イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

安息日

2011年07月20日 23時25分53秒 | Weblog
ここ2日、台風で天気がよくなかったので、ジョギングを久し振りに休みました。毎日かなりの距離を走っていたので、体には疲れが残っていたみたいです。そういえば、最近は目が覚めると脚の筋肉に張りを感じていました。精神的には天気で気持ちがよくてぜんぜん問題ないと感じていたのですが、体には少々無理をさせていたようです。いい調整になりました。

7月から8月上旬にかけては仕事が山積みでいっぱいいっぱいなのですが、それが終わったらすこしはのんびりしたい。そろそろ本当に命の洗濯しないと。

ペットボトルと脂肪

2011年07月17日 21時23分10秒 | Weblog
食事の量を減らし、運動量を多めにした結果、少しずつ体重は減ってきているようです。

しかし、71~2キロから64キロに減らすというのは、思ったより大変だということに気づきました。

ちなみに、なぜ64キロかというと、身長からみた標準体重がそれくらいであるということと、昔むか~し、そこそこ運動をしていた時代、64キロくらいのときに調子がよかったような淡い記憶があるからです。あの頃に戻ってみたいと。

思えば20代の頃は、64キロでもかなり重くなったような気がしていたものです。かつては、50キロ台という時代もありました。信じられません。いま50キロ台まで減量したら、きっと病気になったと周囲から心配されるでしょう(日焼けして色黒だし)。

なぜ、思ったより大変かと感じたかと言うと、いつも2リットルのペットボトルのミネラルウォーターを飲んでいるのですが、それを手に持ったとき「これと同じだけの重さの脂肪を、約4本分も減らさなあかんのか~」とふと想像してしまったからです。1本でも、相当に重い。逆に言うと、それだけの脂肪を身につけているのですね。ぞっとしました。

脂肪1キロあたり、7000キロカロリー。70キロの体重の人が1キロ走って70カロリー。単純に計算すると、100キロ走らないと1キロの脂肪を燃やせません。それでもまあ、走ることは大好きなので、まったく苦ではない。このまま食事を少し抑えめにして、頑張ってみようと思います。








静かなる誇り

2011年07月13日 22時20分18秒 | Weblog
数日前から、昼間仕事をしていると、マシンからうなるような音が聞こえてくるようになった。夏はコンピューターも熱くなる。下手をすると、ハードディスクがご臨終してしまうかもしれない。

原因は、マシンの内部にたまった埃だと思われる。
そこで、エアスプレーを購入した。サンワサプライ エアダスター(逆さOKエコタイプ)マシンの蓋を開けて、スプレーで埃をはじき飛ばす。出るわ出るわ。ものすごい量の埃だ。
それを掃除機で吸い込んだ。

蓋を閉じ、起動させると、うなり声は止んだ。いま、パソコンは静かに動作してくれている。

これで夏が越せそうだ。

(シーン)

カチャカチャカチャ(キーを打つ音)




冷凍バナナと引き替えに ~この圧倒的な小スケール感~

2011年07月12日 00時02分40秒 | Weblog
ここのところ、毎日冷凍バナナを5本ほど食べています。仕込みが大変です。

その前は、ちょっとしたメロンブームがありました。メロンを一個まるごと、台所で立ったまま食べるという、贅沢極まりない愉しみ。悪徳感、背徳感がたまりませんでした。

その前は、かなり長きにわたって、グレープフルーツブームがありました。1日1~3個程度、数カ月にわたって毎日食べ続けていました。半分に切って、上に砂糖をまぶして一気に食べる。もちろん、台所に立ったままです。罪悪感は、それほどありませんが、やっぱり贅沢なことしてるなあと思っていました。

私はもともと、非常にスケールの小さな男です。メロンをまるごと一個食べるということが、自分にとってどれだけ非道徳なことか、どれほど大きな壁だったか。以前の自分なら、そんな大それたことは、想像もしませんでした。
ところが、何かの拍子でこうしたタガが外れ、贅沢なマイブームが続いているというわけです(まあ、冷凍バナナはたいした贅沢ではないけれど)。

そうやって贅沢なことをする度に思うのです。
俺も大人になったのだなあ、と。
そしてなぜだか、こうして人の人生は流れていくのだなあ、と、生への執着も少しずつ減っていくような気もします。贅沢を極めると、その代わりに現世への未練も薄れていく。そんなことを考えながら、今日も冷凍バナナを食べているのでした。スケール小さいな~!


