イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

三階から目薬 キタ━━━━(゜∀゜)━━━━ッ!!

2008年03月31日 22時24分35秒 | Weblog
雨が上がって、午後一番、ふらりと足のむくままに、歩けば今日も新宿の、「ナイアガラの滝」美しき、濡れ桜の海泳ぐよな、お魚みたいな鳩ぽっぽ、すぐ目の前を過ぎ去って、なんて綺麗な鮮やかな、世界はこんなに麗しき、それはおそらくなかんずく、君が地球にいるからで、それだけでもう雲のうえ、上の空だよ一日中、この世は夢か幻か、たぶんねきっとそうだよね、未来がスーッと見通せて、生きてた意味がわかるよな、答えがひょっこり見えたよな、そんな気がして嬉しくて、何も怖くはないけれど、だけど涙が止まらない、どうすりゃいいのさこの俺は、大切なものが突然に、これ以上もなくわかるよな、小さな命が見えるよな、そんな気がして振り向けば、目頭熱く見上げれば、北東の空にあの人の、笑顔がくっきり浮かんでて、ただ絶対に忘れるな、みんなの幸せ考えて、そして俺行け心なら、きっとまっすぐ進めるさ。

夏目大を追いかけろ~あさま組春の特別企画 勉強会 in 横浜 2008 Spring 突撃レポート

2008年03月30日 13時02分27秒 | 怒涛の突撃レポートシリーズ
――正直、超盛りだくさん過ぎて全部は書き尽せません――


2008年3月29日土曜日、午前11時半――、僕は前日の酔いの余韻も覚めやらないまま(昨夜は実に新宿ワイルドアットハートな夜だったのです)、新宿駅に向かっていた。そう、今日は夏目組の月例の勉強会「あさま組」の特別企画、『横浜翻訳生活ナマ体験~君も僕と一緒に桜の綺麗な港の見える丘公園でスリーピーの写真を撮ってみないか in 横浜 2008 春』が開催される日なのだ。タイトルが表すとおり、この企画は、勉強会の会場を、普段の青山一丁目界隈から、夏目さんの自宅に移し、桜満開の横浜を堪能しつつ、夏目邸に突撃して大ちゃんの生態を探りつつ、拡大版の勉強会を決行して、夜は中華街で乾杯して締めるという超欲張りVIPコース的なものであり、そしてこの企画を一月前、突発的に思いついてしまったのは何を隠そうこの私なのであった。新宿の山手線のホームで、ネリマ区のサイパンダことYさんと合流し、一路横浜へと向かう。車内では、あらためて今回の各自の課題に目を通す。Yさんと二人で、なんだか全員目に見えて上手くなっている気がするという感想を述べ合う。

夏目さんが指定した集合場所は、JR横浜駅東口のそごうにある時計台の下だ。集合時刻の12時半少し前につくと、すでにメンバーはほぼ勢ぞろいしていた。特別企画というせっかくの機会なので、超個性的なあさま組の7人のメンバーを(馬名を使って)紹介することにしよう。


カンテツキョウコ......あさま組の「あさま」とは、長野在住の彼女が特急「あさま」に乗って青山一丁目まで通ってきたことに由来する。あさま組は彼女を抜きにして語れない、伝説的な存在なのである。新作のタイトな締め切りを二ヵ月後に控え、持ち前のラストスパートを使った完徹の、いや感動のゴールを予感させるオーラを早くも発している。

ヘイアンボボボ......新星のように現れた京都在住の超有望株。彼女も、この勉強会に参加するために毎回上京しているのだ。翻訳にかける情熱は誰にも負けない。彼女の参加によって、勉強会は俄然活気に満ちたものになったのであった。ところで、彼女は当日、名言を残したのだった。それは...

夏目と書いて「カモク」と読む その心は「名は人を必ずしも表さない」

彼女に、ざぶとん十枚あげよう。では引き続き、

エロメメタン......あさま組幹事長。この姉貴の仕切りのおかげで毎回勉強会が成立しているのです。新作の出版を間近に控えつつ、最近は活動の幅をさらに押し広げての充実の仕上がりぶり。リーディングの題材でも新境地(官能系)を開拓しつつあり、ダークホースとしての存在感を益々強めている。

シニガミオウジ......今回の当番は、あさま組の最年少、イケメン王子ことS君なのであった。ダメ人間系が幅を利かせているあさま組のなかにあって、非常に礼儀正しい正統派の好青年である。天は彼に二物を与えたといわざるを得ない。俎上に乗った彼の訳文を元に、今日の勉強会はいつにも増して充実したものになるに違いない

リトルサイパンダ......夏目さんの一番弟子とも称され、周囲からも一目置かれた存在の実力者。酒席でもそのタイフーンのような飲みっぷりと暴れっぷりで一目置かれているが、今日は手作りの美味しいチョコレートケーキを持参してくれて、一気に株を上げたのであった。

モウソウイワシ......最近、妄想癖が強まり、元々の安定感のなさに輪をかけるふらつきぶりで、足元をすくわれるのは必至。勉強会に初めて参加したころのさわやかなイメージも今は昔、このごろはすっかりダメ人間系としての(事実とは異なる)印象をもたれているようである。自らの立ち位置の見失いぶりに拍車をかけながらの参加。

ダイカモフラージュ.....夏目大さん。一月前に自宅での勉強会開催が決定してからというもの、連日の部屋掃除に、日中の持てるエネルギーの50%を費やしてきた。捨てたゴミ袋は15袋以上。その過程で「掃除の真髄とは、片付けることではなく、カモフラージュすることにある」という至言が生まれた。今日は勝手知ったる横浜にあって、水を得た魚のようにイキイキとしている。

七頭、いや七人揃ったところで、みなとみらい線にのり元町に移動。夏目さんの引率に導かれながら、ハマの街をそぞろ歩く。やっぱり地元の人に案内してもらうと、安心感がある。いや~、それにしても、横浜っていいですね! 異国情緒溢れるおしゃれな街並み、落ち着いた大人の雰囲気。もう歩き始めた瞬間から、全員「来てよかったね」という充実感に満ち満ちてしまう。「ザ・ベスト・チーズケイクス」という素敵なお店でランチ。その後、夏目さんのプランどおり、港の見える丘公園にいくと、そこには横山翻訳生活でお馴染みの猫、スリーピーが! 見事に期待に答えてくれましたのだニャー。

桜は満開、天気も上々。横浜ってこんなにいいところだったのか、と目を驚かせ、楽しませながら、メンバーのそれぞれと、三々五々に歩を進めながら、話に花を咲かせる。勉強会も大事だけど、こうしていろんな情報交換をしたり、刺激を与え合ったりすることも、とっても大事なのだ。

夏目さんは早足でスタスタと歩き、めぼしい被写体を見つけると、おもむろに写真を撮っていく。これぞまさに、メイキング・オブ・横浜翻訳生活。こっちがリアルでブログがバーチャルなはずなのに、なんだかブログの世界の夏目さんが本物で、目の前にいるのがおとぎの国にいる夏目さんのようにに思えてくるから不思議だ。この夏目さんの姿を見れただけでも、今回の企画の目的の42%くらいは達成したような気分になった。

そろそろ夏目邸に向かおうとするころ、突然、夏目さんの携帯が鳴った。それまで穏やかだった夏目さんの表情が、ゴルゴ13のようなシリアスモードに切り替わった。なんでも、「ギターをもった渡り鳥」と名乗る謎の男から、勉強会にオブザーバー参加したいという申し立てがあったのだという。メンバーの間に、緊張感が走った。果たしてその男とは...

ウクレレハッピー......何を隠そう某社編集長のI兄貴であった。前々日の新年会でこの横浜勉強会の開催を知り、ウクレレ持参で特別参加してくれることになったのである。長年のパートナーである夏目さんの自宅を見るよい機会(CDラック、本棚を確認?)であるし、編集長として勉強会に新たな視点を導入してくれるはずだ。豪華な勉強会に、彩が加えられた。

そんなこんなでバスに乗り、夏目さん宅に前に到着。実にいいところである。ぶっちゃけた話、この企画はやはり夏目さんのブログ、『横浜翻訳生活』に描かれている魅力的な世界を直接この目で見てみたいという純粋な好奇心が土台となって誕生したものなのであるが、実はもう一つ、大きな目的があった。それは、以前からまことしやかに噂されてきた、ある疑惑の真相を明らかにすることであった。その疑惑とは......、

夏目大は、実は二人いるのではないか

というものであった。おそらく、家に篭ってコツコツと翻訳している夏目大Aと、横浜を徘徊している夏目大Fの二人がいて、それぞれ分担作業を行っているらしいというのが、業界筋の推測だった。そうでなければ、いろんなつじつまが合わないのだ。というわけで、我々あさま組の面々は、なんとしてもその証拠を掴んでやろうと秘かに心に誓っていたのである。

中に入ると、みんな興奮していろいろと中にあるものを物色する。たくさんの本、CD、リモコンだけでも10個近く?あるAV機器。ここで、夏目さんはいつも仕事をしているんだね~と、各自が想いを馳せる(といいつつ、皆、何を感じていたのかについては、定かではない)。

勉強会開始。いつもと違って時間を制限する必要がない。心置きなくディスカッションできる。アットホームな雰囲気のなか、あっという間に一時間半が経過。ときおり兄貴に編集者としての意見を求めながら、議論を深めていく。いつもと違う人がいると、視点が広がってとても勉強になる。休憩タイム。兄貴のウクレレ・ミニコンサートを楽しみながら、Yさんの美味しい手作りケーキを食べ、夏目さんが手回しで豆を挽いて淹れてくれたコーヒーを飲む。夏目さんがリクエストに答えてクラリネットを演奏する。このときの様子の面白さはは、筆舌に尽くしがたいものがあったので、あえて割愛する。が、この貴重映像は、Yさんによって近日中にYoutubeにアップロードされる予定である。

3時ごろに始まった勉強会は7時ころまで続いた。ご苦労様! そして、中華街に移動して夏目さん馴染みの高級中華料理店「東光飯店」で乾杯。料理もとっても美味しかった。話が弾んで、気がつけば、もう10時。いや~、ホント、一日堪能しました。イメージどおり、百点満点の展開。こうして春のスペシャル企画は、大盛況のうちに解散のときを向かえた。

家に着くと、夏目さんからメールが届いていた。港の見える丘公園の綺麗な桜を背景に、全員が写っている集合写真が添付されていた。なんだか妙にジーンと来た。あさま組で集合写真なんて撮ったの初めて。一生の記念になる一枚かも知れない。みんな、これからも頑張って翻訳しよう。助け合い、励ましあい、刺激しあいながら。また、来月会いましょう!

