イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

あまりにひどい訳文が翻訳勉強会で問題に

2008年11月30日 17時24分35秒 | ちょっとオモロイ
あまりにひどい訳文が翻訳勉強会で問題に 表参道

29日午後に表参道の学習センターで開催された月例の「あさま組」翻訳勉強会で、当番となった男性(38)が提出した課題の第1パラグラフの訳文があまりにもひどく、波紋を呼んでいる。赤坂警察署の調べによると、問題の個所の質は「参加者として到底、容認できない」(勉強会メンバー)ほどひどく、めまいや吐き気を訴えるメンバーが続出した。

男は「なぜこのようなひどい訳文を作ってしまったのか、自分でもわかりません。生まれてきてすみません」と言い残し、西東京方面に逃走。同署は男が日頃、頻繁に出入りしている吉祥寺の新古書店を中心に捜索を続けている。男は身長170センチ前後。黒のジャケットにブルージーンズの服装で勉強会に参加していた。

「あのようなひどい訳文が二度と勉強会で提出されないよう、訳文を印刷したTシャツを作成し、今後の勉強会で参加者に着用を義務づけたいと思います」と、勉強会を主催する翻訳家Nさんは涙ながらに訴えている。

セカンドラブ

2008年11月28日 21時57分24秒 | Weblog
昨日は新月だったので、また断食をやってみた。一日、固形物を摂らない。前回ほどは辛くなかった。今朝、りんごを齧るとものすごく甘い。りんご飴みたい。やはり味覚が敏感になるらしい。夕食もトン汁にせず、塩味だけの鍋。塩だけで十分に旨い。今日の具は、鶏肉、豚肉、ニラ、ほうれんそう、ジャガイモ、ピーマン。それにしてもトン汁はよく食べ続けている。1ヶ月以上? 自分では相撲部屋のちゃんこみたいなものだと定義しているのだけど、ほんと稽古場にいるみたいな気がする。稽古(仕事、掃除、読書)して、ちゃんこ。その繰り返し。

マウスがアマゾンから到着。やはりあると便利だ。プリンタの設定も完了。着々と環境が整っていく。机(田中)は買って正解だった。ずいぶんと仕事場っぽくなった。掃除もすっかり習慣になり、驚くほど部屋が綺麗になっていく。要るものと要らないものの区別を明確にでき、物を捨てられるようになった。家の中が雑然としていたときは、整理するので手一杯だった。掃除も二順目に入ってくると、本当に必要なモノを見極められるようになってくる。出すゴミが増えるので、蜜蜂みたいに、ゴミ捨て場と家の間をいったりきたりする。

整理整頓を続けていると、だんだん気持ちが前向きになってくる。やるべきことが少しずつ明確になってきて、新たな目標に向かって挑戦しようという意欲が沸いてくる。物を片づけるということは、心の整理をするということでもある。古い物をひとつひとつ手に取り、分類し、並び替え、さよならしていく過程で、さまざまなことが想起された。それは、過去との対話でもあった。今、記憶のカラーボックスに新しく配置した過去は別な光を放ち始め、新たな日々に向かう勇気を与えてくれる気がする。

翻訳に対しても、新たな気持ちを感じている。初めて恋をしたときのような新鮮な気持ちは少しずつ薄れてきているのかもしれないけど、もう一度、あらためて翻訳に恋をしたい。情熱的で、嵐のような季節が過ぎ去った後に、初めて相手と自分の本当の姿と気持ちが見えてくるように。いくら経験を積んだとしても、それは初恋と同じくらい、どうしようもなく切ないものであるはずだ(よろしければ、BGMに来生たかお版の『セカンドラブ』をどうぞ



今日のメイヤーの法則
It is a simple task to make things complex, but a complex task to make them simple.
事態を複雑にするのは単純な作業だが、単純にするのは複雑な作業だ。

複雑化し膨れ上がった現実を単純にするのはとても難しい。答えがどれだけ単純なものであったとしても、それが見えなくなってしまっているのだ。



新月が静かに照らす今夜まで気づけなかった単純な解

出動! 企業戦士田中

2008年11月26日 18時29分32秒 | ちょっとオモロイ
ついにL字型デスクを購入しました!! ついでに(というか確信犯的に)袖机も購入しました。さっそく袖机は[熊谷さん」と名づけました(^^)。新品でよいものがあったので、中古は買わなかったのですが、この袖机を作ったのが熊谷さんだったという強引な設定にしました(いろいろと調査した結果、アスクルで購入しました。袖机も洗練されていて申し分なく、デスクも木製で温かみがあってとてもよいと思います)。デスクはもちろん「企業戦士田中」と名づけました。企業社会の軋轢のなかで無念にも散っていった熱血サラリーマン田中の分まで、働くつもりです! プリンタも購入しました。「印刷太郎」と名づけました(適当)。そして、念願の書斎大改造を実施しました。デュアルモニターも構築完了!! 追加モニターは「Google専用弐号機」と名づけました(しかし、実際はYoutube専用機になるという嫌な予感がしないでもないです)。ところで、構築の過程でなぜかマウスが死亡!! 田中の怨霊でしょうか。現在ショートカットキーだけで作業中です! でも大丈夫。以前もマウスが天国に行ってしまって、しばらくショートカットキーだけで過ごしていたことがある僕は、怪我の功名でマウスが使えなくてもまったくハンディを感じません。ブラウザウィンドウの移動(Alt + Spaceを押して、M)もお茶の子さいさいです。さっそくショートカットキーを駆使してアマゾンでMSのインテリマウスを注文しました。「レジに進む」ボタンが遠い~。しかしはやくも、そんな僕の後ろで田中が応援してくれているのを感じます。そろそろ熊谷さんが淹れたての熱いコーヒーとクッキーを運んできてくれそうです。妄想モード全開です。大丈夫でしょうか私は。

Office 2007 Standardも購入しました。NHKの語学系ラジオを録音して聞くためにオリンパスのラジオサーバーまで購入してしまいました。歯止めが利きません。ちなみに、「日経コンピューター」、「日経パソコン」、「日経ビジネス」を3年分定期購読開始しました。ついでになぜか「日経ヘルス」も1年分購読してしまいました。Japan Times もしばらく前から購読中です。朝、A日新聞とJTを読んでいるだけで、軽く2時間が過ぎていきます。ちなみに、Newsweek誌も日本語版と英語版の両方を定期購読しています。これらを読むだけで一日は終わるでしょう。せっかく本棚に整理した本たちの立場はどうなるのでしょうか。そもそも、私はいつ仕事すればいいのでしょうか。でもいいんです。たくさん読んで基礎体力をつけなければ!

