サッカーのゴールキーパーを一律に守護神と呼ぶな点取られるから
(解説)いつのころからか、「守護神」がゴールキーパーの枕詞になってしまった。どのチームでも、誰がキーパーでも、そこにキーバーがいれば、それは守護神。代表クラスの選手でも、ルーキーでも、とにかく守護神。前の試合で5点取られてても、トンネルしてても関係ない。なんにせよ、手袋をはめてゴールマウスの前に立っていれば、たぶん、それは守護神。今、草サッカーでも少年サッカーでも、キーパーは一律に守護神と呼ばれているはず。いっそのこと、日本語ではキーパーの正式名称を守護神にしてしまったほうがいいんじゃないかと、日本サッカー協会に提言してみたいと思ってしまうくらいだ。
最初、この言葉がサッカー中継で登場し出したときは新鮮だった。なるほど、守護神か。うまいこというじゃないか、と思った。ちょっと感動すらした。だけど、こうも毎回毎回繰り返されると、さすがに言葉は陳腐化してくる。だんだん耳にタコができてくる(陳腐な表現)。そしていまではこの言葉、僕のなかですっかり手垢のついた、新鮮味を失ったものになってしまった。本来はほめ言葉のはずが、むしろ試合前の選手紹介で「今日の日本のキーパーは守護神、誰々です」とアナウンサーが口走ったとたんに、なんとなく点取られそうな予感が倍増してしまう。縁起が悪いとすら思ってしまう。神がかりのスーパーセーブを連発するキーパーのことを賞賛して使うべきはずだった言葉が、あまりにも容易に使われてしまうようになったことで、ついにはチープなクリシェに成り下がってしまったのだ。うん、ニッポンの守護神は確かにヨシカツだ。だけど…….。
守護神と言ったとたんに点取られ
同じことが「司令塔」にもいえる。最初、これもすっごく格好いい言葉だった。それが、やっぱりずいぶんと色あせてしまった。本当にすごい選手を指して使うんだったらまだマシに響くけど、そうでもない選手に使うとき、もはや僕には司令塔なんだか管制塔なんだか金平糖なんだかよくわからない、無機質なイメージしか浮かんでこない。守護神にしても司令塔にしても、そうした何の創意工夫も見られない表現の氾濫の根底にあるのは、言葉を選ぶことに対しての怠惰な精神にほかならない。それでもアナウンサーは今日も恥ずかしげもなくクリシェを口にする。試合前、聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいの凡庸な表現でイレブンが表現されていくとき、そこに勝利の女神の存在を感じることはできない。そこにいるのは、おそらくクリシェの女神だけだ。
ためらいもせずに「守護神」口にするアナの背後にクリシェの神様
223センチの大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを称して、「一人民族大移動」「人間エクゾセミサイル」「現代のガリバー旅行記」と毎週オリジナリティにあふれた形容詞を連発していたプロレス実況時代の古館伊知郎がすごかったのは、毎回これまでとは違う言葉を使ってやろう、たえず新しい言葉で対象を捉え直してやろうとする鬼気迫るほどの探究心だった。自らが生み出した豊饒な言葉のワンダーランドすらからも逸脱し、逃走しようとする飽くなき言語表現への追求。当時、彼の言葉は、黄金期の只中にあってまさにまばゆいばかりに光り輝いていた、多士済々の、海千山千のレスラーたちの、さらに一歩先を行っていた。当時の言葉を拝借するならば「全国三千万人のプロレスファン」にはあえて言うまでもないことだけど、古館の実況は間違いなくあの最もプロレスが熱かった時代のプロレスを、強力に、強力に牽引していたものの1つだった。そう、言葉は時代を変えられるのだ。
藤波の掟破りの逆サソリこらえた長州バックドロップ
