イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

ぼくらはみんな包丁人

2010年02月15日 22時37分09秒 | 翻訳について
料理人の世界では「包丁一本さらしに巻いて」店から店を渡り歩いて修行するというけれど(まあじっさい今時そんな人はいないとは思うが)、身ひとつで渡世を歩む自由業者の人は多かれ少なかれ、そんな感覚を持っているのではないだろうか。

料理人は一年間、同じ店で修行すると四季折々の食材・料理を経験することができ、一回り腕が上がるのだと聞いたことがある。二年目になると一年目の経験があるから、創意工夫もしやすくなるし、段取りも速くなる。一度経験したことは、何であれ次は上手くできるようになるものなのだ(慣れることで緊張感を失ったり、新鮮な目で物事を見られなくなったりするといったマイナス面もあるのかもしれないが)。三年目になると、それをさらに俯瞰できるようになる。ともかくそんなわけで、一年という区切りのときを迎えたとき、板さんA(角刈り、34才)は「あっしにはもうここでは学ぶことはございません」と胸のなかでつぶやき、次の店を求めて、岩場に打ち寄せられた日本海の荒波の、飛沫を身体に浴びながら、風に吹かれて去って行くのである。

翻訳の仕事をしていると、たまに「年間を通じて忙しいとき、暇なときって決まっているのですか?」というようなことを聞かれる。業界としてはいろいろあるのだろうけど、個人が請けている仕事は小さなものだから、あんまりそういう波を感じることはない。波があったとしてもそれはあくまで僕個人の仕事の受注量の増減なのであって、業界全体のそれではない。もちろん多少の影響は受けているには違いないのだが。

つまり、翻訳者は料理人とは違ってそれほど季節には左右されない。たとえばある会社の年次報告書の翻訳を毎年受注しているのであれば、それを個人的にささやかな「季節物」と呼んでもよいのかもしれない。その仕事のコードネームを、密かに「初鰹」にしてもよいのかもしれない。だが、少なくとも僕の場合はそういう毎年お決まりの仕事というのはほとんどない(そもそも、それだけのキャリアがない)。だから、残念ながら板さんのような季節情緒溢れる一年を、ダイナミックに、劇的にすごすというわけにはいかないのである。

とはいえ、最近妙に感じることがある。徐々にではあるが、まったく別の仕事のなかに、以前訳すのに苦労した語や表現、固有名詞が散見されるようになってきたのである。「ああこれは半年前にあの仕事で出てきたよなあ、あのときさっぱりわからなかったけど、やっぱり今もさっぱりわからんなあ」などとつぶやきながら、それでもやはり初めてのときよりは少しは段取りよく、その食材をさばいている自分がいるのである。そういうときは、なぜか「俺も料理人に例えるなら、二年目あたりの段階にさしかかったのではないだろうか」などとやたらと自分を料理人に重ね合わせてみたくなってしまうのである(実際の料理の腕前はまったく上がっていないってことはこの際、言いっこなしで)。

ただ、その進歩は本当にごくわずかである。1000の素材があるならば、何ヶ月かかけてそのうち3つについて調理法を覚える、しかもやや上達した、という程度であって、完全にマスターしたとは言い難い。それくらいの速度・程度でしか腕は上がっていない。ただ、実感として確かに腕が上がっていることはわかるし、逆にそういう地道は小技の積み重ねは一朝一夕ではできないものであると、妙に納得できるのだ。

ただ、進歩はこういう小さなテクニックとは別なところでも発生しているのだと思う。今月本を30冊読んだら、7ヶ月後にそれらが血肉になってなんらかの変化をもらたすのかもしれない。仕事の目標を具体的に強く意識するようになったら、3週間後には心境が微妙に変わっているのかもしれない。さらに言えば、単に年をとって様々な経験を積むことそれ自体が、やはりその人の仕事観にも大きな影響を与えるに違いない。そうしたすべてを、僕は把握することはできない。そしてその変化は毎日本当にごくわずかしか生じていないものだと思うから、自覚するのも難しいのだけど、日々、仕事で直面するひとつの単語や表現のなかに、ささやかな自分の進歩の証を見ることがあるのだ。