注文するときに一応サイズは確認したものの、デスクは異常に大きかったです。幅160mm 奥行き110mm。あまりも巨大で重たく、押しつぶさそうになりながら組み立てたのですが、部屋からは解体しないと外に出せません。これはしばらくは引っ越すなという天の声でしょう(じっさいこれだけモノが多いと引っ越したくないです)。こうなったら、この部屋で田中と、いや熊谷さんと心中するつもりで仕事します。熊谷さんとだったら悔いはありません。

さっそく、構築したばかりの「企業戦士田中」の「操縦席」に試乗してみました。驚くほど快適です。このままどこかに飛んでいけそうです。これまでは、コンピューターラックの前に座って作業していたので、両肘の置き場がなく、腕に負担がかかっていました。また、足を前に伸ばせなかったので、ずっと左右どちらかに組んでいました。しばらくすると足が痺れてきて、泣く泣く仕事を中断せざるを得ませんでした(なんて)。椅子はしばらく前にヘッドレストつきの「アーロンチェア(っぽい類似製品)」にしているので、このチェアに座って両足をまっすぐに伸ばし、両肘をデスクの上に乗せると、まるでエコノミークラスからビジネスクラスに乗り換えたような快適感がありました。考えてみたら、人間が長時間快適に座っていられることを追及したのが航空機の座席なわけで、快適な作業空間を作る時には、ビジネスクラスやファーストクラス(乗ったこと無いからよくわからない)の座り心地を参考にすればよかったのかもしれませんね。そのまま眠ってしまいそうですが、究極的には作業環境を超快適なものにして、仕事に疲れたらそのままそこで寝るようにしまえば、「起きてすぐ作業」、「24時間臨戦態勢」も可能なわけです。まあ、ブロイラーになったみたいな超過酷な労働環境とも思えますが、実際飛行機に乗る人はそうやって丸一日近く過ごすこともあるわけです。自分は鶏ではなく、ファーストクラスに乗っているVIPだと思えばずいぶんとご機嫌に一日をこの座席で過ごせそうです。さらに、机が広いので、姿勢を変えずにキーボードと書き物の両方ができるところもいいです(今までは、そんな基本的なことすらできませんでした)。それから、デュアルモニターもいいです。画面領域が広がったので、ウィンドウとかファイルを切り替える必要がなくなりました。これでこころおきなく仕事中にYoutubeで昔のプロレスの名勝負を堪能できそうです、というのは冗談で、原文やGoogleまたは電子辞書を常時画面いっぱいに表示できるので作業が効率化するでしょう! あとは翻訳する人間の問題です。そこが一番の問題という気がしますが(^^)

ともかく、思いがけずずいぶんと作業環境が改善されました。思い切ってやってみた甲斐がありました。これまでは劣悪な作業環境のなかで苦肉の策として「イワシ座り」なるものを編み出したのですが、これからはもうあの秘技は封印してもよさそうです。今日からこの場所で、翻訳戦士イワシとして闘いの翻訳Loveを始めたいと思います。



操縦席乗り込み飛ぶよ君のいるあの空に離れていても今日からはふたり

過ちの修正

2008年11月25日 23時51分10秒 | Weblog
夕方、ベランダから撮影しました。我ながら行動範囲が狭いですね。遠くに新宿のビル街が見えます。つい先日まであそこで働いたていのだと思うと、不思議な気がします。なんだかしみじみしてしまいますね。

某所で使ったネタなのですが、ここにも書かせていただきます。

スコットの第一法則
No matter what's goes wrong, it will probably look right.
どんな間違いも、たいていは正しく見える。

翻訳をしていると、本当にこれが多い。間違いだと気づいて、初めて自分の誤解に気づくのですが、それまではおそらくこうだろうと決め込んでいたり(これが一番危ない)、すっかりこれが正しいと信じ込んでいたりするわけです。日常生活でも、同じことがよくあります。

逆に、これはおかしいぞ、と思ってあれこれこねくり回すと、結局最初のものの方が正しかったりします。

スコットの第二法則
When an error has been detected and corrected, it will be found to be correct in the first place.
間違いを修正すると、修正前のものが正しかったことがわかる。

これも翻訳と人生の両方に当てはまるような気がします。でも、最初のものが正しかったとわかるのは、わからないよりよいですよね。きっと。


今日、密林から届いた何冊かの書籍入りの封筒を開けていたら、自分が頼んでいない本が出てきてびっくり! 上原裕美子さんの訳書、『Web 2.0ストラテジー ウェブがビジネスにもたらす意味』を謹呈いただきました!(ほとんど何の役にも立たなかったけれど、ほんのごくわずかだけお手伝いしたお礼ということで) ゆみさんありがとうございました! 訳がとても上手くて、さらにびっくりです。とてもいい本だと思いました。じっくり読ませていただきます!



ゴミ袋ひとつ出すごと再生し失われていく我と蜜蜂

悲しみに終止符を

2008年11月24日 19時35分14秒 | ちょっとオモロイ
書斎の逆側です。辞書、リファレンス、書類、その他もろもろです。まだまだ、雑然としています。またまたお目汚し、失礼いたしました。


突然ですが、ご好評にお応えして「秋子とママ」シリーズ第二弾をお届けします。

「秋子、あんた何してるの」
「私、そろそろ行かなきゃ」
「あら、もうそんな時期かしら。ちょっと早くない? あんた、昔から思い立ったら後先考えずにすぐ行動するんだから」
「でもママ、暦のうえでは秋は11月までよ。ママこそ日常に流されてばかりで、季節の変化に追いつけていないわ」
「その口の悪さは誰に似たんでしょうね。でもホントね。あんたといると時のたつのが遅いから、いつまでも何も変わらないって感じちゃうのかもね。冬彦のことなんて忘れてたわ。あの子を迎え入れる準備なんて何もしてない」
「ママ、元気でね。わたしがいなくなってもちゃんと生きていける?」
「当たり前じゃない。冬彦だってもうすぐ帰ってくるし、忙しくなるわ。こたつも出さなきゃいけないし、あの子の好きなおでんも作ってあげないと。ねえ、秋子。それにしてもあんたって――(涙ぐむ)」
「どうしたの、ママ」
「あんたって、切ない子ね(激しく嗚咽する)」
「ママ! 泣かないで!」
「夏男も、秋子も、次々に私から離れていくわ」
「また来年帰ってくるじゃない」
「そうね。ごめん、ママったらダメね。涙もろくなっちゃって。あんたとだって、もうちょっと楽しみたかったわ。美味しいものを食べたり、スポーツしたり、紅葉を観に行ったり。それにしても、なんでウチの子はみんな3ヶ月おきに家を出て行ってしまうのかしら。親としての自信喪失だわ。」
「私はね、心変わりしやすいのよ。『女心と秋の空』って言うじゃない」
「あたりさわりのないオチでお茶を濁さないで。わかったわ。もう行きなさい!」
「ママ.......。やっぱりもうちょっとだけ家にいるわ。ママを置いて行けない」
「あら、あんたって、意外と可愛いところあるのね。じゃあもうちょっとだけ、いっしょにいましょ。読書でもしない? そうだ、ブックオフに行きましょう! 今頃、パパが100均本を漁ってるはずよ」

