イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

Do it !!!

2010年03月30日 00時40分14秒 | Weblog
ケーキを切り分けるみたいに1年を4つに区切って考えるとしたら、1月から3月が最初のワンピースになる。4月からが次の2ピース目。今はちょうどその区切りの時期だ。1年は52週間と1日だから、1区切りは13週間。目標を持って何かに取り組み、何らかの結果を期待するのに、長すぎず、短すぎず、の、いい期間だと思う。

今年は僕にとって区切りの年だ。思い切ってすべてを捨てて、新たに生まれ変わるつもりで、グランドゼロの地点からすべてを始めてみたい。それくらいドラスティックに何かに取り組まなくては、きっと月日はあっという間に過ぎ去ってしまうだろう。だけど本当は、時間はまだまだたっぷり残されているはずなんだ。これまでのすべてを肯定してもいいと思えるようになるくらい、真剣に、命がけでやりたいこと、やるべきことに取り組んでみたい。

何をすればいいのかは、わかりすぎるくらいにわかっている。あとはそれがやれるかどうか。それだけにかかっているのだ。

蠅が止まるほどスローに ~西新宿から吉祥寺まで走ってみたよパート4~

2010年03月26日 23時57分16秒 | Weblog
ここのところ家で作業をしていたり、新宿の会社にいっても天気がよくなかったりで、なかなかチャンスがなかったのですが、今日は久しぶりに雨も止み、マラソンも間近にせまっているということで、会社から家まで走って帰ることにしました。おそらく人生初の通勤ランです――時間がなくて駅まで走ることはしょっちゅうですが ^^

6時過ぎに中野坂上の会社を出発。蠅が止まるほどの超スローペースで走りました。というか、最近は歩くことばかりに熱心でほとんどランニングの練習をしていない今の僕にとっては、これ以外のペースで走ることは不可能。僕の辞書には「不可能」の文字がやたらと多い。

ここ数ヶ月、なぜ走るよりも歩くことに傾倒してしまっていたかというと、走っていると意識が走ることに集中してしまうためか、血液が足に集中してしまうためか、頭に血がめぐらず、なかなか思索に耽ることができないのが嫌だったからです。歩くペースが、考えごとをするのには一番ちょうどいい。いろいろと物思いに耽る今日この頃なのです。が、走ると足のリズムに合わせて意味不明な音楽が鳴り出したりして(即興で作詞作曲?)、意識が散漫になってしまうのです。しかし、いつも歩いてばかりだと身体がもっと強い刺激を求めるようになる。前述したようにあと二週間後にマラソンも控えています(おそらく、完走できれば御の字。常識的に考えて、途中リタイアか即日疲労骨折でしょう)。

そんなわけで、いつものコースをゆっくりゆっくり走りました。ランニングシューズは履いているものの、通勤のままのウェアなので、下はGパン、上はエセライダーズジャケットといういでたちです。ランナーとしては素人っぽくてかっこわるいですが、しかし、あまりに走りがスローなので、道行くひともおそらく私をランナーだとは認識しなかったでしょう。おそらくは、近所のコンビニまで駆け足で買い出しに行く人と思われていたのではないかと。

歩くと2時間強かかるキョリ(12キロ弱)を、1時間40分かけて吉祥寺に。歩くのとほとんどタイムが同じやないか!と自分につっこみを入れながら、かなり疲れたし、雨は降ってきたし、8時に荷物が届く予定になっていたので早く家に帰らなくてはいけなかったので、ジョージタウンからムサシボーダー(武蔵境)まで電車にのりました。

通勤ランをしてみて思ったことは、

・時間が節約できる(歩くよりも若干ではあるが早く家に帰れる。また、家に帰ってからランニングをするとなると異常に時間がかかるし面倒なので結局走らないことになるが、通勤ランであれば無理なく走れる。電車に乗って帰っても1時間ちょっとかかるのだから、あとプラス1時間だけ必要だと考えればよい)
・やっぱり歩くほうがしみじみと物思いに耽れる
・とはいえ、スポーツをしたという爽快感は走るほうが大きい

などです(なんともありきたりな...)

