土曜日に母が滋賀から遊びに来た。昼前に武蔵境の駅に迎えに行き、タクシーで家に戻った。昼ご飯は準備しておくから、と伝えてはいたものの、まずメロンを出し、次に空豆を出し、しばらくして枝豆を出し、最後にまたメロンを出してごまかした。母はずっと家の掃除をしていた。台所がピッカピカになった。
日曜日のお昼に姉夫婦とその二人の子供が遊びにくることになったので、それまでに家を綺麗にしておかなければならない。震災以来、カオスと化していた我が家だが(実は震災前からカオスだった)、これを機に徹底的に掃除をしよう!と僕も張り切った。
途中、スーパーに行き、晩と翌日の食材を購入した。明日の姉家族との昼ご飯は、ちらし寿司中心のメニューにすることにした。晩ご飯はアサリと豚肉のにんにく蒸し風にした。夜、母は本棚が積み重ねられたリビングで寝ることになったのだが、地震で本棚が倒れてきたら、と考えると不安になったので、ソファを動かし、反対側の壁沿いに布団を引いた。
日曜日、約束の一時が近付き、母と僕は家のなかをあちこち片付け、昼食の用意でてんてこ舞いになった。姉夫婦は夕方までいてくれた。甥とは近くの公園でサッカーもした。余ったちらし寿司は、持って帰ってくれた。
とかく人生はままならない。
いつも、そんな矢先に、母はやってくる。
母がやってくると、家のなかの空気が変わる。
ままならないと思っていた何かから、僕は一時的に解放される。
別の世界に連れ去られたみたいな、慣れ親しんだ場所を旅しているような、そんな不思議な気持ちになる。
実は、ままならないものはままならないままなのだが、母がいるあいだは、ままらないものについてじっくりと考えたりするヒマはなく、ままならないものはしばし放置するしかない。
母が帰っても結局、残念ながらままならない何かは、ままならないままであり、むしろ妙な寂寥感すら覚えたりするが、それでもちょっとだけ、そのままならなさが、和らいだような気になることもある。
最近は、そういう「人生がままならない問題」、あるいは、「人生のままならない問題を母親が来ることによって一時的に放置した場合、結果的にどうなるのか問題」に対して、明確な答えを求めたりはしなくなった。どうでもいいと思っているわけではなく、答えが見つからないと思っているわけでもないのだが。
ただ言えることは、人生は依然としてままならず、そして母親が来ている間は、そのままならなさすらを考えることすらもままならないということだ。母は明日帰ります。
それと、メロンと空豆の繰り返し^^;も何となくわかります。そのとき一番食べたいものがそれだったのではないでしょうか。
私はスイカや豆腐が主食になることがあります(^-^)特に昼は。
たまに家族に会うときというのは懐かしホルモンが出てそうですね。