イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

フリーランス翻訳者殺人事件 6

2009年02月10日 00時33分52秒 | 連載企画
サルの家に サルが住む サルの父と サルの母 サルのこども愛してる サルの家は森に囲まれ

iPodからは、坂本龍一の『サルとユキとゴミのこども』が聴こえてくる。わたしはジョギングをしていた。自宅すぐ近くの多摩湖遊歩道を1.5キロほど走って小金井公園に行き、1周5キロの園内コースを1、2周する、いつものコースだ。家を出る前はあまり意識していなかったが、見上げれば空はどんよりと曇っていて、今にも雨が降り出しそうだった。だがかまわない。ずっと家にこもりきり、引きこもりのわたしにとって、ランニングは一日のなかで唯一、体を動かす手段であり、外の空気を吸う機会なのだ。たまに人に会ったり、図書館にいったり、翻訳学校に行ったり、買い物にいったりすることもある。だが、それらはあくまで数日に一回の割合で発生するイレギュラーな出来事であり、わたしのルーティーンには組み込まれていない。

フリーになることが、これほどまでに孤独なものになるとは予想していなかった。たしかにある程度は予想していた。むしろ、会社を辞める前の数カ月、わたしはたっぷりと自分だけの時間を楽しめる日々が来ることを、なによりも心待ちにしていた。朝から晩まで翻訳にどっぷりとつかり、充実した日々を過ごすことを期待していた。もちろん、その願いはかなった。わたしは文字通りフリーとなり、翻訳することによって報酬を得、生きていく立場になった。翻訳することは仕事人としてのわたしのすべてであり、わたしがやらなくてはならないことのすべてだ。そしてそれは、わたしがもっともやりたいと願っていたことだった。もう昔のように「今の生活は世を忍ぶ仮の姿であり、本当に望んでいる生活ではない」などという嘆きを、心の片隅に抱えたまま生きていかなくてもいい。わたしは、わたしの望む仕事を、臨んだ形態で行っている。もうどこにも行く場所はない。今、ここがわたしのあるべき場所なのであり、目の前にある仕事が、わたしがやるべき仕事なのだ。だが、それはナイーブなわたしが想像していたような、ただ単に楽しいと呼べるような単純なものではなかった。

フリーになるのとほぼときを同じくして、わたしは妻と別居をはじめ、そして離婚した。そしてその後のわたしを待っていたのは、とてつもないほどの孤独と不安だった。わたしはようやく自分の居場所にたどりついたと同時に、一番大切なものを失ってしまったのだ。わたしのこころは傷つき、そしてバラバラになった。夜になると、恐ろしいまでの虚無がわたしの心臓を直撃した。毎朝、わたしは重苦しい夢にうなされるようにして目が覚める。当分、それは終わりそうにない。だが、わたしにできることは、ともかく毎日を生きることだ。時間が何かを解決してくれることを期待して。そして走ることは、そんなわたしの沈んだこころを浮き上がらせ、前向きにさせてくれる。不思議なくらいに、走っているときは明日のことを考えられる。新しい人生を生きている、新しい自分の姿が浮かんでくる。だからこそ、わたしは毎日のランニングを自らに課しているのだった。

わたしは公園に到着すると、3匹の猫の住み家となっている茂みに視線をやり、猫がいないことを確認して、いつもの腕立て伏せスポットに向かった。ストレッチを兼ねて、腕立て伏せを20回。毎日のことなので、この行為はなかば儀式化している。腕立て伏せも同じだ。わたしを前向きな気分にさせてくれる。わたしに筋肉があることを思い出させてくれる。全身の筋肉を感じながら、ゆっくりと、体のすみずみを伸ばすようにして、自分を持ち上げる。気持がいい。わたしは腕立て伏せが本当に好きなのだ。

わたしは再び走り出した。キロ5キロのコースを、今日は時計回りに進む。わたしは走りながら昨夜の不思議な出来事のことを思い出した。まったく奇妙な話だ。ジョン・リスゴーの正体は、NHKの調査員ではなかった。否、彼がNHKの人間であることは間違いない。だが彼が所属するNHKは、「日本放送協会」ではなく「日本翻訳協会」だった。彼はいったい何を求めてわたしの家を訪れたのか。ほぼ間違いないのは、彼はわたしの職業を知っていたということだ。日本翻訳協会の人間が、偶然フリーランス翻訳者の家を訪れるなんてことはありえない。フリーランス翻訳者のような希少な職業の人間の家を、日本翻訳協会のようなニッチな団体の人間が偶然、訪問するなんてことはありえない。彼は、何らかの目的を持ってわたしの家を訪問したのだ。だが、彼は本質とは外れた質問をした。彼が知りたかったのは、わたしがテレビを見ているかどうかなどではなかったはずだ。

ひょっとしたら、彼はわたしの命を狙っていたのかもしれない。あのとき彼は、懐にナイフを忍ばせていたのかもしれない。そして隙あれば、わたしの腹部に鋭い刃を突き刺そうと狙っていたのかもしれない。しかし、――なぜ?

わたしはなかば真剣に、彼によって命を絶たれることを想像していた。なぜなら、彼が相当に怪しい男だからだ。相当にイカれた男に違いないからだ。わたしには、彼が日本翻訳協会の人間ではないことがわかった。日本翻訳協会は「NHK」ではなく、「JAT」と呼ばれている。わたしのようなはしくれ翻訳者でも、この業界にこれだけ長くかかわっていれば、それくらいのことは知っている。JAT主催のイベントにだって、何回か出席したこともある。そもそも、JATはまっとうな団体だ。彼のような男を使って翻訳者の家を突然訪問させるような変態組織ではない。つまり、彼は正体を偽って、わたしの家を訪問した。そして彼はわたしの職業を知っている。

そこまで彼のことを不審に思っていながら、昨夜のわたしは自分でも意外な行動をとってしまった。わたしは彼からもらった封筒を開け、アンケートに目を通した。そんなものに応える義務はないと知りつつ、わたしはなぜかそのアンケートに答えてしまった。そして思わず、なぜかそこに記載されていた翻訳トライアルにも挑戦してしまったのだった(続く)。

フリーランス翻訳者殺人事件 5

2009年01月31日 15時09分16秒 | 連載企画
殺人事件――。テレビを見なくなったわたしは、ニュース番組で殺人事件を知ることもなくなった。新聞は読んでいるから、殺人を始めとする犯罪のニュースは目にしている。だが、少なくともわたしにとって、テレビで報道される殺人事件は、聞記事で知らされるそれとはかなり異なるものだ。夕食時にリビングのテレビをつける。すると、ニュースキャスターがその日に起こった事件を読み上げる。毎日のように、日本のどこかで事件は発生する。今日何時頃、どこかで誰かが誰かによって刺殺された。刃物を持った誰かが、誰かの体を切りつけ、心臓を突き刺した。誰かは死亡し、騒ぎに気づいた近所の人が警察に通報。誰か、つまり犯人は逮捕される。犯人の動機は...。

全国の何千万人という人が、そんなおぞましいニュースを毎日のように聞かされる。来る日も来る日も聞かされる。なぜわたしたちは、そのようなニュースを毎日知らされなくてはならないのか。わたしには、その確固たる理由はわからない。何らかの事件が起きれば、当然それを知りたがる人がいるのはわかる。もちろん、わたしだって興味がある。殺人事件や犯罪事件のニュースは社会への警鐘であり、法を破り逸脱した行為をした者を許さないとする世間の共通意識を形成するのに役立っているのだろう。テレビの画面を見つめながら、誰もが加害者にも被害者にもなりたくないと思う。事件は自らの人生の蚊帳の外であってほしいと願う。たいていの場合、ほとんどの人は殺人事件とは縁のない人生を歩んでいるはずだ。だがそれが、殺人事件のニュースを毎日見ることが、どれほど影響しているのかは定かではないけれど。

世間の圧倒的多数の人たちは、まっとうな人生を歩んでいる。誰かをナイフで刺し殺したりすることは、ほとんどすべての人たちの人生とは無縁だ。にも関わらず、誰しもの日常のなかに、殺人事件のニュースが入り込んでいる。まるで、朝起きたら歯を磨くみたいに自然な形で。

ネガティブなニュースを目にすることで、人間心理にどのような作用が起きるのかはわからない。見た人が「自分はこのような凶悪な事件とはかかわりないところで生きていこう」と思うのであれば、ニュースはポジティブな働きをしているのだろう。実際、その効用は確実に存在すると思われる。だが、わたしはテレビで犯罪事件のニュースを見るのが好きではなかった。暗いニュースを聞かされる度に、人を刺殺するにいたった犯人の重苦しい人生を想像し、刺殺されてしまった人の不運に悲しみを覚えた。新聞記事なら、さっと走り読みするだけで済む。心が読むことを嫌がれば、すぐに別の記事に目を移せばいい。テレビを見ているときのように、逃げ場のない思いで数十秒間、あるいは数分間、悲しい事件に部屋全体の空気を支配されなくてもいい。

事件は今日も全国のあちこちで発生しているだろう。新聞では臨時ニュースは伝えられない。だからわたしは、近所で連続殺人が発生していようとも、それに気づけないだろう。ネットで知ることはできるかもしれないが、わたしがネットでニュースを読むのは多くて1日に2、3回だ。だから、もしNHKの受信料調査員を装った殺人鬼が近所を徘徊していることが臨時ニュースで報道されていたとしても、わたしはそれに気づけないかもしれない。彼がこの家のチャイムを鳴らしたら、わたしはいつものように仕事をする手をとめ、玄関までスタスタと走っていき、国立競技場に颯爽と姿を現した瀬古利彦のような笑顔で扉をあけるのだろう。そして、ジョン・リスゴーのナイフは、わたしの腹部を深くえぐることだろう。わたしは後悔するに違いない。テレビを見ていないことを。そして、にもかかわらずNHKの受信料を支払い続けていることを。