ともかく、これからも元気なときは走って帰るようにしたいです。家まで走ると14~15キロはあるから結構な距離だが、毎日続けていたら案外楽に感じられるのかもしれません。

ささやかながら、代わり映えのしない生活にサプライズをもたらすことはなかなか楽しいものです。通勤ランに限らず、いろいろとチャレンジしていきたいと、小市民的な自分革命の野望に燃えているのでした。



オンサイト復活

2010年03月24日 22時43分46秒 | Weblog
昨日は聖地にて飲み会があり帰宅したのが1時過ぎ。
少々日本酒を飲み過ぎたようで、朝はちょっと二日酔い気味。
二度寝してお昼から久しぶりのオンサイトに。

それにしても、こちらの我が儘を受け入れてくれた会社に感謝しなければ。
デスクを用意してもらっているというのは本当にありがたいことだ。
久しぶりに会社にいってつくづくそう思った。
この感謝の気持ちを行動で示していかなくては。

昨日お話を伺った先輩翻訳者の方も、
1時間単位で処理量を計測されているとのこと。
僕にとっても、やはりこの1時間方式が今のところベストだと思われる。
できのいい1時間と、そうでない1時間を分析することで、
作業効率を高めるための小さなヒントがいくつも見つかる。
なんだかんだ言って、僕にできることはこの1時間の積み重ね以外に何もないのだ。

今日は開始が遅かったから6時間しかできなかったけど、
明日からは気合いを入れて頑張ろう。
目標は高く、500ワード/時。結果的に8掛けになっても今の僕の力量ではいいペースだ。

朝も作業して10時間くらいやる日を週に何度か作らなければ、
ノルマに追いつけない。やるぞ~!

そぞろ歩きの会7『青山一丁目・新宿御苑編』無事終了いたしました

2010年03月22日 17時58分08秒 | Weblog
昨日、そぞろ歩きの会7『青山一丁目・新宿御苑編』が無事終了いたしました。参加いただいたみなさま、誠にありがとうございました!

昨日の明け方は春の嵐で大荒れ。どうなることかと思いましたが、幸運にもそぞろ歩きの時刻には嵐も去り、汗ばむほどの陽気のなかを気持ちよく散策できました。

そぞろ歩きの会のブログに詳細をアップいたしました。

次回は4月17or18の開催を予定しております。みなさままたどこかでお会いしましょう!

京都みなみ会館のこと

2010年03月20日 21時28分51秒 | Weblog
先日、京都の友達から連絡があった。「みなみ会館」という映画館の上映企画からRSC(ルネッサンスクラブ)という配給・上映企画会社が撤退するのだという。ふたりの友達がわざわざ連絡してきてくれたことが、このニュースの大きさを物語っている(僕は京都の映画館で働いていたことがあって、連絡をしてくれたのはそのときの友達だ)。

京都、そして広くは関西圏に在住の映画ファンなら「みなみ会館」をご存じの方も多いと思う(そこそこの映画好きならほぼ間違いなく知っているはずだ)。所謂単館系と呼ばれる作品群を中心に、パズルのように組み込まれた緻密な上映スケジュールで、古今東西の名作を幅広く、硬軟織り交ぜて上映してくれた。その企画をしていたのがRCSだ。関東で上映された面白い作品をひとつでも多く関西でも上映したいという、代表のSさんを始めとする映画Loveに溢れたスタッフの方々の熱い思いがヒシヒシと感じられるラインナップで、同じ業界で働いている者としては、Sさんの映画にかける情熱、プロフェッショナリズムに大いに触発されると同時に、それに引きかえ俺は何をやってるんだと、気後れを感じたりもしていた。

ポップコーンナイトと題されたオールナイト上映では、覆面上映といって事前に何が上映されるかわからない作品もあったりして、とても楽しかった。いつまでも深く僕の心に刻まれているソ連のSF映画『不思議惑星キン・ザ・ザ』もたしか覆面上映で観たのだと思う。商売だから採算がとれることはもちろん重要なのだけど、単に商売だけでやっているのではないという映画愛がいつもその根底に感じられた。

劇場の建物の一階はパチンコ屋で、静かなシーンのときにはザ~ッと銀玉が大量に流れる音が聞こえてきたりもしたのだけど、『デッドマン』を観たときにはニールヤングのせつないギターソロとそのパチンコ音が妙にマッチして心にしみた。ずいぶんとたくさんの作品を観たし、若かった僕は、いろんな人生を教えてもらったような気がする。なんつったって、まだ世の中のことを何にも知らない19くらいのときに、最初にRCSの企画でわけもわからずに観に行ったのが、ユーゴの前衛的な映画監督、ドゥシャン・マカヴェイエフの特集だった。あまりの衝撃的なな作品の数々に度肝を抜かれたけど、「スウィート・ムービー」をはじめとする傑作は今でも強く印象に残っている。Sさん、そしてRCSがなければ、その後の人生にも大きな影響を与えられるような映画とのたくさんの素晴らしい出会いもなかっただろう。

