イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ゴルゴ38  Part VIIII

2008年09月30日 23時26分00秒 | 連載企画
翻訳者、データマン(ウーマン)の次は、チェッカーに行ってみよう。

言うまでもないことだけど(だけど言う)、翻訳プロジェクトにおけるチェックは非常に重要だ。チェックのない翻訳なんて、クリープを入れないコーヒーと同じ。たまに、十分なチェックがされないまま世に出てしまったのではないかと思われる訳文を目にすることがある(自分のことは棚に上げて)。誤訳、訳抜け、誤字脱字。そういう「ちゃんとチェックすれば防げるミス」のことを、業界では「地雷」という。様々な理由によってチェックを十分に行えなかったがために、地雷を多く含んだまま見切り発車されてしまった訳文たち。幸運な(あるいは不幸な)読者は、きっとその平原を何事もなかったように進んでいくだろう。だけど、いつかきっと誰かが地雷を踏む。違いがわかる読者なら、それがチェック抜きで仕上げられた訳文であることをすぐに見抜くに違いない。「チェックしとらんな」と、ネスカフェゴールドブレンドを片手につぶやくに違いない。だから、チェックは大切なのだ(かなり強引な三段論法?)

チェックの方法にもいろいろある。まずは、実務翻訳の世界ではお馴染みの、突合せチェックについて考えてみよう。突合せチェックとは、文字通り、原文と訳文をバイリンガルに並べて、訳文がきちんと原文の意味どおりに訳されているか、訳文にエラーはないか、その他もろもろをチェックしていくのだ。もちろん、さいとうたかをプロ プロジェクトにおいても、この種のチェッカーは必要だ。最低2名は欲しいところだ。

それはたいてい、ターゲット言語を母国語としているチェッカーによって行われる。つまり、日本語が訳文の場合は、日本語を母国語とするチェッカーが行う。まあこれは、最終成果物となるものが日本語の訳文なのだから、理に適っているとは思う。

英日翻訳の場合、日本語を母国語とするチェッカーの能力は、基本的には訳者と同レベルだと思う。チェッカーの方が訳者より明らかに翻訳が上手く、専門性も高く、経験も豊富だということは、あまり考えにくい。チェッカーとしての力量や経験はあるにしても、翻訳そのものの力を比べた場合、一般的に言って、翻訳者とチェッカーの間に、そう大きな力の差があるわけではない。むしろ、翻訳者がほぼ訳文を仕上げて、チェッカーは単純なミスを拾うという形の方が、効率的に作業を行える場合が多いし、実際、そういうパターンはどの現場でも見られると思う。チェッカーが出来の悪い訳文を直すには、相当な労力がかかる。下手をすれば翻訳と同じくらいの労力がかかる。だから、チェッカーの方が翻訳者より圧倒的に力量が上という組み合わせは、あまり合理的ではないのだ。

もちろん、このチェックは有効に機能する。前述した地雷をつぶせるのはもちろん(チェッカーが地雷を埋めてしまうこともあるけど)、訳文の質だって、チェッカーの視点を入れることで十分によりものに練り上げることが可能だ。優秀な訳者とチェッカーがコンビを組めば、きっと、違いのわかる読者でも、上質を知る読者でも、納得のいく訳文ができるに違いない。

しかし、このチェックには限界がある。それは、訳者とチェッカーの能力に、原文を読み込む力という点で、おそらくはそれほど大きな差がないという点に起因する。つまり、外国語の原文を日本語に訳す場合、日本語を母国語とするチェッカーでは、オリジナルのニュアンスが本当に訳文に込められているか、訳者は正しく原文を理解しているかを、ネイティブレベルでは検出できないのだ(ネイティブ並みの外国語能力を持つチェッカーの場合はそうではないけど)。当たり前と言えば当たり前に過ぎないのだけど、これは結構、翻訳プロジェクトの泣き所になっていると思う。

だから、理想的にはオリジナル言語を母国語とするチェッカーもいた方がいい(実務翻訳の世界で、外国語の訳文が成果物となる場合は、日本人がチェックすることも多い。それはこのパターンに当てはまる)。ネイティブがバイリンガルチェックをする場合は、視点が変わる。誰をチェッカーにするかにもよるが、たいていは翻訳者よりもネイティブの方が原文を読む力はおそらくかなり優れているだろう。つまり「原文の読み込み」という意味においては、おそらくは圧倒的な訳者<チェッカーという構図が成り立つ。だからこそ、このチェックをやる価値がある。

というわけで、オリジナル言語と、ターゲット言語をそれぞれ母国語とするチェッカーが、タッグを組んでチェックをする。そこに価値があるのであれば、もちろん本プロジェクトにおいても、この手法の採用は満場一致で承認されなければならない。

そうとなれば、やはり豪華なメンバーをそろえたい。マーク・ピーターセン、あるいはリービ英雄クラスのチェッカーを擁したいところだ。この2人の巨人が、原文の読み込みが甘いところを徹底的に指摘する。それは、原文の意味がわからないところを著者やネイティブに質問するのとは異なる。このチェッカーたちは、日本語も相当なレベルで理解している。僕なんかより遥かに日本語が上手い。だから原文を読むだけではなく、翻訳結果を見ておかしなところを指摘するのだ。文芸翻訳の場合などでは、ある意味理想的なチェッカーかも知れない。

というわけで、マーク・ピーターセンさんとリービ英雄さんにもこのプロジェクトに参加してもらうことにしたので、もう既に合計14名がこのプロジェクトのメンバーとなってしまった。ちょっと多すぎ?(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「いっそのこと、38人を目指そうかな......」

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フリー生活も4日目。でも、最初の2日は土日だったので、まだ2日目という気もする。さらに言えば、この2日は有給消化だったので、明日から正式に晴れてフリーとなる(なんだか区切りがつけにくい)。今日は昼間、ジョギングした。人気のない小金井公園は空気も澄んでいて気持ちよかった。うん、これからは好きなときに好きなだけ走れる。そう思うと嬉しい。もちろん、そのための時間を作り出すことも必要なのだけど。ともかく、今は非常に忙しくて、まだ落ち着いて身辺整理ができていない状態。それもあって、なんだか実感がないままに日々は過ぎ去っていく。一息入れれるときがきたら、いろいろと計画を練ったり、これからのことを落ち着いて整理してみたい。

インターミッション ~実録 フリーランス事始~

2008年09月29日 22時41分39秒 | Weblog

昨日の日曜日は金曜日の朝までカラオケと土曜日の大宴会の余韻もあって、体も本調子ではなく、それでも頑張って仕事をしていたらあっという間に時間が過ぎ去ってしまった。なんだかいつもの土日と変わりなく、あんまり会社を辞めた実感はなかった。

父親から荷物が届いた。お菓子、コーヒー、そして手紙と一冊の本。

『人生は勉強力より「世渡り力」だ!』岡野雅行

岡野さんと言えば、腕も口も立つことで有名な金型職人。とても面白そうなことが書いてある。心して読みたい。そもそも父親は、銀行で個人事業主や中小企業を相手に融資をする仕事を40年以上もしていたのだ。独立するということは経営者になるということだ、ということを肌身で知っている。経営とは、問題を解決していくことにほかならない。実際、今も自分でビジネスをしているのだから、日々それを実感しているに違いない。それだけに息子に対しても思うところがいろいろとあるのだろう。せっかくこういう父親がいるのだから、僕も彼の力を借りて、多くを学びたいと思った。手紙には、経営とは、独立とは、みたいなことについて、彼の熱い思いがつづられていた。「翻訳だけやっていればいいのではない、営業力、人間関係が大切なんだ」うん、本当にその通りだ。

