イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

そぞろ歩き「もしかして有楽町編」2/5(土)開催目前! + 近況報告

2011年01月28日 07時22分03秒 | Weblog
ずいぶんと長い間ブログを更新できずすみません!

ここしばらく、締切間近の仕事に完全没入しております。

おかげさまで体調を崩したり、風邪を引いたりしているわけではありません。

二月に入ったら少しは余裕ができるはずなので、同窓会レポートの続きを書きたいと思います。


今年初のそぞろ歩きが来週土曜日に迫ってまいりました。
今回はマハロ伊藤さんのプロデュースとナビゲーションで山の手線上野~東京(もしかして有楽町)を歩きます。
ご興味のある方、よろしければぜひご一緒に!

詳しくは以下のブログを参照してください。

「山手線一周そぞろ歩きの旅第一弾 ~歩きませ山の手線~ マハロ伊藤さんと行く上野~東京(もしかして有楽町)編」2月5日(土)午後4時~開催決定!

風邪が流行っているようですが、みなさまご自愛くださいませ。

それではまた!

あのときぼくらは18才だった ~この蒼き日々からの卒業~ 22年ぶりで西舞鶴高校同窓会な夜 その1

2011年01月08日 00時22分57秒 | Weblog


赤い夕陽が 校舎を染めて ニレの木陰に 弾む声
ああ高校三年生 ぼくら 離れ離れに なろうとも クラス仲間は いつまでも

泣いた日もある 怨んだことも 思い出すだろ なつかしく
ああ高校三年生  ぼくら フォークダンスの 手をとれば 甘く匂うよ 黒髪が



本当に信じられないのだが、22年前、僕は花の高校3年生だった。当たり前なのだけど、あのときはまだ、生まれてからたったの18年しか経っていなかった。肉体は若々しかった。ハートもまだガラスのように繊細で脆かった(が、ガラスのハートなのはいまでもまったく変わっていない、というかむしろ年々さらに脆くなっている)。顔にはあどけなさが残っていた。自分でいうのもなんだけど、睾丸の、じゃなくて紅顔の美少年だった(と、この際そういうことにしておこう)――ともかく、僕は18才だった。

そしてさらに信じられないのだが、僕は去年、40才になった。冗談は顔だけにしておくつもりだったのに、存在すべてがジョークになってしまった。40才ってなんだ? アウストラロピテクス? シーラカンス? 当時の自分から見れば、40になった自分なんて、まったく想像できなかった。それは完全に異次元の世界の住人、四次元空間に基地を構えるイカルス星人に等しい存在だった。そしてイカルス星人をひきあいに出す当たりが、いまの僕はやっぱり立派なオッサンだった。おもいつくのは昭和なネタばかり、それもオヤジギャグばかりなのだ。


「40才」の意味を辞書で調べてみたら 「オッサン」という定義が載っていたよ このネタは昭和に流行ったネタ ああ、そうだね オヤジギャグの花が咲いている
(※原曲不明)
♪ 

だが僕は40才になったことを悔やんでいたりはしない。正直、ときには18才に戻ってもう一度人生をやり直せたら、と願わないでもない。だが、そんな非現実的な夢想に浸るのが時間の無駄だと身にしみてわかるのもまた40才。振り返れば、後悔は山ほどある。あのときああしていたら、こうしていれば・・・と、タラレバを浮かべながら、鱈とレバーを肴にビールを飲むこともある。だが、いいもわるいもひっくるめて、これまでの人生をなんとかまとめあげ、「これがあっしでございやす」と世間様に肩肘張らずに顔出せるようになる、そんないい意味の諦念が自然にうまれてくるのもまた、不惑という年頃なのだ。

だが、ひとこと言っておかねばならない。

当時と比べれば、少しは大人になったのだろう。いろんな経験もした。体重も増えた。傍目からみれば、どこにでもいる40才にみえるかもしれない。しかし――、中身は子どものときから変わっていないのだ。