詳しいことはわからないけど、みなみ会館がなくなるわけではないし、RCSも他の劇場で配給・企画を続けていくようだ。これからも京都、そして関西の映画を支え続けていってほしい。RCSのみなさま、本当にお疲れ様でした。あなたたちの映画Loveは本物です。いい尽くせないほど思い出はありますが、きりがないので簡単ながらこの辺で。

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そぞろ歩きの会、3名に参加のご連絡をいただき、私を入れた4名で歩くことになりました!
よかったです(^^) 今日はすごくいい天気で、今年になって初めてTシャツでランニングしました。いよいよ春の到来です。




そぞろ歩きの会7 青山一丁目・新宿御苑編 3.21(日)参加者募集中~!

2010年03月19日 22時05分29秒 | Weblog
そぞろ歩きの会7 青山一丁目・新宿御苑編 3月21日(日)

1名に参加表明をいただきました! 独りそぞろ歩きは免れそうです!
当日は春の嵐が吹くかもしれないみたいですが、楽しんで歩いてこようと思います。
ご参加を希望のみなさん、まだまだ参加者募集中ですのでお気軽に私宛ご連絡くださいませ。

cozyosa@w2.dion.ne.jp

↑(「@」を半角の「@」に変えてください)

詳細はこちらをご覧ください。
そぞろ歩きの会のブログ

屈託がありすぎてクッタクタ

2010年03月17日 21時11分44秒 | Weblog
こんなにも何かに追い立てられるように、何の手応えもないままに日々が過ぎていくように感じられるのは、もともと人としての能力が足りないってことに加えて、きっと過去の自分に負い目を感じているからなのだろう。

何かしなきゃいけない、ってそればかり考えて、結局何もできなかった、気が遠くなるほど長い時間。

今、ようやくその「何か」が遠くに見えるところまできた。一日でも早くそこに到達したい。だからこんなにも生き急いでしまうのだ。結局あくせくするばかりで、無駄に時間をすごしているのは以前とまったく変わらないような気がするのだけれども。

人と接していて、相手に屈託のなさを感じてしまうことが多いのは、自分に屈託が多すぎるからだ。

だけど、やっぱり僕は、大きな大きな荷物をどこかの駅に置き忘れてしまっている。置き忘れてしまっていることすら忘れてしまっている。置き忘れたものが何かすら、今となっては思い出せない。駅名だって当然、思い出せない。長い時間をかけて、ゆっくり摩耗していった何か。人と話をするとき、その何かの存在が痛切に感じられて、意識すらも遠のいていきそうになる。

でもまあ、これでいいのだ。

つい無理をしてしまう自分に少しブレーキをかけて、ざわついた心を静めてやる時間も必要だ。今回ばかりは、少々意識的にそうする必要があるような気がする。

気持ちが整理できたら、また流れにのって走り始められるはずだ。逆立ちしても自分以上の存在になることはできない。これまで積み上げてきた過去が僕のすべてならば、それを諦念とともに受け入れることもできるだろう。だが走り続けることさえできれば、過去がなんであれ、この心の空白はきっと埋められるはずだ。懸命に、そして今よりも少しだけ賢明に、また前を向いて行こう。

というわけで、気持ち的には久しぶりに休息モードに入りました。家でごそごそしています。今日は急ぎの仕事を受けてしまったりして、結局仕事をしてしまったのですが、少しだけブレーク気分を味わえました。いろんな意味で、総合的に自分を立て直さないとやばいと感じています(^^)

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3/21(日)、そぞろ歩きの会7 「青山一丁目・新宿御苑編」現在0名の方に参加希望をいただいております! このままだったらそぞろ歩きの「会」じゃなくて「独りそぞろ歩き」になってしまいますが、まあそれもよしかなと w
もし参加をご希望の方がいらっしゃいましたら、私までメールくださいませ。一緒に春の青山を、御苑を歩きましょう! ご連絡お待ちしています。

そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載しています。

青色申告あきらめてブルー

2010年03月16日 00時30分41秒 | Weblog
3月15日は確定申告の提出期間の最終日です。

この日のためにわたしは、1年前から着々と準備を進めてきました。

ものの本を買いあさり、

やよいの青色申告のソフトを導入し("やおい"じゃないよ)、

ブクオフのレシートをひたすらに保存し、

数日前から全細胞を確定申告モードに切り替え(たつもり)、

こんな日がいつか来るかと思って、事前に簿記の勉強もしました。3級とりましたよ!このバリバリに文系な僕が!(5年ほど前だけど)

しかし「これが俺、まさに俺」的に、直前になってもどうしてもやらなければならない仕事(「申告前で忙しいけど、なんとかするぜ」的なかっこよさで受けたつもりが仇となる)をいくつも抱え、しかもそれがやっぱりなかなか進まないというイワシ的にはまさに予定調和な展開となって、気がつけば今日。笑いましたよ。僕に残された時間は24時間以下です。ほぼ一日での付け焼き刃青色申告は、僕にはどうあがいても無理でした。

――と、悟ったのが午後5時頃。いちおうあれこれ入力したり、本を読んだり、できる限りの悪あがきは続けたものの、基本がわかってない奴は、何をやってもダメ。そこで僕は究極の選択(逃げ道)を選んだ(すがった)!

そう、白色申告にすることに切り替え、フリーツールの絶大な力を借りてほうほうのていでなんとか仕上げ、午後11時過ぎに、今日の消印を求めて24時間営業の武蔵野郵便局まで歩いていって、なんとか書類を提出(郵便局がそんなサービスをしていることは初めて知った。ありがとう郵便局!)。

なんでこうなるのいつも?(といいつつ、自業自得な自分には納得)。でもまあ無事に出せたからよかった。収入が少ないからか、経費という名の無駄遣いがあまりに多かったためか(本代、雑誌代がここに書くのが憚られるほど異常に多い、おそらく税務署も怪しむだろう)、提出した書類通りにいけば、白色ながら幸いほとんど源泉徴収分は返ってくるようだ。返ってきて~! 

こうして、オフィスサーディーン(私の屋号)の2010年確定申告は、またしても戦後のどさくさのようなドタバタの果てになんとか形の上では終了した。

自由業のみなさん。

私ごときに言われるまでもなく、重々承知のことかと思いますが、


期限ギリギリの青色チャレンジは危険です。


いざとなれば、白に切り替えることも可能。取引数の少ない翻訳業であれば、当日一日でも可能でした。それから郵便局は24時間受け付けてくれているところがあるので、最後まであきらめずに!

ともかく、今年の私の確定申告のドタバタぶりは、青色でも白色でもなく、赤色申告と呼ぶべきものでした。お恥ずかしい限りです。


しかしここのところ本当に忙しかった。否、忙しいというより、単に自分をコントロールできなかった。思えば年末年始のかなり以前から、ずっと休まずあれこれに奔走し、ほぼノンストップでやってきたので、心身ともにあちこちでネジが外れかけています(と、疲れを言い訳にする)。久しぶりに、しばし休息してみようかと思います。1週間ほど、最低限の仕事をしつつ、残りの時間はブレークにしてみようかと。


それから、無駄に文章が長いことがウリの散文派としては、非散文的な気配を感じてちょっと敬遠していたtwitter、つづかない可能性は高いですが、

Okojima_iwashi

の名前で、

植木等的に、トゥイットいっぱいのつもりで始めてみることにしました。

そして、そぞろ歩きの会7、青山・新宿御苑編ですが、開催1週間前を切ってなお、参加者0名というとても寂しい事態になっております。あえて連休の真ん中に設定してみたのですが、やっぱりドツボでした。さ び し い です...。

もし僕ひとりだけになっても歩きます。それはそれで、いい精神修行になるでしょう。黙々とイケメンサーファーのヅラかぶって歩きましょうとも。笑ってやってください。

でも、家に帰ってそぞろ歩きのブログ書くとき、さすがに切ないだろうなあ...。

そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載しています。ぜひご参加くださいませ!


ともかく、気がついたら本当に春はすぐそこです。夜道を歩いていたら、肌に感じる風が暖かかった。みなさま、よい一週間をお過ごしください!

