の中にはいろんなことを専門にしている人がいるものだ、と世界の広さを実感できたりもする。そして、いかに自分がものを知らないかということも。そもそも、この仕事をしていなければ絶対に手に取らないであろうと思われる書物と出会えることは、喜ばしいことだ。専門分野との出会いは一期一会の精神で大切にするべきなのだ。

用語にしても、単に定訳が見つかって嬉しい、というだけではなくて、その業界や分野の文化によって、外来語がいかに手慣れた業界用語に落とし込まれているかということがわかって面白い。ただ外国語を母語に変換するのではなく、無駄な要素をカットしたり、補ったり、大胆かついい意味で「都合良く」日本の文化に馴染む言葉に置き換えられたりしている。そのダイナミックなプロセスを体験できるのが興味深いのである(逆にこんなに生硬な訳語でいいのか? というパターンもあるけど)。ともかく、翻訳者としてはとても勉強になる。逆に言えば、こうした定訳は知っているかいないかの問題であって、自分の力だけではどうしようもないものなのであり、そしてそれを外してしまえば、読者であり専門家である依頼元の信頼を一気に失ってしまうことになってしまう。だからこそ専門書でそれらを補えるのであればそうするべきなのだ。たとえそれが付け焼き刃であっても、刃があるのとないのとでは大違いといわけだ。

10万円の案件で、専門書の価格が5千円だったとする。売上の5%の出費はたしかに大きい。だけど、1冊の専門書によっって、生産性とクオリティーを5%以上、上げることは十分に可能だと思う。10日かかる仕事を7日で終わらせることができるかもしれない。訳文の質も高まるし、依頼者に「そこそこわかってるな」と思ってもらえる可能性も高まる。たっぷり元は取れるのではないだろうか。プラス、1冊の専門書を読み、数日間そのテーマと関わり続けることによって、自分の専門性もわずかだが広がる。今後、同じテーマで仕事がくる可能性だってある(いい仕事をすればリピートしてもらえる可能性だって高まる)。そのときに、その知識は決して無駄にならないのである。

「おもてなしライブ 朗読編」開催のお知らせ!!

2009年07月26日 18時29分08秒 | Weblog
7/31(金)夜19:00~ 乃木坂or六本木の「よしだ屋珈琲店」で、希代のウクレレ演奏者、マハロいとう氏プロデュースによる「おもてなしライブ朗読編」というイベントが開催されることになりました。各出演者が自由に選んだ詩や文章などのさまざまな題材を朗読します。あの夏目大氏も登場! 私も縁あって出演させていただくことになりました。恥ずかしながら、自分なりに思い入れのある文章を朗読させていただくつもりです。きっと素敵な夕べになると思いますよ~。ご興味のあるみなさま、ぜひぜひお気軽にお越しください。お待ちしております!

マハロいとう氏のブログに詳細情報が掲載されています。

おもてなしライブ No.4 朗読編

日時:
2009年 7月31日(金)19:00 開場
19:10 開演 〜 21:00 閉演(予定)
*チャージ無料*

会場:
よしだ屋珈琲店(乃木坂or六本木より徒歩すぐ)
http://www2.plala.or.jp/yoshidaya/map-01.htm

帰ってきたロベルト・カルロス

2009年07月26日 03時02分33秒 | Weblog
僕が住んでいる団地の通り向かいには畑があり、農家の方が畑の前にある野菜スタンドで採れたての野菜を販売してくれている。

そこで買う野菜はすべて美味しいのだが、個人的には夏場に買う枝豆が一番好きだ。かなりのボリュームがある新鮮な枝豆が、たったの350円。スーパーで買ったら半分の量でもこれより高かったりする。茹でて食べると最高に美味しい。

毎年首を長くしてその野菜スタンドで枝豆が売られるのを待っているのだけど、枝豆を売っている期間というのは意外にもとても短い。おそらくは2~3週間しかない。すぐ近所と行っても、わずかながら僕の行動ルートからはそれた位置にある。だから、そんなにしょっちゅう野菜スタンドに行く訳じゃないので、ついついチャンスを逃してしまうのだ。気がついたときには枝豆が売られており、気がついたときにはその年の枝豆販売は終了している。

二、三日前、そこで枝豆を買った。「今年はあとどれくらい枝豆を売っているのですか?」とおばさんに聞いてみた。彼女は「もう明日くらいで終わりだよ。あとこれだけだから」と言って畑を指さした。数日前には畑一面を覆っていた枝豆はすでにほとんどが刈り取られ、今はもう2002年ワールドカップのときのロナウドの前髪くらいの量しか残っていない。えっ? そんなに早いのか…。そしてこのわずかばかりのロナウドの前髪が刈り取られ、スキンヘッドのロベルト・カルロスになってしまったら、この夏の枝豆は終わりなのか…。そう思うと、なんだか妙に切なくなってしまった。今年は3回しか枝豆を買えなかった。不覚。