だが、その進歩があるのは、毎日一生懸命働くこと、生きることが前提になる。常に薪を割って竈にくべていかなければ、僕という人間の炎はすぐに弱々しいものになってしまう。冷たい雨が降れば、すぐに消え去ってしまう。庖丁人だって、修行をさぼって厨房に立つのをやめたら、すぐに腕は錆びついてしまうだろう。自転車操業、あるいは一輪車操業のように毎日綱渡り的に仕事をこなしているだけの日々が続いてはいるが、我を顧みる時間はあまりなくても、この小さな地殻変動の息吹を、わずかながらも感じることはできる。小さな職人としての成長と同時に、職業人としての大きな変化の胎動をも感じる。その大地の裂け目からわきあがるエネルギーを、いつか、うまく解き放つことができればよいのだけれど。

ちなみに翻訳者にとっての包丁に相当するものとは、やっぱり今時だったら「ノートPC」あたりになるのかなあ? クラウドの時代であると考えれば「ブラウザ」かな?


ノート1台、さらしに巻いて――バッテリーもお忘れなく

===告知===

そぞろ歩きの会6「湯島・本郷編」2/20に開催します。寒い日が続きますが、みんなで歩けば怖くない(^^) 今回は、散策の後、韓国語翻訳者Iさんに解説していただきながらの韓国料理ランチを予定しております。たっぷり歩いて話した後は、美味しい料理を楽しみながら、マッコリで泥酔、じゃなくて乾杯しましょう! みなさまよろしければご参加くださいませ。そぞろ歩きの会のブログに告知を掲載しております。

試合の日、あるいはアリとキリギリス

2010年01月06日 21時42分59秒 | 翻訳について
翻訳者になってみて、上手く言葉に表せないながらも、漠然と「何かが足りないなあ」と思うことがあったのだけど、それが何であるかに気づいた。

それは「試合」の感覚だ。あるいは「本番」の感覚と言うべきものかもしれない。

プロスポーツの選手だったら、今日は練習、明日は試合、明後日はオフ、明明後日は練習...という風に明確に「今日のテーマ」が決められている。野球だったら年間140試合とか、Jリーグだったら34試合とか、一年のなかで明確にハレの日とケの日が区別されている。

試合の日の、あの緊張感。試合開始の合図がなされた瞬間の、あの脳内からアドレナリンが一気に分泌される感覚、いつもとは時間の流れ方が違う非日常の世界、これまでやってきてすべてが、今の自分の力のすべてが白日のもとにさらされる審判の日、試合終了の笛がなった瞬間の解放感と脱力感、勝利の喜びと敗戦の悔しさ。

翻訳という仕事には、この試合の感覚を見いだすのが難しい。
翻訳者には、立つべき舞台もスタジアムもない。土俵もないしリングもない。

もちろん僕にもオンの日とオフの日がある。だが基本的には毎日仕事をしているようなものなので、あんまりメリハリというものがない。オフといっても、一日がかりの予定が入っている日か、やろうとおもっていたのに結果的にほとんど仕事ができなかった日のどちらかだ(前者はめったにないが、後者はけっこうあったりして)。

だが、けっして僕はもっとオフが欲しいわけではない。時間があったら翻訳に関わること――たとえば読書とか、本屋巡りとか、洋画を見るとか――をしていたい(翻訳作業そのものはしたくない場合は多いが)のだ。

つまり問題は、このように延々と続く翻訳モードの時間のなかでのメリハリがあまりないことなのだ。

翻訳者にとって「試合」とは何だろう? 「本番」とは何だろう?

