イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

嗚呼、原文の理解なしに翻訳なし

2006年04月26日 01時43分19秒 | Weblog
「翻訳」の世界においては、「原文」なる絶対的な存在がある。
我々しもべたる翻訳者は無意識のうちに、
その神(印刷している場合は紙?)の威光にひれ伏したまま、
誰がなんと言おうとひたすらその預言者の言葉に従って訳文を作成している。
そんな図式が簡単に成立している(と、思われる)。

一般的に自己愛が強く、協調性が無いと周囲から見られている(と、思われる)
翻訳者は、原文という存在の前にあっては、
いとも簡単にその自己を投げ出してしまうのだ。

この盲信的な訳者の服従という態度は、ある意味では正しい。
訳者が、原文が持つ意味範囲を超えて、誤った解釈や出しゃばった言動を
行うことは、基本的に良い結果を招くことは稀だからだ。
翻訳世界においては、それは戒律を破ることに等しい。
原文に書かれていないことを書く、それは勘違い、単なるエゴ、自意識過剰、
場違いな自己発露、誤訳、あるいは余計なお世話...etc であったりするのだ。

それでも、と僕は思う。
「原文はそんなにえらいのか?」と。
いや、原文はえらい。なにはなくともえらい。幾多の試練を乗り越えて、
世間様にテキストでござい、と君臨している時点で、さらにはそれを(傲慢にも)外国語に
翻訳してください、と(のうのうと)他人にお願いしている時点で、
その原文からなんらかの強度を持った光が発生しているのが良く分かる。
たとえその文章がひどい出来のものであってもだ。
純真な翻訳者は、そんなひどい原文の前にあっても丁寧に跪き、
一字一句を疑いもせず訳したあげく、
ヒドイ訳文を神の御前に差し出すのだ。

ここで大切なポイントは2つある。
まずは、原文のレベルはピンきりだ、ということを認識すること。
そしてそれを常に疑ってかかること。

原文には、非常に良くかけた、文章心のある人が苦心して書いた文章もあれば、
納期に追われたエンジニアがタフマンを飲みながら徹夜して泣きながら
書いた(と、思われる)意味不明の仕様書もある。
当然、後者にはエラーは多いし、文章の整合性も乱れている。
だから、わたしたちはしくれ翻訳者は、老婆心を働かせて、
「そんなことわかってるよ」と著者に思われるかもしれないことを承知で
コメントし、ここはこういう意味なのよね、とやさしい気持ちで訳文を作る。
(訳文が原文にまさる場合がレアなケースが発生するのは、こんなときだ)
そんな先回りした気の利かせ方が必要なのだ。

もう一つ。原文の文章レベルに関わらず、俺たち(^^;)翻訳者は、
きっと原文を誰よりも愛し、誰よりも真摯な気持ちで読み、理解することを
心がけることだ。読んで意味分からない文章を訳すことほど、気持ちの悪いことはない。
(実際はそんな気持ちの悪い作業がほとんどだったりして。。嗚呼)

原文がいくらいいことを言っていても、訳者のピントがはずれていると、
ひどい訳になってしまうことは、星野勘太郎の数ほどあるのだから。。
この場合は、訳者の責任に帰するところが多い。

無自覚な伝言ゲームの過ちが、よくない翻訳を世の中に生み出している
元凶となっているのだ(と、思われる)。
A という物体を、気持ちをこめないままだれかに伝えれば、
かならずきっと A' というコピーミスを含んだ謎の物体Xが誕生してしまう。
それを阻止することこそ、翻訳者の使命なのだ。

常に原文を疑ってかかれ、そして、逆説的だが、原文を愛し、誰よりも理解しろ!
そう、翻訳バイブルの序章に書いてあるのだ (と、思われる)








吹き替え翻訳のレベルが高い理由

2006年04月23日 22時01分16秒 | Weblog
吹き替えの映画を見ていると、とても訳がこなれているな~と感じることが多い。

たとえば、子どもの頃好きだったジャッキーチェーンの映画では、はまり役だった声優の石丸博也氏がしゃべる日本語は、ジャッキーが普段から日本語を喋っているとしか思えないほど自然な日本語(というかとても自然に日本語化された広東語?)だった。字幕でジャッキーの肉声を聞いたとき、あまりの違和感に「え?」と思ったほどだ。しかしこれは声の問題で、翻訳の問題ではないような気がするが(笑)

