イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

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自然言語な命令形

2009年06月29日 22時45分49秒 | Weblog
Firefoxのエクステンション、Ubiquityの次期アップデートバージョンでは、自然言語による命令の実行機能が強化されるらしいです。というといかにもヘビーユーザーっぽく聞こえるかもしれませんが、Firefoxに関してはヘビー級ではなくモスキート級くらいのユーザーです。当該の記事はこちら

というわけで実際に使ったことはないのですが、「訳せ」、「翻訳しろ」、「翻訳して」などのコマンドがデフォルトで組み込まれているので、これらの文字を打ち込むと、機械翻訳によって英語のテキストを日本語にしてくれるそうです。

それにしても、日本語の命令形ってあんまり上品じゃないですね。どの言語でも命令とはそういうものなのかもしれませんが…….。美しくない。こういう言葉は自分を鼓舞するとき以外は使いたくないですね。

しかし、
「イタリックにしろ」、「検索バーからコマンド化しろ」、「ウィキペディアリンクを挿入しろ」、「関数計算しろ」
なんて、実際にこんな自然言語をしゃべっている人はいるのでしょうか(^^)? ものすごく傲慢な上司が仕切る鬼のような開発現場を想像してしまいます。

でも、「イタリックにして」、「検索バーからコマンド生成して」、「ウィキペディアリンクを挿入して」
になると、愛嬌があっていいですね。ちょっと萌えます。

でも、どうせなら、
「イタリックにして欲しいの」とか「検索バーからコマンド生成してちょ」とか「ウィキペディアリンクを挿入してくれたら嬉しい」とか「お忙しいところ誠にお手数ですが関数計算していただけないでしょうか」
くらいにしないと真の自然言語とは言えないと思いますし、ユーザーとしても臨場感が楽しめていいのではないでしょうか。

というわけで、もろもろの仕事に追われ非常に厳しい状況が継続している自分に対して
「下らないこと書いてないでとっとと翻訳しろ」
コマンドを発行したいと思います。
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禁断の読書スタンド

2009年06月27日 20時38分48秒 | Weblog
小さい頃「テレビは2メートル以上離れて見ること」という親が定めたルールに従っていた。テレビのある部屋の床には、2メートルの位置を示すテープが貼られていた。なので、誰もがテレビを2メートル離れて見るものだと思っていた。ところがあるとき友達の家にいったら、とんでもない近さで(まさに食い入るように)テレビを見ている友人家族の姿を目撃したことがあって、腰を抜かしそうになるほど驚いた。そのトラウマで、未だにテレビはちょっと離れたところから見ないと落ち着かない。

だが、コンピューターのディスプレイとなると話は別だ。2メートルも離れた位置にディスプレイを置くのは、視力が3.0以上あるか、腕の長さが2メートル以上ある人でないと無理だろう。だから、小さい頃の自分からしたらギョッとするくらい近くで僕は毎日画面を見つめているわけで、疲れ目とともになんだか罪悪感をも感じてしまうのだ。

朝から晩まで仕事をしっぱなしの日も多い。仕事の手を休めるときも、ネットサーフィンしたりしている。会社員時代もディスプレイを一日中睨んではいたが、印刷物を読んだり、会議をしたり、目の前を通り過ぎる人につい目をやったりと、画面を見つめていない時間が今よりも多かったような気がする。それが今や、3つのディスプレイに囲まれた観音様のような状態で一日のほとんどの時間を過ごしているわけだ。これはあまりよろしくない。

さすがに1日10時間以上、画面とにらめっこをしていたら眼にもよくないし、身体も固くなる。だからなるべく印刷した原稿を別の場所で読むようにしなければ、と最近実感するようになった。寝室の布団に寝っ転がったり、ソファやトイレ、風呂のなかで原文を読む。なるべく画面を見ている時間を少なくするためだ。フリーになった直後はそうやってバランスを取るようにしてたのに、いつのまにか観音様時間ばっかりになってしまった。初心を取り戻さなくてはいけない。

意識してそれをここ2,3日やってみたら、これは身体が楽になるだけでなく、but also 翻訳を効率よく進める上でも役に立つとあらためて感じた。ずっとコンピューターに向かって翻訳していると、原文を細切れに読んでは訳し、読んでは訳しとやってしまいがちだが、いったん別の場所でまとまった範囲の原文をしっかり読み込んで、頭の中で一度訳文を練ってから画面に向かうことで、訳の質が少し上がるような気がするし、ミスも減らせるように思う。

そんなわけで今日もゴロゴロ地面に寝そべって、いろいろと姿勢を変えながら原文を読んでいたのだけど、やはり気になることがある。それは、仰向けになって両腕で原稿を支えていると、すぐに腕がつりそうになるということだ。身体的には一番楽な姿勢なのに、腕のせいで長時間その体勢をキープできない。それがなんとももどかしい。

そんなことを思いながらこの文章を書き始め、「前々から欲しかった読書スタンドを、そろそろ購入すべきなのかな~」という風な結びにしようと思っていたのだけど、書いているうちにどうしても欲しくなってしまってSubmitボタンをClickしてしまった。仕事の原稿はもちろん、読書にも使えそうで楽しみだ。でもあまりに楽すぎて、すぐ眠ってしまいそうな予感もするのだが.......。

ともかく「起きている時間の半分は読書をする」という超人的、脱人間的な野望を実現する日が、いよいよ近づいてきているのかもしれない。僕はどこに向かっているのでしょうか。
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1円奇譚

2009年06月26日 16時13分56秒 | Weblog
僕が翻訳を担当させていただいた本の1冊が、Amazonのマーケットプレイスで1円で売られていることに気づきました (゜д゜;) しかも5冊も!

前々から価格がかなり下がっていることは気付いていたのですが(実は、自分でも何冊か購入しました)、それでも100円くらいでした(これでも十分悲しい)。

それが、1円ですよ、1円......。

20冊買ってもチロルチョコ1個。380冊大人買いしても、吉野家の牛丼、並盛り一杯分の価値しかないということです。しかしまあ、じっさい市場原理の法則に従えば、まさにそれだけの価値しかないわけです。

「1円を笑うものは1円に泣く」と言いますが、まさに訳者としては笑いたいような泣きたいような心境です。

でも、読者にとっては喜ばしいことかもしれません。僕の「名訳」が1円で読めるわけですからね(なんて)。

すかさず「名訳」じゃなくて「迷訳」だろという声が聞こえてくるようですが、正直、否定できません。まあさらに言えば、様々な意味において「迷惑な訳」といったところでしょうか。1円という価格は妥当かもしれません。

実際には、送料が340円かかるので、1円で購入できるわけではありません。341円必要なわけです。商品の340倍の送料がかかるわけです。アマゾンマジックですねこれは。