そして今日、月曜日。いつもだったら、いくら土日にドタバタしていても、締め切りがあっても、ブルーマンデーになったら、会社にいかなくてはならない。ところが、今日は違った。当たり前なのだけど、やっぱり会社には行かなくてもいいようだ。人事みたいにそう思った。うん、そうだった。9時18分発の中央線に乗らなくてもいいんだった。これからは、一日、自分の好きなように時間を使って、仕事をすればいい。ずっと翻訳ができる。これは嬉しい。やっぱり嬉しい。嬉しい━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!! なんだかその瞬間、フリーになったんだな、としみじみしてしまった。

これまでは、夏休みとか大型連休とかに最大一週間くらい休みがあって、ずっと翻訳をしてようやくフリーランスっぽい感覚(毎日同じように朝から晩まで翻訳して、なんとなく生活のリズム、仕事のコツが自然とつかみかけてくるような)が自分のなかに生まれてきたところで、会社の日々が再開し、その流れが中断されてしまっていた。土日なんてあっという間だ。だから、いくら頑張っても頑張っても、ようやく作り上げたものが、すぐにぶち壊されてしまうような気持ちになった。砂浜で山を作って遊んでいても、いいのができたと思ったところで、すぐに大きな波が来て流されてしまうように。

でも今日からは違う。たぶん違う。毎日おなじことの繰り返しだ。毎日が夏休みだ。だけど、毎日が8月31日だ。そのなかで、自分なりのメソッドをたくさん開発していけばいい。大きな夢と、小さな工夫を、流れていく時間のなかにたくさん詰め込んでいけばいい。そう思ったのだった。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「フリーランス初ブックオフは、しばらくお預けかな~」

インターミッション ~怒涛の二日間を終えて~

2008年09月28日 13時05分09秒 | Weblog
会社の最終日、そしてフリー初日の二日間は、予想通りの怒涛の展開だった。ワーストケースシナリオ(果てしなき泥酔)は免れたものの、朝までカラオケは、つらい。宴から宴へ。カタギの道から○クザな道へ。何かに束縛されて不自由さを感じていた日々から、あまりにも自由なので少しは何かに束縛してもらいたいと思ってしまうかもしれない日々へ。フリーランスの先輩方からありがたい励まし(脅し)の言葉をいただきつつ、自分の人生にとって不可避だと思えるこの道についに足を踏み入れた。そう、それは翻訳Love道。この道は、いつか来た道。ほらごらん、締切の花が咲いているよ。

会社の方々からは、これ以上ないというくらい手厚く送り出していただいた。寄せ書きとお花、名刺入れ、そして自分では絶対に買えないだろうと思える高そうなノートをもらった。このノートには、翻訳について考えたことを、大切に書いていきたいとおもう。さっそく、昨日、あさま組の勉強会の最中に浮かんだアイデアを、書き込んだ。自分を含め、この時期に退職する人、そして新しく入社した人の歓送迎会があり、そして二次会があり、そして今夜だけは終電で帰ろうと思っていたにもかかわらず、やっぱり朝までカラオケコースに突入して、そんな自分に途方に暮れながら、『そして僕は、途方に暮れる』を熱唱してしまった。

昨日は、わずかな睡眠しか取れないままフラフラの体と頭を抱えて勉強会に参加し、その後、夏目組が年に一度集結するという大宴会に参加させていただいた。人見知りするのでこういう会は苦手なのだが、いろんな人と話せてとても楽しかった。同じ翻訳道を歩んでいる人たちとの出会いは、格別。皆さんが心にいろんな思いを秘めてこの道を歩んでいらっしゃるということが、そこまで深く会話できなくても、こちらに伝わってくる。それが嬉しい。果たして、同じように僕のホンヤク愛は届いたのだろうか?(会社を辞めたてのホヤホヤ、奇特な輩だな~という視線は感じたのだが......)。そしてもう今日はあんまり飲むまいと思っていたのだが、そうは問屋がおろさないとなってしまうのが僕なのであり、そしてやっぱりけっこうしっかりと呑んでしまった。ビールの味も、格別だった。幹事のリトルサイパンダさん、お疲れ様! 夏目さん、そして皆様、素敵な出会いをありがとうございました。また来年お会いしましょう。お暇なときにはメールでもください!翻訳について語り合いましょう。

言うなれば、今日がフリーの初日だ。つまり、仕事始め。昨日は、前夜祭だったのだ。そんなわけで、さっそく仕事を開始しています。さあ、やるぞ~!!

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「花塚さん、ウコンの力、効いたよ~。ありがと!」

インターミッション ~Iwashi's Parting Gifts~

2008年09月26日 00時08分56秒 | Weblog
明日26日で会社を退職するため、連日遅くまで仕事をしている。この胸に去来するのは万感の思い。お世話になった、数え切れないくらいのたくさんの人々、そして仲間たちと過ごした忙しくとも楽しい日々、信じられないほど多くの翻訳プロジェクトたち。明日で、リーマン生活も終わりだ。さよなら、愛しき人たちよ。さよなら、会社員だった俺よ。さよなら、サラリ-。さよなら、厚生年金!

わずか1年半の在社だったけど、本当にいろんなことがあった。辛いこともあったけど、そんなことはすべて吹き飛んでしまうくらい、とっても楽しかった。いい仲間に恵まれたし、なんといっても仕事が「翻訳」なのだ。こんなに嬉しいことはない。今日これまでに受信したメールを数えたら、計1万4千件もあった。もちろん、そのほとんどが、翻訳の仕事を依頼されたり、依頼したり、といった内容だ(同僚からの「ランチ行こ~」みたいなものあるけど)。こんなにたくさん仕事をしていたんだ、とメーラーをスクロールしながら、思わずグッときてしまった。あんなこともあった、こんなこともあった、絶体絶命のピンチもあった、起死回生のドラマもあった、翻訳者の素晴らしい仕事に感動したこともあった、そういう方々の力を借りて、ささやかながらも世の中の役に立てることができて嬉しいと思ったこともあった、ニッチだけど、翻訳という専門性を世の中に「売る」仕事をしていることに誇りもあった。そう、翻訳Loveは、たしかに昼間の僕のなかにも息づいていたのだ。多士済々の翻訳者の皆様、千差万別のお客様の皆様、そして個性的で、優秀で、それぞれの夢や目標を心に秘めた(何事も一筋縄ではいかない)同僚の面々。明日で、そんな人たちともお別れだ。

