...気が付けば、人生という旅の途中には、
目の前に、空気のように、そして何よりも圧倒的に当たり前に
存在している「何か」がある。
個人によってそれは千差万別だろう。
それは、家族かもしれないし、自分の性かもしれない、
母国語かも知れないし、生まれ故郷かもしれない。
あるいは、毎朝目がさめること、とか、
いつも呼吸していること、とか...
そこからは、逃れられないし、その何かを変えることも難しい。
そもそも、そこから逃れようとも、何かを変えようとも思わない。
今の時流に乗って言えば、
「俺にとってのサッカー」という人もいるだろう。
生まれたら目の前にボールがあり自然にそれを蹴っていた、と。
(ロナウジーニョならそう言いそうだ)
そして、某日本代表FWのY澤選手なら、
「点を取ることだけがFWの仕事ではない」
というかも知れない。
気が付けば目の前にボールがあり、シュートしたのだが
なぜかアウトサイドで蹴ってしまい、
3メートル手前のゴールに入れることができなかった、と。
...
僕にとって、その自明な何かとして紛れも無く存在しているものの一つに、
「目の前に差し出される食べ物」というものがある。
僕は毎日ご飯を食べている。
来る日も来る日も飽きもせず、毎日、必ずお腹がすいて、何かを食べる。
だけど、僕は料理をしない。
その気になれば作れる。でも作れるのはカレーとお好み焼きだけ。
(自分だけ食べるときは作る。そばとかラーメンとか、でも料理とは言わないか)。
今は家人に、家を出る前は母親に、外食するときはその場の人に、
僕は料理を作ってもらっており、アホのようにそれを食べるだけの日々だ。
本当に、なんと圧倒的な恩の上に、自分は存在しているのだろう。
そんな自分が何をえらそうに言っても、所詮すべてはたわごとという気がしてくる。
今まで人に作ってもらった料理の数は、本当に、星の数ほど多い。
そして、自分が料理を作って誰かに食べてもらうことがあったとして、
その回数が、自分が今まで食べさせてもらった回数を上回ることは
死んでもない。つまり、自分は圧倒的な食の「負」の中に生きている。
僕は、誰かに料理を作ってもらわないと生きていけない。
本当にか弱い、なんと依存的な存在なのかと思う。
僕は誰かによって毎日、「生かされている」のだ。
ここで、翻訳の話。
ご飯を食べるときによく思うことがある。
僕は、誰かが作ってくれた料理を毎日食べて生きているが、
僕は、僕が誰かに毎日ご飯を作ってもらっているように、
誰かに翻訳を届けているのだろうか?、と。
僕は、誰かのために、飽きもせず、毎日毎日、翻訳という料理を作っているのだろうか?
あらたまって感謝されることもなく、当たり前の顔してただ自分の作った料理を
食べる人に向けて、僕は翻訳をしているのか?
あるとき誰かが、本当に、打ちのめされるくらいに、
料理を作る人に感謝をしてくれる、
僕が家人や母親に抱くのと同じくらいの気持ちで。
そうなるくらいまで、誰かのために、美味しいご飯を、
当たり前のような顔をして届けているのか?
答えは、100% NOだ。
おそらく、これから死ぬまで寝ている間以外はすべて翻訳に費やしたとしても、
いままで誰かにご飯を作ってもらった恩以上の何かを、
誰かに与えることなどできそうにない。
(できなくて当然だと思っている)
でも、そんな圧倒的な何かにはとうていなれないのだとはしても、
そんな、「当たり前でいて凄すぎる何か」を目指して努力したいとは思う。
とてつもない労力をかけて、誰かに何かを届ける。
誰かはそれを当たり前に受け取ってくれる。
そして今日も日が暮れる。
翻訳LOVEが目指さなくてはならないのは、そんな
来る日も来る日も当たり前のように誰かに何かを与えるために尽くす、
という圧倒的な精神に違いない、と思うのである。
お腹がすいたので、うどんをゆでてたべることにする。
目の前に、空気のように、そして何よりも圧倒的に当たり前に
存在している「何か」がある。
個人によってそれは千差万別だろう。
それは、家族かもしれないし、自分の性かもしれない、
母国語かも知れないし、生まれ故郷かもしれない。
あるいは、毎朝目がさめること、とか、
いつも呼吸していること、とか...