しかし問題は売る方です。いくらなんでも、1円で売って商売になるのだろうか? という疑問を禁じ得ません。そこまでヤケにならなくてもいいだろうに、と。

調べてみると、実は送料を安く抑えることで、1円で本を売っても、100円ちょっとの利益が出るそうです。なるほど。

地道に100円を積み重ねることで利益を上げていこうという、売り手の商売魂をヒシヒシと感じます。すごい。

しかしこちとらそれを黙って指をくわえているのもしゃくです。いっそのこと、自分でその1円本を大量購入してやろうかと思います。そして、その本をマーケットプレイスで同じく1円で売り直してやるのです。意味、ないですね。

購入した人はちょっとびっくりするかもしれません。訳者から直接本が送られてくるのですから。嫌がらせかと思うかもしれません。

頼まれてもいないのに、勝手にサインなんかしたりして。「いらんことしやがって、本の価値が落ちるじゃないか!」とクレームを言われてしまいそうです。でも、そしたらこう言い返してやります。「これ以上、落ちようがないだろ」と。どうです? 相手はきっと「こりゃ1円、じゃなくて一本取られたな」と思うはずです。なんて低レベルな闘いでしょうか。

しかしせめて、5円にして欲しかったですね。いいご縁がありますように、って感じで、なんだかそれだったら安くても縁起物って感じがして許せる気がします。

でもまあ、1円でも売買されているウチが華です。5冊で5円。いいご縁がありますように!





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働く意欲

2009年06月26日 08時00分35秒 | Weblog
昨夜は都内のメキシコ料理店で開かれた、ある翻訳プロジェクトの打ち上げに参加させていただきました。大先輩の翻訳家三名と美味しい料理をいただきながらのとても楽しいひとときでした。完成した書籍は装丁も美しく、編集も非常に精緻でとても素晴らしいと思いました。手に取るとずっしりと重みがあります。聞くも涙、語るも涙の、ものすごく大変な作業の結果、生み出された大作です(大変だったのは他の方々で、私はこのプロジェクトでは雀の涙ほどの仕事しかしていません)。日本を代表する翻訳家、といってもまったく過言ではない大先輩の手による訳文も当然のごとく非常に素晴らしく、尊敬する先輩がますます偉大に見えた夜でした。1冊の書籍の翻訳を完成させるのは、本当に大変なことなんだなぁと実感しました。末永く多くの読者に読み継がれてほしいと思います!

しかし、私は諸先輩方と同席するという機会にも関わらず、時間を30分勘違いしていて、遅刻。一生の不覚です。ものすごくナチュラルに惚けています。自分の惚けっぷりの進行に驚きを隠せません。でも、ともかくとても楽しかったです。いろいろと勉強になるお話も聞かせていただきました。

一昨日は夜8時に寝て朝2時半起床。それから夕方6時ころまで仕事をしていたので、夜に外出する予定があったにもかかわらず、仕事をする時間がたっぷりありました。やはり早起きは三文の得です。起きるのが遅いと、夜に予定があるとほとんど仕事をする時間がありません。これは怖い。

ワーストケースシナリオは、昼前に起きる→新聞読んだりメールチェックしたりする→ランニングに出かける→帰宅(すでに夕方)→小一時間ほど申し訳程度に仕事をする(でもほとんど進まない)→出かける→飲み会(ようやく身体が本調子になるので飲み過ぎる)→深夜帰宅→ダラダラする→深夜2時~3時ころ就寝→昼前に起きる→...

という無限ループです。十分にこうなる可能性があるので、気をつけなくてはいけません。自由業者にとって早起きは金。働く意欲もわきます。

今日は6時起床。ようやく正常なサイクルに戻りました。これを維持していかなければ! さあ、今日も仕事を頑張ろう~!
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熱中症宣言

2009年06月24日 06時05分50秒 | Weblog
生活リズムが崩れていたのですが、なんとか正常モードに近づいてきました。しかし、就寝時間が早すぎて、朝というより夜中に目が覚めてしまいます。昨日も夜7時に寝て、朝の1時に起きてしまいました。一昨日は、夜6時就寝、夜12時起床でした。これは早起きと呼べるのでしょうか? 考えようによっては、ものすごく夜更かししていると言えなくもありません。

でも、仕事をするには午前中が一番はかどるので、朝方に起きているというのは悪くありません。こんなに早く起きたら、1日のほとんどが午前中です。午前2時~3時くらいはなんだか身体も重たく感じますが、5時くらいになると、本当に気持ちがいい。1日のうちでも、とても好きな時間帯です。

ちなみに、昨日の午後はとてもいい天気でした。気温も33度と文字通り夏日です。今年に入って屈指の暑さだったのではないでしょうか。雪の上を走り回る犬のように、張り切ってジョギングしてきました。まるで無料のサウナに入っているようです。身体の芯から熱くなる。これが気持ちいい。これだけ暑いと、ほとんど何もしていなくても、汗を大量にかきます。これがまた気持ちいい。日に当たりすぎて、熱中症気味なのか少々頭痛がします。でもこれがまた気持ちいい(というのはウソ)。

僕はいつも公園内の100メートルくらいの人気のない道路をひたすら往復しているのですが、昨日はその脇に生えている雑草を、公園から依頼された業者の人がトラクターみたいな刈り機でひたすらに刈っていました。なので、草の匂いがいつにもまして充満していました。自然の豊かなところで育ったので、草いきれを嗅ぐととても気持ちが落ち着きます。昼間の数時間、暑い太陽の下でランニングできたらそれだけで相当気持ちが満ち足ります。走りながら、けっこう真面目に暖かい地方に移住したいな~なんて考えてしまいました。でもまあ、東京にいながらにしてこれだけ豊かな自然が近くにあるというのはかなり恵まれています。ともかくあと3ヶ月ほど、炎天下ジョギングで夏を満喫したいと思います。

ところで、カラっと晴れた状態のときに走りたい僕にとって必須なのが、ピンポイント天気予報。僕の知る限り、以前にも紹介しましたがtenki.jpのサイトはとても便利です。西東京市の予報を一日何度もチェックしています。一日にひとつでも晴れのマークがあればOK! その時間帯を狙って走るわけです。オススメです。

それから、これは東京限定のようですが、東京アメッシュというサイトは、雲の動きがわかるので、これから先の数十分で雨が降るかどうかをかなり高い確度で予測できます。

今週はずっと雨または曇りかと思っていましたが、晴れてくれる時間帯も結構あるようです。今日も、ずっと雨かと思っていたら午後に少し晴れるようです。嬉しい誤算です。今日もやっぱり走ってしまいそうです。会社員時代とちがって毎日でも昼間に走れるので、自分へのブレーキが利きません。いつか走っている途中に熱中症で卒倒しそうな予感がします。
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ゆっくり訳せば速くなる

2009年06月23日 04時30分49秒 | Dr. コーナー・レッターのこなれた訳研究
******LSTとは何か?******

――「翻訳者の器」を大きくするトレーニング

LSTとはLong(長く)、Slow(ゆっくり)、Translation(翻訳する)の略称で、ゆっくりとしたペースで、長い時間、翻訳を続けるトレーニングです。どのくらい「ゆっくり」かというと、私の場合は、1時間70~80ワードというペースです。本当にゆっくりでしょう? そのペースで、10時間以上訳し続けます。

そんなに「ゆっくり訳す」のはなぜでしょうか?

