イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

恥ずかしいこと

2006年07月30日 02時44分42秒 | Weblog
最近、ふと思い出したことがある。はるか昔、高校生の頃のことだ。

当時たまたま見ていたテレビで、ロシアのとある学校で、
生徒が「立ったまま」授業を受けていて、座っているときに比べ、
学習効果が高いのだという、面白ニュースのようなことをやっていた。

なんでも、ある研究によれば、人間は座っているときの方が、
立っているときに比べて眠くなったり、緊張感が保ちにくいのだという
(確かにそうかもしれない)。
だから、その学校では先生はもちろん、生徒も立ったまま授業を行っている。
実際に、生徒が立ったまま授業を受けている風景を写した映像がTVの画面に流れていた。

と、ここまではよくある話というか、まあ、そういうこともあるのかな、
と言う程度のことだと思うのだが、なんと、馬鹿な僕はこのニュースを真に受け、
それから数ヶ月のあいだ、自宅では本当にずっと「立って」勉強したのだった。

学習机の下に、カラーボックスをいくつか置いて、机の板の部分を高くし、
立った状態でちょうど書き物や読み物ができるようにした。
両親や兄弟は呆れていたが、僕は一人真面目に、立って勉強することがいかに
効果的なのか、ということを切々と彼らに説いていたのだった。
部屋に遊びにきた友達は、唖然としていた。
僕は、またその効果を得々と説明した。
友だちが話を聞いておらず、怖いものを見るような目で僕を見ているのがよくわかった。


結局、元々家で勉強なんてほとんどしていなかったわけだし、
効果のほども、ほとんどといってなかったのだと思う。
そして、たぶん立ち続けることに疲れたのだろう、
気がついたらある日机を元に戻していた。

わざわざこんなくだらないことをテーマに久しぶりのブログに書いてみたのは、
このエピソードがなんとも自分というものをよく物語っていると思ったからである。
僕という人間は、客観的にみるとこのように非常にくだらない衝動に突き動かされ、
意味不明の行動をとってしまうことが多々あるのである。
同じような、振り返れば恥ずかしい、というような体験は、掃いて捨てるほどある。
一時はそんな自分を否定し、より理想化された自己を追いかけて生きていた時代もある。
しかし、そんな自分は、どこまで追いかけていっても捕まえることができなかった。
最近は、一生このようは性癖は直らないだろうな、と諦念にも似た感情が生まれ始めている。
よくも悪くも、こんな自分と認識して、自分を生きていかなければならないのだ。

それに、そんなくだらないことに迷わず情熱を傾けることが出来ていたあの頃の自分を、
少し懐かしく思った、ということもある。あの頃の、あのパワーはどこにいったのか、とも思う。
何にでもすぐ影響され、すぐに夢中になった。そしてすぐに行動に移せた。我慢することもなく。

今、僕は翻訳者として、自分独自の道を切り開いていかなくてはいけない立場にいる。
どういう環境で、どういうスタイルで翻訳という仕事を続けていくのか、
どんな翻訳がやりたいのか、どんな翻訳者でありたいのか、どんな人間でありたいのか...
自分への問いかけは尽きることがない。

今こそ、立って勉強をしていたあのころの気持ちで、大胆に大きな一歩を踏み出せばいい、
なぜか痛切にそう感じる今日この頃なのであった。

さ~て、じゃあまず手始めにこのカラーボックスを机の下において...