イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

関西弁と翻訳

2006年05月24日 00時01分12秒 | 翻訳について
「監査イベント翻訳」ではなく、「関西弁と翻訳」について、
大きくは、「方言と翻訳」についてほんのちょっとだけ考えてみたい。

たま~にですが、翻訳本や映画の字幕なんかで、
いかにも田舎くさい登場人物が、なぜか東北弁を喋っていたり、
いかにもガラの悪そうなお兄さんが、
やっぱり関西弁を喋っていたりということがありますよね。

皆さんも同じ印象を持つのではないかと思うのですが、
そんなとき、訳者の気持ちはまあ、解せないことはないけれど、私は、
「ちょっと違うんだよな~」という釈然としない印象を持ってしまいます。

突然、外国人が演じる登場人物の口から、それらの方言が出てきた瞬間、
「外国には青森も大阪もないだろによ。」という醒めた現実意識が首をもたげて
くるのではないか、というのが、
あえて言えば、違和感を感じる理由のような気がします。

でも、ここで問題になるのは、オリジナルの言語で喋られているのが、
明らかにネイティブならそれとわかる、どこかの地域の方言だとしたら、
それをどうやって日本語に置き換えればよいのか?ということです。

例えば、南部訛りの英語を喋る登場人物の英語は、どう訳せばよいのか?
「南なら九州弁にすればよかにきまっとろうもん。なんばいいよっとね。」
と言う人は少ないのではないでしょうか?
かといって、どことの方言ともつかない、「オラは、○×だべ」なんて
言葉遣いもしたくないし。。。

と、ここまで言っておきながら、自分でも、
どうすればよいかは、よく分かりません(笑)
私なら、ちょっと標準語をアレンジした感覚で、それとなく他の登場人物とは
違う喋り方にするように心がける程度にとどめるような気がします。

因みに、「標準語」と書いてしまいましたが、私は一般的に使われている
この言葉の定義があまり好きではありませんし、
なにをもって標準とするのかは、難しいところがあると思っています。

私は、生まれたときからさすらい人のようにして西日本各地を転々と
してきたので、残念ながら自分自身の母国語的な言葉を持っていません。
その時々で、住んでいる地方の言葉を喋ってきました。
(子どもだと、そうしないとすぐに馬鹿にされてしまうのです)
因みに、関西にも14年間、済んでいました。
生まれたのは鹿児島です。博多(親父)と山口県のヘキ地(母親)のハーフです。
(でも僕の関西弁は、英検に例えれば、2級くらいだと思いますが...)
そんな私からすれば、東京の人が喋る言葉も、かなり
「なまって」いるように思えます。
むしろ、なまっていない言葉を喋る人など、どこにもいないような気が...

話せば長くなりますが、そんな経緯があって、人が喋る方言や、
自分のそれに、ちょっとばかり過敏になっているところがあります。

だからなのか、ステレオタイプなやりかたで、方言を翻訳に使うのは、
ちょっと気持ちが悪いと感じてしまうのです。。

例えが適切かどうかわかりませんが、方言の使われ方として、
主役=白人、脇役=マイノリティみたいな短絡的な人物設定の図式の延長として、
主役=標準語、脇役=関西出身の3枚目
のようななんのひねりもない構図が見え隠れするのが
イヤなのかも知れません。

と、いいつつ、ここだ!というところで、あえて確信犯的に関西弁を
訳に使ってみたいと思うことも多々あります。
時と場合によれば、うまく関西弁の持つ面白さを生かせるはずです。

結論的に言えば、視点変えて、
本一冊まるごと関西弁、語りも喋りもすべて関西弁にすれば、
それはとてもまっとうな翻訳になる気がします。
それこそが、正しい地方言語の翻訳における使用方法ではないか、と。