まず、長時間に渡って短い文書をどう訳すか考え続けることで、普段は見過ごしがちな疑問点にじっくり取り組むことができるほか、新たな発想や翻訳技法が刺激されて使えるようになり、優れた翻訳者向けの脳を作ることに効果があります。また、ゆっくり訳すことで、自分のフォームを修正することができます。バランスの悪いフォームではゆっくり長時間訳すことはできないのです。翻訳は長時間にわたって作業を続ける仕事ですから、体のリラクゼーションがうまくでき、正しく訳すこと以外の無駄な力を使わないようにすることが、とても大切です。言いかえれば、「ゆっくり訳せない人は、速く訳すこともできない」ということです。

普通は、「速く訳せば、速くなる」と考えがちです。ハードな仕事をすればするほど効果がある、と思っている翻訳者も多いことでしょう。もちろん、より上を目指すためには、ハードな仕事も必要になってきます。でも、ハードな仕事を受け入れるだけの「器」ができていないと、疲れるばかりで効果がありませんし、筆が荒れる可能性もあります。まず、ハードな仕事を受け入れられるだけの「器」を作らなければなりません。LSTは、翻訳者の「器」を大きくすることができるトレーニングなのです。

――すべての翻訳者に必須

また、LSTはゆっくりとしたペースで身体にあまり負担がかからないトレーニングなので、翻訳の初心者でも無理なく行うことができます。翻訳を始めたばかりの人が、いきなりペースを上げて訳そうとしても長い時間続けることは無理ですが、ゆっくりとしたペースだったら、より長い時間訳し続けることができます。どんなにペースがゆっくりであっても、長時間訳し続けていれば、処理量も延び持久力の向上につながります。また有酸素運動にもなり、それを長時間続けているということですから、体脂肪の燃焼を促して身体もスリムになってきます。ですから、LSTだけの練習でも、書籍1冊をすべて訳し終える翻訳体力を作ることはできます。
LSTは、翻訳の基礎練習においても他のさまざまな面でも、とても大切で効果的なトレーニングなのです。

******「ゆっくり」とは、どのようなペース?******

――快適な作業速度より遅いペース

ゆっくり訳すのは簡単にできそうに思えますが、実はこれが思った以上に難しいものなのです。ゆっくり訳すつもりが、すぐにペースが上がってしまう、ゆっくり訳すほうが疲れる、イライラする……。なぜそのようになるのでしょうか。身体のリラクゼーションがうまくできていなくて、無駄な力が入ったまま訳していたり、クセのあるフォームで姿勢が崩れていたりすると、すぐに疲れてしまって、ゆっくりのペースで長く訳すことが難しくなります。処理量が多くなればなるほど、無駄のない、合理的な翻訳作業が必要になってくるのです。

では、「ゆっくり」とは、どのくらいのペースを指すのでしょうか。私の場合は1時間70~80ワードくらいですが、人それぞれ、またその時々の体調によって違いますから、普段のトレーニングにおいて、1時間何ワード訳すという定義づけは勧められません。目安としては「”快適”な作業速度より遅いペース」と考えるとよいでしょう。1時間70~80ワードの私のペースでは、10時間やっても700~800ワードしか訳せません。本当にそんなに遅いのかと、よく疑問を持たれるのですが、全力で訳せば1時間で軽く500ワードをこなせる××君でも1時間70ワードでトレーニングしているので、10時間で700ワードちょっとしか訳しません。それほどゆっくりのトレーニングで、十分効果があります。人によっては、1時間70ワードくらいが快適なペースという場合もあるでしょう。そのときは、さらに「不快適」なペースで訳すようにしてください。

「快適」なペースは気持ちよく訳せて気分がよいものです。でも、その中では逆に、フォームの欠点にはなかなか気付きません。「不快適」なほどのペースで訳すと、フォームの欠点が現れます。無駄な力が入っていたり、リラクゼーションが上手くできていないなど、訳すフォームが崩れていると、ごまかしがきかなくて、ゆっくり訳すことに耐えられず、ペースが上がってきてしまうのです。ゆっくり長く訳すことができない、という人は自分のフォームに欠点がある、と思ってください。そして、だからこそLSTが必要なのだ、と考え、トレーニングとしてとらえ、取り入れて欲しいのです。

――何ワード訳したかではなく、何時間訳したか

では、どうすれば「ゆっくり長く」訳せるようになるのでしょうか。
まず、何ワード訳したか、という量の概念は捨てましょう。量に気を取られていると、どうしても心理的にゆっくり訳せなくなります。私はLSDのときは、練習日誌に量は記入せず、何時間訳したか、時間だけを記入しています。できるなら、はっきり量のわからないようなテキストを訳してみるのが望ましいくらいです。LSTでは何ワード訳したかではなく、何時間訳したか、という観点で取り組んでください。

どうしてもゆっくり訳せない、という人の場合は、訳しにくいテキストを選択するのも一つの方法です。内容が理解しやすいテキストでは、どうしてもペースが上がってしまいます。一方、特殊な分野の「ちんぷんかん」なテキストだったら、内容が理解できないのでなかなか速く訳せません。そのようなペースが上がりにくいテキストで、ゆっくり訳すコツをつかむのも手です。

また、本来は量がわかりにくいテキストを使って、ペースを気にせず訳すのが望ましいのですが、翻訳初心者がゆっくり訳すコツをつかむためには、あえて量がわかるテキストを使って、自分の”ゆっくり度”をチェックするのもよいでしょう。

とりあえず、ゆっくりのペースを我慢して訳してみてください。慣れるまでには少々時間がかかりますが、何回か続けていくうちに、次第にそのペースに身体がなれてくれます。慣れるまで、人によっては数ヶ月かかってしまうこともあるでしょう。でも、何かを体得するには、時間がかかるものです。「ゆっくり」訳すことは一つの技術だと考え、自分のものになるまで、時間をかけて取り組んでみてください。


*************************



上記は、コーナー・レッター博士が発表した同名のタイトルの論文からの抜粋である。発表当時、その斬新なトレーニング理論で学会・業界を驚かせたのだが、後日この論文が浅井えり子氏の著作、『ゆっくり走れば速くなる』(LSD=Long Slow Distanceというランニングトレーニング手法についての本)の文章に酷似していることが指摘され、剽窃の疑いで起訴された博士に有罪判決が下された。

僕は浅井さんの本を読んでいたから、初めて博士の論文を読んだとき、これは浅井さんの文章の「走る」の部分を「訳す」に入れ替えただけじゃないか、と思った。前からあの人は怪しいと思っていたのだけど、やっぱりか、という印象だ。おそらく、もう二度と博士が日本を訪問することもないだろう。