同じ映画業界で言えば、字幕翻訳のレベルも、総じてとても高いと思うのだが、その中でも、特に吹き替えは(当たり外れはあろうが)恐ろしく上手い人たちがたくさんいるような印象を受ける。

コンピュータ翻訳に関して言えば、読みやすい日本語という意味では、吹き替え翻訳にはちょっとかなわない。自分もそのうちの一人だから天に向かって唾を吐くようなものだが、いわゆる原文が透けて見えるような直訳調の嵐で、まれに直訳調でなないとてもこなれた訳にぶつかると(企業向けのマニュアルでは僥倖に等しいが) 調子が狂ってしまい、「この訳文はヘンだ、上手く訳されすぎている」などと叫んでしまうほどだ。

この謎についての私の仮説は、訳文(=日本語)を普段から翻訳というコンテキスト以外で普通の日本語として出力していればしているほど、その訳文のレベルは上がる、というものである。

日本語を母国語として喋っているのであれば、映画やドラマに出てくる英語の台詞と等価な内容の言葉を、必ず生の日本語として幾度となく喋ったことがあるはずである。しかも、そのときの状況や気分に合わせた形で、いく通りにもパラフレーズできるはずだ。だから、原文をそのまま訳したような訳は出てこず、自然に日本語に置き換える作業が行いやすいのではないかと思うのだ。

翻って、たとえばコンピュータ翻訳では、特に初心者の場合、コンピュータのマニュアルを自分で書いたこともなければ、プログラムをしたこともない、さらにはマニュアル自体ほとんど読んだことがない (ユーザーの立場で読まない) というような人が多い。それは、比較的若い年齢の、外国語には堪能だが、技術者ではない人間がIT翻訳をやることも多い現実のビジネス環境を見れば、いたしかたのないことかもしれない。もちろん、素晴らしい訳文もIT翻訳のなかには多々存在しているのだが。
日常的に使っていない言葉だから、原文を読んでも、その対価となる日本語が即座に浮かんでこず、時と場合によっては無残な翻訳がこの世に生まれでてしまう。自分の専門を外れた対象物を翻訳するときには常にこの危険が伴うが、字幕の場合は、このリスクがほか分野に比べて低いのではないだろうか。

吹き替え翻訳のレベルが高いと思われるそのほかの理由としては、彼/彼女たちの英語力の高さがあげられるだろう。調べたわけではないから断言できないが、吹き替え翻訳をするとなれば、実際かなり英語力がないと仕事にならないはずだ。吹き替え翻訳のなり手は、星の数ほどいて、その中でも激しい競争を勝ち抜いたごく一握りの人たちが仕事をしている(はずだ)。これも理由の一つかもしれない。
翻訳をする上で、日本語力の大切さは最近富に謳われているが、英語力の大切さも絶対に忘れてはならない。自分が英語力があまりないのを棚に上げていうが、ややもすると英語力がそれほどなくても翻訳の仕事を行えてしまう現状があり、それが日本人が作る訳文のレベルを少し下げてしまっているとすれば、吹き替え業界にはそれがあまり当てはまらないのではないかと思うのである。

ともかく、吹き替え翻訳の訳文からは、学ぶことが多い。吹き替えのドラマの登場文物が喋る日本語は、かなり自然だし、大胆に意訳されて、それがピタリとはまっていることも多い。英語チャネルでドラマを見ていて、日本語チャンネルに切り替えると同時にすっと意味が頭に入り、耳がよくなったような気さえする。(翻訳者としてこの英語力のなさはどうかと思うが)もちろん英語で見るのも楽しいし、勉強のためにも続けて行こうと思っているのだが、翻訳の醍醐味とは、翻訳が世の中に訳に立っているリアルな現場とは、例えば、英語→日本語チャンネルに切り替えたときに感じるものの中に、確実にあるように思える。

私もはしくれ翻訳者として、こんな印象を人にあたえるような仕事がしたいと、願うのみだ。ジャッキーチェン主演の映画を連日スパカーでやっていたを見ながら、ふとそんなことを考えたのでした。





訳したものを読まれる快感

2006年04月20日 23時26分44秒 | Weblog
常に読み手のことを意識して翻訳しているつもりだ。

でも、いつも見積もりの依頼があって、
前処理、翻訳、チェック、納品ともろもろのフェーズは、ユーザーはおろか、
依頼元とすらあまり顔を合わせることなく進んでいく。
訳したものが実際に「使われている」情景を目の当たりにすることは、皆無に等しい。
本当は、訳文を実際に利用している人の直接の声こそが、
訳者にとって一番重要なフィードバックなのだと思う。