Keep it Simple

2010年03月09日 22時31分49秒 | Weblog
○○年後の世界はこうなっている――というテーマで書かれた英語のエッセイを、死にそうになりながら訳してなんとか納品。

失礼ながら、おそらくは少々やっつけ仕事気味で書かれたと思われるそのテクスト、著者のお方が、「どうせ未来のことなんだから多少はつっこまれても大丈夫だろ」と、納期に追われながら、やぶれかぶれな気分になられてしまったのか、あるいは、テーマ的に少々ぶっ飛んだ話で読者を驚かせてあげてはいけないと、いつもより多めにサービス精神を発揮されたのか、その真相は定かではないが、ともかく話が飛ぶ飛ぶ。

もう、坂上二郎もびっくりの、飛びます、飛びます状態。

誰だってそんなテーマで原稿依頼されたら苦しむだろうから、もちろん同情はしたいところなのですが、「同情なんてしてられないですよ。冗談じゃないですよ、やってられないですよ、高田さん。こっちはおまんまの食い上げですよ」状態でしたのがつい先日のワタシ。

何が言いたいのかさっぱりわからず、まったく作業が進まなくて焦る焦る。ええ、死ぬかと思いました。というか、実際かなりリアルに近い形で死にました。

思わず、おそらくその○○年後の世界には生きていないであろう自分の姿を、かなりの現実味を伴って実感できました。さらに、

To my surprise(驚いたことに),――そのエッセイのタイトルが、


Keep it Simple


ときましたよ、山本さん。

複雑化し情報過多になった世界で、未来の人々はよりシンプルな何かを提供してくれるものを必要とするだろう、とのこと。

なるほど、とその内容には激しく同意しながらも、

できることならあなたにも、せめてあと少しでいいから、文章をキープイットシンプルに書いてほしかった。

と、息も絶え絶えになりながらそうつぶやいたワタシは、やっぱりまだまだいろんな意味で、人生の複雑系の罠から逃れられてはいないようで。




そぞろ歩きの会7 「青山一丁目・新宿御苑編」3.21(日)開催のお知らせ!

2010年03月07日 23時20分18秒 | Weblog
そぞろ歩きの会、今月は3/21(日)に、「青山一丁目・新宿御苑編」として催したいと思います。いよいよ春も到来間近。散策にぴったりの季節がやってまいりました。みなさまぜひこの機会にお誘いあわせのうえご参加ください!

そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載いたしました。

何度か質問されたことがあるのですが、この会は私の知り合いの方々だけで催しているのではございません。翻訳Loveな方(拡大解釈可能)であればどなたでも参加していただきたいと思っておりますので、どうぞお気軽にご連絡くださいませ。 



むっつり

2010年03月07日 19時58分57秒 | Weblog


最近、電車のなかで外国人に遭遇する機会が増えた。

というのも、新宿の某会社に居候させてもらえることになって以来、必然的に毎日電車に乗ることになったわけで、そうすると必然的に電車内で外国人をみかける機会も増えたというわけなのである。そして――外国語に関係する仕事をしている僕としては――必然的にいろいろと胸中に去来するものがあるのである(ただし、居候は必然的なものではまったくなく、僕が一方的に「押しかけ勤務」しているだけなのだけれど)。

あくまで個人的にだが、駅の構内や電車内で遭遇する外国人たちは、よく喋っているという印象を受ける。というか、外国人はどこであっても喋るとは思うのだが、今の自分には、電車のなかくらいしかすぐ近くでしゃべっている生身の外国人に遭遇する機会がないのだから、そういう印象を受けてしまうのだろう。彼女/彼らが電車に乗る理由は、旅行、ビジネス、あるいは日本に長く滞在しているから、などなど様々なのだろうが、やはり外国に来ると気分も高揚しているのか、楽しそうに、あるいはかなり真面目に、いつまでも話題は尽きないといった感じで延々としゃべり続けていることが多い。複数でいるのに、黙ってむっつり電車に乗っている外国人をみかけることはあまりない(むっつりしているから印象に残らないだけなのかもしれないけれど)。