しかしながら、僕はこの苦し紛れの剽窃論文にも、一分の真実があるのではないかと思っている。一つのセンテンスを訳し終えて次のセンテンスに進むとき、本当にその訳で満足しているのか、とことん突き詰めて訳文をアウトプットしたのか、ということを考えると、僕自身大いに疑問がある。ときには時間を気にせず、対象の構文や語に対してなぜこのような訳にしたのか、その答えを自分なりに理論立てて説明できるようになるまでとことん「考え抜く」ことも必要だと思うのだ。納期のない仕事は仕事ではない。だから常に時間に追われてはいる。だが、よくないフォームのままでいくら速く走る練習をしても、真に効率的な練習はできず、また真に優れたランナーになれないのと同じように、短いセンテンスを完璧に訳せるように――完璧な訳などありえないことは承知の上で、あくまで現時点の自分の力でそれに近づくために――ごまかさずに「脂汗を流しながら」とことん考え、訳してみることも必要だと思うのだ。そういうトレーニングをすることで、速く、遠くまで走れる翻訳者になれるのではないかと思うのだ。
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すもももももももも

2009年06月22日 18時25分55秒 | Weblog
ここ最近、寝てる時間と休んでる時間以外はず~っと不眠不休で頑張ってきた。そのせいか、スーパーで買い物するときに、これだけ働いたんだから食べものくらいは少々贅沢してもいいかもしれないという気持ちになった。果物が好きでよく食べるんだけど、果物っておしなべて値段が高い。なので、いつもはリンゴかバナナくらいしか買わない。一袋が500円とか600円とかすると、妙に高く感じられてなんだか手が出なくなってしまうのだ。別にそんなに貧乏してるわけじゃないんだが。だけど、今日はなんだか気持ちが大きくなって、いつもと違うものを買ってみることにした。たまには人生、変化も必要だ。何にしようかな~と思って物色していたら、すももが目に入った。30個くらい入って780円。そういえばすももなんてしばらく食べてない。ももってなんだか贅沢品の象徴って感じがするじゃないですか。普段ならまず手を出さないのだけど、今日は大船に乗ったつもりで購入してみることにした。こんだけ頑張って稼いでんだから、すもも780円くらいでバチは当たらないはずだ。本来なら、7800円のマスクメロンを買ったっていいはずだ。

ところが、家に帰って袋から出してみたら、それはすももではなくて梅だった。ランニングの帰りにスーパーに寄ったから、メガネをかけていないのでラベルがよく読めなかったのだ。梅って、生で食べれるの? 一個食べてみたけど、これがうめ~! じゃなくて、ちょっと食えない。食えないこともないけど、ガツガツ30個もむさぼって食べようとは思わない。すっぱい。すももの8倍くらいすっぱい。調べてみると、梅は生で食べるとおなかを壊したりすることもあるらしい。オ~マイゴォ! せっかく奮発したらこの様だ。すっぱいのは人生だけにしてほしいよまったく。どうやってこの大量の梅を食べればいいのだろう。でもまあ、これを機会に梅レシピを研究してみよう。ひょっとしたら、頑張った自分へのご褒美として「梅酒を作れ」という天の思し召しだったのかもしれない。

そんなわけで、まあなんというか人生は甘酸っぱく、いろいろと失敗はありますが、なんだかそれはそれでいい塩梅かもしれないということで、明日も頑張りたいと思います。
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無人島、キッチンシンクに蠅の王、ビル・ロビンソンが来るぞ

2009年06月20日 02時13分37秒 | Weblog
面倒くさくてずっと散髪していないので、髪の毛がこれまでの人生で一番といっていいほど長くなっている。アゴ髭ものばしている。昼間走っているので、最近は梅雨で少々色あせてきたけど、それでもけっこう日焼けしている。だからタマに鏡に写った自分の姿があまりにもワイルドで、ぎょっとすることがある。

そこにいるのは、どうみても世間一般がイメージするであろうところの在宅翻訳者ではない。まるで、無人島で一人で暮らしている人である。思わず、「どこから来たんだお前は?」と己につっこみたくなる。しかし、「無人島生活」というのは、当たらずといえども遠からずかもしれない。じっさい、そんな生活をしているのだから。同じところでずっと暮らしているはずなのに、なんだかずいぶん遠くまで来てしまったなぁ。

そういえば、夜に自転車でコンビニに行く途中で、しょっちゅう警官に呼び止められる。ついさっきも呼び止められた。ここ半年で5~6回くらい? 自転車が盗難されたものではないかと確認するためだ。そんなに怪しい男に見えるのだろうか? たぶん、見えるんだろう。外見はワイルドに見えるかもしれないけど、中身はこんなにいい子ちゃんなのに...。クタクタになるまで働いて、やっとの思いで外に買い出しに出かけたら、自転車泥棒扱いされるなんて...ひどい。

ここしばらく仕事に追われていたので、茶碗も洗わず、台所の三角コーナーも放置していたら、どこから沸いてきたのか、小蠅が数匹、台所上空を編隊飛行していた。さっそくこちらも「変態」飛行で迎撃した。危ない季節の到来だ。気をつけなければ。でもまあ、この無人島に暮らしているのが、僕だけではないのだと思うと、なんとなくまだ自分が生態系の一部と繋がっていることを実感できて、嬉しくもある。なんだか蠅が愛おしい。いかん、危険な領域にどんどんと足を踏み入れてしまっている。

生活リズムが完全に狂ってしまった。ここできちんと立て直さないと、これから先に控える大量の仕事の山を越えられない。ここ1週間くらい、3~4時間寝ては目が覚めてしまう。次にいつ眠たくなるのかはわからない。ギリギリまで頑張る。あるときは徹夜する。すると極限状態が訪れて、眠りに落ちる。だけど3~4時間しか眠れない。それが1日に1回から2回くらいのサイクルで回っている(結果的に、結構寝ていたりして)。いかん、睡眠障害一歩手前だ。これを修正するには、日の光を浴びるのがいいらしい。頼むから晴れてくれ! でも日曜日にちょっと晴れたら、また雨と曇りの一週間らしい。梅雨とはいえ、いい加減にしてくれ~!

でも大丈夫、絶対にこのトンネルを抜けてやる! 散髪もして、髭も剃って、規則正しい生活をして、仕事も前倒しする。話をする相手も、蠅じゃなくて人間がいいな。生産性をどんどん高めて、たくさん稼いで、節約して、貯金して、そして貯めたお金で、いっそのこと本物の「無人島」を購入してやるのだ。ああ、そんな妄想をしてしまうくらい、なんだか最近変なのです。
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部長、お言葉ですが、それはいかがなものかと.......

