イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ソリッド・ステート・サバイバー

2007年12月22日 20時25分29秒 | Weblog


人と会って話をする。目の前にいるのは大好きな相手のはずなのに、僕はうまくしゃべることができない。「そうだ、僕はうまくしゃべることができるようにならないまま、いつのまにか大人と呼ばれる年齢になってしまったのだ」、という考えが脳裏をよぎる。さりげなく相手を思いやり、うまく背中を押してあげて、どんな話題にも行き場を与えてあげる。そういうたしなみができない。拙い言葉しか出てこない。もっともっと相手のことを知りたいはずなのに、ロクなことが訊けない。せっかく振ってもらった話題に、反応することができない。そんな奴だったのか、俺は。今さらながらの嘆き節が、心のなかで鳴り響く。駆け抜けていく天使。心には悪魔。大切なことを話し合えることもないまま、時間だけが経過していく。訊きたかったことは、本当にこれだったのだろうか? あるいは、口にしているのは、僕の本当の気持ちや考えなのだろうか? 何かが、ミリ単位で、いや下手をしたら、キロ単位でずれている。伝えたいこと、語り合いたいことはチョモランマのようにあるように思えて、でも、すべては手つかずのまま青空に消えていってしまうかのようだ。

と、もうひとりの自分が頭上でつぶやいているのが聞こえるが、現実に進行しているのは、実は、とても楽しい会話だったりする。お酒は美味しい。食べ物も旨い。そして、いつまでも終わって欲しくないほどの、いくら語っても語りつくせないほどの話があって、次々に話題は切り替わっていく。酔いは回る。ここは、極楽かも知れない。でも、そんな会話のめくるめく回転木馬の中にあって、本質的な会話とは何か? 本当に語り合うべきことは何か? なんてことを、つい、考えてしまう。それで、突然あらたまって、夢だとか将来のことだとか、本当に大切なことは何? だとか、そんな単刀直入な質問をしてしまう。でも、おそらくそんなあけっぴろげな問いに対する答えは、言葉にしてしまえば真実味が薄れてしまうものであって、すこし困惑げに、それでも誠実に答えてくれた相手の、台詞よりも表情に答えのヒントが隠れていたりもする。ともかく、その場に一緒にいて、いろんなことを話せた、それだけでも素晴らしいことに違いない、ありがとう、ダンケシェン、と感極まりつつも朦朧とした意識のなかで宴の終焉を告げる鐘が鳴る、というのがいつもの宴会のパターンなのであった。

今、目の前にいるあなたに、筆をしたため手紙を書くように、想いを伝えることはできないのものだろうか。電話でしか話したことがない得意先の人、道を聞かれただけの相手、何年も一緒にいる人、掛け替えのない、大切な人、どんな人であっても、本当に大切なことを、伝えられているのだろうか。と、自問自答しよう。そうでもしないと、何か大切なことを置き去りにしたまま、時間だけが過ぎ去ってしまうような気がしてしかたがないんだ。

見上げれば、曇天だ。こころも重い。気体でもなく、液体でもなく、ときには固体たれよ、自分。その場その場で蒸発したり、流されたりすることなく、変わらぬソリッドな自分でいてみろよ。こころの底にあるものを、本当に誰かに伝えることができるのだろうか、とあらためて考えよ。過去を語り、現在を語り、未来を語っても、本当の想いは伝わらない、誰かの言い訳なんか聞きたくない。自慢話も、世間話もほどほどでいい。そもそも、僕は本当に自分の声にすら、耳を澄ませているのだろうか?