ともかく、彼らは立て板に水のごとくしゃべり続ける。東京の電車にのるとなかなか面白い発見があったりしてついついいつもより余計にしゃべりたくもなるのだろうし(車内は混雑しているし、路線もこれでもかというくらいに張り巡らされているし、そして運行は外国人からみたらおそらく「不自然」と思われるくらいに正確だ)、よく言われるように外国人はパーソナルスペースが広いということも関係しているのかいないのか、かなり人がぎっしり詰まっている車内でも、相当に大きな声でしゃべり続けている。日本人でも大声で話し続ける人は大勢いるが――酔った場合の僕がまさにその典型だ――素面の真面目な小市民的日本人からみたら、少々迷惑に感じかねないほどの一部の外国人たちの話しぶりは、ひょっとしたらあまりにも狭い空間に多数の人々が押し込められているという一種のジョークめいたシチュエーションをうまく認識できていないためなのか、あるいは認識できていたとしても、欧米には「お互い、こういう個人の自由が剥奪されているような世界では、プライバシーを確保するために相手を岩だと思いましょう」というようなある種の紳士協定のようなものが存在し、そのためにあえて相手が存在していないかのごとく、傍若無人に振る舞っているのかも知れないと思ったりする。

とはいえ、そういう風に外国人が延々と喋り続け、日本人は黙って携帯の画面をみながら黙々と親指を動かしているという電車内の光景それ自体は、別段気になることはない。むしろ内心は「外国のお方よ、よくぞ日本に来てくれました。楽しんでいらっしゃるようで何よりです。旅を満喫してください」などと思ったりしているのだが、それとは異なる次元で、僕は電車内ですぐ近くによくしゃべる外国人の一団がいるという状況が苦手である。

というのも、僕は毎日、ほとんど一日中、英語の原文と格闘し、ネイティブからみたらおそらくなんてことはない表現の解釈につまっては、ああでもないこうでもないと、のたうつように悪戦苦闘しているわけである。そしてその対価としてお金をいただき、生きていくことができているわけである。つまりものすごく英語と近い存在で生きているのである。ところが電車のなかでは、ペラペラと英語をしゃべり続ける外国人たちの隣で、日頃、英語や英語圏文化へどっぷり浸かっているはずの(恥ずかしい)日常など存在しないかのごとく「拙者は、お主たち英語圏の人々とはまったく違う世界でいきているのでござる」といった純和風な自分を演じているわけである。そんな自分のことを、なんとなく「むっつりスケベな野郎」みたいに感じてしまうのだ。

もちろん、車内に外国人がいたからって、いちいち「やあ調子はどう? 僕は翻訳の仕事をしてるんだ。どこから来たの?何しに来たの?ふ~ん、そうか、アーハー、アーハー、そうなんだ、じゃあ、have a nice day!」なんてやっていられない(たまにはやってみたいけど)。相手だってそんなJapanese KYな奴がいたら困るだろう。だからこちらとしてもしょうがなく、黙って素知らぬ顔をしているわけであるし、別段、そのことで自分を責める必要もないとも思う。だがどうしても、そんな自分のことが、表向きでは周囲が下ネタで盛り上がっているときにも、「僕はそういうの興味ありません」といって涼しい顔をしている、家に帰れば実は超スケベなむっつり野郎に感じられてしかたがないのである。

それに、僕は仕事柄、電車のなかでは英語の資料を読んでいることが多い。納期間際の翻訳対象の原稿である場合も多いから、いきおい真剣度も増すし、眉間に皺を寄せて赤ペンで書き込みなんかをしていることもある(いかにも、「ここは重要だ」見たいな顔して。でも実際は、単に「何でオレこんな基本的な単語の意味も知らないんだ」と心の中で呟きながらわからない単語に印をつけているだけなのである)。そんなとき、隣に外国人軍団がピーチクパーチクやっていると、なんだか妙に恥ずかしい。というか、なんというか妙に自分の存在が白々しい。「むっつりした」自分を痛切に感じてしまうのである。

あるいは、なまじ話しかけられて、「お前はそんな難しそうな英語の書類を読んでいるけど、仕事は何をしているのか? 何? translatorなのか?(その下手な英語で本当に?)そうなのか、ねえ(と、隣の人を肘でつついて)、彼、翻訳者なんだって」とかなんとか言われて集団に好奇心の目で見つめられ、しどろもどろになっている自分、さらには、その延々としたやりとりを、さらなる好奇心の目で見つめる日本人集団、そしてそんな僕たちを乗せて走りゆく午後9時の中央線、という悪夢のような世界を妄想してしまったりもする。