翻訳の世界はどうか。残念ながら、ここにもクリシェの神様がいる。彼女は、どっしりと構えている。クリシェ大明神が鎮座しておられる。守護神と司令塔がウヨウヨしている。気をつけなければ「原文がこれだったから訳文はこれ」みたいな安直クリシェ訳の嵐が吹き荒れるのだ。厳密にはこれらはクリシェとは言わないのだけども、たとえばIn factとくれば「実際」、Note thatとくれば「留意してください」、In other wordsとくれば「換言すれば」、そしてHoweverと書いてあったから「わたし迷わず『しかしながら』にしました」、みたいな訳が多すぎる。自分もそういう訳を作ってしまいがちなのだから、クリシェ的に言えば自分のことは棚に上げて、あるいは天に向かって唾吐くことになるけど、ぶっちゃけた話、そんなものヌケヌケと納品してくれるなと思う(まあ、そこまで言うことないんだけど)。
原文に「However」と書いてあったから迷わず「しかしながら」と訳して納品
たしかに、こんな訳し方は間違いではない。むしろ、不用意に外してはいけない定石だと考えることもできる。慎重に訳すことは大事だ。自分の意見を訳文に込めすぎないのも大切だ。ヘタな意訳はケツの青い奴のやること。それはその通り。だが、大事なのは、それを破ることの許されない不文律と頭から決め込んでしまっているのか、それとも、表向きは神様の教えに従うよい子のフリをしていながらも、チャンスさえあればいつだってそこから逸脱してやると機会をうかがっている荒ぶる魂を持っているかどうかの違いなのだ。苦しみながらも、苦し紛れでもいい、守護神なんて言葉毎回使ってたまるか、他の言葉、出てこいや、と思える根性があるかどうか。そこが大事なのだ。
いつだって逸脱狙え苦し紛れでもずいぶんマシさクリシェまみれより
そしてそんな精神がない限り、おそらく凡庸なキーパーは今日も変わらず凡庸な誰かに守護神と称され、そして守護神らしからぬ失態で失点を重ね、凡庸なチームは凡庸に敗退していくことになるのだと思う。どうみたって、そこには神様はいない。神様が泣いてるよ。やっぱり、それじゃつまらない。言葉に生命を、もっと光を。本当の言葉を探しにいこうじゃないか。
守守守守守守守守守守守守守守守守守守
『B面の夏』黛まどか
『聖夜の朝』黛まどか
『フランス三昧』篠沢秀夫
『都市の遊び方』如月小春
『アメリカ合衆国』本多勝一
『好きになったら読む本』藤本義一
(解説)いつのころからか、「守護神」がゴールキーパーの枕詞になってしまった。どのチームでも、誰がキーパーでも、そこにキーバーがいれば、それは守護神。代表クラスの選手でも、ルーキーでも、とにかく守護神。前の試合で5点取られてても、トンネルしてても関係ない。なんにせよ、手袋をはめてゴールマウスの前に立っていれば、たぶん、それは守護神。今、草サッカーでも少年サッカーでも、キーパーは一律に守護神と呼ばれているはず。いっそのこと、日本語ではキーパーの正式名称を守護神にしてしまったほうがいいんじゃないかと、日本サッカー協会に提言してみたいと思ってしまうくらいだ。
最初、この言葉がサッカー中継で登場し出したときは新鮮だった。なるほど、守護神か。うまいこというじゃないか、と思った。ちょっと感動すらした。だけど、こうも毎回毎回繰り返されると、さすがに言葉は陳腐化してくる。だんだん耳にタコができてくる(陳腐な表現)。そしていまではこの言葉、僕のなかですっかり手垢のついた、新鮮味を失ったものになってしまった。本来はほめ言葉のはずが、むしろ試合前の選手紹介で「今日の日本のキーパーは守護神、誰々です」とアナウンサーが口走ったとたんに、なんとなく点取られそうな予感が倍増してしまう。縁起が悪いとすら思ってしまう。神がかりのスーパーセーブを連発するキーパーのことを賞賛して使うべきはずだった言葉が、あまりにも容易に使われてしまうようになったことで、ついにはチープなクリシェに成り下がってしまったのだ。うん、ニッポンの守護神は確かにヨシカツだ。だけど…….。
守護神と言ったとたんに点取られ