そんなわけで、秋子はもう少しだけ家にいてくれるようではあります。しかし寒さが一段と増してきたこの東京には、彼女はもうそれほど長くはいられないでしょう。そして上野駅には、冬彦を乗せた列車がもうすぐ到着しようとしているのでした――(続く)。

主題歌:アリス『秋止符』

そろそろ、本当に冬が近づいているのでしょうか。寒くなりました。とはいえ、季節の変わり目がよくわからない男なので、おそらく僕が冬を自覚するのは身が凍りつくくらいに完全に寒くなってからでしょう。ところで、来年3月15日の荒川市民マラソン、フルの部に申し込みました。今回は完走だけでなく、タイムにも目標を設置して頑張りたいと思います。サブフォー、つまり4時間以内を目指したいところですが、果たして。。。今回も怒涛のレポートが書けるようにこれからトレーニングに励みます。

今日は公園を考えごとをしながらウォーキングしていたら止まらなくなってしまい、20km近くも歩いていました(笑)。逍遥学派とはよく言ったもので、歩きながら考えるといろんなアイデアが湧いてきます。毎日、早朝に散歩しながら思索に耽ったというカントの気持ちがわかりました。思索のレベルは相当に違いますが。


今日のシュローダーの法則
Indecision is the basis for flexibility.
優柔不断は、柔軟性の基盤である



悲しみは順番に君のところを訪れて明日流す涙僕に渡して

前世が何かわかってしまってワンワンワワン

2008年11月23日 18時43分28秒 | ちょっとオモロイ
寝室です(まだごちゃごちゃしています。お目汚し、すみません)。カラーボックスを置いても、意外と圧迫感はありませんでした。寝る時は、カラーボックスと反対の方向に頭を向けることにしたので、地震が来てもとりあえず大きな被害を受けることはなさそうです。家具が増えて部屋のなかが窮屈になるかと思っていましたが、考えてみたら、本を床に平積みしておくより上方向へのスペースが増える分、逆にすっきりしました。

U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U U^ェ^U

以前から漠然と思ってはいたのですが、昨日公園でサッカーをしているときにあらためて実感したことがあります。それは、「僕の前世は犬だったにちがいない」ということです。残念ながら、住宅事情の都合でこれまでに飼ったことは一度もないのですが、小さいときから犬がとても好きでした。子どものころ、はじめて犬をなでなでしたとき、そのつぶらな瞳で見つめられて、尋常ではない何かを感じたのを覚えています。母親には、犬が飼いたいとずいぶんと駄々をこねて困らせました。そして、その「好き」には、単に犬がかわいいとか愛おしいとか、そういう気持ちだけではなく、なんだか自分にとても近いもの、同類を見ているような感覚があるのです。昨日、げんき君が蹴ったボールが脇にそれたとき、それをハアハアいいながら必死で追いかけている自分は、まさに犬そのものでした。ボールがどこに蹴られようと、反射的に何も考えずそれを追いかけている自分が、妙にしっくりきました。「本当の自分」がそこにありました。考えてみるに、犬と自分には多くの共通点があります。

・意味もなく嬉しそうにしているときが多く、落ち着きなくソワソワ動き回る。
・ボールを投げられると条件反射的に全力で追いかける。
・トイレ(小)が近い。
・散歩が好き。
・犬食いをする。
・人見知りする。
(といいつつ、初めて会う人が目の前にいると興奮してウロウロする)
・目上の人には結構従順である。
(といいつつ、人の言うことにはあまり従わない)
・泥酔すると四足で動き回る。
・戌年である。
・客観的に見ると、かなりマヌケなところが多い(犬に失礼?)

ただ、暑さに強く寒さに弱いあたりは違うので、そう考えると「ひょっとすると自分は犬じゃなかったのかもしれない」と、なぜかちょっとだけほっとします。ともかく、神様は僕をこの世に送り出すときに、犬にしようか人間にしようかずいぶんと迷われたに違いありません。ネコは好きだけど自分はあそこまでマイペースじゃないし、サルにも近いものを感じますが(一部からは「サルコジ」と呼ばれていますが)、サルには申し訳ないけどあそこまで即物的ではない(と思いたい)。一応イワシと名乗っていますが、サカナだったのはおそらく前世ではなく、数世代前だったような気がします。犬に感じるほどの共通点を見出せません。それから、これだけ人間社会に適応できていないところを考えると、前世が人間であった可能性はかなり低いと思わざるを得ません。やはり、どう考えても犬です。おそらく、とんでもなくヘンな犬だったことでしょう(^^)
わんわんわん!! U^ェ^U 
そんなこんなで、将来、柴犬を飼うのが夢なのです。いつになるのかな~。



今日のシーガルの法則
A man with one watch knows what time it is.
A man with two watches is never sure.
時計を1つ持っている人は、何時だかわかる。2つ持っている人には、正確な時間はわからない。

※1つしかない時計が狂っていたらどうなんだという気もしますが、いろんな価値観に振り回されず、自分の信念に従うべきだということでしょう。他人の言動に過剰に一喜一憂し、それに振り回されるのではなく、自らが正しいと思う価値観に従うことが大切だと最近感じるようになりました。実践していきたいものです。



泣いている君の少し近くにいることが今日僕ができることのすべて

負けるな、げんき

2008年11月22日 23時23分33秒 | Weblog
昨日の画像と似ていますが、これは書斎です。仕事関係、翻訳関係などの本を入れています。『翻訳の世界』も『通翻ジャーナル』も年代順に並び替えました。


昼過ぎに姉から電話があり、小金井公園にいるので遊びに来ないかと誘われました。もちろん、姉のふたりの子ども、ありさちゃんとげんき君も一緒です。サッカーをしたいそうです。さっそく自転車にのって我がホームグラウンド、小金はないけど勝手知ったる小金井公園に向かいました。

小学校低学年のげんき君はしばらく前から週一回でサッカーを習い始めています。とても筋のいいプレーをします。左利きであり、かつ右足も苦にせず使えるところが将来を期待させます。しかし、近辺にはなかなかひとりで練習をする場所がないのが悩みなのだそうです。ドリブルはとても上手だけど、リフティングがまだほとんどできません(二回が最高)。高校時代はその華麗なプレーで「セルジオ越前」との異名を持っていたほどのわたしです(嘘です)。久しぶりにボールをみて血が騒ぎました。到着するや否やさっそく練習開始です。パス、ドリブル、リフティング、一対一。ありさちゃんを交えての「とりかご」などなど、練習メニューはオシムジャパンばりの非常に密度の濃い、充実した内容のものになりました。

普段は走ってばっかりいるので、ボールを蹴ったり追いかけたりするときのような瞬間的な動きやバランス感覚がとても新鮮で体に心地よく、結構真面目にまたどこかでサッカーを始めたくなりました。サッカーはひらめきがとても大切なスポーツです。瞬間的にアイデアをひらめかせて、それを自らの体で表現するあたりが、なんとなく翻訳にも通じるところがあるような気がします。発想を豊かにし、絶えず変わり続ける局面に応じてその都度最適なプレーを創造し、選択していくのです。もちろん、僕のような並以下の選手は、その創造と選択が失敗に終わることの方が多いわけですが、それも(自分の)翻訳と似ているような気がしないでもありません。

公園の休憩所でベンチに腰かけ、姉が持ってきてくれたお茶とお菓子を四人で食べました。その後、最後に少しだけボールを蹴って、自転車で遊歩道を通って一緒に帰りました。もうだいぶ慣れたとはいえ、いつもの寂しく孤独な休日が、ハッピーなものに変わりました。ありがとう!

