イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

I'm nobody

2007年12月06日 23時49分05秒 | 翻訳について
人間にはマシーンの部分とアニマルの部分とアーティストの部分があるといったのは村上龍さんだが、翻訳をしているときに、よく同じようなことを考える。

原文のテクストのなかには、たとえば数字だとか、地名だとか、製品名だとか、ほとんど機械的な置き換えを求められる部分がある。そういうとき、訳者は無色透明な存在=Nobodyとなる。そこでは、何十年のベテランであっても、本日開店の新人であっても、そんなの関係ない。同じように、文字通りマシーンと化して目の前の情報を置き換える。

それでいて、マシーンのように簡単にできるか、というと実はそう簡単でもなく、集中力とか、調べものをする根気だとか、体力だとか、そういう翻訳筋力が求められる、とってもアスレチックな世界がそこにはある。小手先の技の通じない、恣意性の入り込む余地のない、厳然としたファクトの世界。

ファクトをファクトとして置き換えること。正しく調べれば誰でも同じ答えを導けるところ。マシーンとして、Nobodyとして訳す。実は翻訳をしていると、そういう球がたくさん飛んでくる。いやというほどに。テニスでいえば、延々と続くラリー。スマッシュを打たれたわけではないが、確実に来た球を打ち返さなくてはならない。気を抜いたらだめ。同じフォームで、何度も何度も同じ場所に球を打ち返す。

心のどこかでSomebodyなつもりの自分を抱えていても、こうした「マシーンな」場面では、繊細なアーティストとしての技を出すことはできない。直感に従った、大胆なアニマルになることもできない。

訳しているときは、一つのセンテンスの中ですら、マシーンになったり、アーティストになったり、アニマルになったりする。表現力を磨き、言葉を尽くして読む人に原文の意味を伝えようとすることが翻訳であると言えるが、けっしてマシーンの部分をおろそかにしてはいけない、と思うのだ。ファクトをファクトとしてマシーンのように安定して打ち返す力があるからこそ、ときおり繰り出す華麗な技もいっそう輝きを増すはずなのだ。

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昨日は前の会社の人たちとの飲み会に誘われ、楽しい夜をすごす。
帰宅が午前様になり、ブログをパスしてしまいました。面目ない。

『われ笑う、ゆえにわれあり』土屋賢二
『コーラ戦争に勝った!』R.エンリコ、J.コーンブルース著/常盤新平訳
『湾岸線に陽は昇る』ドリアン助川
『木に会う』高田宏
荻窪店で4冊