それまでもうすうす感じていたことなのだけど、最近になってはっきりとわかりかけてきた。人は真の意味において、生まれたままの自分以外の何者かにはなれないのではないだろうか。自らの核ともいうべき何かから、まったく別の何かに変態することはできないのではないだろうか。単なる変態にはなれるかもしれないけど。

生まれたときから死ぬまで常に自らと共にあるアイデンティティ-は、40になってもまったく変わっていない。だからたぶん、死ぬまで変わらないだろう。

気がついたら、ずいぶんと年をとってしまっていたことにも驚いた。だけど、これだけ年をとっても、5才のときも、10才のときも、18才のときも常に自分の中心にいた何かが、まったく変わらずにここに存在していることに、もっと驚いたのだ。

*

去年の9月30日、大きな仕事を終えて廃人のようになりながら、ずっと放置していた家の大掃除をしていたとき、一通のメールが届いた。

高校、2、3年のときの同級生だった、柔道部の"炎の払い腰"こと森脇からだった。

1989年3月、僕たちは京都府立西舞鶴高校を卒業した。われわれ3年2組には、獣神サンダーライガーの生まれ変わりと呼ばれていた坂本”山田恵一”Q(あだなは「きゅう」)を筆頭に、最高に愉快なメンツが揃っていた。

心がざわめく。

さっそく返事をすると、森脇がすぐに電話をかけてきてくれた。22年ぶりだ。めっちゃなつかしく、嬉しい。ちょっとは緊張したけど、びっくりするくらい昔と同じ感覚で話ができた。ほとんどの同級生は舞鶴にいて、会う機会も少なくないらしい。「児島は何やっとるんやろうなあ」と、僕のことを話題にしてくれることもあったみたいだ。で、浜田と金沢の友達が僕を見つけてくれたように、森脇がグーグルで僕のブログを見つけてくれたのだ。あいつは何しとる、あいつはどうしとる、と、森脇がクラスメイトの近況を次々に教えてくれる。とにかく懐かしい、脳内で懐かしさの雪崩現象が発生。雪崩式のブレーンバスターでマットにたたきつけられたような衝撃の懐かしさだ。おもむろに、森脇から思いがけない科白が飛び出した。

「来年の正月に同窓会やるで、よかったらきてや」

(続く)

P.S. 浜田のみんな、浜田旅行記が終わってないのにあらたな旅行記を始めてごめん! 記憶の新しいウチに同窓会レポートを書いて、そのあと必ず浜田レポートの続きを書きます!

いまだ暗闇から脱出できないコジマ はやく蘇れコジマ!

2011年01月06日 21時47分57秒 | Weblog
いまだ暗闇から脱出できないコジマ

どん底にまで落ち込んでしまったコジマ

完全な丸腰だ

完全に何もなくなった

今日がくるまでまっくらだったんだ

本当にまっくらけだったけど

ほんのちょっとだけ

明かりが見えた

復活の光りが見えたコジマは

再び自分を取り戻すため

とある場所に向かった...

それは、コジマの原点、デビュー前に修行した、フェローアカデミーであった(なんて)



五体奮い立たせてやればできないことは何もない。

人間、のたうちまわって、苦しみ抜いて何かを悟り、壁をぶちやぶっていく。苦しみぬかなくてはだめ。

迷いながら高い山を登っていくと、あるとき頂上に達し、そこでまた迷う。人生はその繰り返し。

どんなに凄い人でも、どんなに鍛錬していても、理由なき不安はある。

腹を決めたとき、本当の度胸が生まれる。

志は高く、求めよ世界一。

戦いを止めれば負ける。

自分の原点に返り、ふたたび笑顔を取りもどしたコジマ。

よみがえれコジマ!

