イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

男子トイレの力学 ~わんぱくでもなく、たくましくも育たなかった自分へ~

2010年03月01日 01時06分20秒 | ちょっとオモロイ
自慢じゃないが――実際、何の自慢にもならないのだが――僕はトイレ(小)が近い。それもかなり近い(やっぱり――「トイレがすごく近い」という狭義の意味においては――相当に自慢できるかもしれないほどに近い)。さらに言えば、これまた自慢じゃないが――まったく自慢にならないどころか、そもそも「近い」という表現が適切ではないのかもしれないが――トイレ(大)も近い。非常に近い。つまり僕という存在は――小難しい形而上学的な問題は脇に置いて、ごく端的に言ってしまえば――そしてなぜかこの文章にはダッシュ(――)がやたらと多いわけだが――「男は近くにトイレがなければ生きていけない。トイレがなければ生きる資格がない(by レイモンド・チャンドラー)」を地で行くほどに、トイレに依存して生きているわけなのである。

トイレのなかでは、フィリップ・マーロウ気取り――そんな僕の心情を察してくれているのかいないのか、居候させていただいているオフィスの座席は、トイレにとても近い。トイレが僕を呼んでいるのか、それとも僕がトイレを呼んでいるのか、それともその両方なのか、その真相は謎に包まれたままだが、ともかく僕はトイレが近く、トイレも僕に近く、まさに相思相愛、僕とトイレと○○は三位一体で、これ以上ない不可分の存在として、今日も明日も明後日も、お互いに無くてはならないもの同士として、この現実世界に確固として存在し続けているのである。

そして――この際はっきり言わせてもらうならば――僕は、

To go to the toilet is to die a little.

――トイレに行くことは、わずかのあいだ死ぬことだ――(by レイモンド・チャンドラー)

の名言にもあるように、このつかの間の死――日常からの逃避行――を愛していて、単なる生理的要求に従うだけではなく、むしろ精神的なやすらぎを、四角い壁に囲まれたこの小さな空間にいることで確実に得ているのである。それは僕の毎日にとってなくてはならないものなのだ。

と、そんなことを書いてしまったのにもわけがある。最近、そんな僕とトイレの蜜月に、かつては感じることのなかった不協和音が木霊するようになってきたのである。

「原始、トイレは太陽だった」――の箴言のとおり、ずっと家に籠もりきりで仕事をしていたとき、そこは誰にも邪魔されない、まさに楽園であった。トイレは僕にとって、好きなときに行き、好きなだけ本を読み――ドアを開けっ放しにして――好きなだけ便と戯れる、そんな楽土であった。

しかし今は違う。

もはやトイレは、僕にとって絶対的な自由を約束してくれる場所ではなくなった。

男が一歩、家の外に足を踏み出せば、そこには七人の敵がいる――そう、トイレ(大)は、僕だけを優しく招き入れてくれる癒しの場ではなくなってしまった。そこは、七人の侍が――つまりは先客という名の「異物」が――いる可能性のある場所に成り果ててしまったのだ。先客の存在を感知した僕のセンサーは、異常なまでに反応する。トイレという楽園に他者が存在することの不条理をにわかには受け入れられず、心の――あるいは大腸の――サイレンがけたたましく鳴り響くのである。

そして自慢じゃないが――だんだん「――」を使うのが面倒くさくなってきたわけだが――僕はこの男子トイレのなかでのなわばり争いに、非常に弱い。ものすごく弱い。

つまりはこういうことだ。会社の男子トイレはかなり狭い。トイレ(小)とトイレ(大)がそれぞれ1つしかなく、しかも隣接している。まさに「板子一枚隣は地獄」、その狭い空間に居合わせたふたりは、お互いの息吹を――そして下半身から放出される息吹、あるいは異○に対し――嫌がおうにも感応せざるを得ないのだ。

自分が(小)を足しにトイレに何気なく足を踏み入れたとき、そこに敵――すなわち(大)の最中の男子――が存在していることに気づいた僕は、あられもなく狼狽してしまう。自分の体験から、(大)の最中に、(小)の人が入ってきたときは、なんとも気まずいものではないかと思っているからだ。だから相手に気を遣わせてはならないと、なるべく速く用を足して――まあ、そうでなくてもぶっちゃけ普段から相当速いのだが――なるべく自分の存在を消して、足早にトイレを去ろうとする。ところが――to my surprise(驚いたことに),――相手はそんな僕の細やかな心遣いを知ってか知らずか、僕の存在などまったく意に介さずといった雰囲気で、少しもそのペースを緩めることなく、僕が入ってくる直前と寸分違わぬパワーで――実際に確認したわけではない――力み続けているように思われるのである。「フ――ッ」とか「ウ――ッ」とか、思い切りため息を漏らしていたりもする。激しくトイレットペーパーをつかみとる音がする。僕の気は激しく動転する。

「(小)のところに他人がいるのに、人はこれほどまでにその他者の存在を打ち消してまで、(大)に専心できるものなのだろうか?」

僕は自分の存在をまったく認められなかったことに対して軽い目眩を覚えつつ、言いようのない打ちひしがれた気持ちで急いでその空間を去ろうとする。たのむから(大)から出てこないでくれ、と心のなかで叫びながら。それくらい、(小)の最中に(大)から知っている人が出てくるのに遭遇するのがとても苦手なのだ。「ジャーッ」と勢いよく水が流れる音が聞こえてきたりすると、もう気が気ではない。逃げるようにしてジッパーもあげずに――こういう状況じゃなくてもジッパーをあげ忘れることが異常に多いってことはこの際、言いっこなしで――負け犬気分でトイレを去る。

自分が(大)にいるとき、(小)に誰かが入ってくるのもとても苦手だ。紳士としては当然、下半身の活動は一時停止せねばならない、と思う。ドアが閉まっているから、そこに誰かがいるのは相手には当然悟られているとしても、息を殺してまで――遠い夏、そうっと息を止めて、トンボをつかまえたあのときのように――自分の存在を打ち消そうとする。

それなのにやはり相手は、そんな僕のデリケートな心を少しも気にしていないかのように、ため息を漏らして放尿の快楽に浸るのである。しかもそれが長い。滞空時間があまりにも長い。こっちは息を止めて「もう勘弁してくれ」と心で祈っているのに、ものすごく長い。ヨガの行者が、水中ではてしなく息を停め続けることができるのと同じくらいに、水中深くグランブルーを求めて潜水するジャック・マイヨールかと思うほどに、彼の放尿時間は長いのである。追い打ちをかけるように――あるいは、勝ち誇ったかのように――得も言えぬとでも言ったような喘ぎ声とため息を漏らす。ようやく用を足したかと思えば、入念に手を洗い、そして鏡にひとしきり見入る。人の糞便活動を氷結させておいて、この余裕はなんだ。そうこうしているうちに、こっちはすっかり虫の息だ(相手がそこにいる間は、扉を開けて出ていこうなんて、絶対に思わないし、思えない)。

負けた――。完膚無きまでに負けた。男子トイレという場において、僕はあきらかに弱者だ。悲しいくらいに敗者だ。なぜこれほどまでに、我はトイレという空間においてか弱い存在でなければいけないのか――僕は哀しみの表情で、括約筋の緊張を維持したまま、天を仰ぐ。

―――

柔道では、まずお互いに相手の奥襟や袖口を掴んでから闘いが始まる。このとき、山下泰裕さんは、試合で一度も相手に優位な差し手を取られたことがないのだという。かならず自分が相手よりも有利な体勢になるように、がっちりと相手を掴む。そうなれば、勝負はもう決まったも同然である。だからこそ、自分は無敵の強さを誇ることができたのだと、彼がどこかで語っていたのを記憶している。僕はいつも、トイレの勝負に負けたときに、山下さんの偉大さを思い出す。そして僕は、ことトイレにいるときに限って言えば、どんな相手が来ても、絶対に自分を不利な組み手に持ち込むことにかけては山下さんにも劣らないだろう――まったく自慢にはならないのだが――と思う。嗚呼、ここはまさに四角いジャングル。闘いの大海原なのだ。こんなところにも存在する、オス同士の闘い。男って辛いよなあ(女子にもいろいろあるんだろうけど)。

