自慢じゃないが――実際、何の自慢にもならないのだが――僕はトイレ(小)が近い。それもかなり近い(やっぱり――「トイレがすごく近い」という狭義の意味においては――相当に自慢できるかもしれないほどに近い)。さらに言えば、これまた自慢じゃないが――まったく自慢にならないどころか、そもそも「近い」という表現が適切ではないのかもしれないが――トイレ(大)も近い。非常に近い。つまり僕という存在は――小難しい形而上学的な問題は脇に置いて、ごく端的に言ってしまえば――そしてなぜかこの文章にはダッシュ(――)がやたらと多いわけだが――「男は近くにトイレがなければ生きていけない。トイレがなければ生きる資格がない(by レイモンド・チャンドラー)」を地で行くほどに、トイレに依存して生きているわけなのである。
トイレのなかでは、フィリップ・マーロウ気取り――そんな僕の心情を察してくれているのかいないのか、居候させていただいているオフィスの座席は、トイレにとても近い。トイレが僕を呼んでいるのか、それとも僕がトイレを呼んでいるのか、それともその両方なのか、その真相は謎に包まれたままだが、ともかく僕はトイレが近く、トイレも僕に近く、まさに相思相愛、僕とトイレと○○は三位一体で、これ以上ない不可分の存在として、今日も明日も明後日も、お互いに無くてはならないもの同士として、この現実世界に確固として存在し続けているのである。
そして――この際はっきり言わせてもらうならば――僕は、
To go to the toilet is to die a little.
――トイレに行くことは、わずかのあいだ死ぬことだ――(by レイモンド・チャンドラー)
の名言にもあるように、このつかの間の死――日常からの逃避行――を愛していて、単なる生理的要求に従うだけではなく、むしろ精神的なやすらぎを、四角い壁に囲まれたこの小さな空間にいることで確実に得ているのである。それは僕の毎日にとってなくてはならないものなのだ。
と、そんなことを書いてしまったのにもわけがある。最近、そんな僕とトイレの蜜月に、かつては感じることのなかった不協和音が木霊するようになってきたのである。
「原始、トイレは太陽だった」――の箴言のとおり、ずっと家に籠もりきりで仕事をしていたとき、そこは誰にも邪魔されない、まさに楽園であった。トイレは僕にとって、好きなときに行き、好きなだけ本を読み――ドアを開けっ放しにして――好きなだけ便と戯れる、そんな楽土であった。
しかし今は違う。
もはやトイレは、僕にとって絶対的な自由を約束してくれる場所ではなくなった。
男が一歩、家の外に足を踏み出せば、そこには七人の敵がいる――そう、トイレ(大)は、僕だけを優しく招き入れてくれる癒しの場ではなくなってしまった。そこは、七人の侍が――つまりは先客という名の「異物」が――いる可能性のある場所に成り果ててしまったのだ。先客の存在を感知した僕のセンサーは、異常なまでに反応する。トイレという楽園に他者が存在することの不条理をにわかには受け入れられず、心の――あるいは大腸の――サイレンがけたたましく鳴り響くのである。
そして自慢じゃないが――だんだん「――」を使うのが面倒くさくなってきたわけだが――僕はこの男子トイレのなかでのなわばり争いに、非常に弱い。ものすごく弱い。
つまりはこういうことだ。会社の男子トイレはかなり狭い。トイレ(小)とトイレ(大)がそれぞれ1つしかなく、しかも隣接している。まさに「板子一枚隣は地獄」、その狭い空間に居合わせたふたりは、お互いの息吹を――そして下半身から放出される息吹、あるいは異○に対し――嫌がおうにも感応せざるを得ないのだ。
自分が(小)を足しにトイレに何気なく足を踏み入れたとき、そこに敵――すなわち(大)の最中の男子――が存在していることに気づいた僕は、あられもなく狼狽してしまう。自分の体験から、(大)の最中に、(小)の人が入ってきたときは、なんとも気まずいものではないかと思っているからだ。だから相手に気を遣わせてはならないと、なるべく速く用を足して――まあ、そうでなくてもぶっちゃけ普段から相当速いのだが――なるべく自分の存在を消して、足早にトイレを去ろうとする。ところが――to my surprise(驚いたことに),――相手はそんな僕の細やかな心遣いを知ってか知らずか、僕の存在などまったく意に介さずといった雰囲気で、少しもそのペースを緩めることなく、僕が入ってくる直前と寸分違わぬパワーで――実際に確認したわけではない――力み続けているように思われるのである。「フ――ッ」とか「ウ――ッ」とか、思い切りため息を漏らしていたりもする。激しくトイレットペーパーをつかみとる音がする。僕の気は激しく動転する。