~レポート完~

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エピローグ

ちなみに、夏目さんの家には「あかずの間」というのがあって、そこには誰も足を踏み入れてはいけないとされた。どうやら、やばいもの、危ないものはすべてそこに押し込まれたらしい。皆、そこに何があるのかとても気になっていた様子だった。だけど、さすがに中を覗いたりした人はいなかっただろう。――僕以外には。そう、実は、僕はトイレに行ったふりして、こっそりこの「あかずの間」のドアを開けて、中を覗いてみたのだった。そしたら、部屋の中にはもう一人の夏目さんがいて、コツコツと仕事をしていた。やっぱり、夏目さんは二人いたのだ。「お疲れ様です」って言ったら、「あいつが横浜フラフラばっかりして全然仕事しないから、俺は大変なんだよ」とぼやいていた。まあ、どっちも夏目さんだからどちらかを責めたり同情したりすることはできない。だから、「いやでもお互い持ちつ持たれつじゃないんですかね。あの人が頑張ってブログ書いてるから、あなただって人気を維持できるわけだし」と慰めておいた。ともかく、長年の疑惑が晴れて、すっきりした気持ちになった。というわけで、これから夏目さんと会ったりメールしたりすることがある人は、それがどっちの夏目さんなのか、心のなかでこっそり確認してみてくださいね。

彼のウクレレ彼女の映画館

2008年03月29日 03時12分41秒 | ちょっとオモロイ
某所にて催された某社編集者+関連翻訳者の新年会(それが新年会だったということは、後日知った)に呼んでいただいた。ありがたい話である。某社編集長の「ウクレレの兄貴」ことI氏と、美人敏腕編集者のKさんのお二人にお会いするのは昨年の11月以来だ。そして、歩く古典落語あるいは現代の東方見聞録こと翻訳家の某N目大さん、さらにリトルサイパンダまたはネリマタイフーンの異名を持つ美しき翻訳者Yさん、そして世界のS社が誇る新進気鋭のネットワーク関連翻訳者Sさんとわたくしを加えた豪華6人が一堂に会するというドリームナイトが水道橋の「食堂アンチヘブリガン」という素敵な店で実現したのであった(ここまではっきり言ったら某所じゃないですな)。

趣味は何?その一言から夜が花咲くこともある

隣に座った美人編集者のKさんの私生活は、これまで僕にとって神秘のベールに包まれていた。なので、思い切って週末は何をしているのですか?と聞いてみた。そしたら、意外といえば意外、言われてみれば納得なのだけど、それは「映画」なのであった。しかも、彼女は本格的に映画が好きだということがよくわかった。僕も昔一応シネフィルまがいのことをしていたこともある(一応大学時代は映画研究会所属、映画業界でも何年も働いていたのです)から、本当に映画が好きな人かどうかはすぐにわかる。なんかこういうとえらそうですが。つまり、頭で映画を観ているのではない。理性で映画を観ているのではない。とりあえず映画でもという気持ちなのではない(別にそれが悪いというわけじゃないけど)。もう、どうにもとめられないリビドーに突き動かされている。淫している。それが、本物の趣味なのだと思うし、「趣味は何?」と聞かれたときに、ためらいなく答えられる何かだと思う。というわけで、同じく映画好きのSさんと3人で、速攻で映画研究会が発足してしまった。例会は某新宿の某映画館で開催される? ともかく、やはり、何かが好きだという人の話を聞くのは楽しい。何かに突き動かされている人の話は。何気ない、お約束の質問も、捨てたものではない。「ご趣味は?」は、お見合いじゃなくても、やはり聞いてみるべきなのだ(といいつつ、僕には人様に言えるような趣味は何もない)。そして趣味といえば、もう趣味の領域を遥かに通り越して、生き様のレベルに昇華させてしまっているのが、兄貴のウクレレなのであった。兄貴は、本物だ。ホンマモンだ。店にあったギターを勝手に手に取り、おもむろに兄貴に渡す。もう酔っ払ったわたしに怖いものはない。兄貴は私と違って、間違っても勝手に店のギター弾いたりするような人ではない。なので、兄貴はお店の人にやわらかく断りを入れてから、ポロンポロンとギターを奏で始めた。今夜の兄貴はいかしてるよ一段と。楽器弾ける人はいいですな~。弾きなれた指の動きがとってもセクシーだ。ロマンチックが止まらないのだ。

紅白のワインを浴びてハワイアン奏でる兄貴は今夜CCB

その後、兄貴の口から驚愕のエピソードが。あまりにも凄すぎるのだけど、残念ながらそれをここには書けない。そして、少々ほろ酔いのN目さんもギター片手に弾き語りを始めた。しかし楽曲の演奏というよりも、漫談だ。これはかなり貴重なものをみた。動画撮影してYoutube投稿するべきだった? それにしても、この二人、いつ見てもいいコンビやな~。

鼻ほじることほど翻訳と通じるものなく じっと人差し指を見る

ところで、鼻をほじるという行為ほど、翻訳を連想させるものはない。鼻をほじりたくなる。つまり、そのとき鼻のなか(無意識の言語的世界)に何か(訳文)があるのはわかっている。だけど、モヤモヤしていてそれが何かはまだわからない。ただ、原文を読んだら激しく鼻をホジホジしたくなる。だから鼻をほじる。つまり、人差し指というソナーを鼻腔の中に下ろしていくのだ(つまり、中沢新一氏が言うところの『アースダイバー』と考え方は同じだ)。訳文を求めて、とりあえず無意識の世界にダイブするのだ。そして、とにかくその暗闇のなかで見つけたものを取得して、明るみの中に出してみる。そのときに初めて、ああ、俺がモゾモゾしていたのはコイツが原因だったのか。なるほど、これが俺のなかにあったものの正体(原文を読んでイメージしたもの)だったのか、と思う。とにかく、訳文を吐き出してみる。鼻をほじってみる。そうすることから翻訳は始まるのだ(なんて)。

ともかく楽しかった。結構酔っ払った。あくまで普通に酔っ払った。そして、酔っ払ったのはわたしだけではなかった。そんなわけで、素敵な夜は過ぎていったのだった。ああ、幸せすぎて怖い。バチが当たらないように、まじめに働こう。皆さん、ありがとうございました! 勝手にネタにしてすみません。

『紙のライオン』沢木耕太郎
『アメリカ外交』村田晃嗣
『情報と国家』江畑謙介
『鉄道ひとつばなし』原武司
『短編小説のレシピ』阿刀田高






鬼は内、福も内

2008年03月26日 23時21分42秒 | Weblog
鬼のいる間にこそ洗濯

亀レスならぬ亀ネタですが、世界卓球の試合をテレビで観ていて思ったことがある(本当にネタが古いな)。当時いろいろ急がしくてテレビはほとんど観ていなかったし、もともと卓球にそれほど興味があるわけではないのだけど、食後とかに何気なくチャンネルをザッピングしていて、ついつい引き込まれるようにして、この世界卓球を観てしまったのだった(とはいえ、もっと観たかったのだが、全部で三試合くらいしか観れなかった)。で、当然、各国選手の神業のようなプレーにも驚かされたのだけど、それ以上にすごいな、と思わされたのが、選手たちのあの集中力。まるで鬼である。あそこまで全身の神経を集中させることなんて、普通に暮らしていたら、あまりない。というか、僕の場合、まったくない。あっても年に数回とかしかない。しかも具体例を思い出せない(遅刻しそうになってダッシュしてるとき?)。それに対して、あの卓球の選手たちは、おそらく毎日何時間かは、あれだけ研ぎ澄まされた感覚のなかで時間を過ごしているのだ。1試合を終えるのに何分くらいかかるのかは忘れてしまったけど、1日3ゲームくらいやったら、肉体的にも精神的にもへとへとになるだろうと思う。肉体的な疲労だけじゃなくて、将棋とかチェスを真剣に一局指すくらいの集中力を要するだろうと思った。でも、選手たちにとってはあれが仕事なのである。そう、仕事というのは、あれくらいの集中力をもってやらなくてはならんのだ、と思ったというわけなのである。