明日は会社で歓送迎会があり、明後日のフリー初日も、某勉強会の後、某師の教え子たちが年に一度、盛大に集うという「大」宴会がある。おそらくこの2日間は記憶を失うほどに酔うだろう。空白の2日間になるだろう。「ボールは友達」ならぬ「大ジョッキは友達」な僕にとって、会社員からフリーランスへのイニシエーションとしてこれ以上相応しい舞台はないのかもしれない。フリー初日がそんな飲み会だなんて、不思議な運命を感じる。果たしてこの偶然が、吉兆なのか、そうではないのか、その答えはこれから自分で確かめていくしかない。

だが、これで僕の旅が終わるわけではない。たしかに大きなエポックではある。生活スタイルは根本的に変わるだろう。もう毎朝通勤電車に揺られなくても済む。中央線にグラッとさせられなくて済む。だけど、一番大切なことは、そんな表面的な変化とは関係ない。会社員だろうと、フリーランスだろうと、涙の別れがあろうと、孤独が待っていようと関係ない。人として、翻訳者として、確かな物を追い求めていく――それだけだ。

実は、色々と関わる仕事が多く、その関係で、これからしばらくは毎週金曜日に会社に出勤してオンサイトチェッカーとして仕事を行なうことにもなった。だからなんとなく会社を辞めるという実感がない。これまでは週5日働いて、残りの時間は個人の翻訳活動をしていた。これからは、それが逆転するような感じだ。基本的には個人の活動をして、たまに会社に行って働く。ゆっくりと、しかし確実に、新しい生活を築いていこう。やりたいことは山ほどある。きっとこれからの自分は、不自由であると同時に、やっぱりものすごく自由だ。ともかく、不安要素はたくさんあるけど、翻訳とずっと向き合うことができる、その喜びが今はとても大きい。この気持ちをずっと忘れずにいたい。さあ、飲むぞ~。


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   /ー-ニ.._` r-' |……    「といいつつ、すでに今もちょっと飲んでます・・・・・・」


ある人から、素敵なプレゼントをもらう。僕は確かに、形見をもらい、そして形見を残した。そんな気持ちを実感できることを、本当に嬉しく思った。

ゴルゴ38  Part VIII

2008年09月22日 22時42分37秒 | 連載企画
翻訳者についてもまだまだ書き足りないのだけど、次に移ろう。このプロジェクトに欠かせないと思うのが、「データマン(あるいはウーマン)」だ。映画で言えば、美術。舞台で言えば、大道具。寿司屋でいえば、仕入れ担当。原文に書かれてある情報を、徹底的に調べるのが仕事だ。仕入れのプロが、よい材料をプロの目で選んで厨房に届ける。料理人は料理に集中できる。それが料理の質を高めるのだ。

もちろん、翻訳者だって翻訳するときにはわからないところを徹底的に調べる。だけど、翻訳者はあくまでも料理人なのであり、一日中材料ばっかり選んでいるわけにはいかない。訳さなくてはならないテキストは山ほどある。だから、軽く「ググッとな」して裏が取れた、と思ったらいきおいそれをえいやっと使ってしまうことがある。本当はそれではいけないのだけど。完璧を追求するこのゴージャスプロジェクトにおいては、そんないい加減なことは許されない。だから、調べることを専門とする人間が、まさにデューク東郷ばりに容赦なく徹底的に調べまくる。狙った獲物は決して逃さないのだ。

そもそも、ある人間が本を書くとき、著者は基本的に自分が知っていることを書いているはずだ。しかし、訳者は著者ではないのだから、著者が知っていることをすべて知識としてもっているわけではない。ひとりの人間が持っている情報はとてもユニークなものであり、その情報は大きく個人の経験に基づいている。たとえば、ボストン出身の元弁護士が、大学時代に打ち込んでいたアメリカンフットボールを背景にした恋愛がらみのサスペンスを書いたとする。主人公は弁護士で、ボストンに住んでいて、独身で、アメリカンフットボールが好きで、それで事件が起こる。プロフットボールの試合中に、観戦中の日系人、パンチョ佐々木が何者かに銃で撃たれ、暗殺されるのだ。同じく試合を観戦していた主人公のマイケルは、恋人の法律事務所事務員のベッツィとともに、事件の解決を試みる。これ以上はネタばれになるから言えないのだけど(なんて)、そこに描かれている、法律の専門知識や、ボストンの街並みや、フットボールのプレーの描写やなんかは、著者の豊富な直接的経験に基づいているため、訳者がそれをすべて同レベルでカバーすることはほとんど不可能になる。

たとえば、静岡県出身で、北海道の大学に進学して、寮暮らしをして、専攻はコンピューターサイエンスで、趣味は宝くじで、ちょっと小太りで、卒業後はSEをやっているという人がいるとする。その人が持っている実体験に基づく情報は、それを経験したことがない人間にとっては、どうあがいてもディティールまでは届かないであろう果てしなさを持っている。静岡県出身の人はたくさんいるだろう。北海道の大学を出た人もたくさんいるだろう。学生寮に住んだことがある人も、コンピューター科学を専攻したひともゴマンといるだろう。宝くじが好きな人も、小太りの人も、SEも吐いて捨てるほどいるだろう。だか、それらをすべて兼ね備えた人は、それこそ宝くじで一等が当たるくらいの確率でしか存在しないのだ。誰かが何かを書くということは、多かれ少なかれこうした実体験がベースになっているのであり、それを訳すということは、著者個人が持っているその膨大な情報量に、なんとかして必死に喰らいつこうとしながらも、結局、寸でのところでは真には喰らいつけはしないという不可能性が前提になっているのだと思う。もちろん、言葉は誰かに読まれるために書かれ、存在するのだから、それを読むことはできるだろう。だが、読むことと、訳すこと――つまり読み、そしてそれを著者に成り変って書き直すこと――の間には、巨大なフォッサマグナが存在しているのである。

だからこそ、そこにデータマンの存在意義がある。調べることをひたすらに追求し続ける彼らのレゾンデートルがある。そして冷凍庫には、レディボーデンがある(データマンは頭を使うので疲れてくると甘いものが食べたくなるのだった)。しかも、贅沢が許されるなら、それは複数の方がいい。繰り返しになるけど、人間ひとりが知っていることには限りがある。データマンだって、専門性というものがある。先の例の小説でいえば、法律、ボストン、アメリカンフットボールをそれぞれ専門とするデータマンをまず3人は用意したい。それから、アメリカ文化全般に詳しい人。サスペンス小説にとても詳しい人、そのほかなんでもトリビアに調べる人など、総勢6名をノミネートしたい(予算がいくらあっても足りない)。データマンは図書館やネットやさらにその道に詳しい人に訪ねたりして原書の内容をこと細かく調べ上げる。それだけではない、彼らは現地に飛ぶ。物語の舞台を実際にその足で歩く(これには翻訳者も同行したい)。一点の曇りもないくらに、調べて調べて調べ尽くすのだ。しかし、6人というのはいかにも中途半端だ。やっぱり、せっかくプロ集団をそろえるのなら、なんとなく7人の方がかっこいい。七人の侍。荒野の七人。