「イワシの翻訳Love」検索語の謎

2010年01月18日 22時52分30秒 | ちょっとオモロイ
どこのプロバイダーにもある機能だと思いますが、このブログの作成で利用させていただいているgooブログには、ブログの管理者(つまり僕)しかアクセスできない編集機能がありまして、そこではこのブログにどのような検索語を使ってアクセスしたかという結果(上位20件まで)が毎日表示されるようになっています。なかなか興味深い語が多いので、本日は、ここ数ヶ月の検索語のなから面白い物をピックアップして紹介させていただくことにします。

もちろん、どこのどなたがその検索語を入力したかは僕にはわからないしくみになっています。が、それだけに、こちらからは素性のわからない方々が、いったいどんな思いでこれらの語をブラウザの検索窓に打ち込み、そして結果としてこのイワシブログに(誤って)たどり着いたのかを考えると、なかなかしみじみとするものがあります(どのような検索語であれ、ブログを見ていただけるのは嬉しいことではありますが、おそらくほとんどの方が、求めていたものとはほど遠い情報を発見して失望されているのではないかと思うと、申し訳ない気持ちなのです)。

では、まずは最近の話題から。大晦日の石井対吉田戦でのタマタマ事件にちなんだ、以下のような検索語がいくつかありました。

「タマタマ 悶絶」
「吉田秀彦 金タマ」
「金玉食い千切り」

食い千切りというのはすごいですね。記事はこれでした


続いて、定番の検索語をいくつか紹介します。まずはニンニク関係です。

「チンしてはいけない食べ物」
「にんにくを食べたら辛くて涙出てきた」
「にんにく レンジでチン」
「にんにく 吐き気」

これがその記事です。僕と同じ苦しみを味わった人もいるということなのでしょうね。


「冷凍バナナ 食べ方 皮ごと」
「なぜバナナの皮は凍らすと黒くなるのか」

恐怖の冷凍バナナ事件。同じ事を考えている人が多いのですね。嬉しいような、気の毒なような。


「半球 照明カバー 天井 外し方」
「天井 カバー 外れない」

この天井電球カバー系も多い。電球が外れなくて困った事件を書いたことがあり、これはこのブログのなかでも異例中の異例的に読んだ方に少しは役立っている記事かもしれません。といいつつ文章が無駄に長いのでお役にたっているのかどうか…。記事はこれです


続いてスティングの「Shape of my heart」に勝手訳をつけたときの記事にも反応が多いです。

「shape of my heart」
「shape of my heart 和訳」

深い詩だけにいろいろと考えてみたくなるのでしょうね。かなり自分流の訳ですみません。



「鳩のフンが落ちた場合の対処」
「しょうがないやつ」

こんなのもあります。鳩の糞の対処方法は書いていませんが、しょうがないやつは、ビンゴかもしれませんね。



「「それ……私に言わせる気?」」
「虎だけに捕らわれるな」
「耳そうじ  脱税 」

意味不明です。「耳掃除」と「脱税」。すごい組み合わせです。推理小説のトリックでも考えていたのでしょうか。しかしこの検索語でなぜこのブログに~?


「イワシ 翻訳」

これがほぼ毎日、一番多い検索語です。検索窓にこれを打ち込むと「イワシ」を英語にしてくれると思ってそうしたのか(そういうサービスがあるのかも)、ひょっとしたらこのブログを読もうとしていただいて、いちいち「イワシの翻訳Love」と打ち込むのがめんどくさいので省略されたのか。でも夕飯を食べながら、「そう言えば、イワシって英語でなんていうんだっけ? そうだ、グーグルに"イワシ 翻訳”って入れたら翻訳してくれるかも?」と思って入力する人は多いような気がします。なんだかその幸せそうな食卓の光景が目に浮かびます。そういう方々に変なブログにたどり着かせてしまっていると思うと、なんだか申し訳ないです。


純粋なイワシ系もけっこうあります。

「生きているイワシの写真 画像」
「小さいいわしの子のフライ」
「2009イワシ救い」

こういう本物(魚)のイワシを求めている方々にも申し訳なさを感じます。しかし「2009イワシ救い」って何でしょうか? 小さいいわしの子のフライというのも、妙に残酷な響きがありますね。


「ブログ イワシの本当LOVE」
「イワシの和訳LOVE」
「いわしの翻訳家」

これらはおそらくこのブログを探して入力してくれた方々によるものと思われます。「本当LOVE」ってすごい響きですね。「和訳LOVE」は、確かに僕は和訳しかできませんので、より正確な定義と言えます(でもなんだかかっこわるい)。「いわしの翻訳家」これはなんだか「めだかの学校」みたいですが、なんだか味があっていいですね。この海には、「サバの建築家」、「カツオの小説家」あたりが泳いでいるのかもしれません。


「珍走系」
「男湯 突撃レポート」

男湯の突撃レポートは書いた記憶はありませんが、このレベルの変態語で検索した方々の期待には、このブログは応えられているのではないでしょうか(^^)


では、いよいよ本題といいますか、翻訳系の検索語を見てみましょう。

「翻訳者にむいてる人」
「翻訳 専門 決められない」
「フリー翻訳家で食えるか」
「翻訳者 一日の作業量」
「翻訳で飯を食う」
「フリーランス 翻訳 生活」
「翻訳 初心者 スピードを上げるには 1日10枚」
「翻訳 トライアル 結果が来ないのに依頼」

これから翻訳でやっていこう、と思っておられる方々、あるいはすでにこの道に足を踏みれている方々のような気がします。このブログを読んで、現実を知りあきらめる人もいたりして。もっとまともな翻訳者はたくさんいますので、どうぞ早まらずに!


「フリーランス 翻訳者 仕事がはかどらない」
「翻訳 納期 意地でも」
「夜に翻訳する業者」
「貧乏暇なし 翻訳」
「トワイライト翻訳者」

意地でも納品。夜に仕事。貧乏暇なし。まさに僕ですね。当ブログでは、いい(悪い?)見本を存分に提供しております。しかし「トワイライト翻訳者」というのは美しい表現ですね。夕暮れ時に翻訳するということ?


「ひどい訳文」
「だめな翻訳チェッカー」
「誤訳ごめん」

シビアな検索語ですね。ネガティブな要素が強まってきています。


「出版翻訳 食えない」
「翻訳で食えるか」
「翻訳 斜陽産業」
「翻訳出版界の危機」
「不況 フリーランス 翻訳者」
「翻訳は割に会わない」
「フリーランス 翻訳 仕事 来ない」

だんだん危機感が増してきます。他人事じゃないですよね。どういう心境でこの語を入力されたのでしょうか。同業者と思われるだけに身につまされます。現在の業界の状態を表しているような気もします。


「翻訳 もうからない」
「翻訳をあきらめる」
「翻訳者 辞める」

はしくれ翻訳者としては、とても悲しい語として響きます。でも、人生、翻訳だけじゃない。相性もあるし、環境や運もある。だからあきらめるのも、やめるのも、一つの選択肢だと思います。それに、いつかは誰だって翻訳を引退するときがくる。でもまだこの道でやっていく自分を少しでも信じられるなら、もうちょっとしがみついてみてほしいとも思います。僕もしがみついていますので! あまりシリアスな気持ちじゃなく、検索された語だと思いたいです。といいつつ、こういうネガティブな語でヒットするということは、このブログがネガティブワードに満ちているということなのかも?


ちょっと暗くなってしまいましたが、明るい検索語もあります。

「翻訳 新しい人生の第一歩」
「LOVE 大切 翻訳」

翻訳に大切なもの、それはLOVE
うん、素晴らしい! その検索語の答えになるものが、このブログに少しでも書いてあると嬉しいです。いや、そうなるようにこれからも努力します。毎日が新しい人生の第一歩。今日も明日も翻訳LOVEを続けてみます!