「(小)のところに他人がいるのに、人はこれほどまでにその他者の存在を打ち消してまで、(大)に専心できるものなのだろうか?」
僕は自分の存在をまったく認められなかったことに対して軽い目眩を覚えつつ、言いようのない打ちひしがれた気持ちで急いでその空間を去ろうとする。たのむから(大)から出てこないでくれ、と心のなかで叫びながら。それくらい、(小)の最中に(大)から知っている人が出てくるのに遭遇するのがとても苦手なのだ。「ジャーッ」と勢いよく水が流れる音が聞こえてきたりすると、もう気が気ではない。逃げるようにしてジッパーもあげずに――こういう状況じゃなくてもジッパーをあげ忘れることが異常に多いってことはこの際、言いっこなしで――負け犬気分でトイレを去る。
自分が(大)にいるとき、(小)に誰かが入ってくるのもとても苦手だ。紳士としては当然、下半身の活動は一時停止せねばならない、と思う。ドアが閉まっているから、そこに誰かがいるのは相手には当然悟られているとしても、息を殺してまで――遠い夏、そうっと息を止めて、トンボをつかまえたあのときのように――自分の存在を打ち消そうとする。
それなのにやはり相手は、そんな僕のデリケートな心を少しも気にしていないかのように、ため息を漏らして放尿の快楽に浸るのである。しかもそれが長い。滞空時間があまりにも長い。こっちは息を止めて「もう勘弁してくれ」と心で祈っているのに、ものすごく長い。ヨガの行者が、水中ではてしなく息を停め続けることができるのと同じくらいに、水中深くグランブルーを求めて潜水するジャック・マイヨールかと思うほどに、彼の放尿時間は長いのである。追い打ちをかけるように――あるいは、勝ち誇ったかのように――得も言えぬとでも言ったような喘ぎ声とため息を漏らす。ようやく用を足したかと思えば、入念に手を洗い、そして鏡にひとしきり見入る。人の糞便活動を氷結させておいて、この余裕はなんだ。そうこうしているうちに、こっちはすっかり虫の息だ(相手がそこにいる間は、扉を開けて出ていこうなんて、絶対に思わないし、思えない)。
負けた――。完膚無きまでに負けた。男子トイレという場において、僕はあきらかに弱者だ。悲しいくらいに敗者だ。なぜこれほどまでに、我はトイレという空間においてか弱い存在でなければいけないのか――僕は哀しみの表情で、括約筋の緊張を維持したまま、天を仰ぐ。
―――
柔道では、まずお互いに相手の奥襟や袖口を掴んでから闘いが始まる。このとき、山下泰裕さんは、試合で一度も相手に優位な差し手を取られたことがないのだという。かならず自分が相手よりも有利な体勢になるように、がっちりと相手を掴む。そうなれば、勝負はもう決まったも同然である。だからこそ、自分は無敵の強さを誇ることができたのだと、彼がどこかで語っていたのを記憶している。僕はいつも、トイレの勝負に負けたときに、山下さんの偉大さを思い出す。そして僕は、ことトイレにいるときに限って言えば、どんな相手が来ても、絶対に自分を不利な組み手に持ち込むことにかけては山下さんにも劣らないだろう――まったく自慢にはならないのだが――と思う。嗚呼、ここはまさに四角いジャングル。闘いの大海原なのだ。こんなところにも存在する、オス同士の闘い。男って辛いよなあ(女子にもいろいろあるんだろうけど)。
トイレのなかでは、フィリップ・マーロウ気取り――そんな僕の心情を察してくれているのかいないのか、居候させていただいているオフィスの座席は、トイレにとても近い。トイレが僕を呼んでいるのか、それとも僕がトイレを呼んでいるのか、それともその両方なのか、その真相は謎に包まれたままだが、ともかく僕はトイレが近く、トイレも僕に近く、まさに相思相愛、僕とトイレと○○は三位一体で、これ以上ない不可分の存在として、今日も明日も明後日も、お互いに無くてはならないもの同士として、この現実世界に確固として存在し続けているのである。
そして――この際はっきり言わせてもらうならば――僕は、
To go to the toilet is to die a little.