まあ実際、そういう風に話しかけられたこともないし、話しかけられたら話しかけられたで楽しく会話できるのかもしれないけれど、ともかくそんなわけで僕はむっつりスケベな自分を感じてしまう外国人との電車内での遭遇が苦手でなのである。まあ、実際にスケベであるってことは、まったく否定できないのだけれど。

男子トイレの力学 ~わんぱくでもなく、たくましくも育たなかった自分へ~

2010年03月01日 01時06分20秒 | ちょっとオモロイ
自慢じゃないが――実際、何の自慢にもならないのだが――僕はトイレ(小)が近い。それもかなり近い(やっぱり――「トイレがすごく近い」という狭義の意味においては――相当に自慢できるかもしれないほどに近い)。さらに言えば、これまた自慢じゃないが――まったく自慢にならないどころか、そもそも「近い」という表現が適切ではないのかもしれないが――トイレ(大)も近い。非常に近い。つまり僕という存在は――小難しい形而上学的な問題は脇に置いて、ごく端的に言ってしまえば――そしてなぜかこの文章にはダッシュ(――)がやたらと多いわけだが――「男は近くにトイレがなければ生きていけない。トイレがなければ生きる資格がない(by レイモンド・チャンドラー)」を地で行くほどに、トイレに依存して生きているわけなのである。

トイレのなかでは、フィリップ・マーロウ気取り――そんな僕の心情を察してくれているのかいないのか、居候させていただいているオフィスの座席は、トイレにとても近い。トイレが僕を呼んでいるのか、それとも僕がトイレを呼んでいるのか、それともその両方なのか、その真相は謎に包まれたままだが、ともかく僕はトイレが近く、トイレも僕に近く、まさに相思相愛、僕とトイレと○○は三位一体で、これ以上ない不可分の存在として、今日も明日も明後日も、お互いに無くてはならないもの同士として、この現実世界に確固として存在し続けているのである。

そして――この際はっきり言わせてもらうならば――僕は、

To go to the toilet is to die a little.

――トイレに行くことは、わずかのあいだ死ぬことだ――(by レイモンド・チャンドラー)

の名言にもあるように、このつかの間の死――日常からの逃避行――を愛していて、単なる生理的要求に従うだけではなく、むしろ精神的なやすらぎを、四角い壁に囲まれたこの小さな空間にいることで確実に得ているのである。それは僕の毎日にとってなくてはならないものなのだ。

と、そんなことを書いてしまったのにもわけがある。最近、そんな僕とトイレの蜜月に、かつては感じることのなかった不協和音が木霊するようになってきたのである。

「原始、トイレは太陽だった」――の箴言のとおり、ずっと家に籠もりきりで仕事をしていたとき、そこは誰にも邪魔されない、まさに楽園であった。トイレは僕にとって、好きなときに行き、好きなだけ本を読み――ドアを開けっ放しにして――好きなだけ便と戯れる、そんな楽土であった。

しかし今は違う。

もはやトイレは、僕にとって絶対的な自由を約束してくれる場所ではなくなった。

男が一歩、家の外に足を踏み出せば、そこには七人の敵がいる――そう、トイレ(大)は、僕だけを優しく招き入れてくれる癒しの場ではなくなってしまった。そこは、七人の侍が――つまりは先客という名の「異物」が――いる可能性のある場所に成り果ててしまったのだ。先客の存在を感知した僕のセンサーは、異常なまでに反応する。トイレという楽園に他者が存在することの不条理をにわかには受け入れられず、心の――あるいは大腸の――サイレンがけたたましく鳴り響くのである。

そして自慢じゃないが――だんだん「――」を使うのが面倒くさくなってきたわけだが――僕はこの男子トイレのなかでのなわばり争いに、非常に弱い。ものすごく弱い。

つまりはこういうことだ。会社の男子トイレはかなり狭い。トイレ(小)とトイレ(大)がそれぞれ1つしかなく、しかも隣接している。まさに「板子一枚隣は地獄」、その狭い空間に居合わせたふたりは、お互いの息吹を――そして下半身から放出される息吹、あるいは異○に対し――嫌がおうにも感応せざるを得ないのだ。