われわれの存在意義とは

2009年11月18日 14時24分41秒 | ちょっとオモロイ
今日、われわれが応援するチーム、すなわちサッカーの日本代表が、香港代表と対戦する(もちろん香港のファンにとっては、香港代表が「われわれ」のチームである)。つまり言ってみれば、今日の試合は「われわれ」対「われわれ」の試合なのである。

われわれサッカーファンは、われわれの日本代表がわれわれファンの期待に応えるべく、われわれが求めている真の日本代表らしい試合をわれわれに見せてくれるかどうかが、とても気になるわけである。腹筋がワレワレの日本人離れした身体能力を持つ本田が、われわれが以前のようなキレキレのプレーを見せてくれることを期待している中村俊輔と上手く融合できるのか、そのあたりはわれわれファンの間でも意見がわれわれになっているところでもあるが、そのあたりもふくめてわれわれはとても楽しみにしているのである。しかしながら、われわれが驚いたことに、われわれ日本のテレビ局はこの試合を中継してくれないのである。われわれは新聞のテレビ欄を眺めては中継がないことに気づいてあれあれとつぶやき、やれやれと肩を落としたのである。代表の試合がテレビ中継されないなんて、かれこれどれくらいぶりのことなのか、われわれとしても記憶が定かでないくらいなのであるが、ともかくスポーツナビのサイトにキム、岡田両監督のインタビュー記事が掲載されていたので、われわれはこの記事を取り上げることにする。

=====以下、同サイトから一部転載=================

――キム監督、明日はディフェンシブにいくのか?(香港記者)

キム監督 今回の予選でわれわれの目指すものは、香港サッカーの発展だ。もちろん、先の対戦では日本はわれわれより大きく上回っていた。われわれは組織でもフィジカルでもメンタルでも大きな問題があった。今回はもちろんただディフェンシブにいくというわけではない。われわれはフットボールをする。そのためには攻撃することが必要。それがこのゲームでの目標だ。

――今回は香港よりも日本のサポーターのほうが多いようだが?(香港記者)

キム監督 この試合では6000~7000枚のチケットを日本のファンが購入したと聞いている。だが、今回はわれわれのホームゲームなので、ぜひとも7000人以上の香港サポーターに来てもらいたい。ぜひ会場に訪れて、われわれに力を与えてほしい。

――岡田監督、キム監督は「韓国では国家のために死ぬ気で戦うが、香港はそうではない。明日は死ぬ気で戦え」と言ったそうだが、あなたは選手に何か言ったのか?(香港記者)

岡田監督 先ほどの通訳で少し抜けていたんですけど、わたしは明日の試合はそんなに簡単ではないと(言いました)。香港は素晴らしいモチベーションで臨んでくるということは分かっています。ただそれは、われわれにとっても素晴らしいことで、われわれも高いモチベーションで臨まないといけないと思っています。われわれは当然この公式戦に勝たないといけない。それとともに、われわれの大きな目標に向かってのモチベーションを、選手たちには強く要求している。明日のミーティングではそういう話をする予定です。

======================

インタビュー記事のなかに「われわれ」があまりに多すぎるので、われわれは「われわれ」という文字がなんだか意味不明の記号のように感じられてしまい、われを失ってしまいそうになるのであるが、そこはわれわれサッカーファンも「われわれ」に対してディフェンシブになりすぎることなく、高いモチベーションを維持し、おのおのがフィジカルとメンタルとパスの精度を高め、かつ組織的に「われわれ」に対抗することで、われわれの力としたいところなのである。

というわけで、今日われわれは、われわれ対われわれの試合をワレワレじゃなくてハラハラしながらテレビ観戦したかったのだが、われわれの熱い気持ちにテレビ局が答えてくれなかったので、われわれはしかたなく有料のネット中継をみるなり、Youtubeにだれそれが試合映像をアップしてくれるのを期待したり、翌日にまたスポーツナビのサイトを開いて活字観戦するしかないのである。ちなみに、われわれ岡田監督、そして香港ファンにとってのわれわれキム監督が、試合後のインタビュー記事のなかでいったい何回「われわれ」と言ってくれるのか、そのあたりもわれわれ「われわれファン」としてはとても楽しみにするところなのである。

すべてが「わたし」な世界

2009年05月17日 22時02分01秒 | ちょっとオモロイ
突然ですが、僕の名字は「児島」といいます(「鰯」ではありません)。「こじま」という名字自体はあまり珍しくありませんが、「こじま」にも色々ありまして、「小島」という漢字の方が一般的です。なので、少数派の「児島」としては様々な局面においてなんとなく肩身の狭い思いをしております。「お名前は?」と聞かれて、「コジマです」。と答えると、だいたい「小島」であると受け止められます。まったく気にはならないので、問題なければいつもスルーするのですが、漢字が違うと都合がよくない場合もあります。そんなときは仕方なく、「実はコジマといっても小さい島のコジマではなく、児童のジのコジマの方なのです。」と、なんだか悪いことでもしてしまったみたいに相手にそれを伝えなければなりません。相手にも、「素直に小島にしとけばいいのに、なんでかっこつけて児島なんかにしたのかね? めんどくさい」などと思われているような気がして、いたたまれなくなることもたまにあります。そんなときは、離れコジマに取り残されたような寂しさがあります。ところで、そんな少数派のコジマにとって、看過できない場所があります。生まれてこの方一度も行ったことがないのですが、岡山県に「児島」という地域があるのです。非常に「こじんまり」したよい町のようです。ジーンズの産地、タコの産地、児島競艇場が有名..フムフム。僕の先祖がそこに住んでいたかどうかはわからないのですが、なんだか妙に親近感を感じます。と同時に、名前だけではなくそのライフスタイルも含めて少数派であると感じている僕、つまり「児島」が、その地域では誰もが認知するところとなっているであろうことを考えると、なんとも面はゆい気持ちもします。

そこではきっと、いろんなものが児島なはずです。児島小学校があり、児島区役所があり、児島商工会議所がある。コジマ電気もあり、スーパー児島も(たぶん)あり、スナック児島もあるはずです。児島に住めば、きっと孤独は感じないはずです。だって、すべてが児島なのですから。お伽噺の世界に入り込んだような気がするかもしれませんね。

「いらっしゃいませ。今日はどちらからいらしたのですか?」
「児島です」
「そうですか。ではお客様、お名前をいただけますでしょうか?」
「児島です」
「いえ、そうではなくて、お名前をいただけますでしょうか?」
「ですから児島です」
「...」

と、そんなミスアンダースタンディングも発生する可能性はありますが、きっと児島の人たちは、児島な僕に対して悪い印象は持たないはずです。ひょっとしたら、ミスター児島、キャプテン児島という称号を与えられ、地元の名士として幅を利かすことができるかもしれません。

しかし、現実問題として、自分の名前と同じ地名に住むということは、いろいろと大変なこともあるかもしれません。たとえば今東京に住んでいる僕が「東京太郎」という名前だったらどうでしょうか。なんだか区役所の必要書類に記入する名前みたいなので、書類を申請しても、悪い冗談として受け止められてしまうかもしれません。旅先で知り合いに絵はがきを書いても、「東京より」と最後に結んだら、せっかく旅先にいるのに東京からはがきを投函したように思われてしまうかもしれません。長渕剛に、突然「東京のバカヤロー」と言われてしまうかも知れません。むやみやたらと自分の名前を呼ばれるので、あまり精神衛生上よくないかもしれないですね。でも実際、そういう境遇を生きておられる方はたくさんいらっしゃるのでしょう。

ともかく、児島には一度、機会があったら行ってみたいです。児島駅の前で写真を撮り、駅前の「児島食堂」でタコの刺身定食を食べる。競艇はやったことないけど、とりあえず競艇場に行ってみます。きっと児島の神様が勝利をプレゼントしてくれるでしょう。それから、おもむろに知人に電話をかけてみます。

「もしもし、児島だけど」
「今どこにいるの?」
「児島だよ」
「うん、だからどこからかけてるの?」
「児島さ」
「...」

というわけで、実際、児島に行ってもたいしてするべきことはないのかもしれません。でもまあそれも、児島らしくていいじゃないですか。

ぼくの好きな言葉

2009年04月10日 20時04分22秒 | ちょっとオモロイ

好きなのだ。

猥褻物陳列罪――という言葉が。

「もしこの場でお前の◎◎がポロリと外に出てしまったら、猥褻物陳列罪で捕まるぞ」子供のころ、まわりが面白おかしくこんなことをいうのをよく聞いたものだ。この語を初めて耳にしたとき、かなりの衝撃を受けた。なんてものものしい言葉だろう。それは、自分の知っている世界、言葉とは明らかに違う性格を持っていた。猥褻、陳列、そして罪。またたく間に、この言葉が持つ不思議な魅力に取りつかれてしまった。