そこからは、逃れられないし、その何かを変えることも難しい。
そもそも、そこから逃れようとも、何かを変えようとも思わない。
今の時流に乗って言えば、
「俺にとってのサッカー」という人もいるだろう。
生まれたら目の前にボールがあり自然にそれを蹴っていた、と。
(ロナウジーニョならそう言いそうだ)
そして、某日本代表FWのY澤選手なら、
「点を取ることだけがFWの仕事ではない」
というかも知れない。
気が付けば目の前にボールがあり、シュートしたのだが
なぜかアウトサイドで蹴ってしまい、
3メートル手前のゴールに入れることができなかった、と。
...
僕にとって、その自明な何かとして紛れも無く存在しているものの一つに、
「目の前に差し出される食べ物」というものがある。
僕は毎日ご飯を食べている。
来る日も来る日も飽きもせず、毎日、必ずお腹がすいて、何かを食べる。
だけど、僕は料理をしない。
その気になれば作れる。でも作れるのはカレーとお好み焼きだけ。
(自分だけ食べるときは作る。そばとかラーメンとか、でも料理とは言わないか)。
今は家人に、家を出る前は母親に、外食するときはその場の人に、
僕は料理を作ってもらっており、アホのようにそれを食べるだけの日々だ。
本当に、なんと圧倒的な恩の上に、自分は存在しているのだろう。
そんな自分が何をえらそうに言っても、所詮すべてはたわごとという気がしてくる。
今まで人に作ってもらった料理の数は、本当に、星の数ほど多い。
そして、自分が料理を作って誰かに食べてもらうことがあったとして、
その回数が、自分が今まで食べさせてもらった回数を上回ることは
死んでもない。つまり、自分は圧倒的な食の「負」の中に生きている。
僕は、誰かに料理を作ってもらわないと生きていけない。
本当にか弱い、なんと依存的な存在なのかと思う。
僕は誰かによって毎日、「生かされている」のだ。
ここで、翻訳の話。
ご飯を食べるときによく思うことがある。
僕は、誰かが作ってくれた料理を毎日食べて生きているが、
僕は、僕が誰かに毎日ご飯を作ってもらっているように、
誰かに翻訳を届けているのだろうか?、と。
僕は、誰かのために、飽きもせず、毎日毎日、翻訳という料理を作っているのだろうか?
あらたまって感謝されることもなく、当たり前の顔してただ自分の作った料理を
食べる人に向けて、僕は翻訳をしているのか?
あるとき誰かが、本当に、打ちのめされるくらいに、
料理を作る人に感謝をしてくれる、
僕が家人や母親に抱くのと同じくらいの気持ちで。
そうなるくらいまで、誰かのために、美味しいご飯を、
当たり前のような顔をして届けているのか?
答えは、100% NOだ。
おそらく、これから死ぬまで寝ている間以外はすべて翻訳に費やしたとしても、
いままで誰かにご飯を作ってもらった恩以上の何かを、
誰かに与えることなどできそうにない。
(できなくて当然だと思っている)
でも、そんな圧倒的な何かにはとうていなれないのだとはしても、
そんな、「当たり前でいて凄すぎる何か」を目指して努力したいとは思う。
とてつもない労力をかけて、誰かに何かを届ける。
誰かはそれを当たり前に受け取ってくれる。
そして今日も日が暮れる。
翻訳LOVEが目指さなくてはならないのは、そんな
来る日も来る日も当たり前のように誰かに何かを与えるために尽くす、
という圧倒的な精神に違いない、と思うのである。
お腹がすいたので、うどんをゆでてたべることにする。