イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

料理をするように翻訳を

2006年06月29日 00時45分49秒 | 翻訳について
...気が付けば、人生という旅の途中には、
目の前に、空気のように、そして何よりも圧倒的に当たり前に
存在している「何か」がある。

個人によってそれは千差万別だろう。

それは、家族かもしれないし、自分の性かもしれない、
母国語かも知れないし、生まれ故郷かもしれない。
あるいは、毎朝目がさめること、とか、
いつも呼吸していること、とか...
そこからは、逃れられないし、その何かを変えることも難しい。
そもそも、そこから逃れようとも、何かを変えようとも思わない。

今の時流に乗って言えば、
「俺にとってのサッカー」という人もいるだろう。
生まれたら目の前にボールがあり自然にそれを蹴っていた、と。
(ロナウジーニョならそう言いそうだ)
そして、某日本代表FWのY澤選手なら、
「点を取ることだけがFWの仕事ではない」
というかも知れない。
気が付けば目の前にボールがあり、シュートしたのだが
なぜかアウトサイドで蹴ってしまい、
3メートル手前のゴールに入れることができなかった、と。

...

僕にとって、その自明な何かとして紛れも無く存在しているものの一つに、
「目の前に差し出される食べ物」というものがある。

僕は毎日ご飯を食べている。
来る日も来る日も飽きもせず、毎日、必ずお腹がすいて、何かを食べる。
だけど、僕は料理をしない。
その気になれば作れる。でも作れるのはカレーとお好み焼きだけ。
(自分だけ食べるときは作る。そばとかラーメンとか、でも料理とは言わないか)。

今は家人に、家を出る前は母親に、外食するときはその場の人に、
僕は料理を作ってもらっており、アホのようにそれを食べるだけの日々だ。
本当に、なんと圧倒的な恩の上に、自分は存在しているのだろう。
そんな自分が何をえらそうに言っても、所詮すべてはたわごとという気がしてくる。

今まで人に作ってもらった料理の数は、本当に、星の数ほど多い。
そして、自分が料理を作って誰かに食べてもらうことがあったとして、
その回数が、自分が今まで食べさせてもらった回数を上回ることは
死んでもない。つまり、自分は圧倒的な食の「負」の中に生きている。

僕は、誰かに料理を作ってもらわないと生きていけない。
本当にか弱い、なんと依存的な存在なのかと思う。
僕は誰かによって毎日、「生かされている」のだ。

ここで、翻訳の話。

ご飯を食べるときによく思うことがある。

僕は、誰かが作ってくれた料理を毎日食べて生きているが、
僕は、僕が誰かに毎日ご飯を作ってもらっているように、
誰かに翻訳を届けているのだろうか?、と。

僕は、誰かのために、飽きもせず、毎日毎日、翻訳という料理を作っているのだろうか?
あらたまって感謝されることもなく、当たり前の顔してただ自分の作った料理を
食べる人に向けて、僕は翻訳をしているのか?

あるとき誰かが、本当に、打ちのめされるくらいに、
料理を作る人に感謝をしてくれる、
僕が家人や母親に抱くのと同じくらいの気持ちで。
そうなるくらいまで、誰かのために、美味しいご飯を、
当たり前のような顔をして届けているのか?

答えは、100% NOだ。

おそらく、これから死ぬまで寝ている間以外はすべて翻訳に費やしたとしても、
いままで誰かにご飯を作ってもらった恩以上の何かを、
誰かに与えることなどできそうにない。
(できなくて当然だと思っている)

でも、そんな圧倒的な何かにはとうていなれないのだとはしても、
そんな、「当たり前でいて凄すぎる何か」を目指して努力したいとは思う。

とてつもない労力をかけて、誰かに何かを届ける。
誰かはそれを当たり前に受け取ってくれる。
そして今日も日が暮れる。

翻訳LOVEが目指さなくてはならないのは、そんな
来る日も来る日も当たり前のように誰かに何かを与えるために尽くす、
という圧倒的な精神に違いない、と思うのである。


お腹がすいたので、うどんをゆでてたべることにする。








翻訳者よ、総合格闘技家たれ!

2006年06月11日 23時46分33秒 | 翻訳について
総合格闘技のファンである。
打撃オンリーのK-1よりも、断然、今話題のPRIDEやHERO'Sの方が好きだ。

というわけで、また、意味のない例えをしてしまうが、
常々、翻訳と総合格闘技は似ていると、思っている。

僕は英日翻訳を主にやっているので、それを前提にして話したい。

よく翻訳に大切なのは、
1.英語(外国語)力、
2.日本語力
3.専門知識および翻訳スキル
と、いわれる。

そしてそれを総合格闘技に置き換えると
1. 打撃
2. 寝技
3. 総合格闘技の技術、経験
となる(と、思っている)。

総合格闘技では、打撃と寝技のどちらの技術をもが要求される。
さらに、それらをミックスした、総合ならではの技術と経験も必要だ。
空手やムエタイの打撃系出身者、柔術、レスリングの出身者は
それぞれ、自分の得意技を生かそうとして戦うが、
ある特定の分野が弱ければ、あっというまにKOあるいはタップとなってしまう。