わたしが殺されたニュースは、その日のうちにテレビのニュースで全国のお茶の間に知らされる。「本日午後6時頃、東京都○×市の住宅街で、30代の男性が何者かによって刺殺されました――。」アナウンサーは、いつものように抑揚のないしゃべり方で、ニュースを伝えるのだろう。そしてそれを見るまっとうな人たちは、歯を磨くように当たり前にそのニュースを受け止め、自らの人生にはそのような悲劇が舞い込まないことを願い、眠りにつくのだろう。明日というまっとうな一日のために。

とはいえ、フリーランス翻訳者は、もっとも殺しの対象になりにくい職業のうちのひとつかもしれない。好き好んで翻訳者の息の根を止めようとするものなど、いるとは思えない。巨額の金を扱うわけでもないし、仕事上、人に恨みを買われるようなことだって稀だろう。もちろん、よくない翻訳のせいで、依頼者や読者に迷惑をかけてしまうことはある。だが、それが原因で暴力事件が発生することは、常識的に考えてまずあり得ないだろう。それに、フリーランス翻訳者は基本的に家に閉じこもっている。人目にさらされることも少ないのだから、偶発的に事件の被害者になる可能性だってかなり低いはずだ。

わたしの場合、殺されてしまう可能性として考えられるのは、ランニングの最中に暴漢に襲われるか、自宅を訪れた凶悪犯に刺殺されるかくらいだろう。車の往来の少ない道を走ってはいるものの、交通事故に遭う可能性は少々高いかもしれない。特に夜道を走っているときは。だが、仕事がらみで編集者から絞め殺されたり、翻訳会社のコーディネーターに階段から突き落とされたりするようなことはあるまい。あるかもしれないが、あってはほしくない。

そもそも――、とわたしは考えた。翻訳者を殺すには、刃物はいらない。翻訳者の死につながるもの、それは、質のわるい仕事であり、仕事の枯渇であり、それがもとで食べていけなくなることにほかならない。そして、日常に潜む孤独も。当然、わたしもそれらとは無縁ではない。特別に意識しているわけではないが、フリーランス翻訳者としてのわたしに忍び寄る死の影に静かにおびえながら、わたしは毎日を過ごしている。

わたしは仕事を再開することにした。こんなことを考えていても始まらない。心から恐れを取り除くには、仕事をするしかない。自分の技量をあらゆる面において高めていくしかないのだ。仕事場に戻ると、わたしはキーを打ち始めた。不安を打ち消すためには、1ワードでも多く翻訳することだ。仕事の結果は、文字としてコンピューターの画面のなかに現れる。文字が多ければ多いほど、わたしは不安から遠ざかることができるのだ。

ひとしきり仕事をした後、わたしは机の上に置いてあった名刺と封筒を手に取ってみた。ジョン・リスゴーの名刺には、当然のことながら『ジョン・リスゴー』とは記載されていなかった。わたしが目にしたのは『徴収 力』という奇妙な名前だった。ちょうしゅう りき。面白いじゃないか。力づくでも、受信料を徴収するということか。わたしは笑った。もしこれが彼の本名なら、彼の今の仕事は天職にちがいない。わたしは彼の名刺をもう一度眺めてみた。『NHK』の文字が見える。

次の瞬間、わたしは自分の眼を疑った。『NHK』の右横には、わたしの想像とは異なる6文字が記載されていた。


    NHK  日本翻訳協会

        徴収 力


わたしは、得体のしれない何かがこの身に迫ってきているのを感じた。



※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。







フリーランス翻訳者殺人事件 4

2009年01月30日 13時20分31秒 | 連載企画
しばらく仕事をしてから、わたしは休憩をとった。誰もいない部屋。誰の眼もないこの部屋。仕事をするのも、休憩をとるのも、わたしの自由だ。今この場で、素っ裸になって逆立ちをしても誰にも文句は言われない。マジックで腹に福笑いまがいの顔を描いて、腹踊りを始めたって誰にも白い眼でみられたりはしない。わたしは自由なのだ。だが自由って何だろう? 会社員時代、あれほどまでに手に入れたかった自由とは、いったい何だったのだろう? それは、裸で逆立ちすることでも、腹踊りをすることでもないことだけはたしかだ。そんなことのために、わたしは今、ここにいるのではない。わたしは一抹のむなしさを感じた。

わたしはリビングの台所に立ち、やかんに水を入れて火をかけた。生姜をすり、レモンを絞ってマグカップに入れ、沸騰した湯を注いだ。しょうが湯をひとくち啜り、リビングの本棚の前に立った。和書や仕事関係の本は、別の部屋にある本棚のなかだ。リビングの本棚には、洋書と翻訳書だけを置いている。数えたことはないが、合計すれば千冊は下らないだろう。会社員だったころ、わたしは何かに憑かれたようにして新古書店で本を買い漁った。仕事で忙殺され、家に帰ってからも個人として請けていた書籍の翻訳の仕事に追われた。本を読む時間がなかったわけではない。だが、読めなかった。思うように、浴びるように読みたいという気持ちは澱のようにわたしのなかにつもっていった。その反動からか、書店で本を買い求める頻度は増していった。買い集めた本をいつ読むのかという問いに対する明確な答えを持たないまま。

時間のあるときに読みすすめてはいる。だが、すべてを読み終えるまでにいったいどれくらいの時間がかかるのか、想像もできない。そもそも、そんな日がくるのかどうかも疑わしい。だけど、わたしは本を買わずにはいられなかった。翻訳を志し、情熱を燃やし始めてから、気がつけば10年以上が経過している。本棚に眠る書物たちは、わたしの志の証だ。どうしても翻訳の仕事がしたい、と願い続けた過ぎ去りし日々の、動かぬ証拠だ。しょうが湯を飲みながら、わたしはその場にしばし立ちつくした。今、熱い日々は過ぎ去り、わたしは念願のフリーランス翻訳者になった。ずっと夢見続けていた、翻訳者になった。明けても暮れても翻訳ができる立場になった。本だって浴びるほど読める身分になったはずだ。もう会社に時間を束縛されることはない。だが、「会社が束縛していたわたし」とは、何者だったのか? わたしはありもしない自由を求めていただけではなかったのか?

いや、こんな問の立て方は間違っている。わたしは夢に向かってまい進しているのだ。ひとつの目標を定め、それに向かって道を歩んでいるのだ。走り続けているのだ。後ろを振り向いている暇はない。たとえゴール直前のラストスパートで無情にも瀬古に抜かれてしまおうとも、ひたすら前だけをみて走り続けなくはならないのだ。スタート直後からいつも先頭にあることだけを目指していた、イカンガーのように。わたしはネガティブになりがちな自分のこころを戒めた。そんな弱い自己を嫌悪した。わたしがすべきことは、過去の肯定だ。願いどおりの立場になることができた、恵まれた自分の人生に感謝することなのだ。自分の身の回りにいる人たちへの、尽きることのない感謝の気持ちを感じ、それを態度で表していくことなのだ。フリーランス翻訳者として、まっとうに生きよう。これまでと同じくらい、いやそれ以上の大きな夢を描いて。

書物は何も語らず、ただ黙って本棚に収まっている。わたしはテレビのない部屋で、テレビがないことについてもう一度考えることにした。テレビがないことで、わたしはかなりの情報欠落人間になっている。流行りの芸能人、ドラマ、音楽。わたしはまったく時代に追いついていない。大きく取り残されている。だが、もともとわたしは流行りものには疎いほうなのだ。テレビがあったとしても、最先端の情報にキャッチアップすることなどできない。だから、そのことについてはあまり気にならない。惜しむらくは、良質のドキュメンタリー番組を見れなくなったことかもしれない。文化人、芸術家、ビジネスマン、市井の人々。世の中には面白い人たちがたくさんいて、それぞれに毎日を過ごしている。そんな人たちの生きざまを見せてくれるトークショーやドキュメンタリーが、わたしは好きだった。テレビで初めてその人の存在を知り、その人について調べる。その人が書いた本を読む。そうやって芋づる式にわたしは多くの人々とのバーチャルな出会いを果たしてきた。テレビの画面のなかで人が動き、呼吸し、語る。その様をみながら、わたしは世の中と繋がっていたのだ。だが、今はそれも気にしないでおこう。テレビのある生活は、いずれまた始まるだろう。画面を通じて、また新しい人たちとの出会いがあるだろう。そして、ついついテレビを見すぎてしまう自分を、わたしは戒めているに違いない。テレビの電源をオフにして、仕事をしなければ、本を読まなければと自らにいいきかせているに違いない。今はたまたまテレビがないだけだ。誰もいないこの部屋で、ひとりしょうが湯をすする生活だって、いつまでも続くわけじゃないと信じたい。きっとまた、暖かい暮らしがわたしを待っているはずだ。そのときが来るまで、この独りの暮らしをせめて楽しもう。自分と向き合い、書物と対話しよう。いっぱしの翻訳者だと世間が認めてくれるまで、努力を続けよう。納得のいく仕事ができるようになるまで、自らを磨き続けていこう。テレビがないことくらい、なんともない。海外に住んでいると思えばいいじゃないか。日本のニュースもドラマも見れなくたって、数年間くらいは問題ないはずだ。そうだ。わたしは今、リオ・デ・ジャネイロに住んでいるのだ。

わたしはマグカップのなかのしょうが湯を飲み終えた。仕事を再開しようと思った。だが、すぐにはコンピューターに向かうことができなかった。わたしの頭に、四文字の言葉が浮かび、そのことについてしばし考えてしまったからだ。わたしはソファに腰を下ろした。焦点をどこにも合わせないまま、わたしの心にふと舞い降りたその四文字を、口に出してみた。