同じことが「司令塔」にもいえる。最初、これもすっごく格好いい言葉だった。それが、やっぱりずいぶんと色あせてしまった。本当にすごい選手を指して使うんだったらまだマシに響くけど、そうでもない選手に使うとき、もはや僕には司令塔なんだか管制塔なんだか金平糖なんだかよくわからない、無機質なイメージしか浮かんでこない。守護神にしても司令塔にしても、そうした何の創意工夫も見られない表現の氾濫の根底にあるのは、言葉を選ぶことに対しての怠惰な精神にほかならない。それでもアナウンサーは今日も恥ずかしげもなくクリシェを口にする。試合前、聞いているこっちが恥ずかしくなるくらいの凡庸な表現でイレブンが表現されていくとき、そこに勝利の女神の存在を感じることはできない。そこにいるのは、おそらくクリシェの女神だけだ。
ためらいもせずに「守護神」口にするアナの背後にクリシェの神様
223センチの大巨人アンドレ・ザ・ジャイアントを称して、「一人民族大移動」「人間エクゾセミサイル」「現代のガリバー旅行記」と毎週オリジナリティにあふれた形容詞を連発していたプロレス実況時代の古館伊知郎がすごかったのは、毎回これまでとは違う言葉を使ってやろう、たえず新しい言葉で対象を捉え直してやろうとする鬼気迫るほどの探究心だった。自らが生み出した豊饒な言葉のワンダーランドすらからも逸脱し、逃走しようとする飽くなき言語表現への追求。当時、彼の言葉は、黄金期の只中にあってまさにまばゆいばかりに光り輝いていた、多士済々の、海千山千のレスラーたちの、さらに一歩先を行っていた。当時の言葉を拝借するならば「全国三千万人のプロレスファン」にはあえて言うまでもないことだけど、古館の実況は間違いなくあの最もプロレスが熱かった時代のプロレスを、強力に、強力に牽引していたものの1つだった。そう、言葉は時代を変えられるのだ。
藤波の掟破りの逆サソリこらえた長州バックドロップ
翻訳の世界はどうか。残念ながら、ここにもクリシェの神様がいる。彼女は、どっしりと構えている。クリシェ大明神が鎮座しておられる。守護神と司令塔がウヨウヨしている。気をつけなければ「原文がこれだったから訳文はこれ」みたいな安直クリシェ訳の嵐が吹き荒れるのだ。厳密にはこれらはクリシェとは言わないのだけども、たとえばIn factとくれば「実際」、Note thatとくれば「留意してください」、In other wordsとくれば「換言すれば」、そしてHoweverと書いてあったから「わたし迷わず『しかしながら』にしました」、みたいな訳が多すぎる。自分もそういう訳を作ってしまいがちなのだから、クリシェ的に言えば自分のことは棚に上げて、あるいは天に向かって唾吐くことになるけど、ぶっちゃけた話、そんなものヌケヌケと納品してくれるなと思う(まあ、そこまで言うことないんだけど)。
原文に「However」と書いてあったから迷わず「しかしながら」と訳して納品
たしかに、こんな訳し方は間違いではない。むしろ、不用意に外してはいけない定石だと考えることもできる。慎重に訳すことは大事だ。自分の意見を訳文に込めすぎないのも大切だ。ヘタな意訳はケツの青い奴のやること。それはその通り。だが、大事なのは、それを破ることの許されない不文律と頭から決め込んでしまっているのか、それとも、表向きは神様の教えに従うよい子のフリをしていながらも、チャンスさえあればいつだってそこから逸脱してやると機会をうかがっている荒ぶる魂を持っているかどうかの違いなのだ。苦しみながらも、苦し紛れでもいい、守護神なんて言葉毎回使ってたまるか、他の言葉、出てこいや、と思える根性があるかどうか。そこが大事なのだ。
いつだって逸脱狙え苦し紛れでもずいぶんマシさクリシェまみれより
そしてそんな精神がない限り、おそらく凡庸なキーパーは今日も変わらず凡庸な誰かに守護神と称され、そして守護神らしからぬ失態で失点を重ね、凡庸なチームは凡庸に敗退していくことになるのだと思う。どうみたって、そこには神様はいない。神様が泣いてるよ。やっぱり、それじゃつまらない。言葉に生命を、もっと光を。本当の言葉を探しにいこうじゃないか。
守守守守守守守守守守守守守守守守守守
『B面の夏』黛まどか
『聖夜の朝』黛まどか
『フランス三昧』篠沢秀夫
『都市の遊び方』如月小春
『アメリカ合衆国』本多勝一
『好きになったら読む本』藤本義一