2009年06月18日 23時01分48秒 | 翻訳について
アメリカ英語のビジネス文書には、頻繁に"Vice President(VP)"という肩書きが出てくるのですが、これがなかなか訳すのが難しいのです。

"vice"には「代わりの」「代理の」という意味があり、"president"は「長」、「社長」という意味があるので、よく「副社長」と訳されているのを見かけますが、ビジネスの世界では「部門の長」すなわち「部長」と訳すのが一番適切なようです。

なぜVPが部長になるのでしょうか? 僕が思うに、すごくシンプルに考えると、会社とは「部門の集まり」です。部門にはそれぞれの長がいて、そしてその上に会社全体を代表する人、すなわち社長がいる。だから、部長は社長の次にエライ人になるので、Vice Predident = 部長になるわけです。

ちょっと例えが違うかも知れませんが、ある人がボーリング大会で「準優勝」したとします。すごいな~と思うかもしれませんが、ひょっとしたらその大会にはたった3人しか参加していなかったのかもしれません。その場合は、その人は3人のなかで2位だったわけですから、間違いなく準優勝したことになりますが、同時に下からみたら「ブービー賞」でもあるわけです。だけど、対外的には、準優勝のほうが聞こえがいい。いわゆる、「ものは言いよう」です。なので、VPにもこのような肩書きを大きく見せるような心理が若干ながら働いているのではないかと思うのです。この仮説を、「ブイピー(VP)のブービー理論」を呼ぶことにします(なんて)。

あるいは、会社組織がとてもシンプルだった牧歌的な「会社黎明期」(そんな時代が本当にあったのかどうかは知りませんが)、Presidentくらいしか役職名なるものが必要ない場合もあったのかもしれません。サッカーのチームにも、1人のキャプテンと1~2名の副キャプテン、そしてその他大勢のメンバーしかいないように。Presidentが全体を仕切り、それに準じる能力や権限をもった人たちは、Vice Presidentと呼ばれる。あとは単なるメンバー。そういう時代の名残で、「2番手の人をVPと呼ぶ」という文化が根付いているのかもしれないと(まったくの憶測にすぎません)。でもそういえば、実際、以前僕が関わったことのあるアメリカの小さな企業では、VPが部門において大きな権限を持っていました。会社全体のことについて意志決定を下すときにのみ、Presidntが彼の前に現れるというような感じでした。そのときは、なるほど、VPという肩書きは伊達ではないのだなと腑に落ちました。

でも、だからといってこれを「部長」と訳せばいいのか、というと実は個人的にはちょっと抵抗があります。日本の企業の役職と、海外の企業の役職は等価なものではありません。
無理に日本の役職を当てはめてしまうと、そこにはかならず齟齬が生まれてきます。
Vice Presidentを「副社長」にするのは、ある意味誤訳に近いことになる場合もあると思いますが、それでも「社長の次にエライ」というニュアンスは生きています。"Vice President"には、シャンパンを飲みながら高級フランス料理を食べているようなイメージがあります。しかし、それを「部長」にしたとたん、VPという言葉の華やかさは消え、なんとなくスケールダウンした印象が否めません。「居酒屋で焼き鳥をつまみに焼酎を飲んでいるちょっと強面で小太りの部長(九州男児)」の姿が浮かんできます。なんというか、「部長」にはものすごい「和臭」が染みついているのです。アメリカ人には、「部長」「課長」「係長」という言葉はなぜか似合いません。そもそも、「社長」という言葉すら微妙に似合いません。なので、VPを部長と訳すのは、アメリカのアマチュアレスリングのチャンピオンのことを、「横綱」と訳してしまったような居心地の悪さがあります。実際、VPは、日本でいうところの「副社長ほど偉くはないけど、部長よりは大きな権限を持っている」と位置づけることができるようです。帯に短し襷に長しですね。

なので、僕は「VP」や「バイスプレジデント」など、そのままの言葉で訳すのがいいのではないかと思うのですが、そうすると、「VPってなんだ?」と読んでいる人に思われてしまうようで、それはそれで手抜きをしたような気になってなんとなく釈然としません。できれば、「日本の部長に相当する」とかそういう注釈的な情報も盛り込めればよいのですが、常にそれができるわけでもありませんし、そこまでやるくらいなら最初から部長にしとけよという心の声も聞こえてきます。「カタカナに逃げた」と思われるのも嫌だけど、強引に日本文化の影響が色濃い言葉にも訳したくもない。難しいところですね。このジレンマを、「部長、島耕作」ならどうやって切り抜けるのでしょうか(なんて)。

ともかく、企業が新製品やサービスをアピールしたりする場合、頻繁にVPが登場します。社長は企業全体についてのコメントはできますが、ある製品やサービスについてのコメントを一番発言しやすいのはVPになるからでしょう。会社を代表して新製品を説明するときに、たとえば係長が出てきたりすることはあんまりないですからね。ちなみに、VPを「副部長」に訳している例も見かけますが、これは多くの場合、誤りなのではないでしょうか。VPの後には「~部門の」的な情報が出てくるので、それに引きずられてしまったのだと思います。

そんなわけで、Vice Presidentという言葉には、翻訳のエッセンスが詰まっているのではないかと思ったのでした。


最近仕事に追われて昨日も初志貫徹ならぬ「ちょっち完徹」をしてしまいました。いろいろと予定も狂ってしまいました。忙しいのは非常にありがたいことですが、仕事に追われているようではいけません。自分も仕事もうまくコントロールしなければ、よい仕事はできないと痛感しました。

明日からは天気もよくなるようです。ずっと雨ばかりだったので、本当に楽しみです。しかし、ここのところ、冴えない天気があり得ないくらい続いていましたよね。気にし出すとストレスがたまりそうなのであまり考えないようには心がけているのですが、毎年、6月ってこんなでしたっけ???

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ライスカレーの法則、あるいは「割にあわない」オオカミ中年

2009年06月16日 18時19分05秒 | Weblog
「ウルフ」の愛称で知られた元千代の富士の九重親方の現役時代のインタビューを読んで「へえ」と思ったことがあります。彼は自分の仕事をとても「楽」だと思っていたそうです。一日一番だけ相撲を取るだけで、お金がもらえるなんてこんなに「割のいい」仕事はない、と。傍目からみたら、その一番をとるためには日々のたゆまぬ稽古をしなければならないわけだし、負け続けたり、大けがをしたりしたら簡単に職を失うリスクもある、非常に厳しい世界に思えます。あちこち巡業にいかなければならないし、縦社会でストレスも多そうだし、対戦相手の朝潮が頭から突っ込んでくることを考えると想像しただけで背筋に悪寒が走ったりしますが、彼は「サラリーマンのほうがよっぽど大変で、自分には絶対にできない」と語っていました。

それを読んだ僕は「なるほど、すごいことをやっている人というのは、意外と自分ではそれを、割のいい仕事、あるいは楽な仕事だと感じていて、だからこそすごいことができるのかもしれない」とハタと膝を打ったのでした。

同じように、サッカーの木村和司さんが、元旦の天皇杯の決勝のテレビ中継の解説をするときに、毎年のように「正月から好きなサッカーができるなんて、選手にとってこれ以上幸せなことはないですね~」と激しく実感を込めて語っていたのですが、そのセリフを聞くたびに、「なるほど、すごい人というのは、本当にその仕事のことが好きなんだな~」とハタと膝カックンをしてみたりしたものでした。僕は、いくら好きなサッカーとはいえ、元旦から試合なんてけっこう大変じゃないのかな~、と思っていたりもしたのです。天皇杯で早く負けたらその分、オフが長くなるわけですし。だけど、木村さんはそんなことはみじんも考えていないようでした。できることなら解説席じゃなくて、ユニフォームを着てピッチに立ちたい。そういうウズウズした想いが伝わってくるようでした。サッカーが本当に好きなんですね。