「小さい夏、小さい夏、小さい夏、終わった」そんな唄が遠くの方から聞こえてくる。ああ、夏の本格的到来を実感する前に、主役級のひとり、枝豆君が逝ってしまうなんて。

「それにしても」と僕は言った。「梅雨が明けたというのに曇ってばかりですよね」。今年の天気が例年に比べてどうなのか。そういうことは農家の方に訊くのが一番だ。おばさんはうなずいた。「そうなの。戻り梅雨って言ってね」。やっぱり、今年の天気はおかしいのだ。

「戻り梅雨」そんな言葉、知らなかった。でも事実上、梅雨は戻ってきていたらしい。忘れ物でも取りに来たみたいに。梅雨明けの二、三日はすごくいい天気が続いた。ちょうどそのとき、僕は仕事に追われていて、ほとんど外に出られなかった。死にそうになって納品を終え、ようやく山を越えたときには、また雨と曇りの日々に戻っていた。たまに走ると雨にたたられる。

ちなみに、数日前、ずぶ濡れになって走りながら、原始、雨は人の衛生管理上、欠かせないモノだったに違いないという確信を得た。現代では、服が濡れるから雨は嫌われる。だけど、濡れるモノがなければ雨はとても気持ちのよいものなのだ。昔はシャワーがなかったから、身体の汚れを落とすために、雨が大きな役割を果たしていたに違いない。川で水浴びできないエリアに住んでいた人だっていたと思うし。

天気予報を見ると、今月末まで曇りと雨のマークが続いている。気分が萎える。最近、眠れなくて朝方まで起きている。今日はそのまま5時ころから2時間くらい公園をジョギングした。朝だというのにたくさんの人がウォーキングやジョギングを楽しんでいる。みんな、元気なもんだ。久しぶりにたっぷり走り、家に帰って仕事を続けた。10時頃になると、なんだか妙に天気がいい。晴れである。ヲイヲイ天気予報さん、今日は曇りじゃなかったの? 晴れとわかっていたら昼間に走ったのに! 嘘つき。

でもまあ、気持ちよく晴れた青空を見ていたら、さすがに梅雨も忘れ物を片手に、しかるべき場所に小走りで戻っていこうとしているのではないかという気がした。しばらく前から、釈然としない天気を横目に、困惑気味のセミが鳴き続けている。夏はたしかに近づいているのだ。きっとそれは、枝前の旬と同じくらい短いものなのだろうけど。

ひとり

2009年07月24日 20時43分04秒 | Weblog
同業者のみなさまもきっとそうではないかと察するのですが、翻訳の仕事をしていると、「英語に引きずられる」ことが半ば職業病と化してしまっているためなのか、日本語の文章を読んでいて妙なところ、すなわち英語にはあって日本語にはない、言語のクセみたいなものが気になったりすることがありまして、たとえば日本語ではあまり明確に示されることのない単数or複数の概念をはっきりとしてほしい、と文章に目を走らせながらついつい釈然としない思いにかられたりしてしまいます。

言うまでもなく、英語は「そこんとこ」をくどいくらいはっきりとさせる言語なのであり、たとえばある文章に「虫」が出てきたとして、それが一匹なのか、複数なのか、それとも虫そのものという概念を示しているのかは、英語では冠詞や文末のsで簡単に表せるわけですが、日本語ではちょっと気張って「一匹の」とか、「何匹かの」とかを名詞の前後につけてあげなくてはならないわけで、まあわざわざそうする必要がなければあえて数を明示的に表す必要はないのであり、まったく問題はなく、むしろ明示的に表現せずに「虫」を表せてしまう日本語という言語は非常に便利だなと思ったりもするのですが、翻訳ではそこんとこを普通の日本語に比べて少し強めに表現しておかないと、英語の文章が持っているニュアンス、エッセンスがこぼれ落ちてしまう場合もあり、まあそれはそれでやっかいなことではありますし、翻訳が上達すればするほどいわゆる自然な日本語、すなわち単数or複数の問題に関してはより暗黙的な文章になっていくもので、たとえばこの問題について言えば、「最も~なうちの1つです」とか「1つまたは複数の」とか、そういういかにも翻訳調な文章はなるべく避けたいと考えてしまうようにはなるものなのですが、文章にはっきりとそれを示すかどうかは別として、ともかく虫が一体何匹いるのかどうかが読んでいてわからない文章であることは、そもそも言語を問わず気持ちの悪いものなので、なんとかしてそれをすっきりさせておきたいという欲求にかられてしまうのです。

と、少々前フリが長くなってしまったのですが、そしてネタとしてはちょっと鮮度が落ちているのですが、A新聞の7/20日付朝刊の一面のトップ記事の冒頭にこんな文章がありました。