にゅ~MEN

2011年07月10日 22時23分43秒 | Weblog
先日の減量宣言の続きですが、9月17日に近所でフルマラソンの大会があるので、それまでに64キロ以下になり、軽くなった体で走ることを目標にしたいと思います。
果たして…? 

10 Steps to a New Youというタイトルで、自分を新しくするための方法が10個、掲載されているサイトをみつけました(英語)。なかなかいいことが書いてありました。

タイトルを大まかに訳すと、こんな感じです。
1. 減量
2. 整理整頓
3. アルコールやカフェインは適度に
4. 楽しむ時間を持つ
5. 運動する
6. 良い人間関係を育む
7. 新しいことを学ぶ
8. ボランティアをする
9. エコロジーな暮らしをする
10. 家計を健全に

自分にもすべて当てはまる気がします。1つずつでいいので、意識的に小さな変化を取り入れていきたいものです。よい習慣を1つ取り入れるだけで、よい影響は全体にじわじわと広がっていく。そんなことを最近、よく考えています。

ちなみに、ニューユーというのは、英語独特の表現ですね。エセ関西人としては、にゅうめんを思いだします。ああ、食べたい~。

翻訳の力

2011年07月09日 22時34分18秒 | Weblog
僕は翻訳者なので、翻訳の力を信じています。

翻訳の善し悪しは、本の売れ行きに「相当に」影響する。
影響するのは当然。でも僕は、「相当に」影響すると考えているのです。

人の訳書を見て、10万部売れた本でも、「もっと訳がよければ15万部はいけたに違いない」「10万人が購入してくれたのに、この訳じゃ最後まで読み通した人はあんまりいないのではないだろうか」などと思うこともあるし、1万部しか売れなかった本でも「訳がよかったから、本当は5000部クラスの本なのに倍売れたのかも」などと思うこともあります。翻訳者が気にしなければならないのは、「本来~部くらいのポテンシャルの本が、自分の訳によって、どれだけ増減したか」であって、単に何部売れたかということではないと考えています。100万部売れたとしても、訳が酷ければ意味がない。100万の負のエネルギーを世の中に撒き散らしたことになる。その責任は重い。

僕は人の訳書が、訳の質が、めちゃくちゃ気になります。訳者の責任はものすごく大きい。最近、同業者の方から聞いてなるほど、と思ったのですが、訳書に名前が出るということは、その大きな責任を負っていることの証なのだと。間違いがあったら、それは私の責任ですよ、ということの証なのだと。

内容が良くても、訳が不味ければ、口コミでの広がりは鈍いものになる。
書店で本を手にとってパラパラと中身をみたとき、砂を噛むような読みにくい文章だったら、買う気が失せる。
翻訳者の情熱は、必ず読者に伝わる。

翻訳者だから、訳のことがやたらと気になる。翻訳の力が、ありありと眼前に迫ってきます。

しかし、それはどの仕事でも同じなのだと思います。本の世界でいえば、営業担当者は営業の力を、編集者は編集の力を、マーケティング担当者はマーケティングの力を信じている。要は、自分の仕事の価値に誇りを持つということ。その価値に意味を感じていること。

金曜日に、日経新聞の朝刊に、私が翻訳を担当した書籍『成功者は皆、ストーリーを語った』の広告が掲載されました。効果はテキメン。Amazonの売上ランキングの順位が一気にあがりました。