納期の話

2006年05月20日 22時03分37秒 | Weblog
5年前に上京し、翻訳会社に就職したとき、初めて「納期」なるものに直面した。
翻訳という仕事は、なにはなくても、納品を行わなくてはならない「納期」
という存在抜きには成立し得ないものなのだ。
たとえ西からお日様が昇ろうが、柳の下に猫がいようが、なにはなくてても、
納期を決めて作業が行われ、そして納期がやってくる。

そんなこと、どんな仕事でも当たり前じゃない?と思われたかもしれないが、
大学を出て、京都にあった、とあるミニシアターで数年間働いていたときには、
「納期」なんて言葉はほとんど使ったことはなかったし、
意識することもなかったのだ。
(「あった」と書いたのは、今はもうその劇場はなくなってしまったから。
大学生のとき、映画にどっぷりと浸かっていた僕は、
ろくな就職活動もしないまま、そのままバイトをしていたこの映画館に就職し、
酒と映画と仕事におぼれる日々に突入したのだった。)

代わりに、「初日」や、「最終日」のあわただしさはあったように思うが、
そもそも、映画館の仕事には、仕事を受注して、品物を作って、客先に収める、
という概念がない。上映作品を決定して、宣伝して、お客様が気持ちよく映画を
鑑賞してもらうためのサービスをする、というような流れで仕事が進んでいく。

だから、翻訳会社に入って、「見積もり」だの、「納期」だの、「物件」だの
なんとも味気ない言葉の嵐にさらされたとき、妙な気持ちになった。

そして、それ以来、悲しいことに、というか宿命的に、
抱えている納期がない日を過ごしたことがない。

僕は一生翻訳の仕事をしていきたいと思っているが、
ふと、このまま死ぬまで「納期」と一緒に過ごしていかなくてはならないのか、
と考えるとちょっと憂鬱になることもある。
でも、仕事があるということは本当に幸せなことだし、
こんな贅沢は言っていられない、という気がする。
調子がいいときは、納期のおかげで前向きに、気持ちにハリを持って
仕事ができるし、なんといっても納品した瞬間には言いようのない喜びを
(不安の方が大きい場合も多いが)感じることができるのだから。

納期についてはいろいろと思うところがあるのだが、
なんのまとまりもないところで、この続きはまたにすることにします。

通訳翻訳ジャーナルLOVE

2006年05月10日 02時52分35秒 | Weblog
『通訳翻訳ジャーナル』http://www.tsuhon.jp/
を読み始めたのは、翻訳を志した
1997年の2月号からだから、かれこれ10年近く、
途中ちょっと抜けている号はあるが、読みつづけていることになる。

イワシの書斎の床には、ずらりと並べられたバックナンバーが
万里の頂上よろしく鎮座している。
ちなみに半分は、今は雑誌名が変わってしまったいとしの「翻訳の世界」。

(プロレスファンにしかわからない例えでいうなれば、
「翻セ」はターザン山本全盛時代の、柔らか系の「週間プロレス」で
「通翻ジャーナル」は、ちょっと硬派な「週間ゴング」だったような気がする。
あるいはサッカーファンにしかわからない例えでいうなれば、
「翻セ」はさしずめサッカー愛にあふれた「サカマガ(サッカーマガジン)」で
「通翻ジャーナル」はシビアな「サカダイ(サッカーダイジェスト)」
だったような気がする。。)

たまにこの雑誌の存在すらしらない翻訳者がいるが、
イワシに言わせれば、翻訳者たるもの、活字中毒者たれ!
業界誌くらい読め!という気持ちだ。
しかも、実用性を重んじず、耳年増的な根性で「無駄」に読むくらいがいい。

ところで、イワシの師匠夏目大さんは、
なんとこの雑誌に連載「FYI」を持っている。
で、今月号のお題は、「翻訳屋と英会話」
もの凄く独善的にかいつまさせていただくと、
必ずしも、翻訳者=英会話がめちゃくちゃ堪能、というわけではないという、
自分を含め、巷の翻訳者が我が意を得たり、と思ったのではないかというもの。
(くわしくはぜひ雑誌を買って読んでみてください。)