まず、人間の体の一部である◎◎や××を指して「猥褻物」とモノ化して言ってしまうところがすごい。この冷徹なまでの客体化。プライベートな空間にあるときにはまぎれもなくぼくの身体の一部であるこの◎◎も、いま表に出て、外界にむけてそれをオープンした瞬間に、たちまち物質化し、ひとつの独立した個体へと姿を変える。道を歩いていて、見ず知らずの他人が◎◎をモロ出しながら、風に吹かれてやってきたのだったら、それを猥褻物と思ってもしかたあるまい。しかし、自らのソレに対してもこのマテリアライぜーションは発生するのだ。誰のものであろうと、それが白日の下に晒されたとたんに、社会的、客観的な揺るがぬ視点によって、猥褻物であるという定義が下される。そこに生半可な私情はない。他人の息子であろうと、自分の息子であろうと、特別視はしない。カツノリであろうと、カズシゲであろうと、パブリックなチームという世界に所属した瞬間から、それはもう、ひとりのプレーヤーとして公平に扱わなくてはならない。家では息子と呼んでもいい。お父さんと呼んでもいい。だが、一歩外に出たら、グラウンドの上に立ったら、監督と一選手の関係にならなくてはいけない。そんな潔さ、スポーツマンシップをこの「猥褻物」という言葉に感じてしまうのだ。

そして「陳列罪」。この素敵な語選択のセンスに脱帽してしまう。◎◎を社会に解き放つことを指して、「陳列」である。◎◎の「提示」でも「プレゼンテーション」でも「見える化」でも、「開陳」でもなく、「陳列」。陳列は、広辞苑では「見せるために物品をならべておくこと。」と定義されている。はたして、陳列はその主体として「物品」を必要としていたのだった。つまり、ここで◎◎は、猥褻物という単なる「物」から、さらに高度な「物品」へと進化することを求められているのだ。陳列って、まるでおしゃれなグッズをショーウィンドーに飾るみたいじゃないか。閉じられた世界にあるものを公にするのだから、「陳」までは理解できる。しかしこの「列」はなんだろう。このスケール感、この広がりは一体何を意味しているのだろう。たったひとりが、否、たったひとつの◎◎が外部に露出しただけでも、それが「列」になってしまうのはなぜ? そしてさらにこの言葉に深みを与えている要因は、あらためて言うまでもなく、陳列罪の「陳」が◎◎の韻を踏んでいる点なのである。

猥褻物陳列罪――なんてすごい言葉なんだろう。みもふたもないほど直接的であるように見えて、その実、周到なまでに本質をオブラートに包んでいる。固く重々しいシリアスさを思いきり醸し出しつつ、見た瞬間に思わず噴き出してしまいそうなユーモアにもあふれている。この絶妙のバランス。日本語とはたった六つの漢字で、かくも豊かな表現ができる言語なのだ。ぼくたちの日常には、この語に比するだけのエネルギーをもった言葉が、もっとたくさん必要だ。溢れんばかりの豊饒さを持って、枠から、社会から、窓からはみ出てしまうくらいの勢いをもった言葉が。

詳しくは知らないのだけど、実際のところはポルノなど正に物品そのものとしての猥褻物を販売したりするときに使われるほうが、この言葉の主旨に合っていると思う。だから、いわゆる露出狂のオッサンとか不可抗力で◎◎を陳列してしまったサラリーマンとか、そういう場合に用いるのは用途としてはおまけみたいなものなのかもしれない。むしろ、単にわいせつ罪というのだろうか? 

ともかく、前述した理由によって、僕は猥褻物を陳列するのがたまらなく好きなのだ。じゃなくて、猥褻物陳列罪という言葉が、たまらなく好きなのだ。

「草食系男子」について珍走系中年が思うこと

2009年04月06日 16時57分35秒 | ちょっとオモロイ
近頃「草食系」という言葉をよく見聞きする。Wikipediaでは以下のように定義されている。

**********************
草食系男子(そうしょくけいだんし)とは、2008年ごろよりメディアで取り上げられるようになった用語。一般的には、「協調性が高く、家庭的で優しいが、恋愛に積極的でないタイプ」の主に20代の若い男性を指す。
**********************

言わんとすることはわかるし、実際そういう男子が増えているのだろうけど、この言葉にはもうひとつ「ひねり」が足りない。「肉食=攻撃的でガツガツしている。草食=気弱で消極的」というのは、いかにもステレオタイプなものの見方ではないだろうか。草食動物はけっして大人しいわけじゃない。ゾウを見よ、ゴリラを見よ、ウマを見よ。バッファローを見よ。みんな、元気がありまって猛々しく、一日中食べっぱなしでガツガツしまくりではないか。ゴリラのような男、ウマのような男は、恋愛に積極的ではないというのか。肉欲に対して淡白だというのか。ライオンなんかのほうが、狩りをしているとき以外は一日中ダラダラしていて、よっぽどやる気がなさそうではないか。

肉食動物のほうが草食動物よりも強くてたくましいというイメージは、自然の摂理の一面を捉えたものにすぎない。肉食動物はたしかに草食動物を捕食して生きているわけだが、それは生態系のバランスを維持するための調整弁のような役割を果たしているとも言える。たとえばライオンが主として狙うのは、子供や老いたもの、怪我をしたものなどだ。つまりミクロな視点で見れば、草食動物は肉食動物に襲われるがままに餌食になっているようにも思えるが、マクロな視点で見れば、それは優秀な遺伝子を残すために肉食動物の力を借りて自らを淘汰し、ふるいにかけていると考えることもできるのだ。そもそも成体になった草食動物は、簡単に肉食動物の餌食になるほど弱くもないし、臆病でもない。一日中、食べ、動き、エネルギッシュに活動して、生態系の中心として大きな活躍をしているのである。日本全国の親御さんは、むしろ「娘のお婿にするならぜひ草食系の男子に」と考えるべきではないかと思うのである。

まあ、僕の動物に対する理解なんて薄っぺらいものだけど、その僕から見ても、この「草食系」という言葉の使われ方には、自然の摂理に対する理解と尊敬を欠いた「草食動物=ネガティブなもの」という安直なレッテル貼りがなされているような気がしてならない。現代人が持ってしまいがちな、時代錯誤な自然観が反映されているのではないだろうか。うがった考えだとは思うけど。

なんだか妙に熱くなってしまったのだけど、もうちょっと人間らしく知恵のある言葉で、いまどきの若い男子を的確に表してほしいものだと思う。たとえば、ちょっと主旨がはずれるけど、暴走族を「珍走団」に呼び変えようというような。参考までに、Wikipediaの「暴走族」のページにある「珍呼運動」の項の定義をあらためて紹介しておこう。

**********************
「暴走族」や「走り屋」という呼称を格好良いと考える人々を揶揄し、迫力のない「珍走団(ちんそうだん)」という呼称に言い換えることによって格好悪いイメージに塗りかえ、参加者や憧れを持つ少年少女らを減らそうという「珍呼運動(ちんこうんどう)」
**********************

運動の名称はともかく、いやしくも何かの現象を新しい言葉で捉えて世の中に流通させようとするのなら、これくらいのインパクトを持った、想いの込められた言葉で勝負してほしいと思うのである。

冬 ~悲しければ悲しいほど~

2009年02月12日 22時07分30秒 | ちょっとオモロイ
ずっと家にいるので季節感がなくなっているだけかもしれませんが、なんだか冬らしい冬を迎えないまま、ひょっとしたらこのまま冬は終りなのかという予感がしています。今年は不発弾のような冬なのかもしれません。最近は天気も良くなり、ランニング時にも少しだけ薄着で走れるようになってきました。気持よく晴れていると「すわ!もう春!?」と思ってしまう僕なのですが、それはやっぱり炎天下変態ランナーの潜在意識に眠る欲動のなせる思いこみのような気もします。ともかく、冬はあまりにも長い。でも、そろそろ終わりかと思うと、あっけなくも感じます。人生と同じですね。しかし、これだけ毎日、冬は嫌い、冬は嫌いと思っていると、なんだか冬に対して申し訳ない気がします。冬に、罪はありませんよね。ともかく、あとどれくらいまでの期間を冬と呼ぶのかは寡聞にして知りませんが、春が来る前に、せめて少しは冬の静けさと冷たさを愛してみたいものです。