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 民主党は、総選挙で政権交代が実現した場合、来年度からすべての国公立高校生の保護者に授業料相当額として年間12万円を支給し、事実上無償化する方針を固めた。私立高生の保護者にも同額を支給し、年収500万円以下なら倍の24万円程度とする。高校進学率が98%まで達する中、学費を公的に負担すべきだと判断したといい、マニフェスト(政権公約)に盛り込む考えだ。
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記事の内容は高校生の子供さんを持つ親御さんにとっては基本的に喜ばしいものであると思いますし、私もまったく異存はないのですが、この文章を読んで少々気になってしまったことがありまして、それはとりもなおさず支給されるのは「生徒一人当たり12万円」なのか、それとも「(生徒がその家庭に何人いるかに関わらず)各保護者当たり一律12万円」なのかということなのでございます。

おそらく文脈から推測するに、生徒一人当たりの方ではないかとは思うのですが、やはりそこのところは少々文章がくどくなってもいいから「一人当たり」とかなんとか入れてほしいなぁなどと一人ゴチってしまわざるを得ないのであり、英語なら、"a"を使えば「あっ」という間にそこんところを表現できるものを、なんて日本語は単複にルーズな言語なんだろう、と少々おかんむりになっちゃったりしているわけで、いや、ルーズなのは日本語ではなく、この記事を書いた某さんではあろうかという気もしますが、やはりそれは某さんだけには留まらず、そのルーズな単複の概念を許容してしまっている周囲の人々、あるいはそれを咎めぬ読者諸氏、ひいては日本国民全員の責任ではなかろうかという思いも交錯いたしまして、結局のところやっぱりこれは部分的には日本語の問題なのかなぁなどと、この「一人当たり」問題についての思いを巡らしながら、長々し夜を「一人」かも寝むしてしまうかも知れないのでありますが、こういうことが気になる私は、やっぱりどこかおかしいのでしょうか(゜д゜;) ?

自分の頭がおかしくないことを祈りつつ、じゃあ、記事の全文を読んだらこの「一人当たり」問題の解がを解くヒントがあるのかと思って読んでみたのですが、どこにもそれらしきものは見あたらず、生徒一人当たり12万円なのか、生徒が何人いても一律12万円なのか、それは藪の中なのであり、素直には認めたくはありませんが、これは「そんなの常識でわかんだろ」という強度に日本語的なコンテキストのなかにimpliedされているもののようで、そんなものなのかなぁと首をひねりつつも何とか自分を納得させてみようかと思ったりもするのですが、う~ん、やっぱり釈然といたしません。

ちなみに、当該の記事の全文は次の通りでして、そしてソースはこちらです。


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(前述の続き)
 民主党はかねて高校無償化を主張していたが、不況が深刻になり、高校進学を断念したり、入ったものの中退したりする生徒が増える中、具体案を詰めて優先課題に位置づけた。多くの企業が業績を落とし、収入が減って不安が広がっており、所得制限をかけず支給するよう判断したという。15日の「次の内閣」の会合でも衆院選の主要政策とすることを確認した。

 実現には年間約4500億円の追加予算が必要と試算しており、国の事業の無駄を洗い出し、不要と判断したものを廃止・縮小することで財源の確保は可能としている。

 ただし、同党は一方で、高速道路無料化、ガソリン税などの暫定税率撤廃といった「目玉政策」も来年度から実施する方針だ。これらに7兆円程度を見込んでおり、全体の予算編成の中で本当に財源が確保できるか、現段階では不透明だ。

 他にも、中学生までの子どもがいる家庭に対し、月2万6千円の「子ども手当」を支給する方針で、政権公約では来年度に半額支給からスタートさせるとしているが、その財源確保策として配偶者控除を廃止するため、妻が専業主婦で子どものいない65歳未満の世帯は負担増となる。

 親の年収が400万円以下の学生に生活費相当額の奨学金を貸すなどの奨学金拡充、幼稚園や保育園の無償化推進なども検討しているが、教育・子育て支援は一方で子どものいない世帯の負担増にもつながり、議論になりそうだ。

 同党は他にも、マニフェストの母体となる09年版の党政策集に盛り込む教育政策を固めている。教員の質を高めるため大学の教員養成課程を医歯薬系並みの6年制とし、教育実習を1年間に大幅延長する▽学校の風通しをよくするため保護者や住民らが参加する「学校理事会制度」を創設する――などとしておりマニフェストへ盛り込むことを検討している。
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いかがでしょうか? 私にはやっぱり「一人当たり」問題は解決していないと思えるのでありまして(ひょっとしたらわかってないのは私だけかも。その場合はひたすらにすみません)なおかつ、この文章を読むことで、「中学生までの子どもがいる家庭に対し、月2万6千円の「子ども手当」を支給する方針」の、月2万6千円は、中学生一人当たりなのか、それとも中学生が何人いる家庭でも一律月2万6千円なのかという新たな「2万6千円問題」までもが勃発してしまったのであります。

この文章では、見事なくらいに、単数or複数の概念が回避されています――おそらくは、「一人当たり」なのかどうかは、言わなくてもわかるはず、というこの記者の無意識的な精神作用によって、そこんとこが敢えて避けられているようにしか思えないほど、小気味よいまでに曖昧にされてしまっているのであり、日本語の数の概念に対するこの無関心さに、あるいは「数の概念なんかには依存しないぞ」というその独立心に、ちょとした驚きを禁じ得ません。