そこで、登場してほしいのが、究極のデータマンだ。それは誰か。もちろん、それは著者その人にほかならない。著者にはボストンから来日してもらう。帝国ホテルに滞在させ、豪華にもてなして、お決まりの観光なんかにも連れていく。だけどそれは最初の3日間だけだ。あとは、缶詰にして朝から番まで質問責めにする。もう容赦しない。徹底的に吐かす。なぜこれを書いたのか、なぜこんな話を作ったのか、お前が殺ったのか、誰から金をもらったのか、好きな人はいるのか、正直に全部吐いてもらう。重箱の隅をつつくような質問を、著者が廃人寸前になるまで続ける。おそらく、二度とその作家は日本に翻訳権を売らないだろう。

こうやって、7人が調べたデータは、データ編集担当によって毎日まとめられ、アップデートされて翻訳者の下に届けられる。ボストンのこと、法律のこと、アメリカンフットボールのこと、他の翻訳小説の情報、著者のそれまでの著作のこと、その他、考えられる限りの諸々とトリビア。翻訳者はそのデータを基に、訳を練っていく(まさに、大下英治方式)。こうやって膨大な情報に支えられていることで、原文の解釈にブレがなくなる。物語の筋がピシッと頭に入る。登場人物たちが、街が、アメリカンフットボールが、パンチョ佐々木が、訳者の頭のなかで鮮やかに、いきいきと動き始める(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「27日の飲み会が今から楽しみだぜ・・・・・・」


ゴルゴ38  Part VII

2008年09月21日 23時45分11秒 | 連載企画
「翻訳版さいとうたかをプロ プロジェクト」は、こんな感じで実現してみたい。プロジェクトの構成メンバーをあれこれと考えてみた。

まず、翻訳者。これは、第一線級の腕自慢(死語)を、少なくとも3人は用意したい。そして、3人がそれぞれ丸まる1冊翻訳を行なう。つまり、この3人で1冊を分担するのではない。「N章は誰々さん、N章は誰々氏、N章は誰々ちゃんね。じゃあ、よろしくちゃん。終わったら打ち上げね!」という風なやり方ではない。全員が、魂を込めて丸々一冊翻訳する。たとえて言えば、ロバート・デ・ニーロの出演が決定している状況で、あえてダスティン・ホフマンにも出演してもらう。ロビン・ウィリアムスにも出てもらう。主役級を、惜しみなく並べて使う。さらに、ウィリアム・デフォーにも出てもらう。クリストファー・ウォーケンも外せない。きりがない。もちろんそこにあるのは、上訳と下訳という関係ではない。3人なら3人が、魂を込めて翻訳する。そして途中の段階では、一切お互いの訳を見ない。見ると、影響されてしまうからだ。

下訳されたものに上訳者が手を入れるというのは、有効な翻訳手法の一つだ。早く翻訳作業を進めることができるし、下訳のなかにキラリと光る訳文があれば、それを上訳者が活かすことで、合作ならではの妙味を出すことができる。しかし、もし可能であるならば、上訳者も自分で一から訳文を作るべきだと思う。なぜならば、やっぱり下訳上訳というシステムでは、どうしても下訳の訳文がベースとなってしまい、本当の上訳者の訳文とはどうしても味わいが変わってくると思うからだ(上訳者が相当に丁寧に文章を書き換えれば、そうはならないとは思う)。それに、下訳が残してしまったエラーに、上訳が引きづられてしまうことも考えられる。だから、上訳者は上訳として(しかし、この「上訳」という言葉にはなんとなく違和感がある。いつまでたっても馴染めない。。。)訳文を作って、それで、下訳のなかからよい部分を吸収したり、訳のニュアンスを確認したりする。その方が、本来は望ましいのだと思う。つまり、下訳者を文字通り「下働き」させるのではなく、本物の「影武者」として機能させるのだ。ちょうど、舞台の主役のバックアップとして、主役を張れるだけの人間に、いつでも同じ役を演じられるように稽古させ、控えさせておくように。

で、さいとうたかをプロ プロジェクトでは、それぞれが主役級の訳者が、それぞれに翻訳を行なう。それをどうまとめるかというのは、非常に難しいところだが、やっぱりそのうちの誰かの訳をベースにするべきだとは思う。その決定は、事前に決めておくもよし、訳文の出来をみて決めるもよし、ともかく、よい訳にするための最善の選択をする(そこらへんは、新規プロジェクトだけに、未確定なのであった)。ただし、選ばれなかった他のふたりの訳文も決して無駄にしたりはしない。よいものがあればどんどん正式の訳文に取り入れていく。

言葉というものは生き物であるから、一人の人間が持つリズムのなかに、他人の言葉をねじ込むことの弊害もあるだろう。だが、Aという翻訳者の訳文がBという翻訳者の訳文より優れているというとき、すべての面においてAの訳がよいというわけではない。部分的には、Bの訳の方がよいと思えるところがたくさんある。だが、総合的にみて、Aの訳の方がよいということで、A>Bという図式が成り立つのだ。そのため、AにもBにも訳文を作らせ、Aの訳にBのよいところを取り入れるというのは、決して無意味な方法論ではないと思う。両者の原文解釈の違いを比べることで、ただしく内容を理解できているかどうかのチェック機能を持たせることもできる(力尽きたので、今日はここまで)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「どんな人の訳にも、キラリと光るものがある。そこから学ぶことはたくさんあるはずだ」

ゴルゴ38  Part VI

2008年09月19日 00時56分55秒 | 連載企画
翻訳は映画と似ている。なぜなら、その始まりにおいて、脚本と呼べるものがすでにそこに存在しているからだ。音楽で言えば、楽譜。料理で言えば、レシピ。それはすでに翻訳者の目の前に存在している。つまり、それはオリジナルのテクストにほかならない。

わずか1億円の制作費でこの世に生み出される映画もあれば(1億円を集めるのだって相当に大変なことだとは思うが)、100億円を投じて派手に作り上げられる作品もある。もちろん、100億円かけた映像が、1億円のそれよりも100倍面白いというわけではない。むしろ、1億円の映画のなかにこそ、商業主義の「魔手」を逃れた映画の真実が存在しうると言えるのかもしれない。実際、小編、佳作といわれる映画作品のなかにこそ、大人の鑑賞に堪えうる名作が数多くあるのは事実なのだ。

だが、だからといって巨額の制作費をかけた映画に存在価値がないということにはならない。大作には大作の醍醐味というものが存在しうるはずだし、観る者に大作ならではのパワー、贅沢感を伝えうることができるのも、大作が大作としてこの世に存在し続ける理由だと思う。何よりも、それが100億を投じるだけの価値のある作品であるならば――つまり、これは「当たる」と思わせる何かが脚本から感じられ、制作費以上の興行収入が期待できるものならば――、そこに20億でも50億でもなく100億という大金を投じるのは、単なる放蕩ではなく、製作者側の誠意であるとも言える。

ならば、と思う。翻訳にだって同じ方程式を当てはめてもよいかもしれないではないか。たしかに、翻訳は映画ではない。幾ばくかは似ているにはしても、それはまったく同じものではない。だから、映画がそうだからといって、必ずしも翻訳がそれに倣う必要はない。しかし、時には原作がかなり「売れる」ものである匂いを放っているときには、そして出版社側が、その原作の面白さを余すところなく日本の読者に伝えたいと思うのであれば、そこに1億円ではなく100億円の費用を投じることは(それがペイするものであると予測される場合には)、決して無駄なことではないだろうと思う。そんな翻訳プロジェクトがあってもいいのではないかと思う。少なくとも志においては。