この日の広告君には、翻訳君も脱帽。今日のヒーローはあなたです(ありがとう~!)。
しかし嬉しい反面、ここまで大きな影響があると、翻訳の力の立場はどうなるんだ? という思いも少々脳裏を過ぎります。結局は、宣伝いかんなのかと。

しかし、広告君と翻訳君(ほかにも、いろいろ○○君はいます)は、手を繋いでチームの一員として頑張っているのです。広告君は、カンフル剤のように本の売れ行きにキックを入れ、読者の注目を集める。翻訳がよければ、読者はジワジワと増えていく。

自分の訳が、そういう価値を生み出す訳であるように。そう願ってやまないし、これからも常にそんな心構えで仕事をしていきたいと思っています。なんだか突然真面目になってしまってすみません。

恋はデブジャブ

2011年07月08日 22時13分07秒 | Weblog
母からも姉からも太ったと言われました。
姉には、会う度にデブになったと言われている気がします。
デジャブ? デブジャブ? デブじゃデブ?

現在の体重は71キロ(身長は170cm)。かなり際どいところまできています。

ここ数年、腹が肥大化しているのが気になっていました。
体と頭の切れが今ひとつなのも、体が重いからかもしれません。

思い切って何かに挑戦するのも人生。

減量宣言しようと思います。

最終的な目標体重は64キロ(ライトウェルター級)以下
今月末までに、まずは69キロ(ウェルター級)を目指します。

経過はデブログ、じゃなくてブログで報告します。

大事なのは左手じゃなくて右手

2011年07月06日 23時50分15秒 | Weblog
布袋寅泰さんの生き様、存在に惹かれる。

布袋さんに限ったことじゃないけど、ギタリストを見ていると羨ましく感じることが多い。

ギターが好きで好きでたまらなくて、何時間でも飽きずに引き続けることができて、そのギター小僧の延長に、プロとしてのステージがあったり、レコーディングがあったりする。職業人として、ひとつの理想だ。自分の場合はどうなのか?

布袋さんのギター講座の動画を見つけた。どんな世界でも同じだろうけど、一流と言われる人は、素人目には単に「凄い」としかわからない妙技を、実にロジカルに、細かいところまで考えながら実践しているのだということがわかる。

「大事なのは左手じゃなくて右手」

布袋さんがいうと説得力がある。スポーツの世界でもよく聞く言葉だし、いろんな世界に当てはまることじゃないだろうか。
翻訳でもそう。うまくやろうとして、言葉をちりばめることばかりに気を取られていては駄目。ありふれた言葉でも、センテンス、パラグラフに確かなビートがあれば、十分に力強い文になる。

布袋さんを見ていると、あの○○小僧精神で俺も行かなきゃ!と思ってしまうのである(ちなみに「翻訳小僧」は大先輩の専売特許ですね)。

布袋ギター講座(bad feeling)

ハハカエル

2011年07月05日 20時48分25秒 | Weblog
母はよく働く。
4日間で洗濯機を13回も回した(母が数えていた)。洗濯が好きなのだ。
洗濯機のスイッチを巧みに使いこなして、
途中で電源をとめて水を足したり、洗剤を先に溶かしたり、
僕にはよくわからないが裏技を連発していた。

年をとっているから機械に弱いなんてことはない。
人は、興味のあるマシンにはすぐに熟達するのだ。
10年ほどその洗濯機を使っている僕は、いまだに電源ボタンと開始ボタンくらいしか使っていないというのに。

それにしても、母はよく動き、食べ、喋り、笑い、そして寝る。
母の世代の人にはとてもじゃないが勝てない。つくづくそう思う。

しかし母は言った。
「明治の人は裁縫はもちろん、できないことがないくらい何でもできたけど、昭和の人は戦争があったから、そういう伝承的な技法の一部が失われてしまったんよ」
上の世代に尊敬を感じるのは、いつの世でも同じなのか。