まあ、これは結局、暗黙的な「一人当たり」があるというのが答えのような気がするのですが、それを常識で判断し、正しい答えを導けたとしても、やはり気持ち悪いものは気持ち悪いのでありまして、「お前の言語感覚は狂っとる」と思われたとしても、やっぱりこの釈然としない気持ちを拭いとることはできず、嫌なことであるわけですが、いくら気持ち悪さを感じさせるものの源泉になってしっているとはいえ、そういう視点を持てるようになったのは、この仕事をしているおかげなのかなぁとしみじみとしてしまったりもするのであって、怪我の功名といいますか、言葉の大リーグ養成ギブスといいますか、常日ごろ原文に引きずられていることにも、多少のメリットがあるのかなぁなどとちょっとした発見をしてしまったわけですが、まあ、文章なんて岡目八目、他人の目で見るからこそいろいろと気になるところが生まれてくるわけで、私の文章だってつっこみどころが万巻全席だと思いますから、これ以上書くのはやめておきます。

つまるところ、私が言いたかったのは、仕事柄、原文という引力に強力に引っ張られ続ける毎日を過ごすの基本的には辛いことではあるけれども、それによってポジティブな作用が働くこともあるのではないか、なのであり、その例としてこの記事を挙げてみたのですが、どうやらこれは英語と日本語との違いというよりも、単にこの記事それ自体が持つ曖昧さだったような気もして、さらには単数と複数という概念の例ともちょっと違う気がして、結局のところこの文章を書いたことに何らかの意味があったのかどうかはかなり怪しいところなのですが、そんなわけで、ここらへんでとりとめもなく終わりにしたいと思います。


※何度かこのブログではA新聞(あえて「A新聞」とする意味はないような気もしますが)の記事を取り上げているのですが、別にA新聞について特にどうこう言いたいわけではありません。同紙を購読しているのでどうしても気になっちゃうのです。


短納期を堪能、じゃなくてもっと夏を堪能したいのです

2009年07月20日 23時25分58秒 | Weblog
Youtubeを彷徨っていたら、昨日紹介した相対性理論の『学級崩壊』という曲に、ドリフの学校コントの映像が使われているものを見つけた。懐かしくなって思わずドリフのコントをいくつか堪能する。バンドとしてのドリフの映像もいくつかあって、そのなかで、カトちゃんがあまりにも上手にドラムを演奏してたので驚いた。音楽もできてコントもできる。エンターティナーですなぁ。

よ、日本一!


カトちゃんがとっても可愛い


梅雨が明けたといっても曇り空が続く。夏、とりわけ「真夏」は本当に短い。だって、あと1ヶ月もしたらお盆も終わって、そろそろ夏も終わりか、みたないモードに入っちゃうんですから。ここしばらくあまりにも仕事モードで生きてきたことに気づき、ちょっとこれではいかんと思い直すようになった。これからしばらくは、夏を満喫する時間を確保して生きることに決めた。そうじゃないと、またこれから一年、「夏を逃してしまった」というストレスを抱えて生きていかなければならないことになる。それだけは避けたい。


大人も成長している

2009年07月19日 22時00分23秒 | Weblog

たまたま、ネットサーフィンの過程で「相対性理論」というバンドの存在を知った。「地獄先生」「Loveずっきゅん」などのいくつかの曲がすっかり気に入ってしまい、仕事をしながらずっと聴いている。すでに身近に存在しているはずなんだけど、まだ多くの人たちによってつかまえらえてはいない「今」という時代の言葉や感性。それが音楽という形式の中にうまく収められていると思った。誰もがなんとなく感じていたことを形にできる。それはとてつもないユニークさと才能があるからこそ可能なんだ。全体的に若干感じられる幼さのようなものがあまり気にならないのは、それだけ僕が年を取ったということなのか。ああ、若いって素晴らしい。そして恐ろしい。

たとえば5日かけて1つの仕事をする。5日前の自分にはできなかったことが、5日後の自分にはできている。たった数日前には知らなかったことを、いかに他人にかみ砕いて説明するかに腐心している自分がいる。情けなくも仕事に追い立てられ、疲れた身体とときに朦朧とした意識のなかで、なんだか妙にそんな自らの変化に驚いている。これを成長と素直に呼んでよいものなのかはわからない。だけど、少なくとも子供だけじゃなく、大人だって日々何かを学んでいることだけは間違いない。来週の日曜日にあなたが思い出す今日のあなたは、そのときよりも1週間幼いあなたなのだ。

相対性理論-地獄先生



猛暑に猛省――もぉ~っ しょうがない奴~!!!