で、仕事というのはあれだけの集中力をもってやらなくてはいけないのだけど、一日中それを維持できるわけじゃない。だから、集中できるときに集中してしまうという考え方が大切になる。具体的には、やっぱり午前中とか、午後一番とかが、そいういう時間帯なのではないだろうかと思う。そういうゴールデンタイムを逃してしまうと、なかなかあの卓球選手のような集中力はだせない。鬼のような集中力は発揮できない。鬼のいぬ間の洗濯、というけれど、自分のなかに鬼がいる間にこそ、洗濯やら掃除やら仕事やら、やるべきことをエイヤっとやってしまったほうがいいと思うのである(決して私がそれを実践できているわけではありません)。もちろん、現実に自分自身以外の鬼がいるなら、やっぱり命の洗濯は必要なんだと思うけど。

渡る世間に鬼はなし 鬼の目にも見落とし

渡る世間に鬼はなし――。最近、つくづくそう思うのです。そうですよね。うん、そうにちがいない。人の情けに触れると、しみじみとそう思う。嫌な想いをすることもあるし、腹が立つ事だってあるし、いろいろある。だけど、じゃあ鬼がいるのか、といわれれば、やっぱり自分含めてみんな人の子だったとそう思う。そう思える自分は、幸せなんだろう。もちろん、どこかに鬼はいるんだろうけど。で、鬼はやっぱり自分の中に育てるもんだ。仕事をするときに鬼になるのだ。仕事の鬼、翻訳の鬼になるのだ。あくまで自分に対してね。人に対しては、仏のコジマといわれてますので(なんて)。で、鬼の目にも涙。鬼の目にも見落とし。ぼくは見落としが多いので、特に仕事では気をつけなければならない。そういうとき、鬼の自分になってもう一回見直しすると、やっぱりミスを見つけたりする。今日も同じファイル3回見直ししたら、やっぱり最後に修正すべき点がいくつも見つかった(かなり高いこなれ度を求められている案件だったので)。でも、鬼になるのはやっぱり疲れる。だから、そのあたりの切り替えを大事にしないといけない。そんなことを思った一日なのでした。明日はまた楽しみな会がある。だけど、明日のことをいうと鬼が笑いそうなので、もう寝ます。

どうにも「あたり」がつけにくい

2008年03月25日 23時55分36秒 | ちょっとオモロイ
東京の人が「新宿あたりで飲もうか」というときのその「あたり」ってどこ

東京に出てきてちょっとだけ(ほんとうにちょっとだけ)びっくりしたことがある。それは、こっちの人の「あたり」という語の語感だ。たとえばこっちの人は、「じゃ、来週の日曜日、新宿あたりで会わない?」って言ったりすると思うのだけど、西日本各地を転々としてきた田舎モノの感覚としては(というか、ぼく個人の特殊な感覚なのかもしれないけど)、その「あたり」とは、本当に新宿の周辺、すなわち中野とか大久保とかそういう一帯を含んだ「あたり」であると思うのだけど――そして実際その通りということも多いのだけど――、それが実際のところ、どうやらこっちが思った以上に明確に、ピンポイントで「新宿」そのものを指しているのではないかという気がするのだ。つまり、「じゃ、来週の日曜日、新宿で会わない?」というのとほぼ同義で使われているような気がするのだ。で、思う。なんでいちいち「あたり」ってつけんの? と。

新宿の例だとわかりにくいかもしれない。たとえば、実際につい最近、ぼくはある人からこう言われた。「サイゼリヤあたりで昼メシでもどう?」。このときの、この「あたり」っていうのは、やっぱり必要なのか? いや、わからないことはない。「サイゼリヤで昼メシでもどう?」というのとは、確かに微妙に違う気がする。こちらに気をつかってくれているのかもしれない。「別にサイゼリヤじゃなくてもいいんだよ、君が他に行きたいところがあるならそこでもいいんだよ、だけど食べたいもの的にはサイゼリヤっぽいところがいいな、というか、ぶっちゃけサイゼリヤにいきたいな、だけど、どうしてもってわけじゃないんだよ、だから「あたり」をつけたんだよ」という風に聴こえてしまう。でも、その「あたり」のつけ方がなんというか、もってまわったような言い方のように聴こえてしまう。なぜ「あたり」がいるの? あたりというからには、他にもお店の候補があるの? 「じゃ、サイゼリヤ以外やったら具体的にどこやねん?」と突っ込みたくなってしまう。

「サイゼリヤあたりでメシでもどう?」と確信犯的に「あたり」つけ

ときには、それが人の名前になる。「今晩あたり、コジマは新宿の焼き鳥屋あたりで経理部の立花あたりと一杯やってんじゃないの?」なんてセリフを耳にする。この「新宿の焼き鳥屋あたり」はまだなんとなく許せるのだが、(今晩あたりの「あたり」もかぎりなくあってもなくてもいいけどあることでなんとなく味が出る「あたり」という気がする)経理部の立花あたり」というのがひっかかるのだ。この「経理部の立花あたり」の「あたり」というのは、いったい何なのか? おそらくそれは、立花さん以外にも、コジマと普段から仲がよくて、今晩、新宿の焼き鳥屋でいかにも飲んでそうな奴ということなのだろう。具体的には、それは「総務部の柴田さん(女性、27才)」かもしれないし、法務部のマツモト(男、36才)かもしれない。だから、ともかく言わんとすることはわかるのであるが、なんとなく余りにも話しの推測度、曖昧度が高すぎるような気がしてしまうのだ。立花は実際その焼き鳥屋にいるのかいないのか、あるいは立花がいることが重要なのか重要じゃないのか、それがいまひとつぴんとこないのだ。すごくぞんざいに選ばれた、「あたり」のような気がするのだ。

じゃあ、関西ではなんというのか、「今ごろ、コジマは三条河原町らへんのお好み焼き屋で経理部の立花らぁと一杯やっとんちゃうか?」みたいな感じにあると思う。そうすると、なんとなく、漠然とはしているのだけど、やっぱりコジマは三条河原町かその近くにいて、いい感じでお好み焼きを食べていて、やっぱり立花さんもそこにいて(三杯目のビールを飲んで顔を赤らめている。おそらくコジマに気があるのかもしれない。なんて)、結局柴田さんはいるけどマツモトはいなくて、なのでコジマもまんざらでもなさそうな気分でいて、というような絵が自然に浮かぶのである。日本的な予定調和的世界というか、緊張の夏、じゃなくてキンチョーの夏、日本の夏という安心感がある。

それに対して、「今日、コジマは新宿の焼き鳥屋あたりで経理部の立花あたりと一杯やってんじゃないの?」の場合、なんというかあまりにも漠然とした情報に感じられるというか、あくまでも仮定の話しをしていると思わせられてしまうというか、素直に「あたり」を当たり前のものとして受け止められないというか、なので、実はコジマはひょっとしたら新宿じゃなくて池袋の居酒屋でフリー翻訳者の島袋さん(女性、三十代)と激しく翻訳論を戦わせているという可能性だってあるんじゃないだろうか、という気すらしてくるのである(なんて思ってしまうのは僕だけ?)。で、結局ひと悶着あったけど、最後には仲直りして三人で――同じくフリー翻訳者の森脇(IT系翻訳、男性、38才)も合流したため――カラオケ屋で熱唱してしまったのではないかという予想外の展開にまで妄想は膨らんでしまうのである。もちろん、関西弁にも同じように違和感のある言葉(あくまで僕にとって)がたくさんあるんだけど。

ともかく、オチらしいオチはないけど、長くなったので今日はこの「あたり」でやめておきます。今日のネタは、あたり? はずれ?(あたり一面、ドン引きですかね)。

とらぬ狸のオオトリレース

2008年03月23日 20時30分23秒 | ちょっとオモロイ
武蔵野の野生のタヌキと化かし合い

自宅からわりと近所にある、某小金井カントリークラブの近くで、野生のタヌキを発見。猫を発見して、しばらく見とれていたら、すぐ近くをそしらぬ顔して闊歩するタヌキの姿が。さすがの私もびっくりだ。まるで、突然現れたモスラの幼虫に気を取られていたら、別な方向からキングギドラが襲来、みたいな感じ。それにしても、ホントに、タヌキ? そんな、まさか。目を凝らして確認する。いや、マチガイない。やっぱりタヌキだ。猫でもないし、犬でもない。さすがのワタシも、犬とタヌキを見間違うほどボケてはいません。よ~し、今晩のおかずはタヌキ汁で! っと一瞬お約束なジョークを飛ばしつつ、じっと観察。のさーっとしてるんですな、タヌキというのは。アルマジロみたいにぎこちない歩き方。もっと俊敏にいかんか、そんなんじゃ誰かに捕まっちまうぞ! と、オヤジ口調で激を飛ばしてみる。ともかく、タヌキ、東京にも生きてるんだね。頑張って生き延びるんだぞ。俺もそうだけど、人間は、嘘つきが多いからな。お前も嘘ついても化けてでも、何してでもいいから、したたかに生き延びるんだぞ、つかまるんじゃないぞ、タヌキ汁にされちゃうんじゃないぞ、と念を送る。でもさ、ひょっとしてまさかこれ、猫が化けてんじゃないよね?(意味ないか。タヌキが猫に化けるならまだしも)。ともかく、お前がタヌキなら、俺はキツネ。化かし合い、騙し合う。それがタヌキと人間。それが、おもろい夫婦。そう、お前が京唄子なら、俺は鳳啓介.......。え、オオトリ?

