「翻訳」の世界においては、「原文」なる絶対的な存在がある。
我々しもべたる翻訳者は無意識のうちに、
その神(印刷している場合は紙?)の威光にひれ伏したまま、
誰がなんと言おうとひたすらその預言者の言葉に従って訳文を作成している。
そんな図式が簡単に成立している(と、思われる)。
一般的に自己愛が強く、協調性が無いと周囲から見られている(と、思われる)
翻訳者は、原文という存在の前にあっては、
いとも簡単にその自己を投げ出してしまうのだ。
この盲信的な訳者の服従という態度は、ある意味では正しい。
訳者が、原文が持つ意味範囲を超えて、誤った解釈や出しゃばった言動を
行うことは、基本的に良い結果を招くことは稀だからだ。
翻訳世界においては、それは戒律を破ることに等しい。
原文に書かれていないことを書く、それは勘違い、単なるエゴ、自意識過剰、
場違いな自己発露、誤訳、あるいは余計なお世話...etc であったりするのだ。
それでも、と僕は思う。
「原文はそんなにえらいのか?」と。
いや、原文はえらい。なにはなくともえらい。幾多の試練を乗り越えて、
世間様にテキストでござい、と君臨している時点で、さらにはそれを(傲慢にも)外国語に
翻訳してください、と(のうのうと)他人にお願いしている時点で、
その原文からなんらかの強度を持った光が発生しているのが良く分かる。
たとえその文章がひどい出来のものであってもだ。
純真な翻訳者は、そんなひどい原文の前にあっても丁寧に跪き、
一字一句を疑いもせず訳したあげく、
ヒドイ訳文を神の御前に差し出すのだ。
ここで大切なポイントは2つある。
まずは、原文のレベルはピンきりだ、ということを認識すること。
そしてそれを常に疑ってかかること。
原文には、非常に良くかけた、文章心のある人が苦心して書いた文章もあれば、
納期に追われたエンジニアがタフマンを飲みながら徹夜して泣きながら
書いた(と、思われる)意味不明の仕様書もある。
当然、後者にはエラーは多いし、文章の整合性も乱れている。
だから、わたしたちはしくれ翻訳者は、老婆心を働かせて、
「そんなことわかってるよ」と著者に思われるかもしれないことを承知で
コメントし、ここはこういう意味なのよね、とやさしい気持ちで訳文を作る。
(訳文が原文にまさる場合がレアなケースが発生するのは、こんなときだ)
そんな先回りした気の利かせ方が必要なのだ。
もう一つ。原文の文章レベルに関わらず、俺たち(^^;)翻訳者は、
きっと原文を誰よりも愛し、誰よりも真摯な気持ちで読み、理解することを
心がけることだ。読んで意味分からない文章を訳すことほど、気持ちの悪いことはない。
(実際はそんな気持ちの悪い作業がほとんどだったりして。。嗚呼)
原文がいくらいいことを言っていても、訳者のピントがはずれていると、
ひどい訳になってしまうことは、星野勘太郎の数ほどあるのだから。。
この場合は、訳者の責任に帰するところが多い。
無自覚な伝言ゲームの過ちが、よくない翻訳を世の中に生み出している
元凶となっているのだ(と、思われる)。
A という物体を、気持ちをこめないままだれかに伝えれば、
かならずきっと A' というコピーミスを含んだ謎の物体Xが誕生してしまう。
それを阻止することこそ、翻訳者の使命なのだ。
常に原文を疑ってかかれ、そして、逆説的だが、原文を愛し、誰よりも理解しろ!
そう、翻訳バイブルの序章に書いてあるのだ (と、思われる)
我々しもべたる翻訳者は無意識のうちに、
その神(印刷している場合は紙?)の威光にひれ伏したまま、
誰がなんと言おうとひたすらその預言者の言葉に従って訳文を作成している。
そんな図式が簡単に成立している(と、思われる)。
一般的に自己愛が強く、協調性が無いと周囲から見られている(と、思われる)
翻訳者は、原文という存在の前にあっては、
いとも簡単にその自己を投げ出してしまうのだ。
この盲信的な訳者の服従という態度は、ある意味では正しい。
訳者が、原文が持つ意味範囲を超えて、誤った解釈や出しゃばった言動を
行うことは、基本的に良い結果を招くことは稀だからだ。
翻訳世界においては、それは戒律を破ることに等しい。
原文に書かれていないことを書く、それは勘違い、単なるエゴ、自意識過剰、
場違いな自己発露、誤訳、あるいは余計なお世話...etc であったりするのだ。
それでも、と僕は思う。
「原文はそんなにえらいのか?」と。
いや、原文はえらい。なにはなくともえらい。幾多の試練を乗り越えて、
世間様にテキストでござい、と君臨している時点で、さらにはそれを(傲慢にも)外国語に
翻訳してください、と(のうのうと)他人にお願いしている時点で、
その原文からなんらかの強度を持った光が発生しているのが良く分かる。
たとえその文章がひどい出来のものであってもだ。
純真な翻訳者は、そんなひどい原文の前にあっても丁寧に跪き、
一字一句を疑いもせず訳したあげく、
ヒドイ訳文を神の御前に差し出すのだ。
ここで大切なポイントは2つある。
まずは、原文のレベルはピンきりだ、ということを認識すること。
そしてそれを常に疑ってかかること。
原文には、非常に良くかけた、文章心のある人が苦心して書いた文章もあれば、
納期に追われたエンジニアがタフマンを飲みながら徹夜して泣きながら
書いた(と、思われる)意味不明の仕様書もある。
当然、後者にはエラーは多いし、文章の整合性も乱れている。
だから、わたしたちはしくれ翻訳者は、老婆心を働かせて、
「そんなことわかってるよ」と著者に思われるかもしれないことを承知で
コメントし、ここはこういう意味なのよね、とやさしい気持ちで訳文を作る。
(訳文が原文にまさる場合がレアなケースが発生するのは、こんなときだ)
そんな先回りした気の利かせ方が必要なのだ。
もう一つ。原文の文章レベルに関わらず、俺たち(^^;)翻訳者は、
きっと原文を誰よりも愛し、誰よりも真摯な気持ちで読み、理解することを
心がけることだ。読んで意味分からない文章を訳すことほど、気持ちの悪いことはない。
(実際はそんな気持ちの悪い作業がほとんどだったりして。。嗚呼)
原文がいくらいいことを言っていても、訳者のピントがはずれていると、
ひどい訳になってしまうことは、星野勘太郎の数ほどあるのだから。。
この場合は、訳者の責任に帰するところが多い。
無自覚な伝言ゲームの過ちが、よくない翻訳を世の中に生み出している
元凶となっているのだ(と、思われる)。
A という物体を、気持ちをこめないままだれかに伝えれば、
かならずきっと A' というコピーミスを含んだ謎の物体Xが誕生してしまう。
それを阻止することこそ、翻訳者の使命なのだ。
常に原文を疑ってかかれ、そして、逆説的だが、原文を愛し、誰よりも理解しろ!
そう、翻訳バイブルの序章に書いてあるのだ (と、思われる)