2009年07月15日 23時25分56秒 | Weblog
梅雨が明けた 梅雨が明けた 真っ赤な太陽だ

淋しかった ぼくの庭で 梅雨が明けた

例年より 早く明けた梅雨

意外だったな

淋しかった ぼくのベランダで 梅干し干そうか

夏よ 夏よ 暑い夏よ

そのまま ずっと晴れ続けておくれ

梅雨が明けた 梅雨が明けた 八王子で35・7度

クーラーのない ぼくの寝室

寝苦しくなった


待ち望んでいたものが、つ、ついに目の前にやってきたのですが、いざ、というときこそ日頃の行いの真価が問われますよね。
本当は昨日も今日も、昼間にたっぷりと梅雨明け祝いランニングをして、夕方からは学校に行って、そして仲間とビールでも!
と思っていたのですが、現実はまたしても自分でも予想だにしなかったほどの追い込まれようです。予定はすべてパー!
(本当はブログ書いている場合じゃない)
情けないったらありゃしません。自分が信じられません。でも頑張る。ゴール目指して!

まいった。本当に参った。みなさま、ごめんなさい~!!

一日も早く、戻れ普通の暮らしに

でも素直に梅雨明けは嬉しいのでした。

原書をもっと読みたい―貧乏暇なし人間のつぶやき

2009年07月14日 12時40分07秒 | Weblog
「一人暮らしをすると独り言が多くなるよ」と、一人暮らし歴の長い人から言われたことがある。

僕は一人暮らしをする前から独り言は多い方だったのだけど、最近やっぱり独り言が多くなってしまったのかもしれないと思うことがある。

何をしゃべっているのか?

自分でもよくわからないが、多分、考え事をしていて、誰かと会話していることをシミュレーションしているのだと思う。あるいは何かいい考えが浮かんだときに、誰かにそれを説明するような気持ちになって、しゃべる。

道を歩いているときとか走っているときとかに、気がついたら思わず何かをつぶやいていることがある。で、つぶやいた瞬間に周囲を見渡してちょっと恥ずかしくなる。

※人気のないところで、軽~くひとことふたことつぶやく程度です。それほど危ない奴ではありませんので誤解しないでください。

ところで最近、アイマスクと耳栓を購入した。車の騒音が結構うるさいので、耳栓をすることで集中力が高まったような気がする。それから、アイマスクは軽く昼寝をするときによい。ただ、あまりにも真っ暗になるので、本能が夜だと勘違いして長時間熟睡してしまうことが心配だ。これからの季節、アイスノンと併用したらさらに眠りが快適になるかもしれない。

ちなみに、こんなアイマスクもありましたよ~。「スナイパー」って(笑)ゴルゴですなこれは。

そんなわけで、ハチマキと耳栓をして仕事に打ち込み、疲れたらアイマスクをして仮眠をとる。そういうスタイルが定着しつつあります。そしてさらに無駄なエネルギーの消費を抑えるために、独り言予防策として、さるぐつわの購入を検討している今日このごろなのである。でもあんまり器具には頼りたくないなぁ~。

今週頑張って山を越えたら、少し余裕ができるかもしれない。ちょうど梅雨も明ける。本を読んだり、これまで忙しくて手を付けられなかったことに挑戦したい。やるぞ~!!今頃、同業者HさんもN野県で修羅場の海を潜水中なはずだ! CoCoさん、頑張りましょう~!



超ディープブルー

2009年07月13日 21時17分36秒 | Weblog
昔、ある人から「翻訳という仕事には将来性がない」と言われた。

「翻訳はいずれ機械ですべて行われるようになるでしょ」というのがその人の主張だった。その人も翻訳業界にいたのだけど、営業系で翻訳作業には直接関わっていなかった。だから、翻訳なんてやめといた方が身のためだよ~と言外で僕に忠告してくれていたようなのだ。

その人は別に翻訳をしている人を悪く言うつもりとかはなくて、ただ純粋にそう考えていたということが分かった。とはいえ、かなり断定的に真顔でそう言われたので、結構ギョッとしてしまった。ムッとしてしまった。でも、そこまですがすがしく言い切られると、ハッとする部分もあって、その点ではグーだと思った。

そのとき僕は、心の奥底では「んなこたぁない」とつぶやいたのだけど、将来どんなことが起きるかは誰にもわからない。世界中で、僕なんかよりはるかに頭のよい人たちが日夜、機械翻訳の開発に情熱を注いでいるのだ。現状の機械翻訳の訳文の質の低さを見て、「翻訳マシーンが翻訳業界を支配する世界」という夢物語を一笑に付す人も多いと思うけど、正直、将来は翻訳業界はおろかアンドロイドが人間社会を支配する可能性だってないとは言えないんだから、あんまりテクノロジーを見下してはいけないと思う。

そもそも、すでにコンピューターの方が人間より優れている部分はたくさんある。単純な処理を大量にやらせたら、圧倒的にコンピューターの勝ちだ。チェスだって人間の世界チャンピオンが機械に負けた。マシンの名前が、ディープブルーだっただけに、敗れたチャンピオンはそうとうブルーになったらしい(なんて)。