しかしながら、先日村上春樹を巡る冒険、
という東大で行われたシンポジウムに行ったとき、
世界各国の村上春樹の翻訳者が集い、彼らがもの凄く堪能な日本語で
トークセッションをしていたのを目の当たりにして、
喋る力も翻訳者には必要だ!とあらためて痛切に思った次第。

死ぬまでには英語を喋ることが苦にならないように
なりたいと強く願っているのだが、いつそんな日がくるのやら。。
僕より英語を喋るのが上手な嫁は、海外生活を切望しているが、
それもどうなることやら。。

それでも、ipodでアメリカのラジオ番組を聞きつづけているし、
テレビも基本的にスカパーで英語の字幕なし番組を観ている。
でも、アウトプットをする機会がない(というか自分で作ろうとしていないだけ)
からか、砂漠に水を撒くように耳から耳に抜けているような気がする。

しかし、あきらめへんで~!!っと関西弁ならバイリンガルで喋れる
ことを思い出しながら一縷の望みにかけるのであった。

新しい道を歩み始めた友へ

2006年05月09日 00時16分34秒 | Weblog
Kenちゃんに電話する。
昔、翻訳会社で営業をしていて、会社を辞めることにしたとき、
代わりに入社してきたのが、彼だった。
偶然、同い年で、偶然、歩いて数十メートルの場所に住んでいた。
(僕の家の前が彼の帰り道だった!)

Kenは、超有名大学の大学院を出たバリバリの理系で、某有名企業を退社した後、
NZで自由人として暮らしていたという経歴の持ち主。
英語もバリバリ、ちなみにトライアスリートだ。
(彼の影響で、走るのが好きなイワシはランナーとして蘇ったのだった。
今年の荒川市民では見事にリタイアしてしまったけど。。Kenちゃん、
東京マラソン一緒に走ろうね!!)

辞める前の2ヶ月、自分がまったく体系化していない仕事を、
強引になんとか引継ぎをしたので、
彼にはずいぶんと迷惑をかけてしまったことと思う。
その後、彼もその会社を辞め、某MLVに行き、さらに今は新たに学生としての
道を歩み始めている。夢に向かい始めた彼のことを、こころより頑張って欲しいと思う。

翻訳業界というのは、とてもニッチな世界だ、
だからこそなのか、そこで出会った人たちには、格別の思いがある。
翻訳者を目指してなんのあてもなく上京してきた自分が、
最初に出合ったのも、翻訳業界という世界と、そこでたくましく働く人達だった。

そんな人達と、同業者ならではの苦労や、楽しみを語るのが、僕はとても好きだ。
翻訳LOVEというのは、翻訳人LOVEでもあるのだった。
一生翻訳していなくてもいい、一時期だけでも翻訳という世界に足を踏み入れた人、
翻訳という不思議ワールドにさ迷いこんだ人、自分もそうだけど、
それだけで、何か言いようのない共感を感じるのだ。
と、同時にちょっとしたライバル心も芽生えるのだけれど。。

イワシの師匠である夏目大さんと話していると、
いつもその強烈な、まぶしいくらいの翻訳LOVEに圧倒されてしまう。
僕ももっともっと、今歩き始めたばかりの翻訳道をひたすらに歩いていきたいと
思うのだった。。そしてこれからも翻訳LOVEを大切に生きていきたいと思うのだった。
そんなことを、Kenとの電話で感じたんだ。

Kenちゃん、これからもよろしく。Give me your comment!