「殺人事件」とわたしは言った(続く)。


※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。

フリーランス翻訳者殺人事件 3

2009年01月29日 23時11分33秒 | 連載企画
わたしが、「テレビは持っていない(つまり、NHKの番組はもちろん、民放の番組も見ていない)。だが受信料は払っている」と伝えると、彼は「そうですか」と困惑した表情を浮かべて呟いた。

彼が戸惑うのも当然だろう。普通「テレビは持ってない」というセリフ――その人が本当にテレビを持っていようと、見え透いた嘘であろうと――に続くのは「だから受信料は払いません」になるだろうからだ。「テレビはない。だけど受信料は払う」なんていう矛盾した主張をするわたしのようなパターンはごく珍しいだろう。考えてみたら、わたしも大人げなかった。受信料を払っていないのならともかく、そうではないのだからテレビがないことをいちいち彼にアピールする必要はなかったのだ。彼にしてみれば、わたしがテレビを持っていようがいまいが関係のないことだ。単に「受信料は支払っています」と言ってあげればよかったのかもしれない。わたしはいつも、とっさの常識的な判断ができない。世間という海をうまく泳ぐことができないのだ。

だが、わたしは彼を困らせようとしたわけではないし、実際そうではないはずだ。すくなくともこれで彼はわたしのことを問題のない相手だと思ってくれただろう。「受信料を払わない」と言っているわけではないからだ。彼は毎日数百件の家庭を訪問するなかで、さまざまな難敵に出くわしているのだろう。「受信料は払わない」と主張する人たちの、その実に多彩なエクスキューズを聞かされているのだろう。毒蛇のように牙をむくものもいれば、ライオンのように吠えさけぶものもあるだろう。その点、わたしなんて可愛いものだ。彼の眼には、わたしは穏やかな森のなかで静かに草を食む小鹿のように無害な存在に映っているに違いない。

「そうでしたか……実はわたくし、皆様のご自宅を訪問して、衛星放送が視聴されているかどうかを調査しておりまして」と彼が言った。

そうだったのか。衛星放送。確かに、わたしの家のベランダには、衛星放送を受信するためのアンテナが設置されている。だがこれは、まだテレビがありし頃、スパカーを受信するために購入したものだ。NHKの衛星放送は見ていないし、受信料も払っていない。そもそも、衛星放送を見れる設定にしていないから、見たくても見れなかった。そのくらい、いちいち家庭を訪問する前に調べられないのだろうか。口頭で質問して確認しなければならないのだろうか。わたしは彼に説明した。このアンテナは「まだテレビがあった頃に」スカパーを見るために購入し、設置したものです――。嘘をついているわけではないのに、なぜだか妙に後ろめたい気持ちになってしまう。テレビがないとのたまっておきながら、ベランダにはアンテナが設置されたままだ。客観的にみたら、やはりわたしは相当に怪しい。なぜだ。なぜわたしは無実の罪で彼に疑いの眼を向けられなくてはならないのだ。

「よければ、家のなかに入って見ていただいてもかまいません」わたしは言った。そうだ。何も怪しいところはないのだから、堂々と彼にその眼で証拠を見てもらえばいい。わたしは、一瞬にして失われかけた自尊心が、一瞬にして回復していくのを感じた。

だが彼は「いえ、家のなかには入れない規則になっておりまして」と言って首を振った。なるほど。たしかに屋内に入って黒白をはっきりさせようとするのは、トラブルのもとにもなるのだろう。テレビがないと言い張る人は、テレビがリビングに堂々と鎮座していたって、ないと言い続けるのかもしれない。あるいは、テレビがあるのがバレた瞬間に、「NHKは見ない」と主張を変えるかもしれない。「NHKは電波が悪くて受信できない」と言うのかもしれない。そもそも、誰だっていきなり他人に家のなかに踏み込まれたら気分を悪くする。さまざまな問題が発生するに違いない。NHKの人だって、身の危険を感じるだろう。下手をしたら、酔っ払って寝ていた親父が眼を覚まし、驚いて包丁を片手に襲いかかってくるかもしれない。お爺さんもおばあさんも飛び起きて、二階からは柔道部の高二の息子も降りてきて、くんずほずれつの殺傷沙汰にだってなりかねない。

わたしはまた常識はずれなことを言ってしまった。冷静に考えれば、彼が家のなかまで入って衛星放送の受信状態を調べるなんてことはまずありえない。でも、繰り返すが、わたしにはとっさの常識的な判断ができないのだ。

でもよく考えればおかしな話だ。わたしは彼にテレビがないと言った。なのに彼は馬耳東風で、衛星放送を見ているのかどうかと真顔で訊いてきた。おかしいじゃないか。テレビがないのに、どうやって衛星放送が見れるというのか。わたしは馬鹿なのか。いや、彼は単にマニュアル通りの質問をしているだけなのかもしれない。落ち着け。それでも、彼がわたしが言ったことを信じていないという可能性は捨てきれない。わたしはそんなに信用できない男の顔をしているのだろうか? まあいい。「まず眉にツバをつけよ」の精神でないと、彼の仕事は成り立たないのだろう。わたしも大人だ。そんなことで腹を立てたりはしない。

ジョン・リスゴーは、衛星放送についてはそれ以上突っ込んでこなかった。彼は次の質問に移った。「ところで、最近の若い方はパソコンでテレビを見る方が増えておりますが、パソコンでテレビは見ていらっしゃいますでしょうか?」

思わず、「はい」と答えそうになった。いや違う。わたしはパソコンにテレビチューナーは付けていない。テレビは見ていない。「Youtubeならしょっちゅう見てますが」と言いそうになるのをぐっとこらえた。それに、そもそもわたしはもう「最近の若い方」ではないと思う。わたしは、パソコンでもテレビは見ていないと言った。

家のなかまで踏み込めない以上、彼もわたしがNoと言った限りは、それ以上打つ手はない。わたしのことを信用していようがいまいが、彼はここでひきさがるしかないのだ。しかし、わたしは受信料を払っている。にもかかわらず、なぜパソコンでテレビを見ているのかどうかを彼に追及されなくてはならないのか。わたしはどうして言い逃れめいた説明をしなければならないのか。まあいい。彼はマニュアルに従っているだけなのに違いない。若い彼を責めるわけにはいかない。

彼は任務終了といった顔つきになった。「よろしければアンケートにご協力いただけますでしょうか。この封筒に用紙が入っています。書かれている質問に答え、郵送か電子メールで返送ください。お手数ですが、どうぞよろしくお願いします。それからこれは私の名刺です。何かあればご連絡ください」と彼は言った。わたしは封筒と名刺を受け取った。彼は礼をし、次の訪問先へと向かって行った。おそらくは、わたしの隣の部屋だろう。

わたしは扉を閉め、小さくため息をついた。NHKに関しては、テレビもないのに受信料を払っていることで、いいことをしているつもりでいた。善意のつもりだった。だから、彼が来たとき、わたしの気分は少しだけ大きくなった。だが、予想外に彼に追い詰められてしまった。予想外に狼狽してしまった。ひょっとしたら、彼は結局、わたしのことを信用していないのかもしれない。彼の記録には「テレビを持っていないと主張、かなり怪しい」などと書かれているのかもしれない。なんてこった。でもかまわない。これが世の中なのだ。わたしは真実を語り、彼は業務上「疑わしきは」の精神を貫いただけだ。

わたしはハンコを台の上に置き、宗茂のように顔を少しだけ傾けた走法でスタスタと廊下を駆け、デスクに戻ると仕事を再開した。ジョン・リスゴーの名刺と封筒も机の上に置いたが、中身を見ようとは思わなかった。アンケートには、答えるつもりはなかった。

つもりはなかった――のだ(続く)。


※この物語はちょっとだけフィクションです。登場する団体名・地名・人物などはいっさい現実と関係ありません。




フリーランス翻訳者殺人事件 2

2009年01月28日 21時25分27秒 | 連載企画
そこにいたのは、ペリカンでもクロネコでもなかった。身長2メートルはあろうかという体躯のいい、青い眼をしたロシア人格闘家でもなかった。それは、若き日のジョン・リスゴーを彷彿とさせる、背の高い真面目そうな青年だった。

「NHKの者ですが」と彼は言った。

それがY新聞だったり、得体のしれない団体だったり、百科事典のセールスだったりすれば、わたしは迷わず例の如く「すみませんが、結構です」と言って扉を閉めただろう。そうやって冷たく扉を閉めるときは、ちょっとだけ相手に対して申し訳ない気持にもなる。だが、いちいち付き合ってはいられない。わたしにだって、やるべき仕事があるのだ。やるべき仕事をしていないときでも、あるいはやるべき仕事がないときでも、答えは同じだ。突然他人の家を訪問して、何かを売りつけたり、勧誘したりする。それはわたしの好む行為ではない。誰かに何かをアピールしたいのであれば、もっと正々堂々と、そして相手のパーソナルな領域に入り込まない形でやるべきだ。そのために、世の中には広告宣伝という媒体があるのだ。消費者は、欲しいものがあれば自分でそれを探して手に入れる。それが資本主義のルールだ。売り込みは構わない。だが、突然他人の家を訪問するのは、一線を越えている。土足で家の中に入り込むのと同じことだ。

だが、もし翻訳会社のコーディネーターや、出版社の編集者が突然訪ねてきてくれて、「この仕事、やってくれませんか」と言ってくれるのなら話は別だ。もちろん大歓迎する。そんな僥倖に恵まれた日には、玄関先で話を終わらせることなど決してない。リビングに招きいれ、コーヒーを淹れ、お茶菓子を出して、精一杯もてなして、話を聞く。仕事場を見てもらい、ついでに寝室も見てもらい、ベランダから景色を眺めてもらう。長居ができそうであれば、料理だってふるまう。夕方であれば、ワインとビールを買い出しに行く。デザートとつまみも買う。そして、仕事の話を終えた後も、つきることのない翻訳話を楽しむのだ。本棚を眺めてもらい、彼/彼女が手に取った一冊をネタにして、いつまでも語り合う。翻訳について、本について、お互いの人生について。