明治は意外と近くにあった。

母は今日、帰って行った。ありがとう。また会う日まで。

ままならないまま

2011年07月04日 19時46分00秒 | Weblog

土曜日に母が滋賀から遊びに来た。昼前に武蔵境の駅に迎えに行き、タクシーで家に戻った。昼ご飯は準備しておくから、と伝えてはいたものの、まずメロンを出し、次に空豆を出し、しばらくして枝豆を出し、最後にまたメロンを出してごまかした。母はずっと家の掃除をしていた。台所がピッカピカになった。

日曜日のお昼に姉夫婦とその二人の子供が遊びにくることになったので、それまでに家を綺麗にしておかなければならない。震災以来、カオスと化していた我が家だが(実は震災前からカオスだった)、これを機に徹底的に掃除をしよう!と僕も張り切った。

途中、スーパーに行き、晩と翌日の食材を購入した。明日の姉家族との昼ご飯は、ちらし寿司中心のメニューにすることにした。晩ご飯はアサリと豚肉のにんにく蒸し風にした。夜、母は本棚が積み重ねられたリビングで寝ることになったのだが、地震で本棚が倒れてきたら、と考えると不安になったので、ソファを動かし、反対側の壁沿いに布団を引いた。

日曜日、約束の一時が近付き、母と僕は家のなかをあちこち片付け、昼食の用意でてんてこ舞いになった。姉夫婦は夕方までいてくれた。甥とは近くの公園でサッカーもした。余ったちらし寿司は、持って帰ってくれた。

とかく人生はままならない。
いつも、そんな矢先に、母はやってくる。
母がやってくると、家のなかの空気が変わる。
ままならないと思っていた何かから、僕は一時的に解放される。
別の世界に連れ去られたみたいな、慣れ親しんだ場所を旅しているような、そんな不思議な気持ちになる。
実は、ままならないものはままならないままなのだが、母がいるあいだは、ままらないものについてじっくりと考えたりするヒマはなく、ままならないものはしばし放置するしかない。

母が帰っても結局、残念ながらままならない何かは、ままならないままであり、むしろ妙な寂寥感すら覚えたりするが、それでもちょっとだけ、そのままならなさが、和らいだような気になることもある。

最近は、そういう「人生がままならない問題」、あるいは、「人生のままならない問題を母親が来ることによって一時的に放置した場合、結果的にどうなるのか問題」に対して、明確な答えを求めたりはしなくなった。どうでもいいと思っているわけではなく、答えが見つからないと思っているわけでもないのだが。

ただ言えることは、人生は依然としてままならず、そして母親が来ている間は、そのままならなさすらを考えることすらもままならないということだ。母は明日帰ります。

2011年07月01日 21時19分49秒 | Weblog
今週は珍しく、人と会う予定がいくつかあった。

仕事の打ち合わせが2件。

同業者の方との打ち合わせを兼ねた呑み。

思いがけず、懐かしい友達との電話での再会もあった。

普段は籠もりっきりなので、いつのまにか世間との間にズレのようなものが生まれている。元々人見知りするし、口べたなのだが、人と話すことが日常にないので、よけいに口べたになり、反応が鈍っているのを痛感した。正直、緊張するし、自然に振る舞えない。電車に乗っているだけでも、大勢の人がいると、なんとも落ち着かない気持ちになる。

この仕事を選んだ時点で、今後も、多かれ少なかれ、独りでかなりの時間を過ごさなくてはならない。幸い、周りはいい人、魅力的な人ばかりだけど、度々顔を合わせる機会があるわけではない。そういう数少ない機会に、いい時間を過ごせるようになるためにも、独りでいるときにもっと真面目に仕事に取り組み、自分を高めておかなければ。

それにしても、仕事ばっかりしているようでいて、何か肝心なポイントが抜けているような気がしてならない。

まずは小さなことからコツコツと始めよう。