最近、自分が訳したもの(実際は書き起こしに近い)を実際に使ってもらって、
ある人にインストールを行ってもらう作業に立ち会った。

観察していると、その人が必要としているのは、何よりも手早くインストール
することなのだということがありありとわかった。
苦心して訳した細かな参考情報などはどんどん飛ばされて、
必要な情報を得るために走り読みしながら
紙面をたどっていく様子が妙にリアルだった。
こういうことは、なかなか訳している現場ではわからない。

それでも、実際にそのマニュアルを使って作業が完了した
ときはとても嬉しかったし、読まれている間はとてもドキドキした。

自分は、昔から自分が書いたものを人に読まれるとき、
また、訳したものが「上手い」と評価されるときに、無上の喜びを感じる。
なかなか直接読む人の感想を聞くことはできないが、いつも自分が訳した
文章を読む人のために、翻訳したいと思う。
何よりもそれが、自分にとって大切なことだからだ。

時間をかければ、、

2006年04月18日 21時30分41秒 | Weblog
健康であることは、良い仕事をするために何よりも必要なことです。
僕は、かなり健康に気を使っていると自分では思っているが、
最近かなり連日の深夜残業で疲れがたまっていて、
かなりパフォーマンスが落ちてしまっている。

脳みそが鈍った状態でいくら仕事をしても、
効果的な仕事はできない。ものすごく集中して、さえた頭で
これ以上の訳はない!
という感じて作業しなければ、結局のところ何時間仕事をしたところで
いい結果など望むべくもないのだ。

早くGWにならないかな~

読書好きは翻訳者に向いているか

2006年04月15日 01時04分52秒 | 翻訳について
翻訳者に向いている特性として、
「読書好きであること」が、条件である
というようなことが、よくものの本に書いてあります。

この言葉は、紛れも無い真実だと思います。
音楽に興味が無い人に、良い曲が作れないように、
きっと、本に興味が無い人には、良い文章は作れないはずです。

私は、自分は本が大好きな活字中毒者だと思っているはしくれ翻訳者なので、
こういうくだりにあうととても嬉しく思います。
自分は、翻訳者に向いているのだ! と。

でも、気をつけなければいけないことがあります。
自分は本が好きだ、という思いは、ややもすれば自分こそは良い文章が書ける、
良い文章を見分ける力がある、と過信してしまうことがあると思うからです。
実は、本が好きだから、良い言葉を生み出すことができるとは限りません。
(こう断言できるのは、かくいう私がそうだからです)

自戒を込めて言えば、よい文章を書ける人というのは、
何よりもまず、良い文章を書くに値するだけの日々を生きている人
にほかならないのではないでしょうか。読書好きかどうかは、
あくまでその次にくる条件だと思います。
本をたくさん読んでいても、つまらないことをぐだぐだと書いたり、
言葉におぼれて独り善がりな言葉を吐き散らす人が多いように思います。

昔、映画館で働いていたとき、異常なくらいに古今東西の名作映画を見ている、
いわゆる「シネフィル」と呼ばれる知人が、
あまりにも性格が悪い(ごめんなさい)という事実に接して、
"良い映画をどんなに見ても、その人の人格が向上するとは限らない"のだ、と
今から思えばとてもナイーブだった自分が、
目から鱗の経験をしたことを、はっきりと覚えています。

もう一つの例として、たとえば
私の姉は、あまり本は読まない方だと思うのですが、
たまに手紙をもらうと、とても的確に必要なことを過不足無くまとめた
文章を書いてきます。私といえば、読書量ではかなり
のものになると自負しているはずなのに、
1枚の葉書に上手く相手への気遣いや自分の近況をしるすことができた
ためしがありません。
それは、たぶん姉の方が、人生をよりよく生きているからこそ、
普通の言葉で、普通に人生を語ることを、私より上手くできるのだと思うのです。

良い翻訳者になるには、人として、しっかりと毎日を生きること。
ちゃんと生きていることが必要なのだ、といつも感じます。
良い翻訳者としての条件というよりも、良い仕事をするための条件と言った方が
正確かもしれません。