ぶっちゃけて言ってしまえば、具体的には、1人の翻訳者に仕事を依頼するところを、100人とは言わないまでも、たとえば10人の翻訳者に仕事を依頼してみてはどうだろうか、というのが、私が提案する架空の「翻訳版さいとうたかをプロ プロジェクト」の骨子なのである。

だが、その発想の根幹にあるものは特別なものではない。そもそも共同作業という意味で言えば、翻訳者と監訳者、あるいは下訳者と上訳者、そこに付随するチェッカー、編集者、校正者、監修者、そういった構図は、言うまでもなく、ほとんどの翻訳作業に存在しているし、それは十分に機能している。たくさんの人手をかけてでも、よい訳文を作りたいと願うのは、作り手の誠意であり、夢である。だから、言うまでもないことだが、翻訳者は1人ではない。

しかし、実際には、結果的に翻訳者は1人として扱われていることも多い。この本を訳したのは誰それで、あの本を訳したのは誰それだというように。映画監督は普通1人の名前で表されるし、シェフもその料理を作った責任者という意味では1人だ。そういう意味では、最終的に1人の翻訳者の名の下に訳書を出版することは、自然の摂理というかなんというか、たとえばサルの群れにボスが必ず1匹しか存在しないような、ダーウィニズム的な必然性が感じられる。

しかしこのゴルゴ38プロジェクトでは、そこで話を終わらせたくはない。ただ1人の翻訳者が最終的な責任を負うのだとしても、それは単なる個的な作家ではない。そのプロジェクトの名が表すように、それは、1人の「さいとうたかを」であるべきなのだ。

翻訳の共同作業を拡大し、突きつめたときに、いったい何ができるのか。その可能性を、これから妄想モード全開で探ってみたいと思う(続く)。

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サラリーマン生活もあと1週間と少し。引継ぎやら、挨拶やら、継続案件から、情け容赦ない新規案件!やらで忙殺されている。だけど、これでいいのだ。

仕事を9時に終えて、中野坂上のラーメン屋で同僚とつけ麺、そしてビールで乾杯する。気がつけば、話の内容は9割以上、翻訳についてだった。嬉しい。会社の話をしているのではない。仕事の話をしているのともちょっと違う。話をしていたのは、「翻訳のこと」だった。幸せを感じつつ、明日もまた激しく忙殺されそうだと思う。だけど、これでいいのだ。

『男はどこにいるのか』小浜逸郎
『月の砂』イッセー尾形
『朝霧』北村薫
『オーディション』村上龍
『ひとつ屋根の下』野村信司
『ベースボール、男たちのダイヤモンド』ピーター・C・ブシャークマン編 W・P・キャンセラ他著/岡山徹訳

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「今日は一日、麺しか食べてないな~・・・・・・」

ゴルゴ38  Part V

2008年09月15日 22時40分12秒 | 連載企画
前置き(?)が非常に長くなってしまったのだが、そもそも今回何を言いたかったのかというと、それは端的に言って、ゴルゴ13の製作者集団である「さいとうたかをプロ」の手法に、翻訳も学ぶところがあるのではないかということなのであった(じゃあ最初からそうしろというツッコミが聞こえてくるようですが・・・・・・)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「用件は、早く言えっつーの」

さいとうたかを氏が、それまである種の作家主義が幅を利かせていた漫画界に、映画の手法――すなわち、分業制を取り込むことを目指したのはとても有名な話だ。

同プロでは、脚本担当、人物担当、背景担当、銃器担当、そしてゴルゴの顔担当(さいとうさん)など、細かく仕事がわけられている(特に、銃器担当というのがいいですね)。そこにあるのは、従来の作家先生と、その他大勢のアシスタント、という枠組みではない。プロとして他人には侵されない職務領域がそれぞれにはっきりしている。だから、さいとうさんは決してスタッフのことをアシスタントとは呼ばないそうだ。

一般論に従えば、専門性が深まれば、それだけ技術力も上がる。もちろん、さいとうたかをプロでこの分業制のシステムが成功しているかどうかは、ゴルゴ13シリーズを初めとするヒット作の数々を見れば一目瞭然だろう。ゴルゴ13だけを例にとっても、おそらく――否、あえて言えば間違いないなく――、さいとうたかを氏一人では、シナリオから銃器の描き込みまでの多様な作業を、すべてこなすことはできなかったはずだ。

もちろん、一人の漫画家がストーリーから作画まですべての責任を負うスタイルが主流であることは、さいとうたかを以後の世界にも変わらず存在している。だが、そのスタイルの是非を問うことには意味がない。様々なスタイルがあり、それぞれに特長があって、素晴らしい作品が生み出されている。前述したように、問題はシステムや関わる人の数ではない。あくまで問われるべきは作品の質なのだ。

ただし、さいとうたかをプロの手法が漫画作品を制作するための一つの有効な方法論であることは、もはや動かしがたい事実だといっても過言ではないだろう。そして、いきなりいろんなことを端折って強引に論を進めてしまえば、翻訳の世界にだって、さいとうたかをプロの手法で訳される訳書があってもいいではないか、1人のデューク東郷がいてもいいではないか、というのがようやくたどり着いた今回のテーマだったのだ(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「今日自転車置き場で財布を落としたら、拾って僕の家まで届けてくれた人がいた。ありがとうございました。名前も告げずに立ち去ったあのおじさんは、人間の鏡です」

ゴルゴ38  Part IV

2008年09月13日 23時58分11秒 | 連載企画
一篇の小説が一人の作家の手から生み出されるのと同じように、一つの作品を一人の翻訳者が訳すという構図は、基本的にまず未来永劫変わることはないだろう。一人の翻訳者が心血を注ぎ身体全体から搾り出すようにして作った訳文が、なまじっかな共同作業では到達できないほど深く、強く、完成された世界を持ちうることも間違いないだろう。書き手の数を増やすことで必ずよい文章が生まれるのだとするならば、複数名で書かれた小説が、ベストセラーリストの上位を占めているはずだ。だが、現実はそうではない。だから、僕は翻訳における翻訳者の単独性、孤独性を否定したりはしない。つきつめれば、それは人生と同じく、やはりどこまでも孤独なものなのだと思う。ネガティブな意味ではなく。

でも、問題の本質は数にあるのではない。それはたとえば、お笑い芸人の世界と似ている。エンターテイナーの面白さと、ユニットの構成員の数とは比例しない。ピン芸人であれ、漫才コンビであれ、トリオであれ、その価値は数にあるのではなく、その芸にある。当然のことだ。

つまり、翻訳という行為をすべて個人に還元してしまってよいのか、といえば、それは違うと思う。あらためて僕が声を大にする必要はないが、翻訳は、共同作業足りうるのだ。漫才としてやる翻訳があってもいいし、レッツゴー三匹としての翻訳があってもいい。問題は、数ではなく、訳文なのだ(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「報酬は依頼の内容よりも意味で決める」

ゴルゴ38  ~お知らせ~

2008年09月11日 22時14分14秒 | 連載企画
今日は忙しいためブログを休みます。
(おそらく明日も?)