つまり、他の人からみて「大変だ」と思うことを大変だと思わない。「割のいい仕事」というとなんだかいやらしいニュアンスもありますが、そう思えるかどうかが、ある仕事を続けていく上で、様々な面においてひとつの分水嶺になるのではないでしょうか。時給換算してとか、平均年収と比較してどうだとか、そういう客観的な尺度ももちろん大切です。だけど、賃金が相場より低くても、仕事がそれ以上に楽に感じられたらそれは割がよくなるのかもしれませんし、逆にいくら給料がよくても仕事があまりにきつければ、割に合わないとも感じるでしょう。ようは自分がどう感じているかが大きなポイントになるわけです。

翻訳の仕事も、案件によって難易度や作業負荷は実に様々でして、当然、「割に合うもの、合わないもの」が存在します。特に、1000ワードに満たない仕事というのは概して割に合わないと感じられるものです。たとえば「300ワードのプレスリリースの仕事」なんて、処理量からいったら1時間くらいで終わらせなくてはならない「赤子の手をひねるように簡単な仕事」ではないのかと請けるときは想像してしまいがちなのですが、現実には背景情報や専門用語、過去データなどを調べていたらあっという間に時間は過ぎ去り、赤子の手をひねるどころか、こちらが三角締めを決められたような状態になってしまって、息も絶え絶えになって何時間もかかってしまうなんてことはザラにあります。まあ、それは私の実力不足によるところが大きいわけなのですが、こういうときは「割に合わないな~」とついゴチてしまいます。時間あたりいくらの仕事だったんだろう、と後でそろばんをはじいたりして。

よく例えられることですが、カレーと同じで、一人前を作るのも五人前を作るのも、手間暇はそんなに変わりません。小さな案件は、カレーを一人前あるいは半人前ほど注文されたみたいなもので、じゃがいもを切ったり、タマネギを切ったり、ルーをコトコト煮込んだりと、時間と労力をかけて仕込みをした割には、アウトプットの量が少ない、というわけです。タクシーみたいに初乗り料金を設定するわけにもいきません。翻訳会社によってはミニマム料金を設定しているところもあり、翻訳者にもミニマムいくらからしか請けない、という方もいらっしゃいます(ただし、ものすごくミニマムな量を基準にされています)が、その基準(たとえば150ワードとか)を下回る案件というのは本当に希にしかないので、実際は有名無実な存在に限りなく近いと思います。

でも僕は、心の奥底からは、「小さい仕事は本当に割に合わない」とは感じていません。その理由はいろいろあります。まず、小さな案件は目先が変わって面白さを感じることができます。カレーに福神漬けが合うように、小さな案件が大きな案件の合間のアクセントになるわけです。言わばつまみ食い的な面白さです。それに、少々不純ではありますが、小さい仕事を請けているからこそ、大きな仕事も依頼してもらえるとも言えます。小さな仕事が割に合わないということは、依頼者の方も当然知っています。だからこそ、そこでいい仕事をすれば「小さな案件ばっかりでいつも申し訳ないので、今度大きな仕事がきたときにあの人に発注してあげよう」と思っていただけるわけです。それは僕が仕事を依頼する側だったときに、感じていたことでもあります。逆にこちらも、いつも大きな案件でお世話になっているのだから、小さな案件で依頼者の役に立てるのであれば、ぜひそうしたい、とも思います。

吉野屋ではありませんが、「上手い、早い、安い(「上手い」と「早い」は当てはまらないかもしれません)」サービスを提供できたのではないか、という喜びもあります。依頼した人に、「これだけの対価で、これだけの仕事をしてくれた。頼んでよかったな」と思われることは、仕事を通じて感じることのできる大きな喜びのひとつだと思います。まあこれは、小さな案件に限ったことではないのですが。

もちろん、常に割に合わなさを感じているようだと問題です。いつも「なんて安いんだろ」、と嘆いてばかりいたら精神衛生上よくありません。僕の場合は、ごく希にくる小さな案件で前述したような割の合わなさを少しだけ感じることがあるくらいで、基本的には「翻訳をしてお金をいただけるなんて、なんて幸せなことなんだろう」と思っています。なんだか申し訳ないとすら思ってしまいます。そしてだからこそ、その「割のよさ」「申し訳なさ」を埋めるために、もっと頑張っていい仕事を提供しよう、と感じることができるのではないかとも思うのです。どれだけ徹夜しようが、休みがなかろうが、やはり翻訳は僕にとって「割のいい」仕事ではないかと思うのです。他の仕事ができないということもありますが。

「割に合わない」仕事は、やっぱりその仕事を続けたいと思えるか、それともアホらしくてやってられないと思うか、ということを判断するためのリトマス紙なのかもしれません。そして幸いなことに、僕のリトマス紙試験の結果は、今のところ「尿酸値が高い」じゃなくて、「仕事を続けたい」とはっきりと書いてあるように思えるのです。

強いて言えば、自由業は「思っていた割には人に会えない」、というところに割の合わなさは感じます。まあこれも、出不精の自業自得なのですが。
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すべてのプロレス・格闘技ファンが考えるべき問題

2009年06月14日 09時12分47秒 | Weblog
格闘技、プロレスファンとしては、とても悲しい出来事が起こってしまった。三沢光晴さんが、試合中に相手の技を受けて、亡くなられた。ノアの代表も務める三沢さんには、様々な気苦労もあったに違いない。テレビ中継が打ち切られたばかりで、経営者として今後のことについてあれこれと考えなくてはならなかっただろう。そんななか、一選手としてもハードな試合をこなさなくてはならなかった。年齢的なこともあるけど、最近は体つきも顔つきもむくんだような印象があり、コンディションがあまりよくないのだろうなと思っていた。訃報を聞いたとき、まさかとは思ったけど、そうしたいろんな要因が背後にあったのかもしれない。

僕はどちらかというと20年前前後の時代にもっとも熱心なプロレスファンだったのだけど、最近の試合をたまに映像でみると、その技の過激さに少々驚いてもいた。受け身のとれないような形での投げ技や、トップロープからの大技、場外へのトペなども昔にくらべると相当過激になっている。垂直落下式のブレーンバスターなんて、本当に思い切りしかけたら、そうとう危ないのではないかと思っていた。今回の件がきっかけになって、エスカレーションしてしまった現在のプロレスに、選手、ファンとも安全性を第一に考える意識が芽生えて欲しい。

ノアは今日も予定していた興行を敢行するという。ファンあってのプロレスだから、その決断は尊重したい。やる方も、観る方もつらいだろう。ファンの一人として、二度とこういう痛ましい事件が起きないことを祈る。これは、三沢さん、ノアだけの問題じゃなくて、プロレス・ひいては格闘技を愛するすべての人間が考えるべき問題であり、全員に責任があると思う。ご冥福をお祈りします。