げんき君にはリフティングをすすめました。地面にボールを落とさないように、ひとり黙々と蹴り続けることで、必ずリフティングは上達する。今は二回しかできなくても、三回できたら百回できるようになる。そしたら、サッカーが格段に上手くなる。上手くなれば、サッカーが楽しくなる。楽しくなるから、また練習したくなる。だから、もっともっとひとりでボールを蹴ってほしいと思ったのでした。友達には上手い子がいて、肩身の狭い思いをすることもあるそうです。負けるな!げんき! 

いやしかし、サッカーは面白い。定期的に公園にボールを持っていってリフティングの練習をしたい欲求が高まりました。サッカーをやっていたときも、全体練習以外にひとりで自由にボールを蹴っているときがとても好きでした。ただ、ランニングの場合は平日の昼間にいい年した大人が走っていても周囲の目は気になりませんが、リフティングの場合はちょっと恥ずかしさがあります。しかし、小金井公園なら広いし人目もあまり気にならないはずです。ゆくゆくは、翻訳者でフットサルのチーム作ってみたいな~などと夢は膨らむのでした。

本題とはまったく関係ありませんが、今日の選択的重力の法則(ジェニングの発展形)です。
The chance of bread failing with the buttered side down is directly proportional to the cost of the carpet.
トーストのバターを塗った面が下を向いて落ちる確率は、カーペットの値段に比例する。

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カラーボックス12個を組み立て終えました。腱鞘炎になりそうです。寝室に配置し、日本語の本を格納しました。著者名で五十音順に並べたのですが、この並べ方はかなり効果的だということがわかりました。読みたい本がたくさん居並ぶなか、未読の本には申し訳ないような気持ちを感じつつ、村上春樹の『走るとことについて語るときに僕の語ること』を再読。「真の読書とは繰り返し読むこと」みたいな言葉がどこかにあったけど、確かにそうです。二回目を読みたくなる本こそ本当に面白い本だと思うし、読んだものが自分の血肉になるのでしょう。


懸命に小さな体が蹴り飛ばすボールに感じ強き明日の君


すっぴんの法則

2008年11月21日 23時05分44秒 | 翻訳について
今日のヒグドンの法則
Good judgment comes from bad experience.
Experience comes from bad judgment.
よい判断力は、辛い経験によって培われる。
その経験は、判断力の悪さから生じる。

原文を読んで最初に浮かんだ訳をとりあえず入力しながら、よく「我ながらこの訳はひどいな~」と思うことが多い。入力時点ではたいした訳しか頭に浮かばず、それ以上考えるのが面倒くさくて、とりあえず文字にしてみる。原文を何度も読み返し、頭のなかでいい訳をイメージしようとしても、どうしてもしっくりこない部分があるのだ。

で、訳したあとに何度も見直しをするのだけど、何回かやっているうちにまあそれなりに、そこそこなものができ上る。問題の箇所も、いったん書いたものをあれこれと眺めていると、それなりの解が見つかる。それで最終的に完成品を納品したり人に見せたりするわけなのだけど、自分は最初の段階の訳文があまりにひどいものであることを知っているだけに、完成形しか知らない人に対して、なんとなく嘘をついてしまったような気がすることもある。

たとえるなら、すっぴんだととてもじゃないけど表に出れないけど、化粧をしたらそれなりのものになります、みたいな感覚だろうか。すっぴんのすごさを知っているのは本人だけ(もしくはそれに加えてごく一部の身近な人)だろうから、本人にしてみればたとえ周りからとても綺麗だと言われたとしても、ひょっとしたら世間の目をごまかしているかもしれない自分に後ろめたさを感じていたりするのかもしれない。でも、だからといって、いつも化粧をしている人は、突然開き直ったように「はい、これが本当のわたしです」と堂々と素顔で天下の公道を歩いたり会社に行ったりするのは抵抗があるだろう。もちろん僕も、最初に作ったひどいすっぴん訳文は、あまり人には見せたくない。自分で読むのも苦痛なくらいだから。こういう感覚、どの翻訳者も感じていることなのだろうか。

それはミュージシャンが作曲のプロセスを誰かに覗かれてしまうようなものかもしれない。歌詞も完全に決まっていないし、途中で何度もつっかえながら、メロディーを探っている状態。たぶん、他人はそれを案外抵抗無く眺めたりするのだろうけど、本人にとってはとっても恥ずかしいものを見られたような気になると思う。

話がずれたのだけど、見直しを繰り返すことによって、翻訳力は確実に向上する。しかし、できるだけ最初からよい訳文を作れるにこしたことはない。つまり、冒頭のヒグドンの法則に従えば、

翻訳力は、ひどい訳文を見直すことによって磨かれる。
ひどい訳文は、翻訳力がないことから発生する。

ということになるのだろうか。まあ結局のところ、延々とこの無限ループを繰り返しながら、少しずつ力を高めていくしかないのだろうけど。


関係ないですが、近々引越しを検討されているという同業者Oさんに「今日のジレットの法則」を捧げます。Oさんメールありがとうございました!

What you lost during your first move you find during your second move.
前の引越しでなくしたものは、次の引越しで見つかる。

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リビングの本棚には、洋書と翻訳書だけを置くことにし、和書は書斎と寝室に移動した。
しょぼい画像でごめんなさい。
洋書は著者のアルファベット順、訳書は翻訳者名であいうえお順に並べる。セットで持っているものは横に並べる。あの洋書も読みたいし、この訳者の訳文も読みたい。整理したらさすがにすっきりしたし、体系的な読書計画も立てられそうだ。その過程で、ダブっている本を10冊ほど発見。自分のボケっぷりに驚嘆。ともかく、読むぞ~!!