ギリギリに課題出してる勉強会オオトリレースの本命にされ

毎月開催されている某ノンフィクション翻訳勉強会の課題の提出に取り組む。明日のお昼十二時が締め切りなのだけど、当然(Bold)、私はまだ提出していない。既に何名かが提出を終えており、現時点で優勝争いは下馬評通り、本命の数頭に絞られた激戦になりつつある。何度かオオトリを飾ったことがある私は、今回も「あさま杯オオトリレース」の本命と目されているらしい。ただし、大本命は別にいる。彼女とは、何度か鼻差のデッドヒートを演じたことがある。誰とは言わないけど、「長野の京(唄)子」は今回も明日の11時59分59秒にしっかり照準を合わせているはずだ。今回も神業的な滑り込みをみせてくれるのか。さすがに私は今回はそこまで修羅場くぐりたくない。なので、悔しいけど、今回も二着かな~。ふふふ。さあ、頑張らなきゃ。

ともかく、まだまだレースは連戦続きだけど、化かし合いの精神で乗り切ろう。勝てる日もあれば、負ける日もある。もっともっと修羅場を味わって、味のあるレースができるようにならなくちゃ。これからしばらくは、大きなレースが続く。あるいは続いてほしい。でも、取らぬタヌキの......にはならないようにしないとね。じゃあね、ドロン。


大海のコブラツイスト、あるいは土曜日のビーフカレー

2008年03月23日 00時17分04秒 | ちょっとオモロイ
土曜牛の日ビーフカレー

久しぶりにアミノ酸たっぷりの市販のルーを買ってきて、カレーを作って(作ったのは僕ではないが)食べた。カレーについて言えば、僕は○○カレーの○○の部分はビーフでもチキンでもポークでもシーフードでもチーズでも納豆でも何でもいいのだけど、ヨメはビーフまたはチキンカレーじゃなきゃダメなのだという。なぜかはわからない。カレーの味覚に関しては、相当な保守派なのだ。で、なぜビーフカレーだったのか? 朝、今晩はうなぎが食べたいと突発的に所望したのだが、即座に却下された。そこで第二案のビーフカレーが採用されたというわけなのであった。土曜日だったから、僕の無意識には「土用丑の日」が浮かんでいたのか? ......うなぎと、うし? そんな、あまりにも短絡的すぎるじゃないか。まあ、実際ものすごく短絡的なのは否定できないけど。とにかく、休日になると晩御飯のおかずが頭に浮かぶ。とりあえずそれを同居人に伝えるのだ。採用されるかどうかは別として。それが、チャレンジャーとしての自分に課せられた使命なのだ。勝てるかどうかはわからない。だけど、戦わなければ勝つことは絶対にできないのははっきりしてるじゃないか。

井の中の蛙飛び込む大海の磯岩に染み入る蝉の声

井の中の蛙大海を知らず されど井戸の深さを知る――。翻訳の世界には、すごい人がたくさんいる。もちろん、すごい人がたくさんいることは知っていた。本だって、たくさん読んできた(それ以上にたくさん買ってきた)。通訳翻訳ジャーナルだって、10年前から購読してる。何人か、明らかに自分よりも上だと思う人だって、直接知り合いになることもできた。だけど、やっぱり自分は井の中の蛙だった。井戸の深さだって知ってるつもりでまったく知らなかった。自分には、知らないことが多すぎる。本当に恥ずかしい。先日そんな素晴らしい先輩たちに会う機会があり、すごく嬉しかった反面、やはり、それでかなり落ち込んだのだった。先達たちは、僕が今苦しんでいる山道をはるか以前に乗り越えていて、そしてここからは見えないどこか遠くの場所、地平線の彼方を突き進んでいる。あまりにも距離が離れすぎていて、偉大すぎて、背中が見えない。これまでの自分は、神奈川県大会で勝つことばっかりを考えていた。必至にがんばってみたら、なんとかいいところまでいけそうな気がしてきた。だけど、やっぱり全国は広かった。甲子園はすごかった。高知県には土佐丸高校の犬飼兄弟もいるし、岩手県には弁慶高校の義経と武蔵坊もいる。僕には、全国大会はもちろん、関東大会だって厳しいかもしれない。色々考えた末、思い切って全国大会ならぬ大海に飛び込むつもりではいる。決意は固めた。だけど、そのまま海面に浮上できないんじゃないか、そんな怖さを感じる。そして僕が沈んでしまった太平洋の磯にある松の木の幹で、ミンミン蝉が鳴き続けるのだ。

一番の強者それは我なりと信じる奴だけリングに上がれる

プロスポーツの世界では、みんな内心、自分が一番上手いと思っているのだという。逆に言えば、そういう風に思えるような選手じゃなければ、プロの世界ではやっていけないのだ。プロ野球だって、サッカーだって、プロレスだって。心のどこかで、自分の技を、才能を信じられるからこそ、可能性の世界に賭けることができる。もちろん、成功する選手は押しなべて謙虚さを持っているとも思う。伸びる選手は、先輩から多くを学ぶ。どんな世界でも、どんな道でも、完成なんてあり得ない。真剣に道を追求すればするほど、足りないところばかりが目につくはずなのだから、学ぶことに終わりなどはない。自信は努力に裏打ちされてこそ。だから道を究めた人は、素晴らしい人格を持っているのだ。だが、それとは別な次元で、初発の、未熟な身でありながらも、何の根拠もなく、本当によい仕事ができるのは我に違いないと、強く心に秘めることができなければ、ときに信じられないくらい不敵な自己をどこかに持っていなければ、それもまた嘘だと思う。そうでなければ、何かに挑戦する気持ちだって沸いてこないはずだ。そんな気概なくして、本当の挑戦者足り得ないだろうと思うからだ。

僕も一個の挑戦者足りうるか。その答えは、日々の戦いのなかで明らかにしていくしか他にない。今、加齢なる戦い、いや華麗なる戦いの、魂のゴング鳴れ。俺は、やる。さあ、リングの上では、今日も締め切りの卍固め、誤訳のアキレス腱固め、そして原書難しいぞドロップキックが俺を待っている――。

ああ青春のストライク

2008年03月21日 22時52分34秒 | ちょっとオモロイ
昨日泣いたカラスが今日は外資系

泣いてばかりはいられない。元気出して行こう! まだ天気は悪いけど、スーツを着て、営業だ。都内某所の外資系企業。綺麗なオフィス、ソ、ソフィステイィケッケットっとっと(舌がまわらない)された人たち。会っていただいた担当者は、たぶん、英語バリバリなお方。たぶん、こっちとは育ちが違う。あっちは、『小公女』読んで大人になった。こっちは、『ドカベン』読んで大人になった。あっちは、小学生のときすでにマクドナルドでチキンナゲット食べてた。こっちは、ザリガニ捕まえたり、カブト虫捕まえたりしてて、そして、ザリガニの剥き身だとか、カブト虫の幼虫をナゲット代わりに食べてた――ちょっとだけですが。そういう違いだ。と、そんなことをふと思ったのは、昨日テレビをザッピングしていたら『ドカベン』をやっていたから(そのまんまですな)。で、そのとき、案の定というか、もう抗いがたく、矢継ぎ早にボタンを押していた親指は凝固した。

あっという間に物語りに引き込まれる。ドカベンはすごい。明訓高校が秋季大会?で優勝した。不知火が、雲竜が、そして謎の男(土門)が、太郎のもとを訪れて、祝福と同時にあらたに始まる県大会での挑戦を口にする。山田太郎の実家の山田畳店では、お祝いに太郎の祖父と仲間たちが宴会を開く。今日はごちそうよ~っと妹のサチ子がいう。おかずは、秋刀魚一匹。それと、わずかばかりのサラダ。その絵が、1秒ほど映る。冗談ではない、貧乏をことさらに描くのでもない。ちゃぶ台に、人数分の秋刀魚と、大皿にもられたささやかなサラダが、ただ描かれる。秋刀魚、僕も大好きだ。ご馳走だと思う。別に乾杯するとき、秋刀魚しかおかずがなくても大丈夫。十分美味しい酒が飲めるだろうと思う。でも、やっぱりすごい。それが物語のなかにリアルに描かれているのをみると、それは壮絶だと思う。たぶん、僕にとっておそらくドカベンはバイブルにも等しいほど何度も読んだ本。テレビをみて記憶がありありと蘇ってきた。すっかり忘れていたのだけど、このマンガに描かれている世界は、あまりにも経済的、物質的に貧しい世界だった。昔は、こんなえげつない現実が、すぐ近くにあったのだ。そして、ドカベンは、それでいてこれほどまでに豊穣な世界はないと思わせてくれるほど、男子の夢を空想を刺激してくれる劇画だった。たぶん、僕にとってこれ以上の野球マンガはありえないだろう。

平成を生きた時間がいつのまにか昭和を抜いてて嘘かと思う

いつのまにやら平成20年。気がついたら、自分にとって昭和を生きた時間を平成が追い抜いていた。信じられない。でも、決して僕はノスタルジックに昭和を懐かしんでいたいわけじゃない。考えてみたら、どんな凄いライバルのピッチャーが現れても、結局はホームランを打ってしまう山田太郎、あるいは、山田太郎が打てない場合は、岩鬼や殿馬が奇跡的な活躍をしてしまうというあのドカベンの荒唐無稽さというもの、実はかなりリアリティーとはかけ離れていた。そういう意味では、昭和を盾にして平成のリアリティーのなさを責めることはできない。たとえあの漫画に描かれていた貧乏には、動かしがたいリアリティーがあったとしてもだ。そもそも、昭和と平成という元号で時代を区切ることにだって、人間の恣意的な判断が、バイアスがずいぶんと入っているはずだ。80年代とか90年代とかっていう区切りだって、実は怪しいもんだ。それに、いやみったらしく過去を振り返るようになったら、人間おしまい。と、わかっちゃいるのだけど、それでも、あの泥臭く、生々しい情念の昭和の世界は今どこに行ってしまったのだろうか、なんてことをつい思わずにはいわれない。ああ、昭和と聞くとなぜか学生服の匂いを思い出してしまう。

と、妄想を膨らませているうちに、打ち合わせは終了。翻訳会社は、英語が堪能で、常に外国人や外国文化と接している外資系の人たちから、翻訳を依頼される立場。その期待に答えなくてはならないのだ。身の引き締まる思い。さあ、下駄はいて、学生服着て、ドカベン持って、今日も練習しよう。甲子園を目指そう! ついに、あの激闘必至の神奈川県予選が始まるのだ!