納品するとき? 仕事の成果が形になるとき? 翻訳料が振り込まれたとき?それとも、やっぱり翻訳しているすべての時間が本番?

このあたりは人それぞれだとは思うが、僕の場合、仕事をしているすべての時間を「試合」と呼ぶにはそれはあまりにも長丁場すぎる。延長18回再試合を毎日やっているような感じで、とても疲れる。一年に300試合以上もあるような超多忙なプロレスラー並の試合数になってしまうから、とてもじゃないけど「さあ今日は試合だ。ついに来たこの日!」という感覚は持てない。せっぱつまってものすごい集中力で仕事をしているとき(それを「追い込み」と同業者は言うが、僕の場合は常に「追い込まれ」あるいは「追い詰められ」なのであった)は、確かに試合の感覚に近い。だが、それは何というか、相撲で言えばもろざしされて土俵際まで追い詰められてなんとかもちこたえている状態、サッカーで言えばロスタイムあと3分しかないのに2点差で負けていてチームは(ちょっと感覚の古い監督の指示に従って)強引に長身フォワードに向けてロングボールでパワープレーを展開中だけどこういうときに限って焦ったボランチのところでボールを奪われて逆襲されて「もう何やっとんねん」と思いながら自陣めがけて相手の俊足フォワードを追いかけていく実は鈍足ディフェンダーといった感じで(長い)、なんというかあまり晴れ晴れとした気持ちではなく、スポーツの試合前に感じるあの独特の静けさの入り交じった緊張感、身が清められるような気持ちが感じられないのである。

翻訳を担当させていただいた本が出版される日も、お金が振り込まれる日も、ハレの日であるし、とてもとても嬉しいのだけど、「試合」をしているというのとはちょっと違う。野球の選手だって、試合中にゴールデングローブ賞をもらったり、お金が振り込まれたりはしない。それは試合の結果のご褒美としてもらえるものなのだ。

と、そんなことを漠然と考えていたのだが、そんな僕のようなキリギリス翻訳者にも、きちんと意識すれば「試合の日」を作れるということを、つい最近、実感として味わえた。

翻訳者の僕にも、試合日は作れる。「アリになる日」つまり、一日翻訳だけに集中する日を作り、それを自分にとっての試合の日と位置付けるのだ。試合日は、こうやって設定できる。

まず、納期に追われてせっぱ詰まっていてはいけない。つまり、納品日当日または直前の日はできるだけ避ける。ある程度の余裕があるスケジュールながらも、やるべきボリュームはたくさん残っており、できるだけ仕事を進めたい、という状況が望ましい。逆にあまりにも分量が少ないと、なんとなく気合いも入りにくい。

その日は、「今日は試合だ」と思い込む。目標は、どれだけ多くの時間、集中して仕事に取り組めるか、どれだけ作業を進められるか、だ。

前の日は早く寝る(「明日は試合だ」と意識して、頑張る自分をイメージし、胸の高鳴りを押さえながら床につくのがポイントである)。

朝起きたら手短にお茶を入れたりシャワーを浴びたりと朝の準備をして、「さあ、試合開始だ」と気合いを入れてコンピューターに向かう(このとき、甲子園で高校野球の試合をするときに鳴るサイレン音を使うと効果的である)。

できれば朝5時、遅くとも7時くらいまでには開始したい。

午前中に一回休憩をとり、お昼休みをとり、夕方になって力尽きるまで作業を続ける。その間、1時間毎に成果を計る(ワード数)。こんなに進んだ! これしかできんかった! などなど、過去1時間の自分、これから1時間の自分との闘いだ(この感覚がとてもスポーツの試合のそれに近い)。

朝早いので、夕方6時とか7時くらいになると、もうエネルギーが尽きる。ようやった! と自分で十分納得したところで試合終了だ(このとき、朝と同じように甲子園で高校野球の試合をするときに鳴るサイレン音を使うとさらに効果的である)。それでも12時間前後は集中して作業したことになる。そうすると、普段のYoutube動物動画をみながら仕事をしているのか、仕事をしながら動物動画をみているのかわからないような自分とは比較にならないほどの作業量がこなせている。