「ねえ、母さん」
「なあに」
「僕の存在意義って何かな」
「どうしたの冬彦。やぶからぼうに」
「わからない。秋が終われば冬が来る。誰もがそれを当然だと思ってる。僕が今ここにいるのが当たり前だと思ってる。そして、僕は確かにここにいる。だけど――」
「だけど何よ」
「…」(突然悲しげに黙り込む)
「黙ってないで言ってごらんなさい」
「だけど――、自分が本当にここにいていいのか、自信が持てないんだ。だって、この冬は雪だって上手く降らすことができないし、道路をカッチカチに固く凍らせることもできない。身を切るような寒さで人々に冬を感じさせる――それが僕の役割なのに、ちっとも存在感がない。精一杯やってるつもりなんだけど、なんだか気の抜けたコーラみたいな天気が続いててさ。不甲斐ないよ」
「あら、何かと思ったらそんなつまんないことで悩んでたの。いいじゃない。暖冬が好きな人だってたくさんいるのよ。ママだって冷え症だし寒いの苦手なんだから。むしろ、みんなあなたには感謝してると思うわ」
「そうかな。でも、最近は自信喪失気味なんだよね。本物の冬をみんなに味あわせることができないまま、そろそろ役目も終わりに近づいてる。『これぞ冬』って日を一回も演出できなかった。むしろ思いっきり冬っぽくしてしまえば、それなりに楽しいことだってあると思う。でも中途半端に寒いのが続くと、なんだかみんなの気分まで暗くさせてしまっているみたいで。で、そうこうしてるうちに、なんだか春めいてきちゃって、ホント、情けないよ。地球温暖化のせいにはしたくない。すべて自分の力不足だよ」
「人にはそれぞれ器ってものがあるわ。あなたなりに冬をプロデュースしたんだから、それでいいじゃない。たとえそれが冬らしくない冬だったとしてもね」
「うん」
「でもね、冬彦。春までにはまだ少し間がある。本当に悔しいって思ってるなら、ドカンと大雪でも降らせてみたらいいんじゃない? 男の子でしょ」
「ママはそうやっていつも簡単に言うけど――」
「わが子ながらどうしてそういつも後ろ向きなの? まあいいわ。あのね、この際、正直に言っておくけど、ママ、冬が嫌いなのよ」
「ひどいな、わが子に向かって」
「昼間っからどす黒い雲が垂れこめる、あの陰湿な感じが嫌。寒くて手がかじむのが嫌。早く夏が来てほしいのに、全然そんなそぶりを見せてくれないのが嫌。お天道様の下をまっ裸になって走りだしたいのに、それができないのが嫌。イヤ、イヤ、イヤ!!」
「ママ、落ち着いて!」
「ごめん。つい、とりみだしちゃったわ。でもね、ママだってけっして冬のすべてが嫌いなわけじゃないのよ。炬燵に入ってみかんを食べたり、温かいお鍋を囲んでみんなとワイワイやったり、スキーをしたり。あなたにも、あなたの良さがある。だから、自分を責めたりしちゃだめよ」
「でも….」
「ねえ冬彦。考えてみてよ。その根暗な根性が、あなたそのものじゃない。暗くて辛くて寒い。それが冬じゃない? だから、あなたはそれでいいのよ。そしてそんなあなたがいるからこそ、他の季節が輝くの」
「喜んでいいか悲しんでいいのかわからないけど、ともかくありがと。そうかもね。僕は僕のままで、ネガティブにこのまま生きてみる。存分にネガティブに。でも来年こそは、雪をシンシンと降らせて、東京の街を真っ白に染めてみせる。約束するよ!」
「そうやって忘れたころに突然思い出したようにポジティブになる。パパに似たのね。ともかく、あなたは誰の心のなかにも存在する。あなたがそばにいる間は、重苦しくて、辛くて、息が詰まる。だけどあなたがいなくなって初めて、わたしたちは自由な存在であることに気づくのよ。あなたは、あなたのままでいいわ。ママは、あなたのことが――ちょっとだけ――大好きよ」

挿入歌:森進一『冬のリビエラ

「ちょっとだけ大好き」――それはまさに、僕が冬に対して思う気持ちです。基本的には嫌いなんだけど、大好きなところもあります。ピリッとした空気と、真っ白な雪。外は凍るほど寒いのに、ホクホクと温かい心と体。おでん、熱燗、ストーブで焼いて食べるスルメ。寒くて暗い冬、僕にとってとりわけ辛い冬でしたが、春の予感をわずかに感じる今日この頃、そんな冬にたいしてなぜだか少しだけ、なごり惜しさを感じているのでした。

あまりにひどい訳文が翻訳勉強会で問題に

2008年11月30日 17時24分35秒 | ちょっとオモロイ
あまりにひどい訳文が翻訳勉強会で問題に 表参道

29日午後に表参道の学習センターで開催された月例の「あさま組」翻訳勉強会で、当番となった男性(38)が提出した課題の第1パラグラフの訳文があまりにもひどく、波紋を呼んでいる。赤坂警察署の調べによると、問題の個所の質は「参加者として到底、容認できない」(勉強会メンバー)ほどひどく、めまいや吐き気を訴えるメンバーが続出した。

男は「なぜこのようなひどい訳文を作ってしまったのか、自分でもわかりません。生まれてきてすみません」と言い残し、西東京方面に逃走。同署は男が日頃、頻繁に出入りしている吉祥寺の新古書店を中心に捜索を続けている。男は身長170センチ前後。黒のジャケットにブルージーンズの服装で勉強会に参加していた。

「あのようなひどい訳文が二度と勉強会で提出されないよう、訳文を印刷したTシャツを作成し、今後の勉強会で参加者に着用を義務づけたいと思います」と、勉強会を主催する翻訳家Nさんは涙ながらに訴えている。

出動! 企業戦士田中

2008年11月26日 18時29分32秒 | ちょっとオモロイ
ついにL字型デスクを購入しました!! ついでに(というか確信犯的に)袖机も購入しました。さっそく袖机は[熊谷さん」と名づけました(^^)。新品でよいものがあったので、中古は買わなかったのですが、この袖机を作ったのが熊谷さんだったという強引な設定にしました(いろいろと調査した結果、アスクルで購入しました。袖机も洗練されていて申し分なく、デスクも木製で温かみがあってとてもよいと思います)。デスクはもちろん「企業戦士田中」と名づけました。企業社会の軋轢のなかで無念にも散っていった熱血サラリーマン田中の分まで、働くつもりです! プリンタも購入しました。「印刷太郎」と名づけました(適当)。そして、念願の書斎大改造を実施しました。デュアルモニターも構築完了!! 追加モニターは「Google専用弐号機」と名づけました(しかし、実際はYoutube専用機になるという嫌な予感がしないでもないです)。ところで、構築の過程でなぜかマウスが死亡!! 田中の怨霊でしょうか。現在ショートカットキーだけで作業中です! でも大丈夫。以前もマウスが天国に行ってしまって、しばらくショートカットキーだけで過ごしていたことがある僕は、怪我の功名でマウスが使えなくてもまったくハンディを感じません。ブラウザウィンドウの移動(Alt + Spaceを押して、M)もお茶の子さいさいです。さっそくショートカットキーを駆使してアマゾンでMSのインテリマウスを注文しました。「レジに進む」ボタンが遠い~。しかしはやくも、そんな僕の後ろで田中が応援してくれているのを感じます。そろそろ熊谷さんが淹れたての熱いコーヒーとクッキーを運んできてくれそうです。妄想モード全開です。大丈夫でしょうか私は。

Office 2007 Standardも購入しました。NHKの語学系ラジオを録音して聞くためにオリンパスのラジオサーバーまで購入してしまいました。歯止めが利きません。ちなみに、「日経コンピューター」、「日経パソコン」、「日経ビジネス」を3年分定期購読開始しました。ついでになぜか「日経ヘルス」も1年分購読してしまいました。Japan Times もしばらく前から購読中です。朝、A日新聞とJTを読んでいるだけで、軽く2時間が過ぎていきます。ちなみに、Newsweek誌も日本語版と英語版の両方を定期購読しています。これらを読むだけで一日は終わるでしょう。せっかく本棚に整理した本たちの立場はどうなるのでしょうか。そもそも、私はいつ仕事すればいいのでしょうか。でもいいんです。たくさん読んで基礎体力をつけなければ!