『Eiger Dreams』Jon Krakauer
Krakauerのデビュー作をついにアマゾンで購入! うれしい~(^^)v



買うだけじゃわからなくてもしかたない でもさすがに切ない上下巻モノのダブり

時流

2008年11月20日 20時25分36秒 | Weblog
古い話ばかりで恐縮ですが、本の整理をしていたら思わぬ一冊が出てきました。すっかり記憶の片隅に追いやられていましたが、15年近く前に執筆を一部担当させていただいた映画関係の本があったのです。タイトルは、『京都映画図絵』(アマゾンを見る限り、もう絶版でしょうか?)。

内容は、京都の奥深い映画史と多様な作品群を現代の地図に照らし合わせながら紹介するというもので、執筆者は、鴇明浩&「京都キネマ探偵団」。探偵団とは今はなき京都の“超”ミニシアター『スペースベンゲット』の運営をなかばボランティアで手伝っていたハードコアな映画好きの若者が中心で、僕もそのうちのひとりでした。版元は映画出版業界のブランド、フィルム・アート社です。京都は日本映画発祥の地としても知られ、映画全盛期には大手映画会社の撮影所から次々と作品が生み出されました。この本をパラパラとめくると、古きよき映画作品の数々と、その舞台となった京都の街並みが懐かしく思い起こされます。

僕が書いたのはP75-91。「剣豪たちの疾風」のタイトルで、アラカンこと嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』シリーズや、吉川英治原作、内田吐夢監督の『宮本武蔵・一乗寺の決斗』、そしてあの松田優作さんも出演していた黒木和雄監督の『竜馬暗殺』や、篠田正浩監督の『暗殺』(これは名作です)などを素材にしました。ページをめくると、『竜馬暗殺』に触れた部分に、一昨年に他界された黒木和雄監督のサインがありました。監督が打ち上げに参加されていたときにいただいたのです。初めて自分の書いた文章が本になることが嬉しく、はりきって取材にいったり調べ物をしたり、とても楽しく充実した時間を過ごしました。遥か昔のこととはいえ、こうして本という形で残っていると、当時のことがありありと思い起こされてきて、圧倒されてしまいます。

今はまったくといっていいほど関係のない仕事をしているのですが、1990年代、京都、映画、の3つのキーワードが自分にとって大きな存在であることを、最近強く感じます。人生の大きな転機を迎えてノスタルジーに浸っている部分もあるのかもしれませんが、あの時代が自分にとって何だったのかを、もう一度しっかりと捉え直したいと心のどこかで思っているのかも知れません。

翻訳業界にいると、この業界に入る前にまったく畑違いの「京都の映画館で働いていた」っていうのがなんとなく恥ずかしくも感じられて、自分のなかでそれを「過ぎ去ったもの」として扱おうとしていたような部分も少なからずありました。でも、当時の日々を、単なる過去として流してしまうべきではない、そう考えを改めている今日この頃です。

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部屋はかなりすっきりとしました。仕事的にも新しい展望がいくつか見え始めてきました。本を整理するにつれ、天高く読書欲が盛りあがる秋になってきました。この秋こそは、買書ではなく「読書の秋」にしたいものです。でも、もちろん買書も続けます。



今日のマーフィーの法則
If anything can go wrong, it will.
失敗する可能性のあるものは、失敗する。



たったいま手に持つ言葉ですくい取る零れ落ちゆくあの日の我を

こころと未来(続き)

2008年11月19日 20時14分11秒 | Weblog
昨日の話の続きです。偶然ですが、ワイルドなその彼から久しぶりの連絡をもらった数日前に、たまたま彼のことを思い出していました。10年ほど前のことです。当時京都の映画館で働いていた僕は、毎年秋になると東京国際映画祭に参加するために上京していました。渋谷のホテルに二泊三日程度で滞在し、一日に約4本ほどの上映作品を鑑賞することが仕事です。通常、単館系の映画館のスタッフは、今後の上映作品を決めたり、上映が決まっている作品の宣伝戦略を検討したりするために、配給会社が主催する試写会を観にいきます(まあそれは主に支配人の仕事で、僕のような下っ端はたまにしか行けなかったのですが)。その延長線上にあるのが、この映画祭でした。これから日本で上映される作品を、早めに観ておこうというわけです。でも、目的はそれだけではありません。東京の映画関係者の人と面識を得たり、さまざまな映画館を見て勉強したりといったことも大切です。単に祝祭的なノリに乗せられている部分もありましたが、そういった華やかな雰囲気に触れることも業界人としてはとても大事なことなのです。年に一度の東京はとても刺激的でしたし、上映作品もどれも面白く、毎年とても楽しみにしていました。

いつの年だったかは覚えていませんが、その年も映画祭に参加させてもらった僕は、最終日、何本か映画を観終えると、帰りの新幹線に乗るため東京方面に向かう山手線に乗車しました。実は、秘かに計画していたことがありました。行ってみたいところがあったのです。それは、神田神保町の古書店街です。関西人の本好きにとっては、なんといっても神田は憧れの街です。神保町がどこにあるかは正確に知りませんでしたが、とりあえず神田駅で下車しました(緊張のあまり催してしまい、駅のトイレ「大」に駆け込みました)。夢の古書店街はすぐ近くにあるだろうと思っていたのですが、意外にもかなり遠く、さんざん迷った挙句にやっと到着しました。初めて訪れた神保町は、想像していた通りすごいところでした。興奮してしまい、どの店から見て回ればいいのかさっぱりわかりませんでしたが、とりあえずはやる気持ちを抑えて古本の物色を始めました。いろいろと迷いましたが、『翻訳の世界』という雑誌のバックナンバーが2年分ほどまとめ売りしているものがあったので、まずはそれを買うことにしました。支払いをしようとおもって、ズボンの後ろポケットに手を突っ込んだのですが、財布が見当たりません。あわててズボンや上着のポケットをあちこち探してみましたが、やっぱり財布はありません。冷や汗が流れてきました。

思い当たるのは、神田駅のトイレ「大」です。さっき用を足したときに、トイレのなかに財布を置き去りにしたに違いありません。僕には、「大」のとき財布をポケットから出して、荷物置場に置く習性があるのです。財布には、全財産やカード類、帰りの新幹線のチケットも入っています。古本屋の店員の方に失礼を詫びると、猛然と、チーターのような速さで全力疾走して駅に向かいました。件のトイレに入ってみて、あちこち探してみましたが、財布は見つかりません。駅員に落とし物の届出がないか訊ねてみましたが、なしのつぶてです。強烈な絶望感に襲われました。とりあえず駅員に事情を説明すると、乗車を認めてくれるかどうかはわからかないと断りを入れたうえで、東京駅で駅員に相談してみることを勧められました。東京駅に着くと、水中を泳ぐペンギンのような速さで全力疾走して駅員のいる場所に向かいました。事情を説明しましたが、切符がなくてはどうしようもない、みたいなことを言われました(細かい説明はもう忘れてしまいました)。時刻は(おそらく)8時過ぎ。大阪方面に向かう新幹線の最終列車の発車時刻が近づいていました。