今日は××ワードできた。今度の試合では××ワードを目指そう。そういう風にモチベーションも高まる。

だが、これを毎日続けていてはいけない。仕事は毎日やらなくてはならないが、毎日「試合の日」にするととてもつらい。Jリーグ並に週2試合くらいがちょうどいいのかも知れない。残りの日は、試合の日ほど集中したり長時間作業したりはせずに、仕事を続けるのである。ちょっと頑張る日は「紅白戦」あまり頑張らない日は「練習」だと位置付けたりしてもいいかもしれない。

ともかく、この「試合の感覚」というのはなかなかいいものなので、同業者のみなさんもよかったらお試しあれ。この仕事をしている人たちは、基本的に「好きだから」やっているという方が多いと思う。だからなおさら、一歩間違えば単なる仕事漬けの、この「自分ベンチマーキング」がおすすめなのである。

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年末から「試合日」をいくつか入れながら作業していた案件がようやく終わり、今更ながら正月がやってきたという感覚です。アリさんの日々が終わり、つかのまのキリギリス状態です。まだまだ仕事はたくさん残っていますが、あらためまして、みなさま明けましておめでとうございます。年賀状は、もうすぐ投函いたします。すみません m(__)m

※告知

翻訳者そぞろ歩きの会、2010年も引き続き開催させていただきます。年明け第1回目は1/16(土)に築地、月島を散策することにいたしました。まずは「東京の台所」築地界隈をそぞろ歩いた後、月島に移動し西仲通商店街を中心にぶらぶらして、最後はお約束ということでもんじゃの昼食をとりたいと思います。移動範囲もそれほど大きくないので、どちらに行くかは誰かの思いつきで決める(これぞまさにそぞろ歩き)で散策の醍醐味を楽しめるのではないかと期待しております。寒い季節ですが、みんなで歩けば身も心も温かくなります! 歩くことで新年の明るい希望もきっと見えてきます(^^)
みなさまぜひぜひご参加くださいませ。

そぞろ歩きの会のブログに詳細を記載しております。ご参照ください。




つかのまオンサイト翻訳者の気持ち

2009年12月12日 23時08分17秒 | 翻訳について


以前務めていた翻訳会社にオンサイト勤務をさせていただいて1週間が経ちました。その感想です。あくまで僕個人とってのものですが、何かのご参考になれば幸いです。

メリット

・規則正しい生活ができる
フリーランスでもできるんですけどね(^^)
会社員時代は、毎日の出勤が辛く感じたこともありますが、毎日行くところがあるというのはいいものですね。2ヶ月限定の会社員だからこそ感じられることでしょうか。朝起きる時間が決まっていると、前日の夜の過ごし方も変わってきます。

・作業に集中できる
会社はすごく静かで、みんなものすごく集中して作業をしています。緊張感があり、さすがの私もYoutubeで動物格闘動画を見ようという気にはなれません(見たらクビになるでしょう)。しかしこれも在宅でもできることなんですけどね。

・人とのふれあいがある
「ふれあい」と書くとなんだかおおげさですが、あまり会話はないとはいえ、側に人がいるというのはいいものです。僕の場合、それがかつての同僚の方々なので、よけいに心が落ち着きます。仕事の合間にちょっとだけ交わす会話が心地よい。まったく見ず知らずの会社だったら、緊張してしまったりもするかもしれません。僕は恵まれていますね。感謝です。