現在でも、重要度がそれほど高くなく、更新頻度がものすごく多いタイプの文書には実際に機械翻訳が用いられている。マイクロソフトの技術者向けのサポート情報(たとえばKB)なんかがそのよい例だ。読む方も、これは機械翻訳が訳したものだから、文章にめちゃくちゃなところがあるということを始めから意識して読むわけだ。それでも、ちんぷんかんぷんな外国語を読むよりは十分にマシ。何が書いてあるのかをだいたいでいいから知りたいとき、コスト面を考えると機械翻訳はかなりリーズナブルな選択肢になってきているというわけだ。

ただ、実際に僕がいま仕事をしている限りにおいては、機械の脅威はまだ感じていない。そもそも、機械翻訳でいいや、と発注者が思ったのなら、こちらに仕事が回ってこないのだから、脅威も感じようがない。そういえば、「ほんとうにざっくりでいいから意味だけわかればいい」みたいな仕事は、以前社内翻訳者をしていたときには結構需要があったけど今はほとんどこないので、機械で処理していることもあるのかもしれない。

これは翻訳者としては憂うべき問題であるのかもしれない。しかし、世の中の人たちにとっては単に便利になって喜ばしいことなのだ。仕事がなくなるという恐怖は感じつつも、そうなったらなったで仕方ないし、世の中にとってはいいことなんだと素直に思う自分もいる。「お前はそんな無責任でのんきなことを考えていていいのか?」とおしかりを受けそうだけど。

それに、機械で置き換えられる部分は機械に任せておいて、現在は人間が翻訳しないとダメ、という部分だけを翻訳できるのだから、むしろ人間の翻訳者、アナログ翻訳者としては歓迎すべき状況であるとも言える。機械は敵ではなく、時には協力して作業を進める仲間であり、切磋琢磨する同士であると考えることもできる。まだまだ人間の手をかけないとまともなアウトプットができない仕事が残されている翻訳という分野は、幸せなのである。チェスの世界チャンピオンは本当にショックだったと思う。チェスの愛好者もみんなショックだったと思う。翻訳業界だって、ベストセラー翻訳書を機械が誰よりも上手く訳したら、みんなショックでやけ酒を煽り、うちひしがれ、しばらくはお互いに駅前のガード下で焼酎を飲みながら慰め合うような日々が続くと思う。「やってらんね~よ!」ってな感じで。

Google翻訳でドキュメントを丸ごと翻訳できるように」という記事を読んで、そんなことを思わず考えてしまったのでした。これはなかなか、便利ですぞ。でもこれは翻訳者にとってというより、有料の翻訳ソフトベンダーにとってより脅威かもしれん。提供元は天下のGoogleだ。ファイルをアップロードすると、すぐさま全文翻訳。すくなくとも、翻訳速度だけは僕の100万倍速い。名詞の単純な置換という面でも、すでに人間を凌駕している部分もある。Googleが巨大なTMを構築し、その精度を高めていったら、すごいことになるかもしれない。

もちろん僕は生身の翻訳者の可能性を信じているし、そもそも現在の機械翻訳のアルゴリズムでは人間(よい翻訳者)の翻訳を超える訳文を作るのは難しいだろうとも考えている。ただ、将来は何が起こるか分からないということと、人間にしかできない仕事だからって、ふんぞり返って高い料金をもらって当然だとは思いたくないってことを感じる。機械に負けないくらい、うまくはやくやすく翻訳しなければと思うのである。そう、君は僕のライバルなのだ。

黒砂糖ブーム到来

2009年07月12日 22時36分21秒 | Weblog
プロ野球以外のニュースもやってるんだけど、「プロ野球ニュース」

カメラしか売ってないわけじゃないけど、「ビッグカメラ」

ラーメンやパスタを食べるときであっても、「めし、食いにいこう」

こういう風に、言葉が表していると思われるものと、実際に表されているものが微妙に違うことってありますよね。

このテーマは奥深く、また機会があればじっくりと考えてみたいのですが、今日はそういう余裕がありません。

それなのになぜこういう書き出しにしたのかというと、それはずばり、

今、僕の中で空前の黒砂糖ブームが到来しているからなのです。

で、「黒砂糖ブーム」を何度も頭のなかで繰り返していたら、なぜか「プロ野球ニュース」のことが気になってしまったのです。

もともと黒砂糖は好きだったのですが、家に常備してまで食べることはほとんどありませんでした。

最近たまたまスーパーで見つけて、衝動的に買ってみたら、これが大ヒットでした。

黒砂糖はミネラルたっぷりで健康にもいい。そして何より美味しい。

黒い食べ物に特有の風味があります。

黒ビールが好きな人、黒いパンが好きな人、黒あんが好きな人、

そういう人は、きっと黒砂糖も好きなのではないでしょうか。

ワインは白よりも赤が好き。そんな人もきっと黒砂糖が好きなのではないでしょうか? 僕は全部当てはまります。

仕事で頭が疲れているときに囓ると、よいエネルギー源になる気がします。これは在宅作業者にとってかかせない栄養補給源です。

紅茶やコーヒーに入れても、料理やお菓子の材料にもよいと思います。

普通の砂糖にくらべて少々値は張りますが、いいですよ~。夏バテ対策に、ぜひ!