日本刀を眺めていると。。

2006年04月13日 23時29分00秒 | Weblog
元格闘家の前田日明氏がどこかで語っていたことで、
とても印象に残っていることがあります。

前田さんは(ちなみに自叙伝『パワーオブドリーム』は名著です!)は、
日本刀に造詣が深く、かなりの鑑定眼をお持ちだということなのですが、
曰く、素人が日本刀に興味を持ってから本当に優れた刀を
見抜く眼を持つようになれるには、数年の経験が必要なのだということです。

何年もかけて、数千本(?)もの刀を見ていると、次第に、
始めは気づかなかったミクロ単位の違いがわかるようになるのだといいます。
どんな世界でも同じだとは思いますが、日本刀の世界も、極めれば極めるほど
奥の深いものだということが、日本刀についてまったく知識のない私にも、
なんとなく理解できた気がしました。

翻訳も同じで、何年も続けていると、あるとき霧が晴れていくような感じで、
それまで見えていなかったものが見えてくる瞬間があります。
今まで普通に読んでいた訳文や原文の良いところや悪いところが目に付くようになる。
あるいは、今までならこう訳していただろうというところが、こうすればもっと良い
訳になるな、と直感でわかるようになり、キーを叩く指が勝手に動き出す。
私も、何度かそういうことを感じたことがあります。
でも、まだまだ私のようなはしくれ翻訳者には、見えていないものがたくさん
ありすぎるくらいにあるのだということはわかるのですが、
前田さんの話を読んで、そう思ったのでした。

一見、何の変哲もない刀に見えても、見る人がみればいろんなことがわかる。
その刀の良いところと、悪いところが、いっぱい見えてくる。
だから、飽きないし、面白い。
そんな玄人の視点で、翻訳ができればいいな、と感じるのでした。

(抽象的な話ばかりですみません。。)



ケアレスミス

2006年04月13日 00時05分41秒 | Weblog
よく、几帳面な性格の人は、翻訳に向いていると言われますが、
私も、そのとおりだと思います。
翻訳という作業には、地道な、コツコツとした作業が延々と
続くことが多く、調べモノや、マニュアルに多い繰り返し作業
などを確実にこなしていくことが求められます。
特に、IT関連のマニュアルには、従うべきスタイルガイドというものが
あって、それに準拠して作業することもまた大変な労力を要することなのです。
初めて翻訳する人は、こんな単調でがんじがらめの作業は、
とてもやっていられないと思うことでしょう。

残念ながら、私はかなりいい加減な性格で、
たとえば書類を作成したりすると結構ケアレスミスが多く、
以前は良く上司から「お前は翻訳者に向いていない、
翻訳者はこんなケアレスミスをしない」などと言われたものでした。
まだ、翻訳の仕事を本格的に開始する前のこと
(当時は翻訳会社で営業をやっていました)だったので、
ミスの多い自分には本当に翻訳の作業ができるのだろうか? と不安でした。

実際、翻訳者として仕事を始めたばかりのころは、ミスを連発し、
自信喪失することが連日続きました。
でも、不思議なことに、作業に慣れてくるにつれて
次第にイージーミスが減り、
今では他人のチェックをするときには、自分でも不思議な
くらい神経質に細かい点が気になったりします。

何度も何度も似たような作業を繰り返していくうちに、
だんだんと角が取れ、細かいところにまで気を配ることが
できるようになったのでしょう。

もちろん、以前の自分と比較しての話で、
今でもミスは多いし、おおざっぱな性格は
一生直りそうにありません。

何を言いたいのかというと、几帳面な性格だから翻訳ができる、
そうでない人は向いていない、
というような単純な論理には眉唾で望むべきだと思うのです。

もちろん、ある基準の確実さというのは翻訳に限らず
どんな仕事でも求められることだと思います。
ただ、几帳面さというのは、経験によってある程度カバーすることが
できるのではないか、と(期待を込めて)考えて見たいのです。

そして、ある程度の確実さを経験によって得ることができれば、
そこから先は、几帳面さとは対極にあるはずの、大胆さや創造性を発揮できる
世界が広がっているのではないかと信じたいのです。

翻訳の面白さとは、ある程度の几帳面さ(=原文の内容の範囲から飛躍しない)
を守りつつ、そこからいかに自由な発想ができるか、
というところにあると思うからです。





ラーメンと翻訳の関係

2006年04月12日 01時00分11秒 | 翻訳について
ラーメンが好きで、ラーメン本を頼りに食べ歩きをすることがあります。
初めての店に入ると、店員さんの顔つきや、はやり具合、
ほかのお客さんの様子から、この店が当たりかどうかを予想します。
それから、メニューを眺めて、これだ、という品を注文します。
私にとってはなんともいえない緊張感を感じる非日常の瞬間です。