続きは土曜日に~

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「後ろの守りを固めるのは、プロとしての鉄則だ」

ゴルゴ38  Part III

2008年09月10日 22時10分23秒 | 連載企画
孤独なのは、何も翻訳の専売特許ではない。世の中には、同じように孤独にひとりで黙々と作業に打ち込む性質の仕事は、あげればキリがないほどにゴマンとある。SOHOと呼ばれる職種は基本的にすべてそうだろうし、さまざまな職人の仕事も同じだ。キオスクのおばさんだって、どんなにたくさんお客さんがいたって孤独を感じるときがあるだろう。つまり、どんな仕事にも、孤独はつきまとう。

サラリーマンも同じだ。いくらチームとして行動しているといっても、やはりある局面においては、独りで判断し、行動することが求められる(自分の判断で喫茶店にいって時間をつぶすのも自由)。査定だって、最終的には個人が対象になる。給料明細だって、その人個人の働き振りに応じて決められる。大企業の社長だって、みんな孤独を感じるというではないか。

たとえ周りに人がたくさんいたとしても、あるタスクをこなすのは最終的には個人。そういう意味では、翻訳には何も特別なところはない。大勢が働く大企業のオフィスで、経理担当者が自分に与えられた作業を独りコンピューターに向かって黙々とこなしているのと、翻訳者が自宅で独り訳文を作っているのとには、大きな違いはなにもない。経理担当者は、隣の同僚と馬鹿話をして楽しそうに仕事をしているかもしれない(あるいは、少し遠くの席で同僚が延々と答えのない議論をしているのかもしれない)、翻訳者は、自宅の仕事場で独り仕事に打ち込んでいる(猫が膝の上でまどろんでいる)。だが、このとき両者がやっている仕事の内容は、本質的には同じだ。それは、個人という単位に割り振られたタスクなのだ。

議論になんの進展もないが、今日はこのへんで。すみません......(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「・・・・・・」


『樺山課長の七日間』浅田次郎
『遠い幻影』吉村昭
『ナショナリズムの克服』姜尚中&森巣博
『さようなら、ギャングたち』高橋源一郎


ゴルゴ38  Part II

2008年09月09日 21時58分28秒 | 連載企画
と、そんなことをふと思ってしまうのはほかでもない、翻訳という作業をしているとき、それを行なっている自分が常に「独り」(一人ではなく独り)であることを意識させられてしまうからだ。

もちろん、作業全体を俯瞰すれば、翻訳は独りでなされる行為ではない。そもそも、オリジナルの書物が生まれるまでにだって、すでにものすごくたくさんの人が関わっている。エージェント、出版社の営業担当者、編集者、校正担当者、そして、著者。謝辞には、そのほかにもたくさんの人の名前と、その人たちへの感謝の言葉が並べられている。さらに、著者は誰かに特別な思いを込めて、たとえば「いつも私を○×してくれた○×へ」などと一言、初めの真っ白なページに一言書いていたりする。一冊の書物は、たった一人の著者によって書かれたものとされることが多いとはいえ、実際はこのように数多の人々の存在なくしては成立しないものなのだ(そうでない場合もあるかもしれないけど)。それから、一番大事な存在である、読者。下手をすれば数百万人やそれ以上の人たちに読まれることを考えれば、書物と、その周辺の事象に、孤独を見ることは正しくないのかもしれない。

そしてその点から考えれば、翻訳もまったく同じだ。エージェントがいて、出版社の多数の人々がいて、翻訳会社や企業の発注者がいて、監訳者がいて、チェッカーがいて、DTPオペレーターがいて、翻訳者がいる。そのほかにもたくさんの人たちが関わっている。翻訳者は、あくまでもそのなかの一人にすぎない。チームのメンバーのなかの一員でしかない。たくさんの人に支えれることによって、翻訳者は翻訳ができる。だから、翻訳者は独りだ、なんてことをいうのは、間違っているのかもしれない。いや、実際、間違っている。

だが、ここで私が問題にしたいのは、そうした大勢の人々がかかわりを持つ、全体的なプロジェクトの流れのなかにおける翻訳者の役割についてではない。あくまでも、局所的な視点で見た場合の、翻訳という作業それ自体の孤独性についてなのである。エクリチュールとしての言葉は、あくまでも独りの人間によって世界に生み出され、そしてそこに翻訳が介在する場合、翻訳者も独りであることがまず前提とされる。そして、孤独なのは翻訳者だけではない。翻訳に関わるほとんどすべての人たちが、孤独かもしれないのだ。監訳者しかり、編集者しかり。そして、やっぱり読者しかり。なぜなら、書き、訳し、読むという行為は、基本的に独りで行なうものだからだ。

ここでいう孤独とは、独りでいて寂しい、といった類のものではない(しかし実際は、とても寂しい)。翻訳という作業がある意味において個によってしか成り立たない、個人に依存している、という意味での孤独なのだ。端的に言えば、同じ訳文を同時に二人で翻訳することはできない。そういうことだ。スポーツで言えば、個人競技。つまり、翻訳はサッカーではなく、ハンマー投げなのだ。高校の放課後のグラウンドで、サッカー部の選手がワイワイいいながらシュート練習をしたり、華麗なパス交換をしたり、ラフプレーをして胸倉をつかみ合ったり、その直後に同じ相手に激しくタックルして地面に転がせたり、倒れた相手が立ち上がろうとするのに手を差し伸べてちょっと仲直りしたり、それを見ていたマネージャーが胸をときめかせたり、そういう華やかな青春を繰り広げている横で、翻訳者は独り、グルグルと回りながら黙々とハンマーを投げたり、マイハンマーをタオルで拭き拭きしていたり、銀色のメガネをキラリと光らせながら、今日の練習日記を書いていたりするのである。

つまり翻訳者の日々の仕事は、ハンマー投げの選手が黙々と練習するそれにかなりり近い。コーチはいる。チームメイトもいる(でもハンマー投げはマイナーなので、陸上部全体でも2、3人くらいしかいない。下手したら1人しかいない)。恋人も実はいる。だけどやっぱり練習には孤独がつきまとう。山本から来たパスを笹谷がシュートする振りしてスルーし、峰山が豪快に左足を一閃、ネットを揺らす、なんてことはない。あくまで、坪内(ハンマー投げ選手、2年生、理系)の目の前にあるのは、今日も明日も明後日も、鉛色したハンマーだけなのである。あくまでも自分だけを見つめて、自分の力で繰り返しハンマーを投げなくてはならないのだ。

私は中学で陸上部、小学校と高校でサッカー部だったので、どっちのよさも知っているつもりだ。どちらが明るくてどちらが暗いとかは思わない。ハンマー投げにはハンマー投げの楽しさがあると思う(私の種目は長距離だったが)。でもやっぱり、この2つはそもそも根本的に違う。そもそもサッカーは独りじゃ試合ができないから、とにかく他者との共同作業を意識させられる。それはそれなりに気を使ったり、ぶつかったり、ライバルとの競争が激しかったりと、いろいろ大変な面もあるのだけど。でも、孤独に翻訳をやっているとどうしてもあのサッカー部の連帯感が、恋しくなることがたまにあるのだ(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「で、それとゴルゴに何の関係が...」