困り果てた僕は、京都にいる友達(例の彼)に電話をしました。事情を説明すると、彼は今すぐ京都駅まで行って、駅員と交渉すると言ってくれました。彼は愛車のべスパに乗ると、夜の京都の街を、動物園から脱走したシマウマのような速さで疾走しました。後から聞いたところによると、ほとんどの信号を無視したらしいです。さらに驚くべきことに、彼は原付バイクでそのまま京都駅の構内に侵入しました。そして猛然と駅員に近づくと、事情を説明し、料金を立て替えてくれ、僕が新幹線に乗れるようにしてくれたのです。京都の街を駆け抜けてくれた彼と、東京駅で半泣きになっていた僕。非常にドラマチックな数十分間でした。友達のありがたみをひしひしと感じつつ、僕は無事その日のうちに京都に帰ることができました。この話は、京都に帰ってからしばらくの間、伝説の(笑い)話として酒の席で語られ続けました。

それを思い出したのは、ちょうど部屋の掃除を少しずつ始めていて、自前の『翻訳の世界』のバックナンバー(京都で購読していたもの)を整理していたからだったのかもしれません。そういえば、あんなこともあったな、と。財布に入っていたモロモロ(当時の僕にとってはあり得ない大金、虎の子の5万円が入っていました)を失ったのは痛かったですが、それ以上に『翻世』のバックナンバーが買えなかったのも痛かった。しかし、あのときの彼は本当に頼もしかったし、最終電車が発車する直前に、走れメロスも真っ青の勢いで京都駅の構内をバイクに乗って駆け抜けてくれたその友情に今でも感謝し、頭が上がりません。交通法規の違反はよくありませんが、ともかく今となってはいい思い出です。

ザ・フーの東京公演鑑賞という目的があったものの、彼がこの時期に僕に一報をくれたのは、そんな僕のテレパシーを受け止めてくれた部分もあるのではないかと思っています。単なる偶然にすぎないのかもしれないけど、なぜだかそんな不思議な力を感じてしまうのです。

今では彼はもう二児の父です。あれほどワイルドだった彼も、毎朝6時に起きて、仕事に出かける前に家族(奥さんと子どもふたり)のために朝ごはんを作っているそうです。それを聞いて、激しく感動しました。再会を誓い、握手して別れました。子どもの名前は、5才になる「こころ君」と3才の「未来ちゃん」といいます。

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掃除は今日も快調。カラーボックス12個注文しました。聖域だった寝室に配置します。大地震がきたら、下敷きになって死ぬ可能性大です。でも、本と心中できるなら悔いはありません。部屋のなかがすっきりしたら、心と頭もクリアになってきました。これからやりたいこと、やるべきことなどがいろいろと道筋が見えてきたような気がします。大きなビジョンを描いて、前進していきたいと思います。未来を決めるのは、こころに違いありません。



思い出の埃を払ってテレパシー飛ばせば真っ白なべスパのような君のメールで携帯が鳴り


こころと未来

2008年11月18日 19時33分06秒 | Weblog
昨晩は歌舞伎町で久しぶりに会う友達と呑んできました。見た目はかなりワイルドな彼(身長185センチ、体重は100キロ? スキンヘッド)は、中身も少々ワイルド(数々の武勇伝あり)ですが、基本的にはとっても気のいい音楽好きなナイスガイです。そう言えば昔、彼のバンドのライブをよく観にいったものです。YAZAWAのタオルを肩にかけた彼が(ザ・フーのコンサート帰りなのに)、店の近くまで迎えに来てくれました。他にもコンサートを観終えた彼の音楽系の仲間がたくさんいて、IT翻訳系?の自分はちょっと場違いでした。でも皆さんとってもいい方ばかりでした。今は関西に住んでいる彼と会うのは約5年振りです。一時間半ほどしか話せませんでしたが、昔話や近況をしゃべってきました。呑んだのはゴールデン街のすぐ近くの京風居酒屋だったのですが、初めは昔、彼が東京にいた時にしょっちゅう通っていたゴールデン街のとある店で呑むのかと思っていたこともあり、店に行く前は、当時のハードな状況を思い起こしては、「泥酔」、「嘔吐」、「流血」、「始発」、などの文字が頭に浮かんでいたのですが、呑みもそこそこに、とっても真面目に熱く語り合って、さわやかに終電間際の中央線に乗って帰ってきました。楽しかったです。

今日は部屋の大掃除を敢行しました。一日ではとても終わりそうにありませんが、それでも家のなかがだいぶすっきりしました。カセットテープとビデオテープは思い切ってほとんど処分しました。その他いろいろと片づけは進んだのですが、問題は本です。本棚がいくつかとカラーボックスが20個以上あるのですが、蔵書(というほどのものではないですが)の半分くらいしか入りきりません。平積みにしておくと本が死んでしまうのでイヤなのですが、これ以上カラーボックスを増やすべきかどうかとても悩ましいところです。このままでは、家のなかがカラーボックスだらけです。というか、家のなかが小型ブックオフです。二束三文の本も多く、わざわざ本棚に入れるほどのものでもないような気もするし......。さて、どうしよう。ともかく、部屋が綺麗になると気持ちも前向きになれると思うので、納得の行く形になるまで掃除は続けたいと思います。



5年ぶりの友の携帯ムービーに5才になりし男の子駆け

あまりに嬉しくて、誰だかわからない僕

2008年11月17日 18時51分30秒 | Weblog
長らく続けてきたIT書籍の翻訳作業ですが、つい先ほど、ひとまずドラフト版の提出が終了!!(泪)。とっても嬉しいです。もう自分が誰だかわからないくらい嬉しいです。

本当にみなさまのおかげです。どうもありがとうございました!!!!!!!!!!

いろいろと細々とした仕事はありますが、とりあえずは明日から大掃除に入ります。物だけではなく、心も体も新たになれるよう、整理整頓したいと思います!! 