NHKの人が来たのはいつ以来だろう。わたしの家には、テレビがない。同居人が半年前にこの家を出ていくことになったとき、持って行ってもらったのだ。持っていってもらえるものは、すべて持っていってもらえばいい。そう思っていたということもあるし、特にテレビは、会社を辞めフリーランスになる直前だったわたしにとって、仕事の邪魔になるのではないかという懸念を感じさせるものだったため、少々無理をいって引き取ってもらった。会社にいかなくてもいいわたしは、何時に目覚めようと誰にもとがめられなくなる。昼間に起きて、『笑っていいとも』を見る。見るともなしに、ワイドショーを見る。あるいは、深夜までダラダラと過ごし、スポーツニュースやお笑い番組をはしごする――そんな自堕落な生活だけは避けたいとおもったのだ。わたしは自分が相当に自堕落な人間だと知っている。だからこそ、自堕落になることは意識的に避けるべきなのだ。

仕事が軌道に乗るまでは、テレビを持たない。なりゆきでそうなった部分は多いとはいえ、そのわたしの決断は、ある程度は妥当なものだったと思う。この半年、わたしはテレビ番組を一切見ていない。それはわたしに自己管理能力があったからではない。単に、家にテレビがなかったからだ。テレビがない生活も、慣れてしまえば悪くない。時間は増えるし、活字に対する親近感も増す。もちろん、わたしは頑迷なテレビ否定論者などではない。テレビは大好きだ。わたしがテレビを見ているのではなく、テレビがわたしを見ているのではないかと思ってしまうほど、わたしはテレビを見てしまう。だが、わたしの仕事は翻訳だ。わたしが相手にしなければならないのは、映像ではなく、言葉なのだ。テレビを3時間見ている暇があったら、1冊でも多くの書物を読んだ方がいい。明治の文豪だって、テレビがない時代だからこそ、あれほどまでに言葉を磨きあげ、言葉と格闘することができたに違いない。彼らは、強迫観念的に毎日『ニュースステーション』を見なければならないと思わなくてもよかったのだ。

彼は何を求めてこの扉を叩いたのか。テレビのないこのわたしに、何を求めているのか。実は、わたしはテレビがなくなった今でも、NHKの受信料を支払っている。引き落としの手続きを変更するのが面倒だからだ。いつかまたテレビのある生活に戻るかもしれない。きっとまたそんな余裕と潤いのある暮らしが始まるだろう。そんな淡い期待もあって、もったいないなとは思いつつ、NHKにお金を支払い続けている。NNKにとっては、こんなにいい客はいないはずだ。テレビを見ていないのに、受信料を支払ってくれる。吉野家でいったら、牛丼を食べないのに、お金だけを支払ってくれる客のようなものだ。自分でいうものなんだが、日本の映像文化の振興にこれほど純粋な形で貢献している人も珍しいだろう。わたしは、日本放送協会に賽銭を投げているのだ。『篤姫』の話題に、まったくついていけないこのわたしが。

というわけで、わたしには彼に対して後ろめたいところはまったくなかった。受信料はきちんと支払っている。テレビがないのに払っている。嘘偽りはまったくない。わたしは、彼の眼を見た。煮るなり焼くなり好きにすればいい。どこからでもかかってこい。わたしは白だ。わたしはクリーンだ。わたしは潔白だ。わたしはやってない。

「テレビは持っていません。でも受信料は支払っています」わたしは彼にその旨を伝えた。まるで自分がいっぱしの慈善家でもあるかのように。

彼は少々意表をつかれたようだった。だが、驚いたとことに、彼のわたしに対する疑念は、消えることはなかった。それはこの1月のどんよりとした曇り空のように、どこまでも暗く、重たいものだったのだ(続く)。


フリーランス翻訳者殺人事件 1

2009年01月27日 23時04分12秒 | 連載企画
チャイムが鳴った。夕方の6時を少し回ったところだ。仕事をしていたわたしは、キーを打つ手を止め、玄関に向かった。チャイムが鳴ったら、とりあえずハンコをもって玄関にいき、相手が誰かを確かめずにドアを開けることにしている。たいていの場合、それは宅配便だ。何かを売り込みに来る怪しげな人の場合もあるから、ちょっとした不安もある。だけど、毎回インターフォンで「どちら様ですか?」とやるのは面倒くさい。毎日のようにアマゾンから荷物が届くこともあるから、配達する業者のお兄さんやおじさんも、わたしの部屋の前に立ち、番号を見るたびに「またコイツのとこかよ」と思っているに違いない。そんな彼らに対して毎回「どちら様ですか?」なんて高飛車な態度はとれない。そもそもこっちだって怪しい人なのだ。平日の昼間にずっと家にいて、連日のように何かをネットで注文している。「あんた、何者ですか?」と思われているのはこっちの方だろう。「一棟の●●●号のあの男は怪しい」と、宅配仲間で噂になっているかもしれない。ひょっとしたら、警察にも話がいっているかもしれない。そんなちょっとした被害妄想をしてしまうのだ。

だから、チャイムが鳴ったらハンコを持ってとにかく扉を開ける。それがわたしのささやかな流儀だ。チャイムが鳴る。わたしはそれまでしていたことを中断し、ハンコを持って玄関に行く。そして笑顔で扉を開ける。それがフリーランス翻訳者としてわたしが自らに課している、ごくわずかなルールのひとつなのだ。

わたしは扉を開ける。「わたしはけっして怪しいものじゃございやせん」ビームを発しながら、ニコニコと。荷物を受け取り、丁寧にお礼をいうと、配達の人も安心するのだろう。こちらをまともな人間だと思ってくれているような反応が見られる。それがうれしい。めったに人と接する機会がないのだから、せめてこういうときくらい、気持ちよく人と接したい。そもそも、わたしは決して愛想がよくないわけではない。むしろ、過去の数十年を振り返れば、かなり爽やかに人と接してきた方ではないかと思っている。レストランにいっても、コンビニにいっても、店員に横柄な態度をとったことはない。頑なに敬語を貫き、感謝の一言はできるだけ忘れないようにしている。だが、そんなわたしですら、こうやってほとんど人と話す機会をもたないアナグマのような生活をしていると、不安になってくる。だんだん性格まで暗くなってきて、無表情、無反応な奴になってしまうのではないか。そんな恐れを感じるのだ。ほんの数秒のこととはいえ、宅急便のおっさんと笑顔でかわす一言は、わたしにとって日常世界との接触の貴重な機会でもある。シェフがフライパンから高々と上げる調理用の炎のように、たとえ瞬間であったとしても、「社会」を自己のなかに立ちあがらせなくてはならない。強く、高く。

だからわたしにとって、扉を開けることはある意味楽しみでもある。そこは社会に通じるドアでもある。監獄にいて、面会者がきてくれたようなうれしさもある。だけど、安全なことばかりではない。もしかしたらそこには殺人鬼がいて、扉が開いた瞬間に刺殺されるかもしれないのだ。そんな可能性は万に一つもないだろうが、よしんば殺人鬼がそこにいたとしても、簡単には刺されて死ぬことはないだろうというちょっとした自負もある。相手は腹部を狙ってくるだろう。鋭利な刃で、内臓をえぐるような一撃を矢のように打ってくるだろう。だが、わたしには恐らくその一撃はとどくまい。わたしにはボクシングで鍛えた華麗なフットワークがある。檻のなかを逃げ回る鶏のように瞬時にわたしは方向を変え、奴のナイフをさけることだろう。そして隙あれば反撃を狙うだろう。扉で奴の右手を挟んでやる。あまりの痛みに奴がナイフを落としたら、表にでて、強烈な右ストレートをお見舞いしてやる。死のダンスを踊るのは、奴の方だ。奴が倒れたら、ゲームに勝ったも同然だ。なぜなら、わたしには実に多彩な関節技という武器があるからだ。チョークスリーパー、アームバー、アキレス腱固め、ヒールホールド。技の百科事典を奴に売り込んでやるのだ。

ともかく、わたしは扉をあける。そして、ほとんどの場合、それは宅配便である。目の前にいるのが営業の人だったら、「すみませんが、結構です」といって扉を閉める。それだけの話だ。若くて世間知らずだった頃は、思わず最初の一言を聞いてしまい、話を終えるタイミングをつかめないまま、長々と話を聞かされてしまうこともあった。だけど、今ではそんなことはしない。わたしはもう大人になったのだ。だから、相手がしゃべりだし、それが何かの売込み――新聞とか、宗教とか、今じゃあんまりないのだろうけど百科事典とか――だとわかった瞬間、早押しクイズの回答者がボタンを押すみたいに「結構です」という答えを口から吐いて、扉を閉める。相手もそんなわたしの気配を感じるからなのか、決して後追いはしてこない。

――何の荷物だろう? 最近はアマゾンでも注文をしていないし、親が何かを送ってくれたのだろうか? そう思いながら、わたしは瀬古利彦のように上下動のまったくない安定した走りで軽快に玄関へと向かい、スピードを落とさないようにして玄関の手前の台にあるシャチハタのハンコを掴んだ。先頭を走る瀬古が、給水所で自らのスペシャルウォーターに狙いを定めるように。