スティービー・ワンダーのように

2006年05月06日 21時33分46秒 | 翻訳について
GWももうすぐ終わる。
予定外のイベントがいくつも発生してしまったこともあり
目論見どおりとはならなかったのだが、
かなりの時間をPCの前に座り翻訳作業をすることができた。

いつもは会社でまわりがバタバタとしている
中で作業をしているのだが、
家にこもっていると勝手が違う。
誰の目があるわけでもなく、ひたすらに言葉をこねくりまわす。

世の中の翻訳者というものは、
ずっとこうやって毎日家で机に向かっているのだなあと、
しみじみ思った。

気分が乗れば、訳文を作り出す作業に熱中できる。
でも、漫然とディスプレイを見つめ、キーボードを叩いているだけでは、
味気なく、平坦な時間が孤独とともに流れていくだけだった。

そうではないはずだ。
翻訳者にとって、目の前にある原書、ディスプレイ、キーボードを叩く音、
そして脳の中を駆け巡る無数の言葉たち、
そんな渾然一体とした世界こそが、
きっと料理人にとっての厨房であったり、
音楽家にとってのスタジオのような、
神聖な空間であるに違いない。
その空間を、怠惰な日常の延長線上に置いてはならないはずなのだ。

たとえば、スティービー・ワンダーがピアノの前に座るときのことを考える。
彼が楽器と向き合った瞬間から、特別な何かが生まれ、音楽が始まる。
そこには、疑いもないし、迷いもない。ただ、音楽を前にして、
真摯な気持ちの彼が、必死に音楽を人に届けようとしている。

スティービーワンダーの仕事と自分のそれとを比較すること自体、
死に値するほとどの罰当たりなことのように思えるが、
それでも、彼が楽器に向かうときのように、
愛に溢れ、落ち着き、満ち足りた気持ちで、
自分もPCに向かい、仕事に取り掛かれたいいのに、とふと思った。
(おこがましいにもほどがありますが。。)
そして、彼が歌いはじめるときのように、
翻訳という素晴らしき宇宙にすっと入って
いくことができればどんなにか素晴らしいことか。

しかし、私には、まだまだ愛が足りない。翻訳LOVEが、全面的に不足!
本当に本当に修行が足りないと感じる今日この頃。














翻訳スピードを上げると品質も上がる?

2006年05月03日 00時07分26秒 | 翻訳について
翻訳というものは、基本的にセンテンス単位で行うものです。
まずは原文をざっと読んでから、頭から1文1文ワリワリと訳し
始めていきます。

あまり語学力がないと、文を構成する単語レベルからの翻訳ということも
あるかもしれません。パズルのように単語を繋げて、なんとか文を作り上げる、
という。でも、このやり方だと量をこなすことは期待できません。

また、さすがにパラグラフ単位やページ単位で翻訳する人
というのもあまりいないでしょう(いたらすごい)。
よっぽど原文がわかりやすければ、すらすらと2、3文を
続けて訳すことはできると思いますが、やはりワンセンテンスを訳す、
というやりかたをとるのが普通だと思います。

ところが、センテンス単位で訳文を作っていると、
どうしても文と文とのつながりが悪くなります。
木を見て森を見ず、といいます。森がドキュメントとすれば、
翻訳者は木(というか枝?)である、センテンスというものに
近視眼的に粘着することを避けられないため、
得てして文章のリズムが悪くなりがちです。

だから、パラグラフやページの単位を訳し終えたとき、
文章の流れに従い、文章をブラッシュアップする必要が出てきます。
調子が良いときは、この流れに上手くのって作業できます。
なかなか1つの文が終わらないときは、
全体のつながりも悪くなってしまいがちです。

翻訳の処理スピードがあがれば、こういったブレが少なくなり、
文章全体の流れにのってよい訳文ができるといえます。
だから、時間をかけてじっくりと訳せばよいものができるとは
限らない(もちろん、校正に時間をかけることで、良いものはできるはずです)、
というところが難しいところですね。

読書と同じで、ゆっくり読めば頭に入るかというとそうでもない。
一気に読んでしまったようなもののほうが、印象に残っていたりするものだと
思うのです。