雨の日の牧場

2008年03月20日 21時48分03秒 | Weblog
雨――。憂鬱な一日だ。よく、雨が降ったら気分が落ち込む、と聞くけど、それを自分のこととして実感したのは、初めてかもしれない。確かに晴れたら気持ちいい。けど、雨が降ったから気分がよくないなんてはっきりと自覚したことはなかったような気がする。たぶん、これまでも雨の日に憂鬱な気持ちになったことはたくさんあったはずだ。だけど、なぜかそれを意識したことはなかった。小さな発見に驚く。これは、いろんな意味で今、危機に瀕しているかもしれない自分の心身からのSOSなのだろうか? それに気づいたのは、深刻さの度合いが増したから? それとも、自分のアンテナの感度が上がったから? よくわからない。雨は降り続け、窓を打つ。水滴がガラスを伝って落ちていく。家の前の国道から、車が雨水をはねながら行き来する音がずっと聞こえている。拗ねてばかりの、鈍いこの心の窓には、雨を拭うワイパーも動いてはいない。

雨降りの窓から外を見るばかり 拗ねた心にワイパー動かず

調べてみると、一般的に人間というのは、雨が降ると副交感神経が優位になって、鬱状態になるということらしい。雨の日は、行動的になってうろうろ外をほっつき歩くと普段より危険が多いから、木の下でじっとしていたほうがいい。そのために、自然とそういう心身の状態になるのだという。なるほど。自然の摂理かもしれない。だからといって沈んだ気分がどうなるわけでもないのだけど。

ある人によれば、僕は創造性があって活発なところがよい(逆に言うと落ち着きがなくて飽きっぽい)らしいのだけど、逆にそれが強まりすぎるとよくないのだと言われた。確かにそうかもしれない。ついつい無理しちゃうので、休息することが大事らしい。そういう意味で、雨降りというのは、意識的に休息を取る日と考えるのも悪くないかもしれない。不安も孤独も憂鬱も、結局何をしたって消えることはない。やるべきことをやったのなら、しかたない。たまにはじっくりこうしたネガティブな自分と向き合うのも必要なのかもしれない。雨の日の牧場にいる。そして、不安とか孤独とか憂鬱とかいう名前の羊たちの番をしている。なんというかそんな感じだ。

雨降りの牧場に立ち羊らを見守る不安と孤独と憂鬱

雨降りだからミステリでも勉強しよう――という植草甚一さんの名言があるけれど、そんな気になる日でもある。残念ながら別件があって今日はミステリは読めない。もっともっと読みたいし、読まなくちゃいけないんだけれども。


なまじっか中野、何ほどの生ビール

2008年03月19日 01時09分56秒 | ちょっとオモロイ
中野泣ける夜君の生原稿

気がついたら中野で呑んでいた。もう、なんというか、雪崩現象的に、なし崩し的に、嬲り殺し的に、生易しく、なれの果てに、成りあがり的に、幸せだこの僕は。それにしても、この焼き鳥屋、すごくいいね。マッコリ、美味かった! ごほん、ところで、あのねえ、中央線というのは、いくつかの「寺」を境にして雰囲気が変わるのだよ。高円寺、吉祥寺、国分寺。でしょう?(というのはあの人の受け売り) 僕が思うに、中野というのは、なんというか、まだまだ新宿の呪縛から逃れられていない街。新宿のホンマモンの怖さを、まだまだ持っている場所。下手したら、アホこいたら、ドスで刺されるかもしれないという恐怖を感じる。新宿の舎弟。ただ、脇役は脇役。本格派じゃない。エースじゃなくて、中継ぎだ。それでいて、中央線の駅の中ではやっぱりギラギラ輝いている。欲望の街。なりふりかまわぬエキスが出てる街。特に夜は。この街は、決して主役ではない。主役顔ではない。だけどいぶし銀。つまり、なんというか、新宿が高倉健なら、中野は石倉三郎。気の置けない街(それにして、この「気の置けない」っていう紛らわしい日本語、どうにかしてくれないか)。そして、中野で読む君の生原稿。なんだか泣けるよね。なぜだろう、こんなに生原稿が似合う街、ないよね。六本木で読む生原稿とも違う、青山一丁目で読む生原稿とも違う。ましてや、八王子で読む生原稿とは断然異なるし、西船橋で読む生原稿とも一線を画する。それにしても、今、いったい生原稿ってなんだろう? プリントアウトしたての、誰にも読まれていない原稿ってことか? だったらそれ、僕に読ませてください。感想を、述べさせてください。そんなときは、酒なんていらない。誠実に、まじめに、原稿を読むよ。

わたしの恋、歌集売ります三百円

生原稿じゃないけど、中野に行く前、新宿駅の西口の広場で、女性が、首から掲げた紙に、「わたしの恋の歌集売ります三百円」みたいな内容のことを書いて立っていた(文言は忘れてしまった)。まだ若い。三十前後? で、やっぱりそんなことしている人だから、やっぱり普通じゃないオーラを出している。なんというかとても魅力を感じた(あくまでその時点では彼女の文学的な言動に対して)。激しく、買おうかと思った。だけど、買わなかった。買わなかったのは、なんというか、ど真ん中のストレートに思わずフルスイングするみたいな感覚がためらわれたから。はい、じゃあ買いますっていう自分があまりにもそのっまんま過ぎる気がしたから。それに今日は急いでいたし、気づいたときには、彼女が視界から遠ざかっていたから。でも、それはたんなる気まぐれに過ぎない。明日は買っているかもしれない。それにしても、度胸ある。彼女は。僕も、自分の恋歌を、三百円で、路上で販売できるだろうか? この駄歌を。ともかく、こういうの、新宿の醍醐味だよな~と思った。そしてそういう感性に呼応してしまう自分のアナクロなアンテナというものを、あらためて自覚してしまった次第。

明日が君に何をもたらそうとも僕は君に電話をかけ続ける

明日は、ちょっとした飲み会がある。緊張だ。何が起こるのか、どんな人と出会えるのか、まったくわからないけど、大人しく先輩の話を聞くつもり。明日、何が起こるかなんて誰にもわからない。だけど、僕は今日、君の声が聞きたい。だから、僕はダイヤルを回すのだ。


理想的な夜のすごし方、あるいはスーパーナイト

2008年03月18日 00時36分31秒 | ちょっとオモロイ
ビール飲まなきゃ夜長し

別に飲んでもよかったのだ。だけど今晩は、飲まなかった。理由は特にない。いつものように帰り道にコンビニに寄り、缶ビールを買おうと思わなかっただけ。もちろん、毎日飲んでいるわけじゃない。飲まない日だって多い。だけど、飲み出すと癖になる。で、癖になると、ついつい連日のようにコンビニに足が向いてしまう。今日はマラソンも終わってるし、筋肉痛で練習もできないし、本当は、飲んでもよかったのだ。だけどやめた。そうすると、夜が長い。本も読めるし、いろいろと活動もできる。飲まないと、やっぱり酒飲まないといいな~、と思う。だけど、飲むと、やっぱり酒美味いな~、と思う。そんなシーソーゲームを延々と続けている。

飲んでも酔い飲まなくても良い

ちなみに、僕はコンビニよりもスーパーの方が好き。スーパーの豊富な食材を見ているのが楽しいから。魚売り場とかは、見ているだけでわくわくする。お刺身が半額になっていると、ついつい手が伸びてしまうこともある。納豆とか、ちくわとか、果物とか、キャベツとか、トマトとか、そんなものを衝動買いしてしまうこともある。ハンターとしての本能が目覚めるのだ。

夜のスーパー刺身半額お寿司も特価ハイエナたちが夢の後

ほかにも、お菓子とか、お惣菜だとか、特に買うつもりはないものをカゴに入れてしまうことがある。レジに並ぶ。あまり見ちゃいけないと思いつつ、ついつい他人のカゴの中身に目が行ってしまう。このおばさん、かなりの量を買い込んでいるな、ダイナミックだな~ってな感じで。これだけ気兼ねなく食べたいものを買えたら、気持ちいいだろうな。冷蔵庫は、おそらく食材でパンパンなんだろう。そしてこのおっさん。えげつない。おそらく買っているのはほとんど今晩消費するつもりのものなんだろうけど、ビール、ビール、ビール、弁当、刺身、ラーメン、パン、お菓子、お菓子、アイス、ティッシュみたいな。祭りが始まるんだね、これから。たまに、金に糸目をつけない豪華な買いっぷりの人が、カゴに満ち満ちた食材をぎっしりと詰め込んでレジに並んでると、後ろからベンツが近づいてきたみたいな怖さを感じる。階級の違いを感じる。

黒塗りのベンツみたいな金持ちの買い物カートに幅寄せされレジ

いつも行くスーパーは、24時間営業だ。夜の10時とか11時に買い物をしている人たちは、おそらくさっきまで働いていたのだろうと思わせる。幸せそうでもあるけど、どことなく疲れている感じがする。僕はビールとつまみしか買わないけど、この人たちが買い込んでいるのは「食料」なのだ。遊びじゃないのだ。生活という言葉が、やたらとリアリティを持って迫ってくる。ある意味、この時間帯にスーパーにいる人たちにとっては、この買い物も仕事の延長なのかもしれない。生きることは厳しい。そんなシビアな現実を思い浮かべてしまう。