扉を開けた。いつもの宅配便のおっさんではなかった。見知らぬ男が、そこに立っていた。そしてわたしは、なぜか扉をしめることができなかった(続く)。

ゴルゴ38  Part XIII  ~最終回~

2008年11月13日 20時18分40秒 | 連載企画
ついに発売当日。メンバーの熱い思いを乗せた入魂の一冊は果たして売れてくれるのだろうか。『ボストン13人連続殺人事件~俺の背後で危険な恋のタッチダウン~』――ミステリーとサスペンスとロマンスとコメディの要素をたっぷり含んだこの作品は、製作費に13億円を投じたことも話題を呼び、好調な売れ行きを見せた。そして、発売から13ヶ月後には、めでたく13刷13万部の大ヒットになったのであった。

プロジェクトは成功。かけた情熱と労力の分だけよいものが作れるのだ。

いつの日か、プロジェクトよ再び。プロたちは、またそこに集うことだろう。翻訳者は孤独だ。だが、真の孤独を知るものたちだからこそ、優れた共同作業が可能になるのだ。各地に散り散りになっているメンバーたちは、そんな想いを心に浮かべながら、今日もまたプロとしての各々の仕事に取り組むのだった。さようなら――、また会おう。

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いつものようにふざけたことばかり書いてしまった今回の連載でしたが、自分としてはけっこう真面目に考えさせられる点もありました。基本的に文章はひとりの人間によって書かれます。しかし、完成までにさまざまな人の手をかけることで、きっと質を高めることができる、つまり翻訳の共同作業が可能だという当たり前といえば当たり前の事実を、妄想を通じて実感できました。

いつの日かこの妄想を少しだけでも現実的に実践できるときがくるのなら、以下のようなメンバーでやってみたいと思います。うまくいけば、かなりいい訳を作ることができるのではないでしょうか。複数の人間が関わることで、意見の対立もあるでしょう。さまざまな手が加えられることで、訳文がバラバラになる可能性だってあります。そういう意味で共同作業は諸刃の剣ではあります。でもきっとメリットだって大きいはずです。打ち上げのビールだって美味しいはずです。

翻訳者
翻訳者の影武者(翻訳者と平行して訳出)
チェッカー(2名:オリジナルとターゲット言語をそれぞれ母語とする)
データマン

著者(軟禁して質問責め)
校正者
編集者
テスター
モニター
監修者

などなど.....

現実的にはこのように多くの人手をかけることは難しいでしょうが、逆に考えれば翻訳者にはそれだけ多様な役割が求められているのだとも言えます。翻訳者は、自分のなかにさまざまな訳文を作れるように複数の訳者を共存させるべきであり、さらには訳文を突き放してみるチェッカーの視点と、調べるべきところは徹底して突き止めるデータマンの視点を持つことが必要なのです。また、意地悪くあらさがしをするテスターの目と、作品を心から楽しむ暖かい読者の目を持つことも大切です。連載の初めのころに翻訳者をハンマー投げの選手に例えてみましたが、考えてみると同じ陸上競技でいえば十種競技の方がメタファーとして相応しいのかもしれません。翻訳にはそれだけ多くの種目をこなせる器用さが求められると思ったからです。

ともかくそんなわけで今回の連載を終わりにします。ずいぶんと間があいてしまいましたが、ご勘弁を。


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   /ー-ニ.._` r-' |……    「ご清聴ありがとうございました。いつの日かプロジェクトを実現できることを願って.....」



「待っている」伝えることができぬままどうしてそんなに丸い満月

ゴルゴ38 Part XII

2008年10月22日 23時02分35秒 | 連載企画
これまでの作業が訳文を作り上げるための「熱い」作業だったとするならば、これからの作業はその熱を冷やし、テキストを熟成させ、固くするための「冷たい」作業だと言える。ベータ版のテキストは、さまざまな人々の眼に触れられながら、この最終工程を通過することになる。

そのメンバーには誰が相応しいか、考えてみよう。

モニター:読者の視点でテキストを読む。映画で言えば、完成前のラッシュを試写して、さまざまな意見を聞く工程だ。書籍を購入してくれそうな読者多数を募り、忌憚のない意見を求める(「ちっとも面白くない」なんて言わないで欲しいものだが.......)。

テスター:この人たちの視点は「強引にバグを検出する」というものだ。つまり、あえて、アラ探しをするために、重箱の隅をつつく。眉に唾をつけて、表現におかしなものはないか、辻褄があっていないところはないか、気に食わないところはないか、意地悪な視点で調べていく。テスターの役割はとにかくエラーを見つけ出すこと。エラーが見つからなければ彼らの存在意義はなくなるのだから、ともかく力技でもこじつけなんでもいいからエラーをできるだけ多く報告していく。もちろん、結果がすべて本当のエラーである必要はない。「エラーではない」と却下されるにしても、なにしろアラを探すのだ。このような穿った視点によって、作り手が気づかないミスやエラーを見つけることが可能になる。

校正者:プロの校正者の視点で、誤字脱字や不適切な表現、言い回しがないかを確認する。出版物としてテキストを世に送り出すために欠かせない作業だ。

内部レビューアー:「熱い」工程を担当した作り手のメンバーが、しばしのクールダウン期間を経てほとぼりが冷めた後に、テキストを読み返す。「あのときはああいう風に訳したけど、今読んでみるとやっぱりこうすべきだな」みたいな視点だ。

内部レビューアー以外のメンバーは、作り手集団とは一線を画す、別集団であるのが望ましい。何のしがらみもない人たちによって、シビアに客観的にテキストを吟味する必要があるからだ。

テキストはアクセスが制限されたウェブ上にウィキ形式でアップされ、フィードバックが反映されていく。テストと反映のサイクルは、何度も行われる。つまり、いったんフィードバックを反映したテキストに対して、再度同じテスト工程が繰り返される。何度かこのサイクルを繰り返し、フィードバックが枯渇しかけた段階で(エラーが完全になくなることはありえないだろう)、テキストはついに完成した(ちなみにこのプロジェクトの正式メンバーとして関わった人数は、ずばり38人だったということにしておこう)。

その間、プロデューサー軍団は、装丁や販売戦略など、売るための作業を進めていく(ちなみに、あまりにも予算をかけすぎたため、すでに初代プロデューサーは更迭されていた)。といいつつ、この当たりの営業的な側面についてはあまり詳しくないので、割愛させていただく。

そして、1年がかりの巨大プロジェクトは、ついにフィナーレを迎えた。マーケティング的には、時間をかけすぎて販売機会を逃したのではないかという意見もあるが、今回のプロジェクトに限ってはいたしかたのないトレードオフだったと言っておこう。

訳文は練りに練った。魂を注ぎ込んだ。やるだけのことはやった。メンバーたちは、緊張の面持ちで、発売当日を迎えた。果たして、読者はこの作品をどう受けとめてくれるのだろうか.......(次回、いよいよ感動の最終回)

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「だんだん疲れてきました。これ以上妄想するのは、『もうよそう』なんて.....」

ゴルゴ38 Part XI

2008年10月17日 18時23分53秒 | 連載企画
ついに翻訳作業が一通り終了する。翻訳者によってすべての章が訳され、チェッカーのチェックも終わり、データマンも調査をやり尽くした。映画で言えば、クランクアップ。撮影はすべて終了。近所のイタリアンレストランで、華やかに打ち上げが行われる。プロデューサーから、メイン翻訳者に花束が渡された。思わず、一筋の涙が翻訳者Aの頬をこぼれ落ちる。感動的なシーンだ。誰しもが、目頭にこみあげてくる熱いものを感じている。あの人もこの人も、長かった半年間の共同作業を振り返り、美酒に酔っている。よかった、本当によかった――プロデューサーも、不可能と思われたこのプロジェクトの成功を、心から喜んでいた。宴は、いつまでも続いた(「プロジェクトX」風に)。

翌朝、著者はボストンへと帰っていった(二度と日本には来ないことを固く決意して)。マーク・○ーターセン氏も、リービ○雄氏も、再び大学で教鞭を取りはじめた(このプロジェクトのために、半年間、休職していたのだった)。翻訳者も、チェッカーも、データマンも、それぞれの仕事場に戻っていった。楽しかった祝祭の日々はあっという間に過ぎ去り、またいつもの日常が始まる。

だが、まだプロジェクトは終わりではない。むしろ、ここからがこのプロジェクトの真骨頂なのかもしれない。映画でいうところの編集作業の始まりだ。ベータ版を最終的なリリース版にするためのテスト工程、つまり訳文を練り上げ、熟成させるための作業が残っている。言うなれば、これまでは半年かけて「夜中に夢中で書いたラブレター」を作ったのだ(例え方が古い)。それを冷静な朝の眼で読み直す作業が、これからさらに半年かけて行われるのだった(続く)。

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   f   ,.、i'三y、 
   !   {hii゛`ラ'゛、
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   /ー-ニ.._` r-' |……    「風呂敷広げすぎて、オチをどうするか難しくなってきたよ(笑)......」

ゴルゴ38  Part X

2008年10月05日 09時49分07秒 | 連載企画
当然だが、このプロジェクトにはプロデューサーが必要だ。映画でも同じ。よいプロデューサーのあるところ、よい作品あり。僕は基本的に映画は監督のものだと思っているけど、全体を俯瞰すれば、監督だってプロデューサーから選ばれたひとりのプレイヤーにすぎない。そして監督を誰にするかから、お金の管理、雑用の手配まで、なんでもござれで活躍するのがプロデューサーなのだ。

これだけの大人数(現時点で翻訳者3名、データマン7名、チェッカー4名、さらにこれからもかなり増えそう)になると、やはりそれを管理する人間が必要になる。1人だとヘタをするとワンマンになってしまうかもしれないから、それは今回のプロジェクトの主旨とは合わない。なので、メインプロデューサーには敏腕編集者2名をノミネートしよう。さらにアシスタントとして最低2名が必要だ。今回のプロジェクトを、ある出版社を母体とするものにするならば、プロデューサーをさらに統括し、監視する立場の人間も必要。あんまり口はださないけど、締めるところは締めてくれる。そして、ときにはハッとするアイデアを出してくれる、そんな人だ(外見がショーン・コネリーに似ているとベスト)。

