イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

華麗なる翻訳

2007年12月24日 21時29分45秒 | 翻訳について

蕎麦屋のカレーは美味い。その理由は、やはりダシが効いているからに違いない。和食の真髄が詰まったダシと、インド四千年の秘法、ルーとの邂逅。歴史と文化が出会うところ、それが蕎麦屋のカレーなのだ。蕎麦屋のカレーうどんは、だから、実はすごい組み合わせなのだ。プロレス的にいえば、タイガージェットシンと上田馬之助の日印タッグにたとえることができるだろう。ぼくは、濃いスープというか、ダシっぽいものというか、とにかくそういうものが好きで、ラーメンのスープ、蕎麦、うどんのダシ、スープっぽいカレー、スープスパゲティ、味噌汁、豚汁、などに目がない(そして、こういうとき、ご飯よりも麺類を一緒に食べたくなる)。逆に、パサパサしていたり、モソモソしていたり、そういうものは飲み込みづらくて好きではない。ひょっとすると、噛むことが面倒くさいのか、「アゴにやさしい食べ物」を求めているような気もする。少々なさけない。ともかく、いろんなものが入っているスープという食べ物に、昔からとても神秘的な魅力を感じるのだ。

つい先日、柿の皮を剥いているときに包丁で「指、切ったッス」してしまったので、それ以来刃物を触るのがUbiquitous的に怖い。それでも、必要とあれば包丁を握らなくてはならないので、少しずつリハビリをして(それにしても、柿ってなんであんなに剥きにくいのだろう?特に、あのヘタの部分はどう取ればよいのか?)、なんとか包丁を使って、今日はカレーを作った。もちろん、カレーを作るとき、ぼくは必ずダシをとる。ただし、いわゆる蕎麦屋のカレーっぽいカレーは作れたためしがない。確かにダシは効いているが、So What? といわれそうなよくわからない味になる。でも、やっぱりダシをとってしまう。

料理には作る人の性格がでると思う。ぼくはいろんな材料や調味料をあれこれと詰め込んでしまうタイプである。対象がカレーであればなおさらだ。毎回、創作料理というか、これまでにやったことがない方法でやってみよう、というチャレンジ精神がわいてきて、食材なり調味料なり料理法なりを変えてみる。そしてたいていの場合は失敗してしまう。サッカー的にいえば、なぜあそこでシンプルにシュートを打たなかったのか、なぜパスしてしまったのか、というような味になる。量も、必要以上に多く作ってしまう。性格だから直らないとなかば諦めているが、自分の過剰さをよく表していると思う(考えてみたら、ぼくは翻訳をするときにも、あれこれと盛り込んで、結局はなにが主張したいのかよくわからない味にしてしまっているような気がする)。今日のカレーは、う~ん、美味しいような、そうでないような、なんともいえない味だ。でも、まあいいだろう。結局は、カレー粉が、すべてをOrchestrateしてくれるのだから。

翻訳はカレーに似ている。とってつけたように聞こえるかもしれないが、以前からそう考えていた(だからどうというわけではないが)。カレーというのは、いろんなものを煮込んで作る。ときにはオリジナルの原形がわからないくらいまで煮込んで、溶かし込む。この「溶かし込む」というのがミソというか「ルー」なのであって、翻訳の技とも共通しているところだと思う。つまり、必ずしも字義通りに訳されていなくても、原文の意味が隠し味として、訳文のなかに溶け込んでいればそれでOKなのである。たとえば、原文にsheがあったからといって、かならずしも「彼女が」と訳さなくてもよい。彼女が主体であることが文章を読めばわかるように、それが「溶かし込んで」あればよいのだ。

そしていったんそういった煮込みのコツをつかんでしまうと、それまで素材の味がそれぞれに自分勝手な主張をしていたものが、まろやかで、調和がとれて、それでいてピリッと一本筋のとおった、しっかりとした味わいのあるルーをつくることができるようになるのである。つまり、無理のない日本語でかかれ、意味の通りがよい訳文が出来上がるというわけなのだ。といいつつも、かくいう私の訳文がそうであるかどうかは、カレーの腕前をみればおおかたの予想がついてしまいそうなのだが……では、今日はこのへんで「やめさせてもらうわ」(やすきよ風に)。
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思いがけず、コンビニで『このミステリーがすごい 2008年度版』を売っていたので、即買い。今年は20周年の感謝をこめて、500円という廉価な価格設定になっているということらしい。これが自分へのクリスマスプレゼント。