イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

「完食」の感触

2007年12月13日 23時26分13秒 | 翻訳について

昨日、荻窪の「手もみラーメン十八番」というラーメン屋さんで夕食を済ませた。ネットで評判のよさそうな店を探して、よさそうだったのでここに決め、行ってみたのだ。駅から徒歩5分くらい。カウンター10席にも満たないくらいの小ぶりな店だった。かなり繁盛している。壁には有名人のものと思わしきサイン色紙が一枚だけ張ってある。よくみると、それは角田光代さんのものだった。その他大勢の中に角田さんの色紙があるのならまだなんとなく腑に落ちるが、ただ一枚、角田光代、というものなかなかすごいものがある(が、なぜ?)。ともかく、角田さんの書くものは好きなので、当然、活字人間としては悪い気はしない。きっとラーメンも旨いにちがいない。

ラーメンはこってりしていて美味しく、お腹も空いていたのでスープの最後の一滴まで飲み干してしまう。スープの底に、白っぽい、とても小さな食材の破片がたくさん浮いている。なんだろう、と思いながらもすべて飲み干して、その後、それがニンニクだったことに気づく。しばらくかなり匂うだろう、と思うが、まあかまわない。だが、ちょうど一日たって、さきほどからお腹の調子がどうもおかしい。かなりおかしい。ラーメンってやっぱりあんまり身体にはよくないのね、とわかってはいるつもりなのに、つい食べてしまう。特にニンニクの食べすぎはよくない。てきめんに胃腸の調子が悪くなる。

というわけで、今風の言葉でいえば、昨夜はラーメンを「完食」したことになるのだろうが、ぼくはこの「完食」なる語があまり好きではない。なぜなのかと訊かれてもよく理由がわからない。だが、テレビで誰かが料理をだらしなく平らげ、その様子をテロップで「完食」とでも出された日にはなぜか妙に虫唾が走る。食べること、という人間の基本的な生理を、のべっとした言葉で表されてしまうことへの不快感、出された食事をすべて食べきるという、ある意味神聖な行為を、抜け抜けと実もふたもない言葉でラベル付けしてしまう浅薄さ。飽食な世代が生んだ、醜悪な言葉という気がする。個人的なバイアスが多いに入っているといわれればそれまでだが、何しろ気に食わないのだ。

たとえばこの言葉を、自分の訳文で使いたいとは思わない。誰かが使っているのを見たら、とても気になる言葉として映ることだろう。でも、なぜ? 使うべき言葉と使うべきでない言葉を峻別しているこの主体は誰なのだろう? 広辞苑にも載っていない言葉だから、新語だから、こんな言葉は使ってはいけない。そう漠然と思う自分がいる。翻訳学校でもそう教えられそうだ。でも、「完食」はテレビでは使われているし、ネット上でもたくさん目にするし、雑誌の誌面でも、会話でも登場している。なのに、なぜ書籍の翻訳では使ってはいけないのだろう、あるいは、使いたくはない、と感じるのだろうか。

ある人は、書籍は記録として後世に残るものだから、一時の流行り言葉を使うのはよくない、という。何年か後にその本を読んだ人が、鮮度を失った言葉としてそれを見るだろう、と。その理屈はわかる。でも、本当にそれって時代の声を反映した文章なのだろうか。半分は正解で、半分は嘘だ。書物だけは特別な聖域なのだから、世間にどれだけ流布していようと、まだ日本語になっていない言葉は使わない、と決め込んでしまえば楽だ。でも、世の中には市民権を得ていない言葉がたくさんうごめいている。原文にだってそれは出てくるかもしれない。その語感をすべて無視するわけにはいかない。「完食」という言葉は嫌いだが、言葉に係わる仕事をしている以上、その言葉がなぜ生まれ、受けているのかを知る努力は必要なのかもしれないと思う。

個人的にはこの「完食」嫌いな、保守的な感覚を信じていきたいが、一方で、新しい言葉の感覚を少し無理してでも受け入れるだけの器量も持ちたいと思う。翻訳者は日本語の番人であると同時に、未知の概念や事象を初めて母国語で表現する「種まき人」でもあると思うからだ。