ともかく、今日は酒飲まなかった。翻訳者たるもの、あんまり酒ばっかり飲んでちゃいけない。シラフで静かに読書をしながら夜を過ごす。これが僕にとっての理想的な「普通の」夜の過ごし方。読む本には、事欠かない。ふふふ。もちろん、「普通じゃない」夜も必要なんだけど。

『Jack and Jackie』Christopher Andersen
『読むクスリ』Part 6 ~10 上前淳一郎

――Dead or Alive――愛と青春の荒川市民マラソン激走レポート in 板橋 2008

2008年03月16日 23時47分39秒 | 怒涛の突撃レポートシリーズ
いよいよ荒川市民マラソンのレース当日だ。7時前に起床。目覚ましは6時半に合わせていたのだけど、少しまどろんでしまった。1分でも多く休養をとりたいというアスリートの本能なのかもしれない(なんて)。とはいえ、9時にレースはスタートする。あと2時間しかない。やばい、大丈夫か? ここまで盛り上げといて、遅刻なんてしゃれにならん。大慌てで15分くらいで準備をして家を出る。

マラソンの会場は、埼京線の浮間舟渡駅から歩いて15分くらいの場所にある荒川の河川敷だ。遅れているのと足を消耗したくないので、家から武蔵境の駅までも、普段はめったに乗らないバスで行く。バスはグットタイミングで来た。武蔵境から新宿までの中央線の電車も、ホームに着くとすぐに現れた。思ったより早く目的地に近づいている。今日はツイてるのかもしれない。駅のキオスクで、ミネラルウォーター、英字新聞、それからビールを買う。ミネラルウォーターはランナーとしての自分に、英字新聞はトランスレーターとしての自分に、そしてビールはゴール後に――もし生きてゴールできたら――、サヴァイバーとしての自分に。

行きしなに買いしビールをゴール後に飲めると信じてリュックに詰め込む

電車のなかで、昨日会社から持ち帰った、大会事務局から送られた封筒の中に入っていたパンフレットを読んでいたら、「ナンバーカード引換券の紛失・忘れによる再発行は手数料200円が必要です」と書いてあった。つまり、昨日わざわざ会社まで行ったのに、200円払えば済んだのだ。でも、このパンフレット自体も会社に置いたままにしていたのだから、それもわからなかった。しかたない。キーボードエラーと一緒だ。「キーボードエラー:ESCキーを押してください」って、だからキーボードが使えないんだっつーの。

河川敷につく。ものすごい人だ。マラソン走る人だけでも、一万五千人もいるのだ。受付までが遠い。途中、「完走ラーメン」という屋台の看板が目に入る。おお、これはゴールしたら絶対食べなあかん、と思う。俄然、気持ちが高まる。結局、受付場所に着いたときは、受付時間終了時間の8:30を10分くらい回っていた。スタートまであと20分くらいしかない。急いで受付を済まし、着替える。ノースリーブのランニングシャツに、ゼッケンをつける――しおしおの4040番を――。いつものことなのだけど、このゼッケンをつけるのが苦手だ。面倒だし、うまくつけれない。僕にはこういうアパレル的なセンスがまったくないのだ。表と裏、合計で8箇所に安全ピンを留めなければならない。時間がどんどん過ぎていく。なんとか終わらせて、荷物置き場にいく。4040の名札をつけて、テントに荷物を預ける。それから、持ってきた絆創膏を乳首に貼る。これをしておかないと、長時間走っていると乳首がシャツで擦れてしまって、痛くなるのだ。ピグレットの絵が入った絆創膏を貼る。家にこれしかなかったからだ。ふと、不吉な想像が頭をよぎる。もし、レース中に突然死してしまった場合、僕の遺体には、両乳首にピグレットの絵が入った絆創膏......。生きてゴールしなければという決意がいっそう固まる。バタバタしていたら、軍手が片方どこかにいってしまった。しょうがないから片手にだけはめて、スタート地点に向かう。かっこ悪い。しかし、こういうドタバタは毎回のことなので、実はけっこう冷静だったりする。スタート地点についたと同時に、9時のスタートの号砲が鳴った。今回も、こんな「戦後のどさくさ」みたいなスタート。なんだかな。まあ、前回よりまし。前回は、トイレで行列待ちしてたらレース始まっちゃったからな~(回想、そして苦笑)。これからおそらくあと5時間。いったいどんなドラマが待っているのだろうか。ゴール地点となるこの場所に、戻ってくることができるのだろうか。頭も体もまだ覚醒しきれていない。ともかく、審判の日がやってきた、そんな気がする。

夢うつつ準備体操しないままレース始まる審判のとき

とにかく完走することが目標なので、ゆっくりゆっくり体力を消耗しないように走る。すり足でこっそりと走る。調子は良いのか悪いのかもわからない。だけど、なんとなくしっくりこない。そうこうしているうちに、最初の給水所に来た。僕はこの給水所がとても大好きなのだ。ブドウ糖をかじり、水を飲む。水を頭からかぶる(まだレースは始まったばかりなのに、頭から被ってるのは僕くらいだ)。ようやく、体が目覚めてきた。ブドウ糖っていうのは、見た目は石灰みたいな白い粉の塊で、それが氷砂糖くらいの食べやすい大きさに砕かれているのものだ。僕も3年前のこの大会で初めて見て、食べた。ちょっとすっぱい味がする。つまり、なんというか、まさにブドウ糖そのものなんだと思う。効果はかなりある気がする。すぐにエネルギーに変わって、走るための燃料になってくれる。これはマラソンに限らず、頭脳労働者にもいいのではないかと思ったりする。翻訳者も仕事しながらブドウ糖かじってみてもいいかもしれない。

ブドウ糖納品前にもかじりたい

黙々と走る。だんだん調子も出てくる。天気が良くてよかった。花粉もそんなに気にならない。雲の切れ間から、太陽が顔を出す。河川敷の荒涼とした風景の頭上から、光が降り注ぐ。なんだか神々しい。遠藤周作的な文学的世界を感じる。この大会は1キロごとに標識を立ててくれているので、とてもわかりやすい。5キロごとに、タイムの表示もある。ただ、僕は今回タイムにはこだわらないつもりなので、腕時計はしていない(というとなんかかっこいいけど、要はタイムを気にするほど速く走れないということです)。iPodも持たなかった。頭から水を被りたいというものあるし、マラソン本番くらいは、音楽を聴かずに自分自身としっかり向き合いたいと思ったからだ。ようやく5キロの標識が見えてきた。どんどんと進んでいく。でも、まだ先は長い、あと37キロもあるのだ。考えたら気が遠くなる。とにかく、足を動かし続けるしかない。心には、浮かんできた想念を、そのまま自由に泳がせるしかない。

10キロ、15キロ、ひたすらに突き進む。沿道では、和太鼓の演奏をする集団がいくつもあって、応援をしてくれている。その他にも、沿道から声をかけてくれる人たちは、下町っぽく人情味あふれる感じがしてとてもよい。こうやって人のやっていることを素直に応援できる人って、すごいな~と思う。そういう人は、基本的に元気なのだ。人間が豊かなのだ。15キロ地点では、早くも先頭集団が折り返してくる。風を切るように。馬のように。相当に速い。同じ人間とは思えない。たぶんこのスピードには、100メートルだってついていけない。

スタート地点ではあれだけ密集していたランナーも、このあたりにくると少しだけばらけてくる。女の人もたくさんいるし、年配の人も多い。70代と思われるランナーも多い。おばあさんが、ゆっくりゆっくり走っている。そして、なぜか僕を追い抜いていく。ランナーの足は綺麗だ。足をみれば、その人が日ごろから練習している人か、そうではないかはすぐにわかる。50代でも、60代でも、顔はおっさんでも、走りこんでいる人のふくらはぎのあたりは、とてもすっきりとして美しい。筋肉に無駄がないのだ。

ようやく折り返し地点。膝は大丈夫か、足首は大丈夫か。痛みはあるが、走れないほどではない。ひょっとしたら完走できるかもしれない、という希望が湧いてきた。だけど、油断は禁物だ。膝だって急に痛くなるのだし、太ももだってふくらはぎだって、いつ痙攣するかわからない。走り始めて2時間と少し、20キロも走っていると、かなり足が棒になってきた。左足の甲も痛い。だけど、半分過ぎたと思ったら、だいぶ気が楽になった。それでも、これから先あとまだ20キロ以上走らなければならないと思うと、冗談みたいな気がしてくる。よくみんな、こんな辛いことやってますね。フルマラソンの大会は、常識が通じないところで成り立っているのだ。

冗談は顔だけにしてくれよとゴチりつつ折り返し地点のポールを回る

相変わらず、給水所では食べまくり、飲みまくり、水を被りまくる。いろいろなものを用意してくれている。ブドウ糖、菓子パン、オレンジ、バナナ、スポーツドリンク、ミネラルウォーター、などなど。走るために食べるというよりも、食べるために走っている感じ。ボーイスカウトの少年少女が給水を手伝ってくれている。とてもありがたい。いい社会勉強にもなるだろう。だけど、苦しみの渦中にいる大人は飲み終えたカップを道端に投げ捨てるは、ありがとうの一言もいわないわ、いい気なもんである。子供たちに、人間っていざとなったらこんな利己的な行動をするもんなんだな、と思われている気がしてなんだか申し訳ない。それでも、やっぱり子供ってけなげだ。いいもんです。少女が大きな声で「がんばれ~」と応援してくれている。ずっと声を張り上げている。これはもう、天使だ。手と手を合わせる。なんだか、この瞬間を味わえただけで、この大会に参加した価値があったと思った。それにしても、完走ラーメンまであと2時間半、走り続けられるのか?