石橋を叩いて渡る角には福来たる

2011年01月06日 00時55分37秒 | Weblog
昔、おそらくその当時、小学校低学年だった弟が名言を放った。

「石橋を叩いて渡る角には福来たる」

弟は単にふたつのことわざを混合、そして混同していたのである。だが、何事においても石橋を叩いて渡るような慎重な人には、笑う門と同じように福が訪れる――そんな深い人生の真実が包含された言葉にも思える。

私のことわざ辞典には、「石橋を叩いて渡る」という項はない。むしろ、その正反対の概念である「見る前に跳べ」という生き方をしてきた。たしかに人生のさまざまな局面において、「見る前に跳ぶ」を実践して得をしたことはあるが、やっぱり跳ぶ前に見ればよかったと思うことの方が多い気もする。わずかな確認を怠るばかりに、後で痛い目をあうことがしばしばだ。電車の切符はすぐに無くすし、外出時にドアに鍵をした後で、はじめて火の元をチェックするべきだったことに気づく。年賀状を早めに書いたためしはないし、確定申告もいつもギリギリだ。

だが、そんな私の見る前に跳びます跳びます人生にも、昨秋あたりから、思いがけずささやかな変調の兆しが見られるようになった。多くの失敗を繰り返すことで、わずかではあるが以前よりも石橋を叩こうとするようになったのである。

仕事面では特にそうだ。いつも納期ぎりぎりに仕上げていた案件を、できるだけ余裕をもって完了するよう心がけるようになった。いつもケツカッチンでチェックにあまり時間をかけれなかったのを、椅子に長時間座り続けてケツがカッチンカッチンになるくらい、時間をかけて見直すようになった。手間をかけて納品した後はやっぱり気持ちがいい。ギリギリに仕上げて見切り発車した後のような罪悪感めいたものはなく、早朝に玄関前を掃き掃除し、ついでに近所の家の前までさりげなくサッサと綺麗にしてあげたときのような、すがすがしさを感じる(実際には、そんな立派な行為をしたことはない)。

正月、帰省していたときに、父親を見ていて思った。父は私とは正反対の真面目な性格で、何事もきっちりしている。職業も銀行員だった。財布のなかにお札の顔の向きが揃って入っていないと気が済まない(気が済まない自分が面倒くさくて嫌だとも言っていた)。血液型もズバリA型だ。私は何事もおおざっぱなO型である。が、自分のだらしなさを血液型のせいにしてはいけない。

あるとき母が教えてくれた。父親と付きあい始めたきっかけのひとつは、父がいつも綺麗に四つ折りにしたハンカチを持っていたからだ、と。若き日の母は、父のそんなきっちりしたところに惹かれたのだ。「この人なら、結婚してもきっちりした人生を送れそうだ」。身内ながら、なんだかいい話じゃないか。しかしなぜ、それならば、息子を父と同じような「きっちり人間」に育て上げられなかったのか。

まあ、母を責めてもしょうがない。だが、私にも父親の血が半分流れている。ひょっとしたら、これからの私には、そんなきっちり人間としてのきっちり人生が待っているのかも知れない。ささやかなことを、当たり前のことを、きっちりとできる人になりたい。最近の私は、そんなあたりまえのきっちりさこそが何よりも大切だと思うようになってきたのである。

もう電車の切符は無くすまい。探し物をして、家の中を延々とさまよい続けるようなこともすまい。調味料を加えるときは、ちゃんと大さじ小さじを使いたい。ハンカチも、できるだけアイロンを当てたものを持ち歩きたい。義理を重んじ、人に迷惑をかけないようにしたい。人にかける言葉のひとつひとつを大切にしたい。そんなささやかなきっちり感が、仕事面でも人生においても、福をもたらしてくれるような気がするから。

きっちり毎日を生きること――そんなわけで、ささやかながら、それが私の新年の誓いです。

みなさま、遅ればせながら明けましておめでとうございます。
(元旦にアップロードできないところが全然きっちりしていないのですが)

みなさまにとって今年が素晴らしい一年になりますように。