そんなわけで、美味しくて、塊状の黒砂糖を囓っていたら、あっという間になくなりました。

なのでネットで大量に注文してしまいました。5Kg分も!

段ボールを開けたら、正直、自分でもちょっとゾッとしました。

さすがにこれをすべて囓ったら、おなかの周りに黒い脂肪がまとわりついてしまいそうな予感がします。

が、当分やめられそうにありません。

甘いものが止められないと悩んでいるお方に、大自然のお菓子、黒砂糖をオススメします。

冷凍バナナにまぶして食べるのも、また一興です。

不気味に黒く変色する冷凍バナナの皮に乗せて食べると、不気味さがよりいっそう引き立ち、肝を冷やすこともできますよ~!






冷凍バナナ失格

2009年07月09日 21時35分11秒 | Weblog
冷凍バナナは好きですか?

僕は大好きです。子供の頃からの大好物で、しょっちゅう食べています。

「凍らせる」という単純な作用によって、これほどバナナが美味しくなることにいつも感動しています。

ところで、質問があります。

冷凍バナナを作るときは、必ず「皮を剥いてから」ラップとかアルミフォイルに包んで冷凍庫に入れますよね?

それが常識ですよね?

皮ごと冷凍庫に入れたりする人はいないですよね?

いないですよね?

.......


でもね、立ち止まって考えてみてください。

なぜ、皮を剥かなくてはいけないのか、と。

なぜ、皮ごと凍らせたらいけないのか、と。

いったいどこの誰が、「バナナは皮を剥いてから凍らせなくてはいけない」と決めたのでしょう?

何の権限があって、そんな独善的なルールを世の中に対して押しつけているのでしょう?

「バナナは皮を剥いてから凍らせる」そんなことはほとんどの人が知っています。

だけど、「皮ごと凍らせたらどうなるのか?」を知っているひとはあまりいないはずです。

つまり、「バナナは皮を剥いてから凍らせなきゃいけない」のは、

「みんながそう言っているからそうなのだ」に過ぎないのではないですか?

それは単に、長いモノに巻かれているだけではないですか? 

長いモノに巻かれ、さらにバナナという長いモノをアルミフォイルで巻いているのではないですか?

そんなことでいいんですか? 人が決めたレールの上を走るだけの人生でいいんですか?

本当にいいんですかそれで?


.......


と、そこまで深く考えたわけではないのですが、ともかく「皮を剥かずに凍らせたらどうなるんだろう?」

という非常に純粋、単純、怠慢な精神に突き動かされた私は数日前にバナナを一房、冷凍庫に放り込んでみました。

正直「皮ごと凍らせたバナナは意外と美味しかった」というハッピーエンドをちょっと期待していました。

「ひょっとしたら、自分は21世紀のコロンブスの卵を発見したのかもしれない」、という胸騒ぎすらしました。

しかし、現実は甘くはありませんでした。

.......

どうなったと思いますか?

世間のしきたりに従わない奴には、どんな仕打ちが待っていたと思いますか?

それは、想像を絶するものでした。

恐怖で、今もキーを打つ手が震えています。

はっきり言いましょう。

「バナナは皮を剥いてから凍らせなくてはいけません」

絶対に皮ごと凍らせてはいけません。

そうです、絶対に......

.......

何が起きるのでしょう?

皮ごと凍ったバナナは、カッチカチです。

トンカチ代わりに釘を打つことはできます。

なので、トンカチを切らしているご家庭では有用かもしれません。

しかし、食用には適していません。

まず、凍った皮が固くて剥くことができません。

あまりに冷たくて、長い間バナナを掴んでいることができません。非常に剥きにくい。

強引に剥こうとすると、ポキッと折れてしまいます。

ですから、しばらくテーブルの上などに置いて自然解凍させるしか手段がありません。

数十分たってテーブルの上を見てみると、そこにはぐったりとしたバナナの姿がありました。

ふにゃふにゃです。「ふ」みたいです。微妙にシャーベット状になっています。

もう生きることに未練を無くしたかのように、疲れ切っています。生きる気力が、生への執着が、バナナからまったく感じられません。

ゆっくり皮を剥がそうとしたら、実の部分がぐちゃぐちゃにくずれてしまいます。

なんとか一部を救出して、再び冷凍庫の中に格納しました。

最初っから皮を剥いておけという話です。

.......

私は自分の愚かさにため息をつき、軽い苦笑いを浮かべながら仕事を再開しました。

数時間後、おもむろに台所に戻ってみると、そこには思いもよらないバナナの姿が!

私は自分の目を疑いました。何が起きたのか理解できませんでした。

先ほど剥いたバナナの皮が、真っ黒なのです。

真っ黒いイカのようなバナナの皮。新種の海底生物のようなバナナの皮。

一夏を海の家でのバイトに費やして、これ以上日焼けできないくらい真っ黒になったバナナの皮。

海辺での一夏の恋。そしてその恋に破れ、真っ黒に燃え尽きてしまったかのようなバナナの皮。

そんな気色の悪いモノが、目の前に横たわっていたのです。

私はうろたえました。

私は何をしてしまったのか。私はタブーを犯してしまったのではないのか。私は、パンドラの筺を開けてしまったのか。

なぜバナナの皮が真っ黒にならなくてはいけないのか? 神の怒りに触れてしまったのか?