ついに30キロ地点。もう足がかなり痛い。かなりやばい。1キロ1キロが、異常に長く感じる。でも、つらいのは僕だけじゃない。歩いているひとも多い。道端でうずくまっているひともいる。倒れたランナーを乗せた救急車が通り過ぎていく。まるで戦場のようだ。でも、マジでゴールが見えてきた。いけるかもしれない。と、思っていたら、ちょっとトイレに行きたくなった。しかも大の方に。前日からいろいろと食べ過ぎていたし、給水所でさんざん飲み食いしていたので、なんとなくもよおしてしまったのだ。我慢できないほどじゃないけど、すっきりして残りを走りたいと思ったので、F1マシンがピットインするみたいに、ハンドルを切って道端のトイレに入る。

和式だった。しゃがむと膝の屈伸運動にもなって、ちょうどいい。ストレッチしたと思えば、時間のロスも気にならない。用を足して、立ち上がろうとした。するとその瞬間、腰に激痛が走った。ぎっくり腰になってしまったのかもしれない。動けない......。やばい......。

32キロ地点ついに力尽きるパンツ下ろしたまま和式トイレで

立ちくらみもする。必死に手すりにつかまる。たまに、和式トイレに入ると、立ち上がる瞬間腰に激痛が走ることがある。もう30キロ近く走り続けていて、腰にも相当負担がかかっているはずだ。まさかこんなところで終わりを迎えるとは。しかも、このままずっとトイレで身動きとれないまま、誰にも気づかれなかったらどうしよう。このまま、パンツも上げれないまま、夜になったらどうしよう。どうやって帰ればいいのか。誰かに気づいてもらったとしても、このままタンカで運ばれるのだろうか。今回も、リタイア.....? ああ、衝撃の結末......。

ということが一瞬脳裏をよぎったのだが、そこは気合で立ち直り、なんとかコースに戻りそのまま走り始める。だだし、腰が痛くてパンツを上げられない。しかたなく、下げたまま、下半身丸出しのままで激走を続けた。というのはウソだ。腰の痛みはやがてすぐに消えた。それにしても、あぶなかった。

35キロ地点で大会名物のシャーベットを食べる。あと7キロ。これが長い。もう辛い。心が折れそうだ。でもがんばる。37キロ地点で、沿道で一人ポツリと応援してくれていた30代後半くらいのお兄さんが、おもむろにラジカセのスイッチを入れた。映画『ロッキー』の感動のラストシーンのあの曲が鳴り出した。お兄さんは、「がんばれ~」と応援してくれている。ウケタ。今日一番笑った。元気になった。沿道に塩を持って立っているおじさんがいる。「けいれんには塩が効く」と書かれてある。塩舐めさせてもらう。美味しい。40キロ地点、もう限界を通り越している。それでも走り続ける。足が痛い。沿道にメイド姿で応援してくれているお姉さんがいる。笑った。ハイタッチ。41キロ。あと1キロだ。がんばれ、自分。遠くに、ゴール地点が見えてきた。

そして、ついに感動のゴール!!

!!!!! ━━━━━━\(゜∀゜)/━━━━━━ !!!!!

タイムは4時間53分。ネットタイムはおそらく4時間40分台の後半。まさに、「しおしお」のゴール。自己ベストには大きく届かなかった。あんまり大した記録じゃないけど、今回は完走できたことだけで満足。よかった~!! 俺、確かに生きてるよね!! ふぅ~。疲れた~!!

荷物を受けとり、着替えをして、朝買ったビールを一気飲み。そのあと、勝利の「完走ラーメン」を食べる。美味しい。いや~、ようがんばった。天気が良かったので、かなり日焼けしたみたい。

これから2時間かけて家に帰る。これがまたしんどいのだ。でも、まあいい。ゴールできたのだから。俺、ご苦労様。また来年も走ろう。ランニングは一生続けたい。やってて楽しいし、心身の健康にもとてもいい。だけど、ランニングに一番の重点を置くことはできない。一番大切なのは、翻訳なのだ。翻訳Loveの実践を、また明日から始めるのだ。みなさん、応援ありがとうございました。イワシは、これからも走り続けます。


~レポート完~


P.S.
今回も大会のパンフレットを見ていたら、面白いチーム名がありました。紹介しましょう。まず、「ランニャーズ」可愛いですねこれは。猫好きな人たちのランニングサークルでしょうか。それから、「チームひとり」。ひとりで練習して、ひとりで大会に出てるんでしょうね。僕もそうです。普通、そういう人はチーム名なにも書かないものなんですが、この人は書いた。なかなか乙な人ですね。そして、今回一番インパクトがあったのは、「もしもし相談室」。これ、どうみてもランニングチームの名前とは思えません(^^;。でも、なんか面白くていいですね。走りながら、いろいろ相談しているんですかね。走りながらだと、前向きな、いいカウンセリングできるかもしれないですね。






しおしおな決戦前夜

2008年03月15日 22時39分30秒 | 怒涛の突撃レポートシリーズ
知り合いにばったり出会ったデパートでサザエさんみたいな新宿の夜

目先を変えるために、自分に刺激を与えるために、通勤経路を変えた。これまでは、まず中央線で武蔵境から荻窪まで行き、丸の内線に乗り換えて中野坂上で降りていた。それを、武蔵境から新宿まで一直線で行くことにした。本格的に新宿の人になることしたのだ。車内の読書時間もちょっとだけ増えたような気がして嬉しい。新宿から会社までは、歩いて20分かからないくらいだった。ちょうどいい距離だ。さっそく昨夜、帰りに新宿をブラブラしてみた。新ブラだ。ブラブラするといっても、僕の行動パターンは限られている。やはり書店が一番好きなので、というか他に行くところを知らないので、ブラつくというほどウロウロもせず、おもむろに小田急のデパートに行って、10階の三省堂で立ち読みした。さあ帰るかと思ってエスカレーターで下に降りていたら、知り合いにばったり出会った。彼女も、会社の帰り道だった。ウィンドウショッピングをしていたのだという。会社帰りにデパートブラブラするのって、楽しいですね、なんてことを話す。彼女もJRなので、そこから改札抜けるまでの間を、数十メートルだけ一緒に歩く。ところで、知り合いに都心のデパートでばったり会うのって、サザエさんっぽいと思ってしまうのは僕だけでしょうか。なんとなく、ほっこりした気持ちになるというか。

身の置き場変えブラッと化する自分

これまでと違う場所に身を置いてみる。最寄り駅を変えるだけでも、ずいぶんと刺激になる。これからは暖かくなってきたし、まっすぐ家に帰るのではなく、たまには新宿をブラりしてみよう。徘徊するだけの価値はある街だ。ちょっと怖いけど。新しい街、新しい駅。ほんのちょっとのことだけど、見えている世界が、棲んでいる世界が変わった気がして、なんだか嬉しい。

明日はマラソンなので、今日は家でのんびりしていたかったのだけど、昨夜、重大なことに気づいた。マラソン大会の事務局から郵送で送ってもらっていたナンバーカードの引換券を、会社に置いたままにしていたのだ。これは受け付けのときに必要なのだ。アホである。一気にブルーな気持ちに包まれる。もしかしてカードがなくても受付してくれるかもしれないと思って、今朝になって事務局に何度か電話したけど誰も出ない。電話受付は、平日しかしていないということらしい。Webにも、カードを紛失した場合についての情報は見当たらない。しかたないので、会社まで取りに行くことにした。もう気分はがっくり、しおしおのパーである。体がちっとも休まらん。それ以上に心が休まらんぜ。ひどい、ひどすぎる。ああ、マラソンの神様はなんて厳しいお方なの。

忘れ物取りに土曜日会社まで行かなきゃならないこの罰ゲーム何

新宿で降りて、会社まで歩く。まあ、実際にこうして来て見ると、土曜日の新宿も悪くない。街は、いつもとは違った顔をしている。会社に着くと、上司が一人で仕事をしていた。なんだかすぐに帰るのも悪い気がして、自分の机周りをひとしきり掃除してしまった。何やってんでしょうか私は。カードは無事にあった。そのまま家に帰るのもしゃくなので、三越にあるジュンク堂にいく。京都人としては、ジュンク堂には特別な思いがある。やっぱりいい、ここは。本好きにとっては、お菓子の家だ。たちまち脳内でアドレナリン革命。タウリン400mmグラム配合。あっという間に時間が経過。夕暮れだ。

書店より他に行く場所を知らず休日は活字の森の中で過ぎ行く

家に帰りとんかつを食べる。嫁と二人で米、2.5合なり。食べたのはほとんど僕。エネルギーを蓄えなくてはいけないと思って。さらにパンや果物を食べる。餓鬼のように食べる。酒は、しばらく前から飲んでいない。明日のために。明日浴びるほどのむために。最大限に飲むために。そういえば、会社の同僚の女性が、週末はマクロビ(マクロビオティックダイエット)の料理をするとだといっていた。なので、僕も、日曜日はマクロビするつもりだと言っておいた。つまり、マクロビールダイエット。ビールを最大限に(マクロに)飲むダイエットというわけ。

マクロ「ビール」ダイエット親父ギャグ飛ばして悦に入る我に明日天誅下る

明日の準備をする。忘れ物しないように、いろいろリュックに詰め込む。ナンバーカードをみたら、番号は、4040番だった......。「しおしお」だ。不吉な予感...。いい風に考えれば、無事完走、タイムは4時間40分? でも、やっぱり嫌。だって、死が二つも並んでますから。ヲイヲイ、ホント勘弁してください。ぶっちゃけ、ゼロをnullと読めば「シヌシヌ」.......? マジで、僕にとっての明日のゴールは、三途の河を渡ったところにあるのかも知れません。まあ、いっか。

そんなわけで、明日、いよいよ本番!! 死ななければマラソンレポート書くつもりです。乞うご期待!! 