・現場の情報に触れられる
業界の動向や現場の雰囲気などなど、自宅にいると感じられない様々な情報が得られます。フリーでいると、翻訳会社の人々がなんだかとても不気味(失礼)に感じられたりするものですが、内部に入るとそこでは普通の人々が真面目に働いているのだという当たり前のことがよくわかります。むしろ不気味に思われているのはフリー翻訳者の方なのかもしれません(^^)。たとえば僕の場合、なかなか仕事を断るのが苦手で、ちょっと無理してでも受けたりしてしまうのですが、コーディネーターの方の電話を何気なく聴いていると、あっさり断る翻訳者も多く、そんなものかと思ったりもします。たしかに僕も翻訳会社時代はよく断られていました。

・安定収入がある
毎日確実に収入があるということはありがたいものです。プラスして在宅の仕事も継続して受けているので忙しくはありますが、やはり安心感があります。フリーだとどうしても仕事が途切れる期間が発生するので、久々の定期収入の重みを実感しています。

デメリット
・他社の仕事が受けにくい
日中は連絡も取りにくくなりますし、昼間は他の作業ができないので、他社からの仕事は入れにくくなります。ただしこれは一時的なことなので、オンサイトが終わった後にまた仕事をいただけるのであれば特に大きな問題ではないかと。ちなみに、しばらく留守にした間に忘れ去れる(他の人にポジションを奪われる)のか、よくぞ戻ってきたと思われるかはその人の日頃の仕事ぶりによって変わることだと思います。僕も翻訳会社時代に経験がありますが、いい翻訳者が他社の仕事から解放されて空いたと知らされたときは「やった!」と思ったものです。そう思われるように精進しなければ。

・自分の時間が少なくなる
同じ仕事をしていても、フリーの場合はすべてを自分でコントロールできる。会社にいるとやはりコントロールされている、という感覚です。仕事の合間に勉強やエクササイズなど自分への投資の時間を作ることが難しく、また朝出勤して夜帰宅になると、どうしても一日のほとんどの時間がそれに取られてしまいます。サラリーマンだったときのちょっと窮屈な感覚が蘇りました。ただ、現場では会社員時代と違い自分の専門である翻訳作業をやらせていただいているのであるし、朝や夜の時間も工夫次第で充実したものにできるはずです。それに、これが一生続くとなるとまたストレスになるのでしょうが(上記のメリットはあるとはいえ)、短期間であると考えるとそれほど気にはなりません。むしろ、日頃ありあまる時間をいかに無駄に過ごしていたかを反省するよい機会になるような気がします。

メリットとデメリット、ほかにもいろいろあるような気がしますが、とりあえずは以上


一人暮らしを始めてしばらくしてから実家に戻ると、家にいるときには気づかなかった実家のよさをあらためて感じるといいます。今僕が感じているのも、それと似たものなのかもしれません。

なんだか「お前は会社員に戻りたいのか」と思われるかもしれませんが、あくまで僕がしたい仕事は翻訳なのであり、その最大の優先事項を譲ってまでフリーランスを止めようとは思いません(そもそもどこかの会社が僕を雇ってくれるかどうかはわかりませんし、また会社員に戻ったとしても、結局はまた翻訳だけがやりたくて辞めたくなるに違いありません)。ただ、あらためて実感したのは、現状の在宅での一人仕事がベストのスタイルだとも感じてもいないということです。週のうち5日とはいわなくても、数日は近くに人がいる場所でなんらかの刺激を受けながら集中して作業をしてみたい。そんなことをあらためて思いました。あくまでも今の気持ちではあるのですが、それを今後の目標として、自分が一番やりやすい仕事のスタイルを考えていきたいと思います。

ひとことで言えば、家では気が散ったり煮詰まったりしてしまうので、図書館で勉強する受験生の感覚でしょうか。翻訳者になる前から、将来フリーランスになるのが不安で、「毎日会社にいって好きな本を訳す仕事だけができたらなあ」、と夢想していたことを思い出しました。

SOHO向けレンタルオフィススペース、喫茶店、図書館などなど、そういった条件をかなえる場所はいろいろとあると思います。来年は外に出ることをもう少し意識して精神衛生と作業効率を向上させていきたいものです。