こうして、指揮者であり、裏方でもあるプロデューサー軍団の仕切りによって、プロジェクトは進行していく。スケジュール、人の手配、場所の手配、弁当の手配(どれだけ粋な弁当を手配して、現場の人間を喜ばすことができるか、これはメンバーの士気を高めるための重要なポイント、プロデューサーの腕の見せ所だ)、ボストンから来日した著者の世話、質問責めにされ廃人になった著者をボストンに送還するための手配、などなど、プロデューサーの仕事は果てしない。やるべきことは、いくらでもある。もちろん、最終成果物となる書籍を売るための準備にも余念がない。すべてのゴールはそこにあるのだ。

でもちょっと待って欲しい。弁当? どこで弁当食べるのか。みんな同じ場所にいて作業をしているのか。答えは、YES。つまり、プロジェクトは、映画でいうところの撮影所に相当する場所を設定し、そこで行われるのだった。

現実的には、中野あたりにある雑居ビルのフロアを借りて製作の拠点とするというところなのだろうけど、理想的に言えばジョージ・ルーカスのプロダクション、ILMのように、郊外の自然が豊かな場所にある保養所みたいな建物を根城にして作業を進めたい。作業者には個室が与えられる。パーティションで仕切られたキュービクルではない。個室だ。部屋のなかには、ソファもあるし、本棚もある。自分の趣味的なあれこれを置いておく余裕も十分にある。まさに、アメリカのオフィスのイメージだ。日本の標準的な大学教授の研究室より広いし、アットホームな雰囲気がある。基本的に、翻訳者、データマン、チェッカー、そのほか大勢は、そこで作業を行う。やはり翻訳は孤独な作業なのだ。ひとりでいるときにしか発揮できない集中力が必要なのだ。でも、ちょっと疑問があれば、すぐに隣の部屋にいって雑談ができる。チェッカーがおもむろにデータマンの部屋に行く。ドアをノックし、扉をあける。データマンも、ふと作業の手をとめ、リラックスモードになる。チェッカーはソファに腰を下してひとしきり話をすることもあるし、扉の近くの壁に背をもたれかけて、微妙にデータマンの仕事を邪魔しないように、カジュアルに話を切り上げることもある。「で、P245の第2パラグラフのパンチョ佐々木のセリフについてなんだけどさ......」と、マグカップを片手に会話を始める。そうした何気ない会話から、思わぬ発見があったり、新たな発想が生まれたりする。そして話は脱線し、お互いの家族のことや、趣味のことや、近所にある美味しいレストランのことについての情報交換が行われる。こういうのも、息抜きとしてとても大切なのだ。リフレッシュルームでは当然のように、飲み物が無料で提供されている。そこでコーヒーを淹れている間に、他のメンバーと何気なく立ち話をする。これもとても大事。細かいところで意見が合わずに、ちょっと気まずくなった相手とも、天気の話をしたりすることで、また関係を取り戻せたりする。

フォーマルなミーティングもある。翻訳者ミーティング、データマンミーティング、チェッカーミーティング(ところでマークピーターセン氏とリービ英雄氏には、さすがにほかと比べて日当たりもよく、調度品の趣味もよく、広い部屋を用意しなければならない。プロデューサー、頼む!)。そして全体ミーティング。そういうのを定期的にやる。遠隔地に住んでいるメンバーは、テレビ会議や電話会議で参加する。あんまり堅苦しいのはよくない。あくまでカジュアルに、自由に意見を交換する。ただし馴れ合いは禁物だ。ときには喧々諤々をやる。そこはプロ集団。自分の考えをきっちりと主張できる人たちだから、よい訳文を作るためなら、下手な遠慮はしないのだ。

たとえば毎週火曜日には皆でランチを食べに行くとか、木曜日には会議室でビュッフェ形式のケータリングを楽しめるとか、金曜日の夜には軽く飲み会があるとか、たまには外でバーベキューするとか、そういうイベントも随所に盛り込まれている。感謝祭の日には、誰かの家にいってターキーを食べたりする。同じ場所で作業をすることによって、自然にそういう関係性が生まれるのだ。快適な仕事環境を作り上げるためには、こうした気配り、すべてを楽しむ姿勢は欠かせないと思う。それから、土日は休み。無理して突貫作業をしたりはしない。この余裕も重要。

僕は2ヶ月ほど、ペンシルバニアでソフトウェア開発、ローカライズのプロジェクトに参加させてもらったことがあるのだけど、そこの職場がまさに上記のようなところだった。それぞれ職域がはっきりとした、専門を持ったプロフェッショナルたちが、個室で作業している。だけど、コミュニケーションは十分に保たれている。雰囲気もとてもいい。もちろん時には激論が交わされることもあるけど、理想的な職場だと思った。

そういうわけで、プロジェクトは着々と進行中なのであった。開始から約半年。そろそろ、ベータ版の完成が近づいていた......。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「といいつつ、このプロジェクトは相当な赤字で終わりそうだな......」

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Oさん、Kさん、そしてAさん。お気遣いどうもありがとうございました!


ゴルゴ38  Part VIIII

2008年09月30日 23時26分00秒 | 連載企画
翻訳者、データマン(ウーマン)の次は、チェッカーに行ってみよう。

言うまでもないことだけど(だけど言う)、翻訳プロジェクトにおけるチェックは非常に重要だ。チェックのない翻訳なんて、クリープを入れないコーヒーと同じ。たまに、十分なチェックがされないまま世に出てしまったのではないかと思われる訳文を目にすることがある(自分のことは棚に上げて)。誤訳、訳抜け、誤字脱字。そういう「ちゃんとチェックすれば防げるミス」のことを、業界では「地雷」という。様々な理由によってチェックを十分に行えなかったがために、地雷を多く含んだまま見切り発車されてしまった訳文たち。幸運な(あるいは不幸な)読者は、きっとその平原を何事もなかったように進んでいくだろう。だけど、いつかきっと誰かが地雷を踏む。違いがわかる読者なら、それがチェック抜きで仕上げられた訳文であることをすぐに見抜くに違いない。「チェックしとらんな」と、ネスカフェゴールドブレンドを片手につぶやくに違いない。だから、チェックは大切なのだ(かなり強引な三段論法?)

チェックの方法にもいろいろある。まずは、実務翻訳の世界ではお馴染みの、突合せチェックについて考えてみよう。突合せチェックとは、文字通り、原文と訳文をバイリンガルに並べて、訳文がきちんと原文の意味どおりに訳されているか、訳文にエラーはないか、その他もろもろをチェックしていくのだ。もちろん、さいとうたかをプロ プロジェクトにおいても、この種のチェッカーは必要だ。最低2名は欲しいところだ。

それはたいてい、ターゲット言語を母国語としているチェッカーによって行われる。つまり、日本語が訳文の場合は、日本語を母国語とするチェッカーが行う。まあこれは、最終成果物となるものが日本語の訳文なのだから、理に適っているとは思う。

英日翻訳の場合、日本語を母国語とするチェッカーの能力は、基本的には訳者と同レベルだと思う。チェッカーの方が訳者より明らかに翻訳が上手く、専門性も高く、経験も豊富だということは、あまり考えにくい。チェッカーとしての力量や経験はあるにしても、翻訳そのものの力を比べた場合、一般的に言って、翻訳者とチェッカーの間に、そう大きな力の差があるわけではない。むしろ、翻訳者がほぼ訳文を仕上げて、チェッカーは単純なミスを拾うという形の方が、効率的に作業を行える場合が多いし、実際、そういうパターンはどの現場でも見られると思う。チェッカーが出来の悪い訳文を直すには、相当な労力がかかる。下手をすれば翻訳と同じくらいの労力がかかる。だから、チェッカーの方が翻訳者より圧倒的に力量が上という組み合わせは、あまり合理的ではないのだ。

もちろん、このチェックは有効に機能する。前述した地雷をつぶせるのはもちろん(チェッカーが地雷を埋めてしまうこともあるけど)、訳文の質だって、チェッカーの視点を入れることで十分によりものに練り上げることが可能だ。優秀な訳者とチェッカーがコンビを組めば、きっと、違いのわかる読者でも、上質を知る読者でも、納得のいく訳文ができるに違いない。

しかし、このチェックには限界がある。それは、訳者とチェッカーの能力に、原文を読み込む力という点で、おそらくはそれほど大きな差がないという点に起因する。つまり、外国語の原文を日本語に訳す場合、日本語を母国語とするチェッカーでは、オリジナルのニュアンスが本当に訳文に込められているか、訳者は正しく原文を理解しているかを、ネイティブレベルでは検出できないのだ(ネイティブ並みの外国語能力を持つチェッカーの場合はそうではないけど)。当たり前と言えば当たり前に過ぎないのだけど、これは結構、翻訳プロジェクトの泣き所になっていると思う。

だから、理想的にはオリジナル言語を母国語とするチェッカーもいた方がいい(実務翻訳の世界で、外国語の訳文が成果物となる場合は、日本人がチェックすることも多い。それはこのパターンに当てはまる)。ネイティブがバイリンガルチェックをする場合は、視点が変わる。誰をチェッカーにするかにもよるが、たいていは翻訳者よりもネイティブの方が原文を読む力はおそらくかなり優れているだろう。つまり「原文の読み込み」という意味においては、おそらくは圧倒的な訳者<チェッカーという構図が成り立つ。だからこそ、このチェックをやる価値がある。

というわけで、オリジナル言語と、ターゲット言語をそれぞれ母国語とするチェッカーが、タッグを組んでチェックをする。そこに価値があるのであれば、もちろん本プロジェクトにおいても、この手法の採用は満場一致で承認されなければならない。