最近旧友との邂逅が連続していますが、今日も何年ぶりだかわからないほど会っていない京都時代の友達が、ザ・フーの東京公演を観に上京しているので、コンサート終了後に夜のゴールデン街で会うことになりました。フリーランス初日のときもそうでしたが、節目節目に飲み会が待ち構えています。飲み過ぎないように気をつけます。

いろいろあって大変でしたが、みなさまのおかげで乗り越えることができました。ありがとうございました!! 引き続き、翻訳Loveの道を歩み続けたいと思います。



今はただ思いが絶えないとばかりを 人づてじゃなくただ言いたくて

蘇れイワシのイワシLove

2008年11月16日 21時17分14秒 | ちょっとオモロイ
いや~食えない、俺は。煮ても焼いても食えない。そんなこと、言われなくてもわかってるつもりだったけど、やっぱり食えない。はっきり言って、不味い。いやいや、もちろん俺も人として食えないのだけど、つまり、魚の方のイワシも食えない。昨日、一匹焼いてみたのだけど、匂いといい一口齧ってみてムワっときた味といい、どうしても食べる気になれなかった。正直、最近はなんだかイワシを苦手に感じてしまって、サバとかシシャモばっかり食べている。イワシとしてあるまじき行為だ。で、これではいかん、イワシとしてイワシを食べなくては、と昨日5匹入りのパックを買った。あと4匹もあるのに、どうしよう。とりあえず、頭と内臓をとって、冷凍庫に入れてある。

ちなみに、このブログのアクセス解析機能では「検索ワード」なるものがあって、検索サイトの結果ページからこのブログに訪問する人がどのような検索ワードを入力しているのかがわかるのだけど(もちろん、個人は特定できない)、ほとんどの場合、毎日一番多い検索語が「イワシ 翻訳」なのだ。たしかにGoogleでこの語で検索するとこのブログが一番上にヒットするようではある。だけど、果たしてこの語を入力してくれた人たちは、このブログを訪れようとしてくれたのか、それとも単に「イワシ」という語を翻訳したいのか、謎である。まあ、どちらでもいいといえばいいのだけど、なんとなく気になるのだ。

ともかく、このままだとそろそろ名前を変更して「シシャモの翻訳Love」か「サバの翻訳Love」にしなければいけないような気がするので、イワシをなんとかうまく食べれるようにレシピを研究しなくてはいけない。こういう場合は、もちろん「イワシ レシピ」と入力すればよいのだ。すると、たとえばこんな便利なページが表示される。南蛮漬け、オイル焼き、酢漬け。イワシ道は奥が深い。もちろん、人としての自分自身をもうちょっと食える奴にするための努力もしなければならないのだけど。



「池に浮かぶあの二匹の鴨はつがいなの?それとも......」夕暮れの井の頭公園

マイブーム トマトはトマト ムーブ 今

2008年11月15日 20時01分38秒 | ちょっとシリアス
ある日、突然だけど会社でプチトマトを育てることにした。はっきりと覚えていないのだけど、たしか3、4ヶ月くらい前のことだ。営業の人がイベントの景品でもらってきたグッズのなかに、トマトの種があったのだ。カードみたいな薄さのパッケージのなかに、種と、水をかけると膨らむ特殊な土。窓際に置いて、毎日水をやることにした。ベランダ菜園をしている同僚は、日もあまり当たらないし、土も貧弱だし、最後まで育たないんじゃないかと言った。うまく育つかどうかはわからなかったけど、ともかくやってみることにした。

別にたいして期待していたわけではなかったし、ジョークみたいなノリで始めた部分もあるのだけど、すぐに植物の生命力のすごさに驚かされることになった。数日経つと芽が出てきて、日を追うごとに成長していくのがわかるようになった。もはやこれはジョークではすまされない。トマトは生きているのだ。ちいさくともかけがえのない命を目の前につきつけられて、僕は本気になった。トマトを置いている窓際に座席のあるFさんとAさんも、種を撒いたときからトマトに気をかけてくれていた。3人の間には「トマト隊」としての連帯感が生まれた。トマトの成長ぶりを毎日観察するのがささやかな楽しみになった。かなり大きくなってきたところで、間引きをして、鉢に植えかえた。Fさんがわざわざ鉢をもってきてくれたのだ。僕は間引いたトマトを一本だけ家にもって帰ってみたのだけど、ベランダにしばらく放置していたらいつのまにか枯れてしまった。自分のささくれだった心を表しているみたいな気がして、侘しく思った。夏が終わろうとしていた頃だった。

伸び盛りの会社のトマトたちは勢いを増し、ひょっとしたら本当に実をつけてくれるのではないかと思えるほど逞しくなった。Fさんがさらに大きな鉢を家からもってきてくれた。植え替えをし、支柱を立てた。日陰になってしまうことが多いいつもの窓際に一日中置いておくのではなく、天気のよい日は日差しをいっぱいに浴びられるように屋外の非常階段の踊り場に移動した。かなり大きくなったトマトを嬉しげにしげしげと眺めていたその頃の僕たちは、ときに殺伐とした緊張感の漂う社内で浮いた存在だったかもしれない。実際、牧歌的に屋内園芸を楽しんでいる場合ではない(というか、そもそも会社はそういうところではない)ほど忙しいときも多かったが、帰り際にトマトの顔を確認するとき、それまでは職場ではほとんど感じたことのなかったような、くつろいだ暖かい気持ちになれた。

立派に育ってくれたと喜んではいたが、そこから文字通り伸び悩みの時期に入った。茎はおそらくもうこれ以上大きくはならないだろうと思えるほどになっていたが、いつまでたっても花を咲かせようとしない。もともと、ここまで成長してくれるとは思ってはいなかったので、十分だという気持ちもあるにはあった。種を撒くのが遅すぎたのかもしれないという諦めもあった。でも、僕たちの心には淡い期待が残されていた。「気長に待とう」とは言っていたが、以前と比べて目に見える成長ぶりを感じさせてくれるわけでもないトマトは、夏が過ぎ秋の足音が聞こえてくるようになると、心なしか元気がなくなっていくようにも見えた。徐々に、僕たち3人がトマトを話題にする回数も減っていった。

少しずつだけど――ちょっと大げさに言えば――、トマトのことを重荷に感じるようにもなった。このままトマトたちは花を咲かせることなく、枯れていってしまうのだろうか。後始末はどうすればよいのだろうか。冗談を交えながらも、やがて訪れるかもしれないトマトの最後をどう扱えばよいのかみたいな話もするようになった。

気になる存在だったトマトが、徐々に心の片隅に追いやられてしまうようになってしまったのは、僕が退職を控えていたこととも関係があると思う。トマトが花をつける日はいつか訪れるかもしれない。その可能性は残っている。あるいは、トマトは天国に旅立っていくのかもしれない。残念だが命あるものはいつか終わりのときを迎える。いずれにしても、それはおそらく僕が退社した後のことだろう。そんな気持ちが、わずかではあったけど心の奥底に芽生えたのは事実だった。継続案件と引継ぎで忙しく、トマトに心を向ける余裕がなかったということもある。

