イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

Abandoning who we are and what we are

2007年12月26日 23時40分01秒 | ちょっとシリアス
昼間、会社で仕事をしているとき、ふと凪が来たみたいに、時間がゆっくりと流れているような感覚に襲われるときがある。さっきまで立て続けにプルプル震えていたはずの電話たちが、ぴたりと鳴りやむ。あちこちで聞こえていた会話も波が引けていくみたいに消えていって、誰もが申し合わせたみたいに口を閉ざす。夕立みたいにじゃんじゃん降り注いでいたメールの雨もようやくやんだ。自分の仕事もひと段落ついて、当面は時間にせかされることもなさそうだ。こんな風に、まるで惑星直列みたいにいろんなものがピタッと停止して、あたり一面が、しんとした静かさに包まれる。やがて、普段は聞こえない「脇役たち」の声が聞こえてくる。空調機が、ブーンと低いうなり声を上げている。そこかしこで、キーボードがカチャカチャとささやくみたいな音をたてる。窓の向こうでは、気持ちのよい青空をバックに、雲たちが亀みたいにノロノロと動いているのがわかる。時間の流れは、スローモーなあの雲が進むのと、同じ速度になる。

こんなとき、子どもの頃、ひとりでよく地面に寝ころがって雲を眺めていたときのことを思い出す。大きな雲が、だんだん形を変えていきながら、少しずつ移動していく。まっ白なかたまりが、人の顔になったり、動物になったり、ロボットになったりする。それを眺めているだけで、どれだけ時間がたっても飽きることがなかった。雲は大きくて大きくて、それがいったいどれくらい大きいのか、さっぱり理解できない。だけどぼくはその巨大さにただただ心を奪われて、茫漠とした気持ちになった。そんな風に雲を眺めるのが大好きだった。自然界にあるものがゆっくりと変化するのを、じっくり眺めるという行為が、無性に楽しいのだ。たとえば、紅茶に広がるメロディアンミニ。琥珀色の液体のなかを煙のように立ち昇っていく白い幾何学模様をみていると、その刹那、われを忘れてしまう。こういうの、プルースト現象っていうんだっけ。

こんな午後のひとときは、ふいにデジャブに似た感覚に襲われることがある。「ああ、ぼくは以前もこの椅子に座り、このパソコンに向かって、キーを打ち、この手の文書を翻訳していたぞ」と思う。ハッ、ちがうちがう。これはデジャブなんかじゃない。だって、それは紛れもない事実。昨日も先週も一ヶ月前も、たしかにぼくはここにいて、画面をにらみ、キーを打っていたのだ。ぼくはすぐに自分を取り戻す。「アホ、何を当たり前のことを気にしとんねん」と心のなかでつぶやく。さあ、仕事をしなければ。でも、頭のネジは、はずれてしまっている。それはたぶん、時が止まったからだ。時間が、自分が止まるから、代わりに地球が動きだすのだ。こんなにも天気がよくて、空はきれいな水色で、鳥たちは優雅に弧を描いているのに、そして、雲はもうこの星を何週も回ってきたかのように、旅慣れた風情をかもしながら、悠然と気の向くままに宙に浮かんでいるのに、ぼくはいったい毎日毎日ディスプレイをみつめて何をやっているんだろう? キーボードをカチャカチャいわせているのは何のためなんだろう? そういう疑問が静かに首をもたげてくる。自分が誰だかわからなくなる。自分は、自分のフリをしているだけではないのか?

すべては、あの白い雲のせいだ。振り向けばすぐ近くに7才の時の自分がいて、草むらで大の字になって、青い空と白い雲を眺めている。今、この窓からみえる雲は、あのときとまったく同じものだ。びっくりするくらい、何も変わっていない。過去は過去に存在するのではなく、現在に含まれている。あのときの自分もまた、今の自分に含まれているのだ。わずかな時間にすぎない。でも、その間、ぼくはぼくでいることやめる。ぼくのフリをすることもやめる。ぼくは何者でもなく、世界はただ白い雲に覆われている。そんな時間が、忘れた頃に訪れるのだ。