当然、期待通りの味で満足する場合もあれば、そうでないこともあるのですが、
いつも思うのは、美味しいラーメン屋さんと良い翻訳者は似ているということです。
ちょっと強引な結びつきなのですが。。

たとえば、20年もやっているラーメン屋さんでも、
あまり美味しくない店はたくさんあります。
逆に、初めてまだいくらも経っていないお店でも、
これはすごい、というラーメンを食べさせてくれる店があります。
その差は、きっとおいしいラーメンをお客さんに食べさせたい、
という店主の熱意、ラーメンLOVEだと思うのです。

確かに、経験は大事です。翻訳者も、経験がものを言う世界です。
どれだけ語学ができても、専門知識があっても、経験のない人は、
あれっ?というような簡単なミスをしたり、
かゆいところに手が届かない訳をしてしまいがちです。

けれども、わたしが思うに、たとえば3年くらいの経験者であれば、
そこから先は、どれだけ日ごろから良い訳文をつくるために努力しているか、
そこが良い翻訳者とそうでない人の分かれ目になると思うのです。

良い訳文を読み手に届けたい、美味しいラーメンをお客さんに食べてもらいたい、
この気持ちを毎日持ちつづけることができるかどうか、
そこが大切なのだと、麺をすすりながらいつも考えています。

まあ、あくまでそれは理想であって、私も常にそんな純粋な気持ちで毎日仕事が
できているとは思えないのですが、ほかの職業の人の働き振りから、
いろんなことを学びたいと思う今日この頃なのでした。



難しいのは。。

2006年04月11日 00時47分15秒 | Weblog
会社では数人で翻訳プロジェクトを回しているのですが、
これが本当に難しいのです。
なんとかやりすごす、なんとか終わらせる、なんとかごまかす、
そんな、なんとかの世界が日常化しています。

僕は、翻訳の仕事がとても好きです。
今、翻訳の仕事で生活できていることが嘘のようだと思うこともあります。
こんな、幸せなことはないと。
それでも、本当のプロとして仕事をしていくのは、本当に厳しいことです。
もっともっと自分の目標を高く持って、きちんとした仕事ができるようになりたいと
思うのです。

なんか、「なんか」ってヘン

2006年04月09日 23時19分16秒 | Weblog
気が付くと「なんか」という言葉を使っている。自分もそうだし、他人もそうだ。
それも異常なまでに。よくないな、と思いつつ、
言葉と言葉の合間に「なんか」を連発している。
それも、たとえば「これって、なんか、あの..××ってことですか?」とか、
「なんか、もうしけない」とか、(なんか)良く分からない日本語になっているのだ。

おそらくここ数年の現象だと思う。1年前ほどにこの妙な「なんか」の横行に気づき、慄然とした。なるべく使わないように心がけているのだが、気が緩んでいると、
つい使っている。他人の話を聞いていても、自分がしゃべっていても、「なんか」を連呼する人の(もしくは自分の)「なんか」がいったん気になりだすと、その人の話を聞くというよりも、その人(あるいは自分)がどのくらいの頻度で「なんか」を発するのかということや、なぜこのようなへんな日本語が巷間にはびこっているのか(もしくはなぜ自分の言葉がこれほど貧困になったのか)ということの方に意識が集中してしまっていたりする。

この現象の根底にあるものはなんだろう? ひとつには、人が人とコミュニケーションする空間がヴァーチャルなものになり、みんな自分が発する言葉のリアリティが感じられなくなっているためかもしれない。自分の言葉を常にあいまいな状態にしておくために、「なんか」を挟んでいく。あるいは逆に、使用する言葉の力のなさ、リアリティのなさを補うために、「なんか」を頭につけて、それらしく何かを表現したいという無意識が働いているのだろうか。

英語でもたとえば、"You know"を連発してしゃべる人に、私はあまりいい印象はもたない。(人にいわせれば、私も結構連発しているらしいが・・)
同じような感覚で、「なんか」の使用には少し気をつけようと思うのである。
けれど、「なんか」を使わない、なんて決めるとそれはそれで窮屈になる。
だから、あくまで自然にね。

ささいなことですが、こういう感覚って翻訳者のはしくれとしては大切にしたいと思うのでした。