だからなのかもしれない。ふてくされたかのように、いじけてしまったかのように、トマトからは存在感が失われていった。生命力が次第に小さくなっていくようにも思えた。だけど僕はトマトのことを忘れたわけではなかったし、どうでもよいと思っていたわけでもなかった。少しだけ後ろめたさを感じながらも、あきらめずに生きていってほしいと願っていたし、水も与え続けていた。そうこうしているうちに、退職日になった。「トマトをよろしく」と僕はAさんに言った。ちなみに、偶然だがFさんも2週間後に退職を控えていた。今にして思えば、会社を辞めようとしているFさんと僕、残されてしまうことの寂しさを予感していたかもしれないAさんは、トマトを通じて毎日何かを伝えあっていたのかもしれない。終わりの日が少しずつ近づいていることを、そしてその終わりに向かって毎日が少しずつ変化していくことを、トマトの世話をし、トマトについて毎日軽く言葉を交わすことで、確かめようとしていたのかもしれない。2週間後、退職した僕が週一のオンサイト勤務をしていた日に、Fさんも会社を去った。Fさんは、トマトを引き取って家で育ててみると言った。僕がFさんと最後の挨拶をしたとき、Fさんの手にはビニール袋にすっぽりと収まったトマトがあった。飼い主が見つかって、不安な顔を浮かべながらもどこかうれしそうにしているペットショップの仔犬みたいだった。これからは会社の暗く冷たい窓際じゃなくて、Fさんの家のベランダでたっぷり日差しと水と愛情を与えられて育ってくれ。Fさんの律儀さと優しさに触れ、そしてトマトがこの会社のなかで哀れな死を遂げることを免れたことを思い、嬉しかった。

予期していないことは、予期していないときに起きる(当たり前だ)。あれから1ヶ月。昨日、いつものように家で仕事をしていたら、昼すぎに会社にいるAさんからメールが送られてきた。Aさんが書いた件名は、「嬉しいお知らせです!!」。FさんがAさん宛に送ったメールを転送してくれたのだった。Fさんの人柄がにじみ出るようないつもの文面で、Aさんと僕宛にそれぞれ近況がつづられている。メールの件名は、「トマトが花を咲かせました」。そう、ついにトマトが花を咲かせたのだ。トマトがやった。あのトマトたちがやりよった。やりよったんじゃ! と思わず自分でもどこの方言だかわからない言葉で感動をあらわにしてしまいたくなるほどうれしい。Fさんの旦那さんが撮影した写真が添付されている。小さく、綺麗な花が咲いている。「トマトは黄色い花だと思っていたけど、白でした。他にもつぼみがたくさんついています」――Fさんはトマトたちを夜の冷たい風から守るため、毎日夜になるとビニール袋を被せていたのだそうだ。トマトの生命力もすごい、そしてFさんの心遣いもすごい。そして何よりも、トマトもFさんも、あきらめなかった。それがすごい。

いいトマトの実が、きっと成るでしょうね、Fさん。そしたら、旦那さんとふたりでトマトを肴にビールで乾杯してください。なんとなく残酷な気もしますが...(^^)

忘れがたい思い出が、最後にできたような気がする。あきらめず、毎日水を与え続けること。命あるものを優しく愛でること。元々は景品だったトマトが、ぼくたちに大切なことを教えてくれたのだ。ぼくたち3人が水をやり続け、気をかけてあげたこと。そしてFさんがあきらめずに最後まで愛情を込めて世話をしたことで、トマトは花を咲かせてくれた。小さいながらも、なんて大きなメッセージなのだろう。

しかし、僕がこれから新しく植物を育てるかどうかは、わからない。また枯れさせてしまうかもしれない。でも、植物じゃなくてもいい。動物でも、無生物でもいい。トマトのメタファーとしての他人、自分でもいい、それを愛で、水をあげてあきらめずに育ててみたいと思う。今は枯れかけしまったと思えるあの小さな赤い花にも。トマトがそうだったように、Fさんがそうだったように。あきらめなければ、きっと花が咲くに違いない......。この殺風景なベランダにも、植物を置いたら少しは暖かい生活感が出てくるのかもしれない。春になったら、何か植えてみようかな。そんなことを考えながら、夕暮れのベランダに出てみた。そこには、真新しい鳩の糞が落ちていた。かまわない。鳩だって生きているんだ。愛でよう、すべてを――。それに、これはめでたいことなのかもしれない。だって、鳥の糞は僕にとってのラッキーアイテムなのだから。

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枯れかけたトマトに水をやる人の心に小さな白い花咲く

懐かしい友とのターヘルアナトミア的な邂逅

2008年11月14日 15時01分34秒 | Weblog
二日前、京都から遊びに来ていた友人と両国の江戸東京博物館に行った。彼女と会うのは7、8年ぶりだ。さすがにちょっとだけ緊張したけど、顔をみたらすぐに昔の感覚が戻ってきた。懐かしく、うれしい。毎日のように顔を合わせていたあのころの空気にすぐに戻れたような気がしたのは、きっと10年近くも同じ時間を過ごしていたからに違いない。つもる話は山ほどあるのだけど、博物館のなかにいるから、とりあえず目の前にある品々についての感想を述べ合う。でもそれが逆に彼女と昔ふつうに会話していたときのことを思い起こさせてくれた。

江戸東京博物館に入るのは初めてだ。江戸から現代にいたる東京の歴史は、いつの時代にも変わらない人間の根本的な部分と、文化や文明によって翻弄される社会のあまりの変わり様を同時に見せてくれるものだった。特に、『ターヘルアナトミア』の写本には感動した。これぞ、元祖翻訳Love。辞書もろくになかった時代によく訳したものだ。写本の前でしばし立ち尽くす。

博物館を出て、電車に乗る。ずいぶんとご無沙汰してしまっている京都の友人たちの近況を彼女に訊ねる。東京に出てきて8年目。過去はどんどん遠ざかっていくようにも思える。だけど、実は過ぎ去った日々はすぐ近くにあって、仲間たちも僕と同じように変わらず毎日を生きている。それを実感できた。

品川の水族館にも行く予定だったのだけど、博物館で3時間以上も過ごしてしまったので、行けなくなってしまった。僕は夕方から別の友人と会う約束をしていたので、渋谷を軽く散策してから彼女とわかれた。Jさん、とっても楽しかったです。また会いましょう!


渋谷から新宿に向かい、19時に東口でK君と会う。K君と会うのも5年ぶりくらいだ。このブログをたまに読んでくれている彼が、久しぶりに連絡してきてくれたのだった。居酒屋に入りビールで乾杯する。同い年ということもあって何かと通じるものも多く、話はつきない。彼とは人生についての本質的な部分を自然に話題にできる気がする。

当時と比べれば、お互い年齢を重ねただけ視野も広がり、より自分らしく生きることができるようになったのではないかと思う。でも、ふたりともこれから先に大きな変化が待っている。大きな力にさからえずに振り回されてきたのが若かった(といってもそれほど若くはなかったが)僕たちだとするならば、これからの僕たちは自らの意思で、自分なりの方法で、世界を切り開いていこうとしているのかもしれない。生きていくことは簡単ではないけれど、僕以上に自由人でチャレンジャーな彼を見ていると、楽しみながら自分らしく生きていきたいと強く感じる。麺屋海神でシメのラーメンを食べ、彼とわかれた。Kちゃん、ありがとう。また会いましょう!




すぐそばに息づく過去を感じつつ 旧友と眺め『解体新書』