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そぞろ歩きの会4、12月19日(土)合羽橋編の開催が近づいてまいりました。
みなさまこの機会にお誘いあわせのうえぜひご参加くださいませ。

そぞろ歩きの会のブログに詳細を記載しております。参加をご希望の方はこちらをご覧ください。








Excelでブック検索

2009年11月27日 23時31分07秒 | 翻訳について
翻訳会社からExcelで用語集を支給されることがありますが、クライアント企業が作成する用語集のフォーマットは、作成者の趣向や様々な都合などによってかなり複雑な構成になっていたりします。またシートが複数に別れていることが多く、翻訳者が作業中に用語の確認をしようと思っても手間取ることが多くあります。

うっかり者の僕にも数多くの失敗談がありますが、シートがいくつもに別れていて、画面上にそのシートのタブが見えなかったりして、作業も最後の方になってようやくそのシートの存在に気づき、慌てて用語の統一をしなければならなくなったりした経験などがある方もいらっしゃるのではないでしょうか。

ご存じの方も多いとは思いますが、こういうときに便利なのが、Excelの「ブック検索機能」です。使い方は非常にシンプルです。以下に手順を示します。

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Excelでブック全体を対象にして検索するには

1. Ctrl+Fキーを押下します(または「ホーム」→「編集」メニューから「検索」を選択 ※Office 2007の場合)。

2. 「検察と痴漢」じゃなくて「検索と置換」ダイアログボックスが表示されます。

3.「オプション」をクリックします。

4.「検索場所」プルダウンメニューで、「ブック」を選択します。

検索対象が、シートからブック全体(すべてのシート)になります。

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これで、どれだけ巨大なExcelシートが来ても、1アクションで検索を実行できます。

つい先日いただいたチェック案件で、用語集への準拠を中心に見てください、と依頼されたのですが、同じExcelの用語集を渡されていたという翻訳者の方が、ほとんどの用語をExcelから拾えていなかったので、ひょっとしたらこの方はExcelの操作でつまづいてしまったのか(もしくは、単に用語集には対象の翻訳ファイルと関連性がないと始めに思い込んでしまったのか)、と思って気になってしまったのです。

こういう「知っているか知らないか」という小技で大きな損をするのはもったいない。もし知らなかった人がいたらぜひ今後は試してみてください。

ちなみに、これも多くの方がご存じかとは思いますが、Word上で英単語をダブルクリックすると語単位で選択状態になります。そのままCtrl+Cでコピーして、Alt+Tabで開いていたExcelの用語集に切り替え、Ctrl+Fで検索ダイアログを開いてペーストすれば、かなり速く検索作業ができると思います。

と、こんな風に偉そうに書いている僕ですが、一昨日またまた完徹してしまいまして、昨日は一日フラフラしていました。小技よりも大技の部分に問題がありそうです。

ではではみなさまよい週末を


U氏伝説の政見放送「完全版」(※この動画は本文の内容とは関係ありません)。



「翻訳者A」としてのトライアル

2009年10月27日 21時44分39秒 | 翻訳について
実務翻訳の世界で「トライアル」と言えば、フリーランスの翻訳者が翻訳会社に登録してもらうための登竜門のことを想起するが、実は登録をした後にもトライアルは存在する。依頼元の企業が翻訳会社に仕事を発注するときに、まず少しだけお試しで翻訳をしてもらって、その結果をみてその案件を発注するかどうかを決める場合があるのだ。

初めてその翻訳会社を利用する企業にとっては、大きな案件をいきなり依頼するのはリスクもあるから、これは妥当な判断だと言える。依頼元の企業が大手である場合、いきおい翻訳会社にとっても、ちょっと大げさにいえば社運を賭けた勝負になることもある。当然、エース級の翻訳者にその翻訳を依頼することになるし、翻訳会社内でのチェックもいつもより入念に行う。普段着のヨレヨレのスーツではなく、勝負服の一張羅を着て出かける気分だ。精一杯みつくろって納品する。