そうとなれば、やはり豪華なメンバーをそろえたい。マーク・ピーターセン、あるいはリービ英雄クラスのチェッカーを擁したいところだ。この2人の巨人が、原文の読み込みが甘いところを徹底的に指摘する。それは、原文の意味がわからないところを著者やネイティブに質問するのとは異なる。このチェッカーたちは、日本語も相当なレベルで理解している。僕なんかより遥かに日本語が上手い。だから原文を読むだけではなく、翻訳結果を見ておかしなところを指摘するのだ。文芸翻訳の場合などでは、ある意味理想的なチェッカーかも知れない。

というわけで、マーク・ピーターセンさんとリービ英雄さんにもこのプロジェクトに参加してもらうことにしたので、もう既に合計14名がこのプロジェクトのメンバーとなってしまった。ちょっと多すぎ?(続く)

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   f   ,.、i'三y、 
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   /ー-ニ.._` r-' |……    「いっそのこと、38人を目指そうかな......」

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フリー生活も4日目。でも、最初の2日は土日だったので、まだ2日目という気もする。さらに言えば、この2日は有給消化だったので、明日から正式に晴れてフリーとなる(なんだか区切りがつけにくい)。今日は昼間、ジョギングした。人気のない小金井公園は空気も澄んでいて気持ちよかった。うん、これからは好きなときに好きなだけ走れる。そう思うと嬉しい。もちろん、そのための時間を作り出すことも必要なのだけど。ともかく、今は非常に忙しくて、まだ落ち着いて身辺整理ができていない状態。それもあって、なんだか実感がないままに日々は過ぎ去っていく。一息入れれるときがきたら、いろいろと計画を練ったり、これからのことを落ち着いて整理してみたい。

ゴルゴ38  Part VIII

2008年09月22日 22時42分37秒 | 連載企画
翻訳者についてもまだまだ書き足りないのだけど、次に移ろう。このプロジェクトに欠かせないと思うのが、「データマン(あるいはウーマン)」だ。映画で言えば、美術。舞台で言えば、大道具。寿司屋でいえば、仕入れ担当。原文に書かれてある情報を、徹底的に調べるのが仕事だ。仕入れのプロが、よい材料をプロの目で選んで厨房に届ける。料理人は料理に集中できる。それが料理の質を高めるのだ。

もちろん、翻訳者だって翻訳するときにはわからないところを徹底的に調べる。だけど、翻訳者はあくまでも料理人なのであり、一日中材料ばっかり選んでいるわけにはいかない。訳さなくてはならないテキストは山ほどある。だから、軽く「ググッとな」して裏が取れた、と思ったらいきおいそれをえいやっと使ってしまうことがある。本当はそれではいけないのだけど。完璧を追求するこのゴージャスプロジェクトにおいては、そんないい加減なことは許されない。だから、調べることを専門とする人間が、まさにデューク東郷ばりに容赦なく徹底的に調べまくる。狙った獲物は決して逃さないのだ。

そもそも、ある人間が本を書くとき、著者は基本的に自分が知っていることを書いているはずだ。しかし、訳者は著者ではないのだから、著者が知っていることをすべて知識としてもっているわけではない。ひとりの人間が持っている情報はとてもユニークなものであり、その情報は大きく個人の経験に基づいている。たとえば、ボストン出身の元弁護士が、大学時代に打ち込んでいたアメリカンフットボールを背景にした恋愛がらみのサスペンスを書いたとする。主人公は弁護士で、ボストンに住んでいて、独身で、アメリカンフットボールが好きで、それで事件が起こる。プロフットボールの試合中に、観戦中の日系人、パンチョ佐々木が何者かに銃で撃たれ、暗殺されるのだ。同じく試合を観戦していた主人公のマイケルは、恋人の法律事務所事務員のベッツィとともに、事件の解決を試みる。これ以上はネタばれになるから言えないのだけど(なんて)、そこに描かれている、法律の専門知識や、ボストンの街並みや、フットボールのプレーの描写やなんかは、著者の豊富な直接的経験に基づいているため、訳者がそれをすべて同レベルでカバーすることはほとんど不可能になる。

たとえば、静岡県出身で、北海道の大学に進学して、寮暮らしをして、専攻はコンピューターサイエンスで、趣味は宝くじで、ちょっと小太りで、卒業後はSEをやっているという人がいるとする。その人が持っている実体験に基づく情報は、それを経験したことがない人間にとっては、どうあがいてもディティールまでは届かないであろう果てしなさを持っている。静岡県出身の人はたくさんいるだろう。北海道の大学を出た人もたくさんいるだろう。学生寮に住んだことがある人も、コンピューター科学を専攻したひともゴマンといるだろう。宝くじが好きな人も、小太りの人も、SEも吐いて捨てるほどいるだろう。だか、それらをすべて兼ね備えた人は、それこそ宝くじで一等が当たるくらいの確率でしか存在しないのだ。誰かが何かを書くということは、多かれ少なかれこうした実体験がベースになっているのであり、それを訳すということは、著者個人が持っているその膨大な情報量に、なんとかして必死に喰らいつこうとしながらも、結局、寸でのところでは真には喰らいつけはしないという不可能性が前提になっているのだと思う。もちろん、言葉は誰かに読まれるために書かれ、存在するのだから、それを読むことはできるだろう。だが、読むことと、訳すこと――つまり読み、そしてそれを著者に成り変って書き直すこと――の間には、巨大なフォッサマグナが存在しているのである。

だからこそ、そこにデータマンの存在意義がある。調べることをひたすらに追求し続ける彼らのレゾンデートルがある。そして冷凍庫には、レディボーデンがある(データマンは頭を使うので疲れてくると甘いものが食べたくなるのだった)。しかも、贅沢が許されるなら、それは複数の方がいい。繰り返しになるけど、人間ひとりが知っていることには限りがある。データマンだって、専門性というものがある。先の例の小説でいえば、法律、ボストン、アメリカンフットボールをそれぞれ専門とするデータマンをまず3人は用意したい。それから、アメリカ文化全般に詳しい人。サスペンス小説にとても詳しい人、そのほかなんでもトリビアに調べる人など、総勢6名をノミネートしたい(予算がいくらあっても足りない)。データマンは図書館やネットやさらにその道に詳しい人に訪ねたりして原書の内容をこと細かく調べ上げる。それだけではない、彼らは現地に飛ぶ。物語の舞台を実際にその足で歩く(これには翻訳者も同行したい)。一点の曇りもないくらに、調べて調べて調べ尽くすのだ。しかし、6人というのはいかにも中途半端だ。やっぱり、せっかくプロ集団をそろえるのなら、なんとなく7人の方がかっこいい。七人の侍。荒野の七人。

そこで、登場してほしいのが、究極のデータマンだ。それは誰か。もちろん、それは著者その人にほかならない。著者にはボストンから来日してもらう。帝国ホテルに滞在させ、豪華にもてなして、お決まりの観光なんかにも連れていく。だけどそれは最初の3日間だけだ。あとは、缶詰にして朝から番まで質問責めにする。もう容赦しない。徹底的に吐かす。なぜこれを書いたのか、なぜこんな話を作ったのか、お前が殺ったのか、誰から金をもらったのか、好きな人はいるのか、正直に全部吐いてもらう。重箱の隅をつつくような質問を、著者が廃人寸前になるまで続ける。おそらく、二度とその作家は日本に翻訳権を売らないだろう。

こうやって、7人が調べたデータは、データ編集担当によって毎日まとめられ、アップデートされて翻訳者の下に届けられる。ボストンのこと、法律のこと、アメリカンフットボールのこと、他の翻訳小説の情報、著者のそれまでの著作のこと、その他、考えられる限りの諸々とトリビア。翻訳者はそのデータを基に、訳を練っていく(まさに、大下英治方式)。こうやって膨大な情報に支えられていることで、原文の解釈にブレがなくなる。物語の筋がピシッと頭に入る。登場人物たちが、街が、アメリカンフットボールが、パンチョ佐々木が、訳者の頭のなかで鮮やかに、いきいきと動き始める(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「27日の飲み会が今から楽しみだぜ・・・・・・」


ゴルゴ38  Part VII

2008年09月21日 23時45分11秒 | 連載企画
「翻訳版さいとうたかをプロ プロジェクト」は、こんな感じで実現してみたい。プロジェクトの構成メンバーをあれこれと考えてみた。

まず、翻訳者。これは、第一線級の腕自慢(死語)を、少なくとも3人は用意したい。そして、3人がそれぞれ丸まる1冊翻訳を行なう。つまり、この3人で1冊を分担するのではない。「N章は誰々さん、N章は誰々氏、N章は誰々ちゃんね。じゃあ、よろしくちゃん。終わったら打ち上げね!」という風なやり方ではない。全員が、魂を込めて丸々一冊翻訳する。たとえて言えば、ロバート・デ・ニーロの出演が決定している状況で、あえてダスティン・ホフマンにも出演してもらう。ロビン・ウィリアムスにも出てもらう。主役級を、惜しみなく並べて使う。さらに、ウィリアム・デフォーにも出てもらう。クリストファー・ウォーケンも外せない。きりがない。もちろんそこにあるのは、上訳と下訳という関係ではない。3人なら3人が、魂を込めて翻訳する。そして途中の段階では、一切お互いの訳を見ない。見ると、影響されてしまうからだ。