総合格闘技は現在、倒れた相手への踏みつけや、ひじ打ちを禁止するなど、初期の頃にあった暴力性を排除し、よりスポーツライクな方向に向かっている。試合前のドクターチェックもあるし、レフリーもKO気味になったら、すぐに身を挺して試合をとめる。ある意味、ノックダウンが複数回許されているボクシングよりも安全なルールかもしれない。総合格闘技では、今のところ死亡事故も起きていないようだ。懸念されるのは、台頭する総合格闘技との差別化をはかるために、プロレスがより過激な方向に走ることでファンを取り戻そうとすることだ。危険すぎる技の応酬には、はっきりとNoを態度で示さなくてはいけないし、僕はこれからそうするつもりだ。

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5年後のカプセル怪獣

2009年06月13日 23時34分23秒 | Weblog
昨日何気なく去年の手帳を見ていたら、ちょうど1年前の今日、当時勤めていた翻訳会社の上司に退職の意向を伝えたことが記されていた。フリー翻訳者になりたいという決意はずいぶん前から持っていたものの、いざそれを実行に移すとなると、大きな勇気が必要だった。ずいぶんと緊張しながら上司宛のメールを送信したことを覚えている。それから3ヶ月半働いて、9月の末に退社した。

あれから1年。時間が止まっていたのではないかと思われるほどあっという間だった。あまりにも速いので、ひょっとしたら誰かに拉致されて、数ヶ月間どこかの冬眠カプセルに入れられて眠っていたのではないかといぶかってしまうほどだ。あれからいろんなことがありすぎて、まだ現実を上手く認識できていない部分もある。だけど、1年たったのだと思ったら、少しだけ過去を冷静に振り返れるような気もした。

ある本に書いてあったのだけど、人間は、1年でできることをあまりにも多く見積もり、たとえば5年でできることをあまりにも少なく見積もっている。元旦に、今年はあれをしよう、これもしようと計画を立てても、なかなか上手くは実現できないものである。あるいは、どれだけ頑張ったとしても、1年で成果を形にすることはなかなか難しい。だけど、3年、5年、10年のスパンで考えれば、きっとものすごく大きなことができる。それくらい先を見据えることによって、人生の核となるような何かに腰を据えて挑戦することができる。だけど人はなかなかそのことに気づけないのだ。

人生はあまりにも短い、1年も哀しくなるくらいあっという間だ。だけど、5年という時間は、10年という時間は、なぜだかそうとうに長いと感じる。5年先の自分の夢を描けば、まだまだたっぷり時間はあり、現時点の自分からは想像もつかないほど遠くへいけるかもしれないという期待を抱くことができる。その目標に向かって毎日を過ごすことが前提になるわけだけど。

この1年は、ブルース・リーのパンチのように速かった。速すぎて見えなかった。僕を取り囲む様々な環境は大きく変化したけど、僕自身がどれだけ成長できたのかは大きな疑問だ。だけど、5年先を見据えてこれから頑張っていけば、少しは人として成長できるかもしれない。そんな期待を込めて、あせらず、たゆまず、今を大切にしていこう。
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Need some help?

2009年06月12日 23時49分34秒 | 翻訳について
原文を読んでいると、日本語にうまく訳しにくい表現にたびたび遭遇する(そう感じるのは僕のスキルが足りないからでもあるわけなのだけど)。あまりにも頻出するので、逐一それを何らの言葉に置き換えてしまうと、「翻訳調」という名の香水の匂いが、訳文からプ~ンと漂ってきてしまう(「お前の場合は、香水じゃなくて異臭だろ」というツッコミが聞こえてくるようですが…)。

たとえば"help"は、マーケティング資料などにやたらと出てくる単語だ。こんな感じ。

...to help determine the xx for your environment,..

...can help simplify the assessment, implementation, design...

To help reduce xx while increasing...

helpと言えば、「助ける」がもっとも一般的だと思うけど、実務翻訳の場合は、「~に役立つ」、「~を促す、促進する」、「~を支援する」という風に訳すことが多い。数回ならこの処理で問題ない。だけど、下手をすると一つの文書で数十回も出てくるので、いちいち訳出しているとくどくなる。too much helpになってしまうのだ。

このような状況で有効なのは、「このhelpたちをどう訳せばいいのか」と悩む前に、「原文には、(あるいはそもそも英語には)なぜこんなにたくさんhelpが出てくるのか」ということについて思いを巡らせてみることである。

私見としては、一般論として「すべて訳出すると日本語としてくどくなる頻出表現は、そもそもそれに相当する日本語表現が存在しない」と考えることができると思う。双方の言語に等価な意味が包含されているにしても、片方の言語にはそれを表出するという意識が薄い、あるいは表出させなくても意味を表せる機能を持っていると思うのだ。

helpの場合はどうか。原文を読み、同じ意味のことを日本語で書くとしたら、こんなに「役立つ」とか、「支援する」とか、「促進する」とか、は使わないのではないかと考える。つまり日本語ではhelpを使わなくても、同じことを言い表せるのではないかと。

だから、ここで「訳さない」という選択肢が強く意識されることになる。逐語的にhelpに対応する語を使わず、訳文のなかにhelpを溶け込ませるのだ。

だが、この方法は諸刃の剣でもある。うまく溶け込ませることに成功しなければ、その語が包含していた意味まで「消して」しまうことになる。それに、実務翻訳の場合では、ある語に相当する言葉を訳文に入れないことは、少々勇気の要ることでもある。

だからhelpを訳語のなかに入れるべきかどうかの判断が、大きな問題になってくるわけなのだけど、こういう時によい判断材料になるのは、英→日の視点を、いったん日→英に切り替えてみることだ。自分が作った訳文を今度は逆に日英翻訳したときに、そこにhelpが復活するかどうかを考えてみるのだ。もしそこに自然な形でhelpが蘇ったのであるならば、英日においてhelpを訳出しなかったという判断はある意味正しかったと言える。つまりその場合には、helpは消されたのではなく、うまく訳文に溶け込んでいたわけだ。だからこそ日英翻訳でhelpの力を借りる、まさに翻訳におけるヘルプが必要になったというわけなのである。


英日翻訳「ねえ、help。申し訳ないけど、どうもここには君の居場所がないみたいなんだ。席を外してくれないかな」

help、しぶしぶ退席する。

日英翻訳「helpがいないと、いまいち盛り上がらないな~。よ~し、電話してここに来てもらう」

help、嬉しそうに戻ってくる。


と、そんなことを考えてしまったのは、たまたま観ていた格闘技の動画で、まさにそのhelpの「復活祭」の現場を目撃してしまったからなのである。

「五味隆典vs川尻達也」の試合前のインタビューで、両選手の日本語のしゃべりに英語の翻訳がナレーションで挿入されている。

五味選手が、

「『PRIDE武士道(格闘技のイベント)』を盛り上げたい」

みたいなことを言っているときの英語の訳が、

“I wanna help PRIDE Bushido become more populer.”