翻訳も同じで、いくら英語力が高くても、日本語力がなければ
翻訳のアウトプットとしての日本語は無残なものになるし、
逆に少々文章力があると自負していても、英語力がなければ、
まったく原文に歯が立たず、誤訳の連発になりかねない。
ヒョ―ドルのように、立ってよし、寝てよしといのが理想だ。

海外生活の方が日本で過ごした時間よりも長い、
というような帰国子女がトレーニングをせずに翻訳する場合は、
打撃出身者がいきなり総合に参戦するようなものだ。
優れた英語力=強烈な打撃で相手をKOする力は秘めているが、
転がされてしまえば、あとは何もできずに決められてしまうだけだ。

逆に、日本語力に自信はあるが、英語力はちょっと...
という人が翻訳にチャレンジする場合は、
柔道やレスリング出身者の総合初参戦に例えることができる。
相手を捕まえる(原文を理解する)ことができれば力を発揮するが、
そうする前に、相手の強烈な打撃(原文の意味がわからない)
によって、一発KOされてしまうことが
十分に予想されるのだ。

立ち技出身者は相手に決められないようにすること、
寝技出身者は打撃に対する防御を身に付けることが、
まず第一の関門となる。

その段階を乗り越えると、次は、いかに総合のルールの中でで上手く戦うか、
ということが主題になってくる。

当然、総合には総合の戦い方がある。
レスリングやボクシングでオリンピックに出たことが
あるような選手でも、総合格闘技で実績をあげるまでには、
かなりの時間を要するものなのだ。
翻訳に例えれば、専門知識を磨き、翻訳スキルを高める、ということになる。

だから、帰国子女だから翻訳くらい簡単に出来るでしょ。
とか、英語なら大学受験のときにそこそこ勉強したから、
翻訳くらいできそうだ。
という「総合初参戦翻訳」が、あまり上手くいくことはない(と、思っている)。

世間一般では、結構「翻訳」をこの総合格闘技初参戦翻訳、
と同義の意味で使っている人が多いという気がしているが、
翻訳LOVEのイワシとしては、
「翻訳はキックボクシングでもないし、サンボでもない、
総合格闘技だ!」ということを強く世に訴えたいのである。

総合格闘技でも、総合には総合の技術が必要であり、
いくらある格闘技の分野でのトップアスリートでも、
総合の経験者に簡単には勝つことはできない、
とわかるまでには少々時間がかかった。

翻訳にも翻訳の技術がある。
当然、英語力や日本語力を磨く努力を高めることは
とても大切なのだけど。
本当に、良い翻訳をするめには、翻訳の技術を磨くことが必要になってくる。

そんなわけで、僕は、翻訳の総合格闘技の選手でありたいと思っているのである。

PRIDEでベスト8に残った選手を自分に例えると、
スキだらけの藤田ではないかと思う。
寝技の素地はあるが、決め手にかけ、
打撃は荒削り、打たれ強さだけがウリ...
優勝は、まずありえない。

翻訳の総合格闘技を目指すと考えれば、
まだまだ自分に足りないところばかりが目に付く今日この頃だ。

もちろん、総合で通じなくなった場合は、
翻訳のプロレスラーに転向することも視野に入れているのだが...


翻訳の神様降臨か!?

2006年06月07日 00時30分12秒 | 翻訳について
昼間、仕事で打ち合わせに出かけ、自社に戻る道すがらだった。
電車の中で、目の前の席におもむろに柴田元幸さんが座られた。
(柴田さん、プライバシーの侵害ごめんなさい)
柴田さんは、おもむろに原書を取り出すと、
真剣なまなざしでそれを読み始められた。
その姿は、周囲に溶け込んでもの凄く普通だったし、
そしてもの凄く迫力があった。氏のそんな姿を見れて、なによりも嬉しかった

乗り合わせたのは時間にして10分くらいだろうか。
憧れの元祖スーパー翻訳LOVEの大家と出会い、
(先日の村上春樹シンポジウムで生柴田さんは体験済みだったが)
万年翻訳見習人のイワシはえもいえぬ昂揚感に包まれていた。

柴田さんもそういわれることが好きでないと思う、
だから彼を「翻訳の神様」とは呼びたくはない。
でも、僕の目に確かに見えたのは、
真剣に原書を読み耽る柴田さんの背中に張り付いて(憑いて)いる、
「翻訳の神様」の姿だった。

このところ、公私ともに翻訳の世界にどっぷりとつかり、
何かと思うところも多い僕だった。そんな時、
おそらくは柴田さんの名前と顔を一致させることのないであろう、
「普通」の人達にまぎれて、電車内という細切れの時間を、
やはりというか、確実に、本とともに過ごしている、「普通」の人に出合った。
そしてその後ろには確かに神(ちょっとヘビーな)の姿が。
これを翻訳人としての最高の喜びといわずして何になろうか。

こんな僕にも、少しは翻訳の神様の御加護があるのでは?
などと勝手に解釈してみずにはいられなかった。
柴田さんの背中にずっしりとのしかかる翻訳の神様の姿を見ながら。

当たり前のように、日常の中で翻訳LOVEを実践されている
氏に出会え、今日はとても嬉しい日になった。
生きている間は常に翻訳のことを考える。
それでいいのだとあらためて思ったし、
たとえそうして日々を過ごせたとしても、きっと人生なんてあっという間に
過ぎ去ってしまうのだ。
いろんな形で翻訳の神に出会えるのは、これからの人生、ほんの数回に違いない。