ゴルゴ38  Part I

2008年09月08日 23時02分24秒 | 連載企画

ふつう、本は一人の著者によって書かれる。小説であれ、エッセイであれ、ドキュメンタリーであれ。もちろん、複数の場合もあるけど(たとえば「読売新聞社会部編」とか)、それは例外的なケースだ。それに、複数の著者がいても、章ごとに分担がわかれていたりする。つまり、実際に書いているのは、一人。一つの文章を、二人で書くなんてことは、基本的にはありえない(そんなの、気持ち悪い)。

でも、それはなぜだろうか。当たり前すぎて考えるまでもないように思えるけど、やっぱりそれは、そもそも言葉が一人の人間の口から発せられるものとして成り立っているからだとしか思えない。言葉は、一つの主体によって紡ぎだされる。一つの意味内容を、二つの主体が同時に心に浮かべて、それを共同で言葉にしようなんてことは、普通の状況ではありえない。主体が複数になったとき、そこに生み出される言葉は「モノローグ」ではなく、「対話」となる。だから、そこからは散文性が失われてしまうのだ。

音楽はどうだろう? 音楽は、言葉とは違う。複数の音色が存在しても、そこにはハーモニーが存在し得る。むしろ、様々な個性がぶつかりあうことによって、一人では創造しえない世界を作り出すことができる。ドラムがあって、ベースがあって、ギターがある。三人がせ~ので演奏を始めたら、やっぱりバンドっていいな~としか思えない迫力のある音楽が奏でられ、そして誰もが胸躍らせてしまうのだ。ところが、三人の著者がいて、せ~ので一つの文章を書き始めたら、たいへんなことになる。お互いが邪魔で邪魔でしょうがない。いくらもたたないうちに、全員が、独りにさせてくれ、と根を上げるだろう。かように、音楽の世界と言葉の世界は違うのだ(続く)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「突然ですが、新連載を開始してみました」


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『とかげ』よしもとばなな
『ほんとうの心の力』中村天風
『かくカク遊ブ、書く遊ぶ』大沢在昌
『アトランティスの心(上下)』スティーヴン・キング/白石朗訳

恋放浪

2008年09月06日 22時56分22秒 | ちょっとオモロイ
毎日、ブルーマンデー。毎朝、ブルーマウンテン。毎晩、ブルドックソース。気分は、レッツゴー3匹。

昨晩、生まれて初めてホイコーローを作って食べてみた。美味しかった。もともとソースはあんまり好きじゃなくて、醤油顔だけに醤油派なのだけど(真面目に、小さい頃に醤油顔と言われたことがあって、自分はソースか醤油かを選ぶとき、醤油にしなければならないという刷り込みがされてしまったようなのだ)、たまに思い出したようにソースを味わいたくなるときがある。で、昨日もちょっと使ってみた。

ちなみに、僕はケチャップよりも断然マヨネーズが好き。小さい頃は、ご飯にマヨネーズかけて食べていた。というより、マヨネーズにご飯をかけて食べていた。私見だけど、この4つの調味料の好みは、ソース&ケチャップ派と、醤油&マヨネーズ連合の2つに大別されるのではないかと思っている。フライにドバドバとソースをかける人、フライドポテトにケチャップをぶちまけて嬉しそうにしている人をみると、カルチャーギャップを感じてしまう。そして、そういう人はやはりソース顔の人が多い気がする(あくまでも私見)。もちろん、ソースもケチャップも美味しいと思う。だけど、まっさきに選択肢として考えることは少ない。だから、何はさておきソース&ケチャップな人を目の当たりにするにつけ、ものすごく異質なものを感じるのだ。おそらく、彼&彼女らの祖先は、南方系だったのではないかと思ってしまう。根拠は何もないけど。

でも、これらはやっぱり化学調味料というか人口の味というか、本来あってもなくてもいいもの、という気はする。やっぱり究極的には味付けは塩だけでもいいのだと思う。さすがに、塩が嫌いな人はいないと思う(塩控えている人はいると思うけど)。だって、野生動物は食べ物に調味料なんてかけてない。ライオンはシマウマを食べるとき、タルタルソースなんて使わない。塩だってかけない。シマウマの肉体のなかに、すでに若干の塩分が含まれているからだ。だから、本当は人間、ほんの少しの塩さえあれば、あとはローフードがあれば何もいらないはずなのだ。

ちなみに、巷ではいろいろな健康法が謳われているけど、僕が基準にしたいと思っているのは、それが文明以前の人類の生活に適ったものであるかどうかということだ。もし昔の人も同じ事をしていたのであれば、おそらくそれは自然の摂理に従った、まず間違いのない健康法だと思うからだ。太古の世界、ヒトは、水を飲んでいただろう(当たり前だ)。果物や木の実も食べていただろう。たくさん歩いていただろう。だから僕もこれらは実践したいと思う。なるべく水を飲み、サラダや果物をたべ(調味料なしで)、歩く。

人々は、日の出とともに起き、日が沈めば眠り、昼寝をしたければ好きなだけ眠っただろう。お腹がすいたら食べ、食べ物がなければ食べず、大きな獲物をしとめたら、しばらくはぼんやりとして空想にふけっていただろう。そしてそのとき、物語が生まれたのかもしれない。だから、妄想はOK。昼寝もOK。食事を抜くのもOK(3食きちんと決まった時間に食事をとらなきゃいけない、というのは怪しいと思っている)。夜更かしは基本的にNG。

そこには、クーラーもヒーターもシャンプーもなかっただろう。マヨネーズはなかっただろう。車もなかっただろうし、ビール飲みながら野球中継見たりもしていなかっただろう。コーヒーも酒も飲まなかっただろうし、株でひともうけしたりパチスロでおお小遣いをすっちゃったりもしなかっただろう。だからこれらは基本的にはNG(実践できているかはともかく)。

そういう基準に立って考えると、翻訳っていうのは必要なのかどうかわからなくなる。まあ、書き言葉の誕生がすなわち文明だとも言えなくもないだろうから、少なくとも昔の人は翻訳なんてなくても生きていたわけで、そう考えると、翻訳というのはナチュラルな人間にとって本当は必要ないものなのかもしれない、などと寂しい気持ちになったりすることもある。でも、言語と呼べるものがなかった時代から、人間がなんらかのコミュニケーションをしていたであろうことは間違いなく、ヒトとヒトとの間に立って、なんらかの「翻訳」をするような場面はあったであろうと思われる。そう考えると、この仕事はかなり人間存在にとって根源的なものであるとも言えなくもない。そもそも、人と人との間に立つもの、ってまさに「人間」じゃないか。そう、翻訳者は、人間なのです。

そんな暮らしのなかで、ヒト(北京原人)は恋に落ちた。あまりにも切なくて切なくて、独りになりたくて、彼は放浪の旅に出た。周りには誰もいない。夜もひとり。そこで彼は自分を見つめ直した。どうやって生きていけばいいのか、この気持ちに、どう折り合いをつけていけばいいのか。想いわずらう日々がすぎていった。