注文するときに一応サイズは確認したものの、デスクは異常に大きかったです。幅160mm 奥行き110mm。あまりも巨大で重たく、押しつぶさそうになりながら組み立てたのですが、部屋からは解体しないと外に出せません。これはしばらくは引っ越すなという天の声でしょう(じっさいこれだけモノが多いと引っ越したくないです)。こうなったら、この部屋で田中と、いや熊谷さんと心中するつもりで仕事します。熊谷さんとだったら悔いはありません。

さっそく、構築したばかりの「企業戦士田中」の「操縦席」に試乗してみました。驚くほど快適です。このままどこかに飛んでいけそうです。これまでは、コンピューターラックの前に座って作業していたので、両肘の置き場がなく、腕に負担がかかっていました。また、足を前に伸ばせなかったので、ずっと左右どちらかに組んでいました。しばらくすると足が痺れてきて、泣く泣く仕事を中断せざるを得ませんでした(なんて)。椅子はしばらく前にヘッドレストつきの「アーロンチェア(っぽい類似製品)」にしているので、このチェアに座って両足をまっすぐに伸ばし、両肘をデスクの上に乗せると、まるでエコノミークラスからビジネスクラスに乗り換えたような快適感がありました。考えてみたら、人間が長時間快適に座っていられることを追及したのが航空機の座席なわけで、快適な作業空間を作る時には、ビジネスクラスやファーストクラス(乗ったこと無いからよくわからない)の座り心地を参考にすればよかったのかもしれませんね。そのまま眠ってしまいそうですが、究極的には作業環境を超快適なものにして、仕事に疲れたらそのままそこで寝るようにしまえば、「起きてすぐ作業」、「24時間臨戦態勢」も可能なわけです。まあ、ブロイラーになったみたいな超過酷な労働環境とも思えますが、実際飛行機に乗る人はそうやって丸一日近く過ごすこともあるわけです。自分は鶏ではなく、ファーストクラスに乗っているVIPだと思えばずいぶんとご機嫌に一日をこの座席で過ごせそうです。さらに、机が広いので、姿勢を変えずにキーボードと書き物の両方ができるところもいいです(今までは、そんな基本的なことすらできませんでした)。それから、デュアルモニターもいいです。画面領域が広がったので、ウィンドウとかファイルを切り替える必要がなくなりました。これでこころおきなく仕事中にYoutubeで昔のプロレスの名勝負を堪能できそうです、というのは冗談で、原文やGoogleまたは電子辞書を常時画面いっぱいに表示できるので作業が効率化するでしょう! あとは翻訳する人間の問題です。そこが一番の問題という気がしますが(^^)

ともかく、思いがけずずいぶんと作業環境が改善されました。思い切ってやってみた甲斐がありました。これまでは劣悪な作業環境のなかで苦肉の策として「イワシ座り」なるものを編み出したのですが、これからはもうあの秘技は封印してもよさそうです。今日からこの場所で、翻訳戦士イワシとして闘いの翻訳Loveを始めたいと思います。



操縦席乗り込み飛ぶよ君のいるあの空に離れていても今日からはふたり

悲しみに終止符を

2008年11月24日 19時35分14秒 | ちょっとオモロイ
書斎の逆側です。辞書、リファレンス、書類、その他もろもろです。まだまだ、雑然としています。またまたお目汚し、失礼いたしました。


突然ですが、ご好評にお応えして「秋子とママ」シリーズ第二弾をお届けします。

「秋子、あんた何してるの」
「私、そろそろ行かなきゃ」
「あら、もうそんな時期かしら。ちょっと早くない? あんた、昔から思い立ったら後先考えずにすぐ行動するんだから」
「でもママ、暦のうえでは秋は11月までよ。ママこそ日常に流されてばかりで、季節の変化に追いつけていないわ」
「その口の悪さは誰に似たんでしょうね。でもホントね。あんたといると時のたつのが遅いから、いつまでも何も変わらないって感じちゃうのかもね。冬彦のことなんて忘れてたわ。あの子を迎え入れる準備なんて何もしてない」
「ママ、元気でね。わたしがいなくなってもちゃんと生きていける?」
「当たり前じゃない。冬彦だってもうすぐ帰ってくるし、忙しくなるわ。こたつも出さなきゃいけないし、あの子の好きなおでんも作ってあげないと。ねえ、秋子。それにしてもあんたって――(涙ぐむ)」
「どうしたの、ママ」
「あんたって、切ない子ね(激しく嗚咽する)」
「ママ! 泣かないで!」
「夏男も、秋子も、次々に私から離れていくわ」
「また来年帰ってくるじゃない」
「そうね。ごめん、ママったらダメね。涙もろくなっちゃって。あんたとだって、もうちょっと楽しみたかったわ。美味しいものを食べたり、スポーツしたり、紅葉を観に行ったり。それにしても、なんでウチの子はみんな3ヶ月おきに家を出て行ってしまうのかしら。親としての自信喪失だわ。」
「私はね、心変わりしやすいのよ。『女心と秋の空』って言うじゃない」
「あたりさわりのないオチでお茶を濁さないで。わかったわ。もう行きなさい!」
「ママ.......。やっぱりもうちょっとだけ家にいるわ。ママを置いて行けない」
「あら、あんたって、意外と可愛いところあるのね。じゃあもうちょっとだけ、いっしょにいましょ。読書でもしない? そうだ、ブックオフに行きましょう! 今頃、パパが100均本を漁ってるはずよ」

そんなわけで、秋子はもう少しだけ家にいてくれるようではあります。しかし寒さが一段と増してきたこの東京には、彼女はもうそれほど長くはいられないでしょう。そして上野駅には、冬彦を乗せた列車がもうすぐ到着しようとしているのでした――(続く)。

主題歌:アリス『秋止符』

そろそろ、本当に冬が近づいているのでしょうか。寒くなりました。とはいえ、季節の変わり目がよくわからない男なので、おそらく僕が冬を自覚するのは身が凍りつくくらいに完全に寒くなってからでしょう。ところで、来年3月15日の荒川市民マラソン、フルの部に申し込みました。今回は完走だけでなく、タイムにも目標を設置して頑張りたいと思います。サブフォー、つまり4時間以内を目指したいところですが、果たして。。。今回も怒涛のレポートが書けるようにこれからトレーニングに励みます。

今日は公園を考えごとをしながらウォーキングしていたら止まらなくなってしまい、20km近くも歩いていました(笑)。逍遥学派とはよく言ったもので、歩きながら考えるといろんなアイデアが湧いてきます。毎日、早朝に散歩しながら思索に耽ったというカントの気持ちがわかりました。思索のレベルは相当に違いますが。


今日のシュローダーの法則
Indecision is the basis for flexibility.
優柔不断は、柔軟性の基盤である



悲しみは順番に君のところを訪れて明日流す涙僕に渡して

前世が何かわかってしまってワンワンワワン

2008年11月23日 18時43分28秒 | ちょっとオモロイ
寝室です(まだごちゃごちゃしています。お目汚し、すみません)。カラーボックスを置いても、意外と圧迫感はありませんでした。寝る時は、カラーボックスと反対の方向に頭を向けることにしたので、地震が来てもとりあえず大きな被害を受けることはなさそうです。家具が増えて部屋のなかが窮屈になるかと思っていましたが、考えてみたら、本を床に平積みしておくより上方向へのスペースが増える分、逆にすっきりしました。

U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U

以前から漠然と思ってはいたのですが、昨日公園でサッカーをしているときにあらためて実感したことがあります。それは、「僕の前世は犬だったにちがいない」ということです。残念ながら、住宅事情の都合でこれまでに飼ったことは一度もないのですが、小さいときから犬がとても好きでした。子どものころ、はじめて犬をなでなでしたとき、そのつぶらな瞳で見つめられて、尋常ではない何かを感じたのを覚えています。母親には、犬が飼いたいとずいぶんと駄々をこねて困らせました。そして、その「好き」には、単に犬がかわいいとか愛おしいとか、そういう気持ちだけではなく、なんだか自分にとても近いもの、同類を見ているような感覚があるのです。昨日、げんき君が蹴ったボールが脇にそれたとき、それをハアハアいいながら必死で追いかけている自分は、まさに犬そのものでした。ボールがどこに蹴られようと、反射的に何も考えずそれを追いかけている自分が、妙にしっくりきました。「本当の自分」がそこにありました。考えてみるに、犬と自分には多くの共通点があります。

・意味もなく嬉しそうにしているときが多く、落ち着きなくソワソワ動き回る。
・ボールを投げられると条件反射的に全力で追いかける。
・トイレ(小)が近い。
・散歩が好き。
・犬食いをする。
・人見知りする。
(といいつつ、初めて会う人が目の前にいると興奮してウロウロする)
・目上の人には結構従順である。
(といいつつ、人の言うことにはあまり従わない)
・泥酔すると四足で動き回る。
・戌年である。
・客観的に見ると、かなりマヌケなところが多い(犬に失礼?)

