翻訳に関するものの本を読んでいるとたまに目にする言葉がある。おそらくは特に文芸翻訳を指しているのだろうが、「翻訳家としてものになるかどうかは、小さいとき、たとえば小学生くらいまでの読書量の多寡でほぼ決まってしまう」というものだ。つまり、小さいときに本を読む習慣がなかった人は、大人になって文章で身を立てようとしてあわてて本を読んでももはや手遅れ、というなんともシビアな話。
この説、あたらずといえども遠からず、という気がしないでもない。自分のことは棚に上げて言うが、文章には、それまでの人生でどれだけ本を読んできたか、ということが、漠然とはしているかもしれないが、確実に反映されていると思うことがあるからだ。
ほかの分野では、小さいときからの積み上げが決定的な差となることがある。たとえばサッカー。サッカーをやっていた人なら言わずもがなのことなのだけれど、小学校からサッカーをやっていた人と、中学、高校から始めた人というのは、ボールテクニックの面において、ある意味絶望的なまでの差がある。遅くから始めた人は、どうしても柔らかいボールタッチができないのだ。脳の神経と関係あるとかないとか、そんな説を読んだこともある。それはもう子供心に、一生かけても追いつけない距離として感じられるものなのである。そして、少し悲しいけれど、たとえばプロの選手になる、という競争の中では、それはたぶん事実なのだ。たった数年の差で、もう取り返しのつかない距離が生まれてしまう。子供って、妙に客観的で大人びた判断をできることがある。自分はコイツにかなわない、という直感は子供心にもなんとも重く、真実味を帯びたものに感じられて、その後の人生に大きく影響を与えたりする。
大人になっても、そういう他人との歴然とした能力の差に苦しむことは変わらずあるのだと思う。でも、たとえばサッカーならば、そこまで絶望することなく、自分の好きにプレーを楽しめばいいと考えることもできるだろう。でも、子供には、少なくとも僕が子供のときは、そんな風に考えることはできなかった。スポーツをするということはすなわち競争であり、他人との優劣の比較のなかに日々身を置くことにほかならなかった。それほど強くもないチームのなかでも、それほど上手くない自分。ほかのチームには上手い選手がいくらでもいて、さらに全国大会になれば、自分からみればもう雲の上の存在のようなすごい輩がゴロゴロいる。プロになるなんて想像することすら難しい話だった。
だから、たとえばプロサッカー選手になるための条件を挙げろと聞かれたら、まずは小学校から、しかもかなりの強豪チームで活躍していたことがほぼ絶対条件である、と僕も言うだろう。それだけシビアな世界だということを肌で感じて知っているからだ。二十歳の青年が、これからサッカーを始めてプロになります。といったところで、誰も相手にはしてくれないのだ。
あるいはピアニストもそうなのかもしれない。おそらく、プロになるためには、幼少期からの英才教育が必須だろう。いくらやる気があっても、たとえば二十歳を過ぎてからピアノを始めてピアニストになれるのかどうか、たぶんものすごく難しいことだと思う。
話を翻訳に戻そう。翻訳はサッカーでもないし、ピアノでもない。12才までにたいして本を読んでいなくても、少なくともスポーツ選手や演奏家になるよりは、なれる可能性がはるかに高いと思う。文章を書く、というのはたしかに技術でもあるが、それ以上に人間存在の総合力を問われる作業だと思うからだ。
おそらく、12才までの読書量でその人が翻訳家になれるかどうかの確率は大きく左右される、という言説には、それを語る人(おそらくはプロの翻訳家)が、自分の過去を振り返ったときに、小学生のときにむさぼるように本を読んだ体験が、なににも増して翻訳家としての基礎になっていると感じているだろうことに起因しているのではないかと思う。そういう意味では、たしかにそうだ、と思わなくもない。僕も、小さい頃たくさんの本を読んだし、そのとき感じた読書の面白さ、本のページを捲るときのわくわくする気持ちがいまでもずっと変わらず残っている気がする。翻訳という仕事に自分を向かわせているのは、間違いなくその頃の読書体験がもたらした、肯定的な感情だといえる。
それでも、 12才まで.,.と断言してしまうのは、やはりどこか間違っているという気がする。それは、子供の頃の豊富な読書体験を持つ者の奢りであり、今日を努力することへの冒涜でもある。肝心なのは、今、この時点にいたるまでに何をしてきたか、ということだ。30代に2千冊の本を読破する人がいるかもしれないし、大人になって海外にわたり、外国の文化を吸収した人もいるだろう。専門的な知識を身につけることだって、年をとってからでも遅くない。
それに、言葉は、一部の才能のある人だけが使うことを許されるような類のものではなく、誰にでも開かれているものなのだ。誰しもがその人なりの言葉の世界を持っていて、それは簡単に優劣を決められないユニークさと奥深さを持っている。たとえば、英語のネイティブスピーカー。僕からみれば、誰しもが言葉の天才に見える。同じように、日本語を母国語として生きている人は、日本語を学習している人からみれば、天才と思われかねないほどの、高度な言語技術を身につけているはずなのだ。
ただし、ほかのどんなプロフェッショナルの世界と同様、翻訳も才能とセンス、実力の差がシビアに問われる世界であることには違いはない。12才で選別されてはいなくとも、シビアさではほかの世界と同じなのだ。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
中野坂上の文教堂で、以下の3冊。
『脳と仮想』茂木健一郎
『国家の罠』佐藤勝
『AERA English』2008/1