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『ひとり仕事術』中本千晶
『ひとり仕事術 時間管理編』中本千晶
『英語は頭から訳す』竹下和男
をジュンク堂で購入

『現代短歌そのこころみ』関川夏央
『知識ゼロからの俳句入門』金子兜太
『身の丈起業塾』前田隆正
『56歳での起業。』中嶌 重富
を読了




レッツ南禅寺

2008年03月14日 01時01分55秒 | Weblog
やりきれぬ夜が過ぎたら朝焼けの南禅寺目指してひた走る餓鬼

15年くらい前、京都で一人暮らしをしていた学生のころ、生活のリズムはかなり乱れていた。朝眠って夕方起きるなんてこともザラにあった。学校も休み、バイトもない。そんな日は、ご飯を食べてお風呂に入ってテレビ観てってやっていると、すぐに真夜中になる(夕方に起きたから一日が早い)。やがて深夜のテレビ番組も終わって、「砂の嵐」が吹き荒れる。外は漆黒の闇。本を読んだり、誰かと電話でしゃべったり、ノートに色んな想いを書き連ねたり、何をしていたのかは思い出せないけど、とにかく眠りたくなくて、ただ起きていた。何かがやりたいんだけど、できない。このままじゃいけないと思うんだけど、だけどどうしていいのかわからない。当時は、そんなことばかりが頭のなかで堂々巡りをしていた。浴びるほど本を読み、映画を観て、街をうろついた。あれこれと自分を探していた。だけど、どうしても何かが足りなかったのだ。

砂の嵐今日が始まる午前二時

そんなことをしていると、やがて朝になる。外が白み始めるころ、ジョギングを開始する。傍目にはひょっとして健康的でさわやかな早朝ジョギング。だけど、ぼくにとっては泥沼のような一日をなんとかしめくくるための儀式だった。そうでもしないと、やりきれない一日を終わらせることができなかったのだ。当時住んでいた堀川今出川の辺りから東の方角に進み、御所を横切って鴨川沿いを下る。さらに東に抜けて平安神宮や京都市動物園を通りすぎ、折り返し地点の南禅寺を目指す――それがいつものコースだった。住んでいるときは別に普通だったけど、今にして思えばかなり贅沢な道のりだ。やっぱ京都、ええっすわ。帰りは、哲学の小道を銀閣寺の方へ向かって走り、最後に吉田山にのぼってから、家に戻った。南禅寺の境内っていうのはとっても雰囲気があって、すがすがしくて、朝だから人もほとんどいなくて、とっても好きだった。南禅寺のあの巨大な赤い門の真下に立って、なんとなく少林寺っぽい気持ちになって、ジェットリー風に自己流のカンフーの型をひとしきりやったりしていた(誰も見ていないから、恥ずかしくない)で、ついついやっぱり本尊までいって、お祈りした。いろんなことを祈った。この僕が、この朝までグダグダ起きてただけの男が、何者でもない野郎が、壮麗な朝に、この南禅寺を独占。なんだか悪いことしたような気がしてしまうのは間違っているだろうか(いや間違ってはいない)。

厳粛な朝に国宝を独占 だけどやはり何者でもなく

帰り道では、通勤や通学途中の人たちとすれ違う。彼らはこれから社会の一員として一日を過ごす。そして僕は何者でもなく、これからまた眠りに着く。なんだか切なかった。家に着くと、もうくたくただ。そして眠った。

通勤する人横目に家路につけばお天道様はやけにまぶしく

そんなことを思い出したのは、今日、テレビで南禅寺の映像を使ったCMをやっていたから。たぶん渡辺謙のナレーション。ちらっとしか観なかったので、何のCMかもわからなかったのだけど。

南南南南南南南南南南南南南南南南南

というわけで、今日も少し走った。レース前の練習はこれにて終了。あとは日曜日の本番まで体を休めるつもりだ。そして、食う!! ひたすらに食らう!! エネルギーを蓄積するという大義名分を得た今、カーボローディングという科学的根拠を得た今、俺は食う、ひたすら食う、餓鬼のように食う!! (ああ、南禅寺の近くで湯豆腐食べたい)。

よ~し、緊張感が高まってきたゾ~!! ってなことを書きたいところなのだが、あまり高鳴りはない。むしろ来るべきDisasterを受け入れ始める準備を無意識に始めているのか、ここ数日、僕の心は日増しに淡々とした起伏のない感情に包まれ始めている。僕を待っているのは、歓喜のゴールそれとも......天国への階段?

「振り向けば」、な言葉たち

2008年03月13日 00時07分28秒 | Weblog
気がつけば花粉症振り向けばピケ

おそらくみんなそうじゃないかと思うんだけど、ある言葉を目にすると、かならず何かを連想してしまうことがある。たとえば、「振り向けば」ときたら、僕の場合、ほぼ必ず「ピケ」っていうフレーズが思い浮かぶ。「振り向けばピケ」――これは、もう二十年近く前になるだろうか、古館伊知郎がF1の実況をしていたときに十八番にしていたフレーズで、ネルソンピケっていうブラジルのレーサーが、地味ながらもいつも気がつけばトップの後ろに迫っているという特徴を表しているのだ。当時何度聞いても笑えた。ともかく、なぜだかわからないけど僕に関して言えば、「振り向けば××」の××の刷り込みは完璧に成功している。好むと好まざるとに関わらず、もう「振り向けば」とくれば「ピケ」なのだ。「私のハートは」とくれば「ストップモーション」ときてしまうのと同じなのだ。

そして、そういう刷り込みは、往々にして連鎖を呼ぶ。大学のとき、一時期所属していたボクシング部が早稲田大学と対抗戦をした。そのときにパンフレットが作られて、出場選手がそれぞれコメントを記していた。まあ、たいていは「頑張ります」とか「得意なのは右ストレートです」とか、そういうありきたりのことだったと思うのだけど、早稲田のとある選手が、ボクシングのことにはまったく触れずに「振り向いたらピケがいて、マンセルがなんとかかんとかで、プロストがどうだったので、厳しいレースだった」とかなんとかとてもシュールなことを書いていた。そう、その選手は、あえて「外した」のだ。公式のパンフレットでそんなことをしているのはその人だけだったように思う。とにかくそれが妙におかしくて、友達と馬鹿受けした。それで、夜のレセプションのときにその選手に挨拶にいった。コメント面白かったですって伝えたくて。話したら、やっぱり面白い人だった。

――ということを、「振り向けばピケ」という言葉を聞くと、思い出すのだ。つまり、「振り向けば」と聞いただけで、ピケのことも思い出すし、それにつられて、あの夜のレセプションの、あの早稲田のボクサーのことも思い出すのだ。普通に人を話していて、「振り向けば」という言葉が会話の中に登場した瞬間に、これらのイメージが走馬灯のように脳裏を駆け巡るのである。さらに、そこから派生するイメージはさらなるイメージを呼び、次々に妄想の連鎖がつらなっていく。まるでフェリーニの映画のようだ。

ネルソンピケ早稲田のボクサー妄想のメリーゴーランドは今日も止まらず

個人的な、あまりにも個人的なイメージが、僕の頭のなかだけで喚起される。そういうたわいのない思い出というかガラクタというか、とにかくそんなものたちが僕の記憶の海底にゴマンと眠っていて、様々な言葉に出くわすたびに、瞬間的に海面に浮かび上がってくる。

で、僕の中では「気がつけば」は「振り向けば」かなり近い意味合いを持っていて、なんとなく使ってしまう。まあ、注意力が散漫だから、本当に気がつけば××、ということが多くて、自らの日常を観察してみると、ついつい「気がつけば~」と書いてしまう。

それにしても、花粉症。本当に、気がつけば花粉症。生まれてこのかた、花粉症とは縁がないと思っていたのだけど、まったく花粉なんてへっちゃらと思っていたのだけど、2、3年前に初めて症状がでて、今年で2回目か3回目。振り向けば花粉、振り向けば鼻水。もう最悪。体調もよくない。こんな状態でマラソンなんか走りたくない。マジつらいっす。

そそそそそそそそそそそそそそそそそそそそ

『荒ぶる血』ジェイムズ・カルロス・ブレイク著/加賀山卓朗訳
『野球術』ジョージ・F・ウィル著/芝山幹郎
『二日酔いのバラード』ウォーレン・マーフィー著/田村義進訳
『トータル・リコール』フィリップ・K・ディック原作/ピアズ・アンソニー著/日暮雅通訳
『ライフウィズドックス』シェルパ斉藤
『おかしなおかしな大記録』スティーブン・パイル著/中村保男訳
『そこで夢はかなえられる』池田満寿夫
『oyaggi』おやむす。+プロジェクトO.著
『仕事を楽しめれば人生は楽しい』中山庸子
『シンドロームダンス』おちまさと
『森奥の呪縛』馳浩
『スズキ不動産集合住宅編』鈴木紀慶
『そうだったのか! 日本現代史』池上彰
『そうだったのか! アメリカ』池上彰