翻訳会社は、日常的に取引のある企業からもトライアルを依頼されることがある。その案件がとても重要だったり、前回の仕事の品質に不満があって疑心暗鬼になられていたり、他社と合い見積りを取っていたり、担当者がそれまでのファジーな性格の人から堅実な性格の人に変わったりした場合などだ。そういうとき、翻訳者のところにもごくわずかな分量の依頼がくる。メールにはたとえば「これはトライアル案件です。発注になった場合は2万ワードの案件です」と書いてある。

こうなると翻訳者もいきおい気合いが入る。トライアルに受かれば大きな案件の受注につながるし、翻訳会社からも感謝される。逆にアウトになってしまえば、実力に大きな疑問符をつけられてしまいそうな気がして怖い。当然、その案件の発注も来ない。下手をしたら翻訳会社から合否の結果も来ず、また普通に別の案件が始まったりして、なんとなく気まずく、ただ心に冷たい風が吹く、という場合もある。

依頼されるのは仕上がりで原稿用紙1枚か2枚くらいの、かなりの少量である。だが、だからといって簡単になのかというと、当然ながらそうは問屋がおろさいのであって、少なくとも僕の場合はトンでもなく時間がかかる。たった200ワードが、このうえなく難しく感じる。普段は一日にこの何倍の量も訳しているはずなのに、その普段の力がうまく出せない。ペナントレースと日本シリーズの違いみたいなものかもしれない。たった数試合で勝負が決まるかと思うと、いつもは感じないプレッシャーを感じてしまい、コントロールがなかなか定まらないのだ。

だが、テストとはすべてそういうものだ。重要な決定が、ごくわずかなサンプリングの結果によって下されてしまう。テストですべてを正確に判断することはできないけど、だいたいの力はわかるものなのだ。それに翻訳に関していえば、下手をしたら最初の一行を読んだ時点でその人の実力の程がわかってしまうように感じることもあるから、かなり本質的なところで実力を判断されているケースも多いのかもしれない。

ここのところ、結構立て続けにこのようなトライアル案件を依頼された。僕としては、トライアル案件に指名してくれたことは、翻訳会社が実力を評価してくださっているのかな、と思って嬉しくもあるし、前述したようにもしダメだったら自分の評価が下がるだけではなく翻訳会社にも迷惑をかけてしまうことになるから、普段以上に緊張感が増すし、仕事欲もメラメラと燃えるのである。それに、依頼元にとってもトライアルによって、本案件の質をある程度確保できることにつながるわけだから、自分が翻訳者であることを抜きに考えても、これはいいシステムではないかと思う。手間暇がかかるから、納期に余裕がある場合にしかできないことではあるのだけど。何より、一翻訳者として、自分の力をあらためて客観的に見る機会を与えられるということは、貴重なことである。遅々として進まない作業のなかで「これが自分の本当の実力か」と思う。結果を知り、OKならすごく嬉しいし、NGならめちゃくちゃ悔しく気分が萎える。どちらにしても、明日の糧になる。

現状の一般的な業界のシステムでは、依頼元の企業からは、翻訳会社の担当者の顔は見えても翻訳者の顔は見えない。トライアルをやっても翻訳者の名前まで出す場合はほとんどないけど、少なくとも「例のトライアルをやってくれた翻訳者Aさん」として、依頼元の人にも認識してもらえているのだとしたら嬉しいし、なおさら頑張ろうという気にもなるのである。







専門書の効用

2009年07月27日 23時40分58秒 | 翻訳について
翻訳関連のものの本によく書いてあることではあるのだけど、翻訳対象の文書のテーマを扱った専門書を読むことで、仕事がものすごくはかどることを実感している。あまりにも小さな案件だと本を購入している暇もないし収支的にもわりに合わないことになってしまうから、毎回というわけにはいかないが、たとえば1万ワードを超える大きめの案件で、内容がかなり専門的な場合は、できるだけ専門書を買うことにしたい――と、ここ数ヶ月の経験から強く思うようになった。