下訳されたものに上訳者が手を入れるというのは、有効な翻訳手法の一つだ。早く翻訳作業を進めることができるし、下訳のなかにキラリと光る訳文があれば、それを上訳者が活かすことで、合作ならではの妙味を出すことができる。しかし、もし可能であるならば、上訳者も自分で一から訳文を作るべきだと思う。なぜならば、やっぱり下訳上訳というシステムでは、どうしても下訳の訳文がベースとなってしまい、本当の上訳者の訳文とはどうしても味わいが変わってくると思うからだ(上訳者が相当に丁寧に文章を書き換えれば、そうはならないとは思う)。それに、下訳が残してしまったエラーに、上訳が引きづられてしまうことも考えられる。だから、上訳者は上訳として(しかし、この「上訳」という言葉にはなんとなく違和感がある。いつまでたっても馴染めない。。。)訳文を作って、それで、下訳のなかからよい部分を吸収したり、訳のニュアンスを確認したりする。その方が、本来は望ましいのだと思う。つまり、下訳者を文字通り「下働き」させるのではなく、本物の「影武者」として機能させるのだ。ちょうど、舞台の主役のバックアップとして、主役を張れるだけの人間に、いつでも同じ役を演じられるように稽古させ、控えさせておくように。

で、さいとうたかをプロ プロジェクトでは、それぞれが主役級の訳者が、それぞれに翻訳を行なう。それをどうまとめるかというのは、非常に難しいところだが、やっぱりそのうちの誰かの訳をベースにするべきだとは思う。その決定は、事前に決めておくもよし、訳文の出来をみて決めるもよし、ともかく、よい訳にするための最善の選択をする(そこらへんは、新規プロジェクトだけに、未確定なのであった)。ただし、選ばれなかった他のふたりの訳文も決して無駄にしたりはしない。よいものがあればどんどん正式の訳文に取り入れていく。

言葉というものは生き物であるから、一人の人間が持つリズムのなかに、他人の言葉をねじ込むことの弊害もあるだろう。だが、Aという翻訳者の訳文がBという翻訳者の訳文より優れているというとき、すべての面においてAの訳がよいというわけではない。部分的には、Bの訳の方がよいと思えるところがたくさんある。だが、総合的にみて、Aの訳の方がよいということで、A>Bという図式が成り立つのだ。そのため、AにもBにも訳文を作らせ、Aの訳にBのよいところを取り入れるというのは、決して無意味な方法論ではないと思う。両者の原文解釈の違いを比べることで、ただしく内容を理解できているかどうかのチェック機能を持たせることもできる(力尽きたので、今日はここまで)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「どんな人の訳にも、キラリと光るものがある。そこから学ぶことはたくさんあるはずだ」

ゴルゴ38  Part VI

2008年09月19日 00時56分55秒 | 連載企画
翻訳は映画と似ている。なぜなら、その始まりにおいて、脚本と呼べるものがすでにそこに存在しているからだ。音楽で言えば、楽譜。料理で言えば、レシピ。それはすでに翻訳者の目の前に存在している。つまり、それはオリジナルのテクストにほかならない。

わずか1億円の制作費でこの世に生み出される映画もあれば(1億円を集めるのだって相当に大変なことだとは思うが)、100億円を投じて派手に作り上げられる作品もある。もちろん、100億円かけた映像が、1億円のそれよりも100倍面白いというわけではない。むしろ、1億円の映画のなかにこそ、商業主義の「魔手」を逃れた映画の真実が存在しうると言えるのかもしれない。実際、小編、佳作といわれる映画作品のなかにこそ、大人の鑑賞に堪えうる名作が数多くあるのは事実なのだ。

だが、だからといって巨額の制作費をかけた映画に存在価値がないということにはならない。大作には大作の醍醐味というものが存在しうるはずだし、観る者に大作ならではのパワー、贅沢感を伝えうることができるのも、大作が大作としてこの世に存在し続ける理由だと思う。何よりも、それが100億を投じるだけの価値のある作品であるならば――つまり、これは「当たる」と思わせる何かが脚本から感じられ、制作費以上の興行収入が期待できるものならば――、そこに20億でも50億でもなく100億という大金を投じるのは、単なる放蕩ではなく、製作者側の誠意であるとも言える。

ならば、と思う。翻訳にだって同じ方程式を当てはめてもよいかもしれないではないか。たしかに、翻訳は映画ではない。幾ばくかは似ているにはしても、それはまったく同じものではない。だから、映画がそうだからといって、必ずしも翻訳がそれに倣う必要はない。しかし、時には原作がかなり「売れる」ものである匂いを放っているときには、そして出版社側が、その原作の面白さを余すところなく日本の読者に伝えたいと思うのであれば、そこに1億円ではなく100億円の費用を投じることは(それがペイするものであると予測される場合には)、決して無駄なことではないだろうと思う。そんな翻訳プロジェクトがあってもいいのではないかと思う。少なくとも志においては。

ぶっちゃけて言ってしまえば、具体的には、1人の翻訳者に仕事を依頼するところを、100人とは言わないまでも、たとえば10人の翻訳者に仕事を依頼してみてはどうだろうか、というのが、私が提案する架空の「翻訳版さいとうたかをプロ プロジェクト」の骨子なのである。

だが、その発想の根幹にあるものは特別なものではない。そもそも共同作業という意味で言えば、翻訳者と監訳者、あるいは下訳者と上訳者、そこに付随するチェッカー、編集者、校正者、監修者、そういった構図は、言うまでもなく、ほとんどの翻訳作業に存在しているし、それは十分に機能している。たくさんの人手をかけてでも、よい訳文を作りたいと願うのは、作り手の誠意であり、夢である。だから、言うまでもないことだが、翻訳者は1人ではない。

しかし、実際には、結果的に翻訳者は1人として扱われていることも多い。この本を訳したのは誰それで、あの本を訳したのは誰それだというように。映画監督は普通1人の名前で表されるし、シェフもその料理を作った責任者という意味では1人だ。そういう意味では、最終的に1人の翻訳者の名の下に訳書を出版することは、自然の摂理というかなんというか、たとえばサルの群れにボスが必ず1匹しか存在しないような、ダーウィニズム的な必然性が感じられる。

しかしこのゴルゴ38プロジェクトでは、そこで話を終わらせたくはない。ただ1人の翻訳者が最終的な責任を負うのだとしても、それは単なる個的な作家ではない。そのプロジェクトの名が表すように、それは、1人の「さいとうたかを」であるべきなのだ。

翻訳の共同作業を拡大し、突きつめたときに、いったい何ができるのか。その可能性を、これから妄想モード全開で探ってみたいと思う(続く)。

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サラリーマン生活もあと1週間と少し。引継ぎやら、挨拶やら、継続案件から、情け容赦ない新規案件!やらで忙殺されている。だけど、これでいいのだ。

仕事を9時に終えて、中野坂上のラーメン屋で同僚とつけ麺、そしてビールで乾杯する。気がつけば、話の内容は9割以上、翻訳についてだった。嬉しい。会社の話をしているのではない。仕事の話をしているのともちょっと違う。話をしていたのは、「翻訳のこと」だった。幸せを感じつつ、明日もまた激しく忙殺されそうだと思う。だけど、これでいいのだ。

『男はどこにいるのか』小浜逸郎
『月の砂』イッセー尾形
『朝霧』北村薫
『オーディション』村上龍
『ひとつ屋根の下』野村信司
『ベースボール、男たちのダイヤモンド』ピーター・C・ブシャークマン編 W・P・キャンセラ他著/岡山徹訳

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「今日は一日、麺しか食べてないな~・・・・・・」

ゴルゴ38  Part V

2008年09月15日 22時40分12秒 | 連載企画
前置き(?)が非常に長くなってしまったのだが、そもそも今回何を言いたかったのかというと、それは端的に言って、ゴルゴ13の製作者集団である「さいとうたかをプロ」の手法に、翻訳も学ぶところがあるのではないかということなのであった(じゃあ最初からそうしろというツッコミが聞こえてくるようですが・・・・・・)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「用件は、早く言えっつーの」

さいとうたかを氏が、それまである種の作家主義が幅を利かせていた漫画界に、映画の手法――すなわち、分業制を取り込むことを目指したのはとても有名な話だ。

同プロでは、脚本担当、人物担当、背景担当、銃器担当、そしてゴルゴの顔担当(さいとうさん)など、細かく仕事がわけられている(特に、銃器担当というのがいいですね)。そこにあるのは、従来の作家先生と、その他大勢のアシスタント、という枠組みではない。プロとして他人には侵されない職務領域がそれぞれにはっきりしている。だから、さいとうさんは決してスタッフのことをアシスタントとは呼ばないそうだ。

一般論に従えば、専門性が深まれば、それだけ技術力も上がる。もちろん、さいとうたかをプロでこの分業制のシステムが成功しているかどうかは、ゴルゴ13シリーズを初めとするヒット作の数々を見れば一目瞭然だろう。ゴルゴ13だけを例にとっても、おそらく――否、あえて言えば間違いないなく――、さいとうたかを氏一人では、シナリオから銃器の描き込みまでの多様な作業を、すべてこなすことはできなかったはずだ。

もちろん、一人の漫画家がストーリーから作画まですべての責任を負うスタイルが主流であることは、さいとうたかを以後の世界にも変わらず存在している。だが、そのスタイルの是非を問うことには意味がない。様々なスタイルがあり、それぞれに特長があって、素晴らしい作品が生み出されている。前述したように、問題はシステムや関わる人の数ではない。あくまで問われるべきは作品の質なのだ。

ただし、さいとうたかをプロの手法が漫画作品を制作するための一つの有効な方法論であることは、もはや動かしがたい事実だといっても過言ではないだろう。そして、いきなりいろんなことを端折って強引に論を進めてしまえば、翻訳の世界にだって、さいとうたかをプロの手法で訳される訳書があってもいいではないか、1人のデューク東郷がいてもいいではないか、というのがようやくたどり着いた今回のテーマだったのだ(続く)。

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   /ー-ニ.._` r-' |……    「今日自転車置き場で財布を落としたら、拾って僕の家まで届けてくれた人がいた。ありがとうございました。名前も告げずに立ち去ったあのおじさんは、人間の鏡です」