ただ、暑さに強く寒さに弱いあたりは違うので、そう考えると「ひょっとすると自分は犬じゃなかったのかもしれない」と、なぜかちょっとだけほっとします。ともかく、神様は僕をこの世に送り出すときに、犬にしようか人間にしようかずいぶんと迷われたに違いありません。ネコは好きだけど自分はあそこまでマイペースじゃないし、サルにも近いものを感じますが(一部からは「サルコジ」と呼ばれていますが)、サルには申し訳ないけどあそこまで即物的ではない(と思いたい)。一応イワシと名乗っていますが、サカナだったのはおそらく前世ではなく、数世代前だったような気がします。犬に感じるほどの共通点を見出せません。それから、これだけ人間社会に適応できていないところを考えると、前世が人間であった可能性はかなり低いと思わざるを得ません。やはり、どう考えても犬です。おそらく、とんでもなくヘンな犬だったことでしょう(^^)
わんわんわん!! U^ェ^U 
そんなこんなで、将来、柴犬を飼うのが夢なのです。いつになるのかな~。



今日のシーガルの法則
A man with one watch knows what time it is.
A man with two watches is never sure.
時計を1つ持っている人は、何時だかわかる。2つ持っている人には、正確な時間はわからない。

※1つしかない時計が狂っていたらどうなんだという気もしますが、いろんな価値観に振り回されず、自分の信念に従うべきだということでしょう。他人の言動に過剰に一喜一憂し、それに振り回されるのではなく、自らが正しいと思う価値観に従うことが大切だと最近感じるようになりました。実践していきたいものです。



泣いている君の少し近くにいることが今日僕ができることのすべて

蘇れイワシのイワシLove

2008年11月16日 21時17分14秒 | ちょっとオモロイ
いや~食えない、俺は。煮ても焼いても食えない。そんなこと、言われなくてもわかってるつもりだったけど、やっぱり食えない。はっきり言って、不味い。いやいや、もちろん俺も人として食えないのだけど、つまり、魚の方のイワシも食えない。昨日、一匹焼いてみたのだけど、匂いといい一口齧ってみてムワっときた味といい、どうしても食べる気になれなかった。正直、最近はなんだかイワシを苦手に感じてしまって、サバとかシシャモばっかり食べている。イワシとしてあるまじき行為だ。で、これではいかん、イワシとしてイワシを食べなくては、と昨日5匹入りのパックを買った。あと4匹もあるのに、どうしよう。とりあえず、頭と内臓をとって、冷凍庫に入れてある。

ちなみに、このブログのアクセス解析機能では「検索ワード」なるものがあって、検索サイトの結果ページからこのブログに訪問する人がどのような検索ワードを入力しているのかがわかるのだけど(もちろん、個人は特定できない)、ほとんどの場合、毎日一番多い検索語が「イワシ 翻訳」なのだ。たしかにGoogleでこの語で検索するとこのブログが一番上にヒットするようではある。だけど、果たしてこの語を入力してくれた人たちは、このブログを訪れようとしてくれたのか、それとも単に「イワシ」という語を翻訳したいのか、謎である。まあ、どちらでもいいといえばいいのだけど、なんとなく気になるのだ。

ともかく、このままだとそろそろ名前を変更して「シシャモの翻訳Love」か「サバの翻訳Love」にしなければいけないような気がするので、イワシをなんとかうまく食べれるようにレシピを研究しなくてはいけない。こういう場合は、もちろん「イワシ レシピ」と入力すればよいのだ。すると、たとえばこんな便利なページが表示される。南蛮漬け、オイル焼き、酢漬け。イワシ道は奥が深い。もちろん、人としての自分自身をもうちょっと食える奴にするための努力もしなければならないのだけど。



「池に浮かぶあの二匹の鴨はつがいなの?それとも......」夕暮れの井の頭公園

吉野家でつゆだくを

2008年11月12日 09時56分57秒 | ちょっとオモロイ
翻訳学校に行く。メールや電話ではなく、生身の人間の皆様とお話するのは一週間ぶりだ(涙)。人間が動いている! 

学校の前に武蔵境の吉野家で牛丼を食べる。夕方の5時半という中途半端な時間だったので、店に入ったとき客は僕しかいなかった。最近「つゆだく」という注文の仕方ができることを覚えた僕は、今回もそう注文する。なんとも贅沢な気分。でも、後から入ってきた別の客のセリフに驚いた。「並、だくだくで」。えっ? だくだく? そんなのありだったのか......。お店の人も、平然とそれを受け止めている。つまり、「つゆだく」よりもさらにつゆが多いということなのだろうけど、なんとも「コテコテ」の凄い日本語だ。つゆだく自体、「汗だく」みたいであんまりキレイな言葉じゃないのに、だくだくなんて。他に言いようがなかったのだろうか。ともかく、つゆ好きなので次回はだくだくに挑戦してみたい。わくわくするな~。

調べてみると、他にも以下のような注文方法があるらしい。

つゆぬき
ねぎだく
ねぎぬき
肉ぬき

「肉ぬき」ってすごい。でもさすがに「肉だく」っていうのはだめなんでしょうね。「つゆ、ドボドボで」なんてのもありかもです(^^) 吉野家はシンプルなようでいて奥が深い。

授業の後の飲み会にも久しぶりに参加し、美味しいワインと食事を楽しみながらいろんな話をした。先生に翻訳について真面目に質問する。「原文を読んだときに浮かんだイメージは、冷静に考えれば現実的にはおかしいと思えるものもある。だけど、訳しているときはそのおかしさになかなか気づけない。どうすればよいのですか?」みたいなことを訊ねた。先生は真摯に回答をしてくださった。それを僕なりに解釈すると、原文の読込や理解を深めるには特別な方法はなく、英語力、常識力、調査力、異文化への理解、翻訳経験、注意力、などなどの総合力によって高めていくしかないということだ。先生に深く感謝。

酔いも回り、気がつけば、なぜ日本のプロサッカー選手はセルジオ越後氏に頭が上がらないのか、あるいはセルジオ氏がいかによい人かということを力説してしまっていた。恥ずかしい。



目が合って何かを叫びおもむろに体すり寄せ猫に君見る

Who Moved My 大粒納豆?

2008年11月08日 16時16分36秒 | ちょっとオモロイ
納豆が好きでほぼ毎日食べているので、しょっちゅう補填することになるのだけど、スーパーの納豆売り場に行くたびにいつも疑問に思うことがある。それは、

大粒納豆はどこに消えたのか?