私は悲鳴を上げ、気を失ってその場に倒れました。

.......

私が凍らせたバナナは、一本ではありません。一房だったので、五本です。

私は恐る恐る、他のバナナも同じように自然解凍させ、皮を剥いてみました。

やはり、剥き終えた皮は、しばらくすると真っ黒になりました。

その姿は、宇宙人から謎の光線を浴び変死体と化した野生動物を彷彿とさせました。

なぜバナナの皮を凍らせると黒くなるのか、その理由は未だに解明できていません。

ただ一つ言えることは、世の中の人の意見には、素直に従っておいた方がいいということです。

私の行動は軽率でした。やはり私は色々な意味で人間失格のようです。

.......


いまは私には、幸福も不幸もありません。

ただ、いっさいは過ぎて行きます。

私がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、「バナナは皮を剥いてから凍らせなくてはならない」、ただそれだけでした。

ただ、いっさいは過ぎて行きます。

私はことし、三十九になります。白髪はほとんどありません。たいていの人から、三十代前半に見られます。

~完~












端くれ翻訳者も棒に当たる

2009年07月08日 17時31分02秒 | 翻訳について
某翻訳会社の方からメールをいただきました。

某全国紙の某日の某広告記事は某翻訳をベースにしたものなのですが、その某翻訳を担当させていただいたのは某翻訳者、つまり何を隠そうこの某私でして、その某記事が掲載されたことをお知らせいただいたのです。某記事をPDFにして添付してくださいました。この方にはいつも非常に丁寧なご対応をしていただいています。深く、深く感謝です。ちなみにその某新聞は私も購読しているにも関わらず、某記事には気付いていませんでした。ああ情けなや。

私がその案件を担当させていただいたのは単なる偶然に違いありませんし、訳文もいろいろと修正、割愛されていました。しかし、全国紙の朝刊に自分の訳文が掲載されているのはやはり嬉しいものがありました。おそらく今まで自分が訳したもののなかで、一番たくさんの人の目に触れる機会があった文章ではないでしょうか?いつも私がそうしているように、その日の朝、日本全国でいったい何人の男子がトイレのなかで朝刊を広げ、その某記事を読んだのでしょう? そして何人が、あまりの文章の不味さに、思わずその紙面を引きちぎり、トイレットペーパーの代わりに使用したのでしょう?(なんて)

その一方、翻訳者が誰も読まない訳文を訳している場合もあることを如実に物語る、このような記事もあります。なんとも切ない話ですね。。。

実際、翻訳者は仕事を依頼される立場なので、読む人が誰もいない文章であろうが、数百万人の目に触れる可能性のある文章であろうが、来た仕事に全力で取り組むしかないわけですし、読む人の数によって加減をしたいとも思う人も少ないと思うのです。翻訳者にとって読み手は常に手の届かないところにいる、不特定多数の存在であるのです。いわばそのバーチャルな「唯一」の読者に向かって翻訳をする。それがこの仕事の地平線なのかもしれませんし、魅力なのだと思います。









F7に願いを

2009年07月07日 20時37分06秒 | Weblog
七夕の日に、神様が願い事をさっそくひとつ叶えてくれたかのように、久しぶりにいい天気になりました。

最近は蒸し暑く、家にいてもじっとりと汗をかきます。熱いご飯を食べたら汗だくになります。もう夏は、すぐそこまで来ているのです。いつのまにかじわりじわりと間合いを詰められ、気がついたらガードポジションを取られてしまったようです。でも、まだマウントは取られていません。こちらも下から三角締めを十分に狙えるだけのいい体勢を維持しています。勝負はこれからなのです。なんだかよくわかりません。

あと二週間ほどで梅雨も明け、そしたら、ついに本格的に夏が到来するはずです。僕は夏が好きなので梅雨明けを指折り数えて待っているのですが、でもいざ夏が始まると、すぐに去ってゆくであろう夏のことを想うと切なくなってしまいそうで、そう考えると、早く来て欲しいような、来て欲しくないような。。

ところで、「七」といえば、山本ゆうじさんが「納品前に「F7」キーを押してスペルチェックをすることを習慣づけるように」と書いておられたのを以前どこかで読み、それ以来なるべく実践するようにしています。基本的なことであり実践されている方も多いと思いますが、翻訳の仕事をされている方、あるいは仕事で文書を書く機会の多い方には、「納品前のF7」をオススメします。スペルチェックではなく、「F7」と意識することで、個人的にはより忘れにくくなるような気がして気に入っています(山本さんが執筆したスペルチェック関連の記事)。

そんなわけで今日は気持ちよくジョギングもでき、よかったです。調子も上々。これをこの夏ずっと維持したいものです。