自分が(小)を足しにトイレに何気なく足を踏み入れたとき、そこに敵――すなわち(大)の最中の男子――が存在していることに気づいた僕は、あられもなく狼狽してしまう。自分の体験から、(大)の最中に、(小)の人が入ってきたときは、なんとも気まずいものではないかと思っているからだ。だから相手に気を遣わせてはならないと、なるべく速く用を足して――まあ、そうでなくてもぶっちゃけ普段から相当速いのだが――なるべく自分の存在を消して、足早にトイレを去ろうとする。ところが――to my surprise(驚いたことに),――相手はそんな僕の細やかな心遣いを知ってか知らずか、僕の存在などまったく意に介さずといった雰囲気で、少しもそのペースを緩めることなく、僕が入ってくる直前と寸分違わぬパワーで――実際に確認したわけではない――力み続けているように思われるのである。「フ――ッ」とか「ウ――ッ」とか、思い切りため息を漏らしていたりもする。激しくトイレットペーパーをつかみとる音がする。僕の気は激しく動転する。

「(小)のところに他人がいるのに、人はこれほどまでにその他者の存在を打ち消してまで、(大)に専心できるものなのだろうか?」

僕は自分の存在をまったく認められなかったことに対して軽い目眩を覚えつつ、言いようのない打ちひしがれた気持ちで急いでその空間を去ろうとする。たのむから(大)から出てこないでくれ、と心のなかで叫びながら。それくらい、(小)の最中に(大)から知っている人が出てくるのに遭遇するのがとても苦手なのだ。「ジャーッ」と勢いよく水が流れる音が聞こえてきたりすると、もう気が気ではない。逃げるようにしてジッパーもあげずに――こういう状況じゃなくてもジッパーをあげ忘れることが異常に多いってことはこの際、言いっこなしで――負け犬気分でトイレを去る。

自分が(大)にいるとき、(小)に誰かが入ってくるのもとても苦手だ。紳士としては当然、下半身の活動は一時停止せねばならない、と思う。ドアが閉まっているから、そこに誰かがいるのは相手には当然悟られているとしても、息を殺してまで――遠い夏、そうっと息を止めて、トンボをつかまえたあのときのように――自分の存在を打ち消そうとする。

それなのにやはり相手は、そんな僕のデリケートな心を少しも気にしていないかのように、ため息を漏らして放尿の快楽に浸るのである。しかもそれが長い。滞空時間があまりにも長い。こっちは息を止めて「もう勘弁してくれ」と心で祈っているのに、ものすごく長い。ヨガの行者が、水中ではてしなく息を停め続けることができるのと同じくらいに、水中深くグランブルーを求めて潜水するジャック・マイヨールかと思うほどに、彼の放尿時間は長いのである。追い打ちをかけるように――あるいは、勝ち誇ったかのように――得も言えぬとでも言ったような喘ぎ声とため息を漏らす。ようやく用を足したかと思えば、入念に手を洗い、そして鏡にひとしきり見入る。人の糞便活動を氷結させておいて、この余裕はなんだ。そうこうしているうちに、こっちはすっかり虫の息だ(相手がそこにいる間は、扉を開けて出ていこうなんて、絶対に思わないし、思えない)。

負けた――。完膚無きまでに負けた。男子トイレという場において、僕はあきらかに弱者だ。悲しいくらいに敗者だ。なぜこれほどまでに、我はトイレという空間においてか弱い存在でなければいけないのか――僕は哀しみの表情で、括約筋の緊張を維持したまま、天を仰ぐ。

―――

柔道では、まずお互いに相手の奥襟や袖口を掴んでから闘いが始まる。このとき、山下泰裕さんは、試合で一度も相手に優位な差し手を取られたことがないのだという。かならず自分が相手よりも有利な体勢になるように、がっちりと相手を掴む。そうなれば、勝負はもう決まったも同然である。だからこそ、自分は無敵の強さを誇ることができたのだと、彼がどこかで語っていたのを記憶している。僕はいつも、トイレの勝負に負けたときに、山下さんの偉大さを思い出す。そして僕は、ことトイレにいるときに限って言えば、どんな相手が来ても、絶対に自分を不利な組み手に持ち込むことにかけては山下さんにも劣らないだろう――まったく自慢にはならないのだが――と思う。嗚呼、ここはまさに四角いジャングル。闘いの大海原なのだ。こんなところにも存在する、オス同士の闘い。男って辛いよなあ(女子にもいろいろあるんだろうけど)。