という問題である。どのパックを見ても、ほとんどが「小粒」とか「ひきわり」とラベルされていて、僕が好きな大粒納豆が見当たらない。小粒納豆も嫌いじゃないのだけど、大粒納豆に感じられるあの大豆の素朴な味わい、ダイナミックな食感が恋しくて、いつも無意識に「大粒」の文字を探してしまう。だけど、たいていそれは徒労に終わる。ほとんどの場合、スーパーには「小粒」か「ひきわり」だけしか売っていない。そして思う。世の中には2種類の人間がいる。――小粒納豆が好きな人と、大粒納豆が好きな人だ。そして、小粒納豆の大群を目の前にして立ち尽くす大粒納豆好きの自分が、あまりにもマイナーな存在であることを思い知らされて愕然とする。しかたなく、小粒を買う。

しかし、平成の小林邦昭を自負する自分としては、そこですごすごと引き返したりはしない。反骨精神がメラメラと燃え上がる。心のなかで小粒納豆に怒りのフィッシャーマンズスープレックスをみまう。そもそも、ここまで小粒派が幅を利かせてるんだったら、いちいち「小粒」って主張しないでくれと思う。小粒しか売ってないくせに、「小粒です!」って声を大にしなくてもいいじゃん。お前が「私は小粒です」ってアピールするから、俺は「じゃあ大粒もどこかにいるのか」と思って全パッケージを調べなくてはいけなくなるのだ。全員が全員、「私は小粒」って潤んだ瞳でこっちを見つめないでくれ。小粒なら小粒らしく目立たないようにしてるのがお前らの本来の姿じゃないのか。小粒なりにおとなしくしてくれてたら、俺だって「小さい体でよく頑張ってるな」と判官びいきのひとつもしてやりたくなるんじゃないか。それなのにキーキー言うんじゃない。めったに姿を現さない大粒こそが、文字通り声を大にして「大粒はここにありまっせ」と存在感たっぷりに主張して欲しい。頭一つ抜け出るくらいの納豆としての大きさを見せて欲しい。そのスケール感を存分にアピールしてほしい。なのに、今日も大粒はいない。

釈然としない。消費者はそんなに大粒よりも小粒の方が好きなのだろうか? 少なくとも、僕は大粒の方が好きだ。不思議だ。そんなに小粒納豆って美味しいのだろうか? そんなに小さい方が食べやすいのか? ひきわり納豆だってたまに口にすると美味しいとは思うけど、あそこまでに機械によって噛み砕れたものを毎日食べたいとは思わない。俺にも噛ませてくれ、噛むという醍醐味を俺から取り上げないでくれ、現代人に残された最低限の動物的側面を奪わないでくれ、と思う。それでも小粒が好きな人が多数派なんだったらそれはしょうがない。人それぞれ好みがあるからそれを否定はしない。しかし、だからといって猫も杓子も小粒にしなくたっていいじゃないか。大粒を作る人がいたっていいじゃないか。っていうか、普通そうなるでしょう? Windows派がどれだけ多くたってMacが好きな人もいる。犬や猫やハムスターを飼う人がどれだけ多くたって、なかにはヤギを飼いたい人もいる。なのになぜ納豆界だけはそうした健全な多数派と少数派のバランスが取れていないのだろうか? それとも、大粒が好きだという僕の味覚は、そうとうにおかしなものなのだろうか? 一度口にしたら、もう大粒には絶対に戻れないほどの魅力や魔力が小粒にはあるのだろうか? Small is beautiful? 大は小を兼ねる? 山椒は小粒でピリリと辛い? わからない。俺にはわからない。

翻訳でも同じかもしれない。「この訳出方法がいい」っていうものが現れたら、誰もがそれに従ってしまう。「納豆は小粒なほうがいい」ってなんとなく世間の人がそう思ってるようなので、私も小粒にしようと思ってしまう。だが、大粒にも大粒のよさがある。たまには大粒な訳を作る人がいてもいい。それでこそ健全なバランスが保たれるのだ。こういう右に倣え精神は自分のなかにも大きく存在する。気をつけなければ......

なんてことを思いながら、ちょっと調べてみたのだけど、どうやら納豆の作り手にとっては、小粒は輸入物が多くまた国産でも栽培しやすいため、製造コストを若干低く抑えられるというメリットがあるということらしい。そうだったのか......。これが納豆総小粒化現象の理由をすべて解明するかどうかはともかくとして、一消費者には思いもよらない諸事情が存在するということなのだ(ちなみにこのページの説明は先生がまったく質問の意味に答えていないという意味で面白かった)。


ともかく、翻訳者としてこの納豆小粒化問題から得られる教訓はたくさんある。
1. 製造コストは安く抑えること。
2. ただし、製造コストを安く抑えても消費者の好みにそれが合っているとは限らないこと。
3. 小粒なものは小粒らしく声高に自分を主張しないこと。
4. 現象の一面だけをみて「世の中の人は自分と違って○○よりも○○が好きらしい」というような短絡的な結論を導かないこと。
5. たとえ少数派であっても、好きなものは好きと「粘り強く」言い続けること。

************************************

『察知力』中村俊輔



気がつけば青空の下に僕はいてどこまでも続く並木道歩く

網に捕らわれた虎が小林邦昭のフィッシャーマンズできれいな弧を描く

2008年11月07日 23時52分11秒 | ちょっとオモロイ
いや~、大変だ。僕自身も大変だけど、世界もいろいろ大変だ。毎日さまざまなニュースが飛び込んできて、例を挙げたらきりがないのだけど、たとえば日常生活レベルの問題としてはまあどうでもいいといえばどうでもいいのだけど、マラドーナがアルゼンチン代表の監督になってしまった。アルゼンチンファンとしては心中穏やかではない。けどある意味楽しみではある。どんな奔放なサッカーをやってくれるのだろうか。しかし、マラドーナは神だった。神としかいいようがないほどサッカーが上手かった。プロレスで言えば、初代タイガーマスク時代の佐山サトル。彼も一時期まさに神だった。

......みたいな想念が仕事中いつも頭の片隅をぐるぐると駆け巡っていて(もちろん仕事には潜在意識的にはとっても集中しているのです)、それで休憩時間にふとYouTubeでタイガーマスク対小林邦昭の試合なんかを見てしまうのだけど、これがまたいい試合なんだ。古館の実況もいいし、それに観客のあの熱気はなんだろう。昭和――っていい時代だったよな~。でも確かに当時は僕も同じ熱さで『ワールドプロレスリング』をテレビにかぶりついて見てた。うん、毎週毎週、珠玉の1時間だった。あんな珠玉感を今感じているだろうか。感じさせるものはあるだろうか。ビデオも無かった時代、テレビ中継は黄金の輝きを放っていた。この試合、小林のコンディションは最高。あの佐山をある意味凌駕している。実質的に小林は勝負に勝って試合に負けたんだよね。だけど当時のタイガーが負けることはあり得なかったので、予定調和な結末ではあるんだろうけど。うん、くどいけどいいレスラーだったよ小林は。そういえば昔、横浜で遊覧船に乗ろうとして列に並んでいたら、後ろに本物の小林邦昭がいたんだよな~。今にして思えば、必殺のフィッシャーマンズスープレックスが代名詞の小林さんだけに、やっぱり港だったんだよな~、なんて。怖くて話しかけられなかったけど、あそこでフィッシャーマンズスープレックスかけてもらったら一生の思い出になっただろうな~。

......と想念はどこまでも続いていって、YouTubeの無間地獄にはまっていくのであるが、でもつくづく佐山ってやっぱり天才だった。小林との試合では少々精彩を欠いていたけど、当時はものすごく忙しい日々を送っていただろうから、あんな試合があってもしょうがない。フィニッシュフォールドだって釈然としないものがあるし。それにやっぱりあの日の小林は輝いていた。でもやっぱりタイガーといえばNYのマジソンスクエアガーデンでやった宿敵ダイナマイト・キッドとの試合はよかったよな~。佐山の天才ぶりが遺憾なく発揮されてたからな~。ゆる~いアメリカンプロレスを見慣れた観客がタイガーの凄さに驚き、度肝を抜かれながらだんだん彼に魅了されていく感じがよく伝わってきて、なんだか誇らしい気持ちになるんだよね、今見ても。まあ、自分はどうみても、逆立ちしても佐山にはなれないけど、翻訳業界の寺西勇いやせめて小林邦昭になりたいと思うんだよね。反骨精神があって、マーシャルアーツの素養もあって、ヒールなんだけど、素顔はとてもいい人っていうあたりがいいよな~小林は。佐山ともプライベートではとっても仲がよかったっていうしね。

......と、いつまでたっても仕事を再開できないのだけど、ともかくあともう少し頑張ってこの山を下りきりたいと思うのであった。人間、人生の坂道を転がり落ちていくとき、堕ち始めるときってこんな風なのかな~.......(以下無限ループ)


しなやかに網打つ昭和の小林のフィッシャーマンズに捕獲され鰯