数日が経ち、心にも落ち着きが感じられてきた頃、彼は激しい空腹に襲われていることに気づいた。食料を探しにいくと、キャベツを見つけることができた。さらに、幸運にも野生の豚をしとめることにも成功した。そこで彼は火をおこし、キャベツと豚肉を炒め、そしてブルドックソース(註:野生のブルドックの干肉と野菜を煮込んで作ったソース)をかけて食べた。美味しかった。涙が出るくらい旨かった。いたく感動した彼は、その料理を「恋放浪」と名づけ、旅から戻ると仲間に伝えた。それ以来、この料理は広く人々に食されるようになったのだという。恋放浪は、やがて中国各地に伝承されるなかで、ホイコーローとその名を変えた。そして、現在の私たち日本人にとっても馴染み深いレシピの一つとなっているのだった。いやあ、歴史って面白いですね~。

恋に破れ放浪の果てに見た夢を味つけに添え今宵のホイコーロー

最近は、もうすべてがなんだかよくわかりません(^^) おやすみなさい~

彼女の袖机

2008年09月05日 23時32分02秒 | ちょっとオモロイ
会社では、L字型のデスクを使っているのだけど、それがなんとも使い心地がよくて、とても気に入っているのだ。現状、家の書斎には適当なデスクを3つ、コの字型に置いてあるのだけど、なんだかしっくりこない。みんなそれぞれバラバラに自己主張していて、オーガナイズされていない。一番使っているのはコンピューター用のラックだ。コンピューターにばっかり向き合っているのだから仕方がない。だから、真後ろにあるデスクには、なかなか振り向いてそこに向かおうとは思わない。書き物もあまりしないし、辞書を拡げるのも面倒くさい。部屋の模様替えをしたときに張り切って置いたはずの辞書類が、居心地悪そうに、不機嫌に雑然と並んでいる。脇にあるデスクもたんなる物置と化していて、食べものとか、ビールの缶とか、めったなことでは手に取らない文房具(セロテープとかホッチキスとか)に卓上を占拠されている。そのせいか、書斎にいるとスペースを上手く自分を活かしきれていない自分を感じてしまう。広々とした空間のなかにいて、自分を出せる空間というのがほんのわずかしかない。コックピットに座っているような、手を伸ばせば必要なものにすべてアクセスできるような、あの十全さがない。だから、のびのびと仕事ができない(と、仕事が進まないのを机のせいにしてみる)。なので、フリーになったら家でもやっぱりL字型の机にしたいな~とずいぶん以前から思っていて、ここ数日、ネットでいろいろ検索したりしているのだった。

軽い調査の結果、どうやら、オフィス家具の中古市場によさげなものがあるらしいことがわかった。家庭用の家具にはない、いかにもオフィスっぽい無機質さ、どっしり感、質実剛健さを感じさせる家具がたくさん売っている。ああ、自分がほしかったのはこれだ! というようなL字型デスクもみつかった。さらに、キャビネットとか、袖机!とか、特にこれまでは欲しいと思っていなかったものも目に飛び込んでくる。

気持ちが揺れ動く。会社で使っているような袖机、家にも欲しい。一番上の引き出しには文房具とか判子とか名刺とかを入れて、二段目にはお菓子とかお茶とか非常食とか歯ブラシとか髭剃りとか○○○○とか×××とかも秘かに隠しておいて、三段目には机の上においておくには邪魔なんだけど捨てるに捨てれない書類とかを格納しておく(しかし、実際にそれらが必要になるときは決してこない)。ああ、袖机。決して活用されることのない、だけどいなかったらちょっと寂しい、袖机。

なにより、あのキャビネットとか袖机とかには、オフィスというか会社というか、社会というか、なんだかんだ言って、結局世の中ゼニやで~というか、社会人たるもの10分以上遅刻するときは事前に電話の一本も入れるんやぞ~というか、そういった会社っぽさというか、非家庭的、非アットホームなもろもろを感じさせる何かがある。そういうものに囲まれているほうが、家で仕事をしていても、世の中は忙しくビジネスライクに動いているのだ、という感覚が維持できるのではないかと考えてしまうのだ。

何より、中古というのがいい。安いし、それに以前その机に誰かが座っていて、そこでいろいろなドラマがあったのだな~と思うと、なんというかそそられるものがある(やっぱり僕は変態なのでしょうか?)。たぶん、僕がネットで目をつけたL字型の机を使っていたのは42歳の田中主任(男)で、会社の業績もあまりよくなくて、社長は馬鹿なことばっかり言ってて、課長にはいつも怒られてて、取引先にも顔をみるのも嫌で嫌でたまらないという人が少なくとも3人はいて、でも田中は、総務の瀬戸田さん(28歳)に恋していて、だけど食事に誘ったことはまだ一度もなくて、というか瀬戸田さんにはやっぱりあまり相手にされていなくて、で、仕事にはあまり打ち込めないけれど、趣味の昆虫採取にはわきあがる情熱を感じていて、意外とパソコンのオペレーションも上手で、エクセルの関数とかもたくさん知っていて、昼食はけっこう脂っこいものばっかり食べていて、いい年して漫画ばっかり読んでいて、缶コーヒーも一日5本も飲んでいて、帰りにちょっと飲みに行くような友達も少しはいる。でも、田中の会社はおそらく倒産してしまったのだろう。まあ、田中も秘かにそれを心の底では望んでいたのかもしれない。会社がなくなってしまえば、もう毎日辛い思いをして出勤しなくても済むからだ。田中は内心ほっとしただろう。だけど、その後の田中を待っている人生は、甘くはない。田中は今どこで何をしているのだろうか。

そして今、デスクは中古市場に流れていき、ネットでその姿を不特定多数の人間にさらしている。デスクは口をもたない。だから、過去に何があったのかはまったくわからない。でも、そういう田中が来る日も来る日も、血と汗と鼻水をたらしながら使っていた机だと思うと、俺も頑張らないと、という気持ちが自然とわきあがってくるのである(まだ買ってはいないけど)。

そして、袖机。やっぱりこの袖机を以前使っていたのは、女性であってほしい。デスクは男が使っていたものでもいい。でもせめて袖机は、女性のものであってほしい。美人で気立てもよくて几帳面なA型の熊谷さん(32歳)のものであってほしい。熊谷さんは、人の目につくところはとてもキレイに整理整頓しているのだけど、袖机のなかは実はそれほどキレイに片付けているわけではない。たしかにきちんと物は整理されている。だけど、たとえそんな熊谷さんであっても、袖机のなかまで毎日毎日掃除しようとは思わない。熊谷さんだっていろいろと忙しいのだ。だから、紅茶とか、キャンディーとか、読みかけの小説とか、僕にはなんだかよくわからないけど女性がカバンに入れているイロイロな小物とか、そういったものがけっこう雑然とその袖机のなかには収められている。だけどそのそこはかとない混沌さのなかにも、やっぱり女性らしさというのは確実に生きていて、野郎が生きることによって生み出される阿鼻叫喚の汚さのようなものはそこには微塵も感じられないのである。逆に、熊谷さんが生きることによって湧き上がるエントロピーと、しんとした静けさのなかに佇むものたちの悲しげな散らかり具合が、熊谷さんが駆け抜けていった青春時代を彷彿とさせるのであり、僕の恋心にさらなる炎をともすのである。

君のいないオフィスに黙って袖机