だった。つまり、五味選手が言っていないhelpが、英語では付け加えられているのだ。たしかに、日本語ではひとりの選手が「(自分が)イベントを盛り上げたい」と言うことはよくあるが、それはイベントを、彼一人が盛り上げるのか、それともその一助を担いたいのか、その当たりは曖昧である。明確に表現しなくても、聞いている人にニュアンスは伝わる。しかし、英語の感覚からすると、そこら辺を曖昧にやりすごすことはできない。やはりいくら五味選手がPRIDEを代表する人気選手であるにしても、彼一人でイベントをやっているわけではないし、PRIDE武士道に関わる多くの人たちがイベントを盛り上げようと頑張っているわけだから、そこにhelpを加えたくなったのではないかと思うのである。たとえ五味選手の「オレが武士道を盛り上げる」というニュアンスを表すにしても、である。

だから、“I wanna help PRIDE Bushido become more populer.”の訳としては、

「PRIDE武士道を盛り上げるのを手伝いたいんです」

じゃなくて、素直に

「PRIDE武士道を盛り上げたいんです」

の方がこの場合は訳として相応しいと考えられると思うのだ。




そういうわけで、原文の語を訳語として表すか表さないか迷うときには、翻訳方向を逆にして考えてみることが有効ではないかと思ったのでした。逆に言えば、英訳時にカットされる場合が多い語は、和訳のときに付け足してもよいものであるとも考えられます。

ちなみに、件の五味隆典vs川尻達也の動画はこれです。いい試合です。僕は、どちらの選手も大好きです。


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プロジェクト「私には過ぎた原作」

2009年06月11日 17時00分27秒 | Weblog
タイヘンだ。。。一読しても原文の意味がわからない。内容も専門的で馴染みのない分野だし、文章も限りなく法律文に近い。笑ってしまうくらいセンテンスが長い。係りがつかめないのだ。

―とはいえ、それもすべて自分の力不足が原因だ。英語力がない、専門知識がない、脂汗を流しながらでもなんとか理解してやろうという気合いも足りない。

ヘンに難しく捉える考える必要はない。腰を据えてじっくりと原文を読む。何度も読む。とりあえず訳してみて、突き合わせながら何度も確認する。

ルー語変換したみたいなおかしな訳文も、そうやって何度も見直していくうちに、なんとか日本語らしくなってくる。霧が晴れていくように原文の意味がわかりはじめる。

アっとおどろくくらい、最後にはまともな文章になっている。少なくとも自分で読む限りにおいては。まだまだブラッシュアップの余地は十分に残っているのだろうけど。

ナンてことを繰り返しながら、プロジェクトは終了。自分が受けれるギリギリの難易度の仕事だったと思うけど、すごく勉強になった。最初はなんだこれ?と思っていた文章や構文も、腑に落ちるようにわかる瞬間がいくつかあった。やればできるじゃないか!という心の声がする。全裸でハチマキしながら頑張った甲斐があった。

トレーニングを効果的に行うには、強めの負荷が必要だというけれど、翻訳の仕事も同じかもしれない。今回の仕事がまさにそうだった。しかし、原文が難しいから、仕事が難しくなるとも限らない。これまでは訳すことに特に疑問に感じていなかったような文章に対しても、ある日突然難しさを感じることがある。よい意味で捉えるとするならば、それは進歩の証なのかもしれない。と同時に、やはり自分は翻訳が下手なんだと思う。もっと高いレベルで難しさを感じられるようにしなければならない。

ミもフタも無いことを言ってしまえば、僕にとって簡単な仕事などない。すべての原文が難しく、誰もが知っているような単語が2語組み合わされただけで、すぐにどう訳せばいいのかがわからなくなってしまう。どうしてこんなに難しいんだろう? とため息をつきたくなることもあるけど、そこが翻訳の奥深さであり、面白さでもあるのだ。

アア、今回は「ターヘルアナトミア」みたいな仕事だった。大解剖の結果、ほんのちょっとだけこの仕事のしくみがわかったような気もした。今日も明日も頑張ろう。ちなみに天気が良くなってきてうれしい。今日は外出できなかったけど、明日はたっぷり日差しを浴びたい。それにしても、ここのところの雨・曇りの多さは、尋常じゃなかったな~。
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壊れかけの集中力

2009年06月10日 23時49分50秒 | Weblog
ありがたいことにここのところ非常に忙しく、いつも以上の集中力が必要だと感じています。冷蔵庫を持ち上げるくらいの、火事場のクソ力的なものがないとこの修羅場を乗り越えられない状態です。仕事をしながらネットで集中力を高めるための方法を探したりしています(←それが集中を妨げているってことはこの際、言いっこなしで)。ご参考までに、いくつか紹介しましょう。

・ハチマキを締める

体が弛緩していれば、やはり集中力も低下します。よくしくみはわかりませんが、頭蓋骨を引き締めることで、集中力はあがるようです。いざという時、よく利用しています。効果も実感できます。

・フンドシを締め直す

同じく、下半身が弛緩していれば、集中力は低下します。思い切りフンドシを締め直しましょう。普段フンドシをしていない人は、ロープとかガムテープとかを使って仮想フンドシを作ってみてください。あるいは、他人にフンドシを借りてみてください。いざというときは、自分以外の力を利用することも大切なのです。つまり、「他人のフンドシで相撲を取る」というわけです。なんだかよくわかりません。もちろん、ぼくはフンドシを締めたことはありません。

・耳栓をする

雑音が消えて集中しやすくなるようです。さわがしい環境で仕事をしている人には、効果があると思います。ぼくは耳栓は持っていないので、とりあえずティッシュで耳をふさぎました。

・冷たいシャワーを浴びる

これは真面目に効果があると思います。息抜き代わりに真水で体に刺激を与えてみましょう。ぼくはもともと真水シャワーが好きで、一年を通してほとんど水でしかシャワーをしません。

・全裸になる

これはなかば冗談交じりでネットでもいくつか紹介されていましたが、やってみる価値はあると思います。皮膚が直接空気に触れることで、感覚が研ぎ澄まされます。非日常というかサバイバルな気分も感じられて、臨戦態勢モードに入れます。なぜだかはわかりませんが、捨て身な覚悟が生まれてきます。

・ガムを噛む

脳の刺激にはとてもいいようです。眠気覚ましにも効果あり。

・こまめに作業記録を計る。
日頃からやっていることなのですが、1時間ごとに処理量を計ることで、現在の集中力の状態を知ることができるだけでなく、残り時間までの時間の使いかたを現実的に把握できるようになります。作業見積もりは得てして大きく外れてしまうものです。締切との闘いにおいてこれは強い味方になります。追い込まれたときこそ、目を背けたくなるような現実を直視することが大切です。残り時間で何ができるかを自問しながら作業を進めましょう。これはマジで集中力が上がります。


まだまだいろいろあると思いますが、とりあえずこんなところです。

というわけで、ここ数日は、全裸にハチマキ、耳にはティッシュ、なぜか靴下だけは穿いている(自分なりのフェティッシュなこだわり?)、ガムをかみ続けるという状態が続いています。時折真水シャワーを浴び、寝るというより、仮眠。客観的にみれば、壊れてますよね。廃人同然です。まあ、いいか。さあ、今日も頑張るぞ~!
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