――トイレに行くことは、わずかのあいだ死ぬことだ――(by レイモンド・チャンドラー)
の名言にもあるように、このつかの間の死――日常からの逃避行――を愛していて、単なる生理的要求に従うだけではなく、むしろ精神的なやすらぎを、四角い壁に囲まれたこの小さな空間にいることで確実に得ているのである。それは僕の毎日にとってなくてはならないものなのだ。
と、そんなことを書いてしまったのにもわけがある。最近、そんな僕とトイレの蜜月に、かつては感じることのなかった不協和音が木霊するようになってきたのである。
「原始、トイレは太陽だった」――の箴言のとおり、ずっと家に籠もりきりで仕事をしていたとき、そこは誰にも邪魔されない、まさに楽園であった。トイレは僕にとって、好きなときに行き、好きなだけ本を読み――ドアを開けっ放しにして――好きなだけ便と戯れる、そんな楽土であった。
しかし今は違う。
もはやトイレは、僕にとって絶対的な自由を約束してくれる場所ではなくなった。
男が一歩、家の外に足を踏み出せば、そこには七人の敵がいる――そう、トイレ(大)は、僕だけを優しく招き入れてくれる癒しの場ではなくなってしまった。そこは、七人の侍が――つまりは先客という名の「異物」が――いる可能性のある場所に成り果ててしまったのだ。先客の存在を感知した僕のセンサーは、異常なまでに反応する。トイレという楽園に他者が存在することの不条理をにわかには受け入れられず、心の――あるいは大腸の――サイレンがけたたましく鳴り響くのである。
そして自慢じゃないが――だんだん「――」を使うのが面倒くさくなってきたわけだが――僕はこの男子トイレのなかでのなわばり争いに、非常に弱い。ものすごく弱い。
つまりはこういうことだ。会社の男子トイレはかなり狭い。トイレ(小)とトイレ(大)がそれぞれ1つしかなく、しかも隣接している。まさに「板子一枚隣は地獄」、その狭い空間に居合わせたふたりは、お互いの息吹を――そして下半身から放出される息吹、あるいは異○に対し――嫌がおうにも感応せざるを得ないのだ。
自分が(小)を足しにトイレに何気なく足を踏み入れたとき、そこに敵――すなわち(大)の最中の男子――が存在していることに気づいた僕は、あられもなく狼狽してしまう。自分の体験から、(大)の最中に、(小)の人が入ってきたときは、なんとも気まずいものではないかと思っているからだ。だから相手に気を遣わせてはならないと、なるべく速く用を足して――まあ、そうでなくてもぶっちゃけ普段から相当速いのだが――なるべく自分の存在を消して、足早にトイレを去ろうとする。ところが――to my surprise(驚いたことに),――相手はそんな僕の細やかな心遣いを知ってか知らずか、僕の存在などまったく意に介さずといった雰囲気で、少しもそのペースを緩めることなく、僕が入ってくる直前と寸分違わぬパワーで――実際に確認したわけではない――力み続けているように思われるのである。「フ――ッ」とか「ウ――ッ」とか、思い切りため息を漏らしていたりもする。激しくトイレットペーパーをつかみとる音がする。僕の気は激しく動転する。
「(小)のところに他人がいるのに、人はこれほどまでにその他者の存在を打ち消してまで、(大)に専心できるものなのだろうか?」
僕は自分の存在をまったく認められなかったことに対して軽い目眩を覚えつつ、言いようのない打ちひしがれた気持ちで急いでその空間を去ろうとする。たのむから(大)から出てこないでくれ、と心のなかで叫びながら。それくらい、(小)の最中に(大)から知っている人が出てくるのに遭遇するのがとても苦手なのだ。「ジャーッ」と勢いよく水が流れる音が聞こえてきたりすると、もう気が気ではない。逃げるようにしてジッパーもあげずに――こういう状況じゃなくてもジッパーをあげ忘れることが異常に多いってことはこの際、言いっこなしで――負け犬気分でトイレを去る。
自分が(大)にいるとき、(小)に誰かが入ってくるのもとても苦手だ。紳士としては当然、下半身の活動は一時停止せねばならない、と思う。ドアが閉まっているから、そこに誰かがいるのは相手には当然悟られているとしても、息を殺してまで――遠い夏、そうっと息を止めて、トンボをつかまえたあのときのように――自分の存在を打ち消そうとする。
それなのにやはり相手は、そんな僕のデリケートな心を少しも気にしていないかのように、ため息を漏らして放尿の快楽に浸るのである。しかもそれが長い。滞空時間があまりにも長い。こっちは息を止めて「もう勘弁してくれ」と心で祈っているのに、ものすごく長い。ヨガの行者が、水中ではてしなく息を停め続けることができるのと同じくらいに、水中深くグランブルーを求めて潜水するジャック・マイヨールかと思うほどに、彼の放尿時間は長いのである。追い打ちをかけるように――あるいは、勝ち誇ったかのように――得も言えぬとでも言ったような喘ぎ声とため息を漏らす。ようやく用を足したかと思えば、入念に手を洗い、そして鏡にひとしきり見入る。人の糞便活動を氷結させておいて、この余裕はなんだ。そうこうしているうちに、こっちはすっかり虫の息だ(相手がそこにいる間は、扉を開けて出ていこうなんて、絶対に思わないし、思えない)。
負けた――。完膚無きまでに負けた。男子トイレという場において、僕はあきらかに弱者だ。悲しいくらいに敗者だ。なぜこれほどまでに、我はトイレという空間においてか弱い存在でなければいけないのか――僕は哀しみの表情で、括約筋の緊張を維持したまま、天を仰ぐ。
―――
柔道では、まずお互いに相手の奥襟や袖口を掴んでから闘いが始まる。このとき、山下泰裕さんは、試合で一度も相手に優位な差し手を取られたことがないのだという。かならず自分が相手よりも有利な体勢になるように、がっちりと相手を掴む。そうなれば、勝負はもう決まったも同然である。だからこそ、自分は無敵の強さを誇ることができたのだと、彼がどこかで語っていたのを記憶している。僕はいつも、トイレの勝負に負けたときに、山下さんの偉大さを思い出す。そして僕は、ことトイレにいるときに限って言えば、どんな相手が来ても、絶対に自分を不利な組み手に持ち込むことにかけては山下さんにも劣らないだろう――まったく自慢にはならないのだが――と思う。嗚呼、ここはまさに四角いジャングル。闘いの大海原なのだ。こんなところにも存在する、オス同士の闘い。男って辛いよなあ(女子にもいろいろあるんだろうけど)。