専門書は決して安くはない。それでも買う価値は十分にある。もちろん、本の内容が訳している原稿のテーマとうまく重なっていなければせっかく大枚をはたいてもスカしてしまうことになるわけだけど、これまでの数少ない僕の経験からいうと、何がテーマであれニッチな分野の専門書というのは決定版と思わしきものが1,2冊あるものだ。Amazon等でちょっとリサーチすれば、すぐにこれだ、という1冊が目につくし、内容的にもまず外すことはない。テーマが絞り込まれているから専門書の数も少なく、その道の第一人者が書いた1冊があれば当面の間は需要も満たされるということなのだと思う。もちろんインターネットでも調べ物はする。だけど、テーマにもよるがネットで収集できる情報には限界がある。かなり専門的なテーマの場合、専門書ほど深く細かくまとまった情報は、ネットでは見つけられないことが多い。

たとえばISOには様々な規格があり、そのうちの1つについて書かれた本はごくわずかしかない。だかそれはその規格についての文書を翻訳している者にとっては、宝の山のような情報が詰まっている。当該規格を全体的に理解できるのはもちろん、専門用語についても定訳を見つけられることが多い。翻訳対象の文書は、文書の性質やボリュームの制約などによって、専門書ほど細かい情報は記載されていないのが一般的だ。だから概念や用語についての記述も簡潔なものが多いし、文書自体がある程度の基礎知識を持った人が対象読者であることを前提に書かれていることもあるので、その文書だけを読んでいては理解できないことが多いのだ。もちろん翻訳者には専門の領域があり、その領域の知識を常日頃から高める努力は不可欠である。だけど、実際にいただく仕事は分野は同じでもまさに千差万別。そのすべての専門知識を持つことは不可能なのだ。

原文を読んでも意味がよくつかめなかった部分も、「?」で頭をいっぱいにして専門書をひもとくと、一気にいろんな謎が解けて理解が深まっていく。これはかなりの快感だ。出口の見えないトンネルの彼方に一筋の光明を見いだしたような安堵感もある。世の中にはいろんなことを専門にしている人がいるものだ、と世界の広さを実感できたりもする。そして、いかに自分がものを知らないかということも。そもそも、この仕事をしていなければ絶対に手に取らないであろうと思われる書物と出会えることは、喜ばしいことだ。専門分野との出会いは一期一会の精神で大切にするべきなのだ。

用語にしても、単に定訳が見つかって嬉しい、というだけではなくて、その業界や分野の文化によって、外来語がいかに手慣れた業界用語に落とし込まれているかということがわかって面白い。ただ外国語を母語に変換するのではなく、無駄な要素をカットしたり、補ったり、大胆かついい意味で「都合良く」日本の文化に馴染む言葉に置き換えられたりしている。そのダイナミックなプロセスを体験できるのが興味深いのである(逆にこんなに生硬な訳語でいいのか? というパターンもあるけど)。ともかく、翻訳者としてはとても勉強になる。逆に言えば、こうした定訳は知っているかいないかの問題であって、自分の力だけではどうしようもないものなのであり、そしてそれを外してしまえば、読者であり専門家である依頼元の信頼を一気に失ってしまうことになってしまう。だからこそ専門書でそれらを補えるのであればそうするべきなのだ。たとえそれが付け焼き刃であっても、刃があるのとないのとでは大違いといわけだ。

10万円の案件で、専門書の価格が5千円だったとする。売上の5%の出費はたしかに大きい。だけど、1冊の専門書によっって、生産性とクオリティーを5%以上、上げることは十分に可能だと思う。10日かかる仕事を7日で終わらせることができるかもしれない。訳文の質も高まるし、依頼者に「そこそこわかってるな」と思ってもらえる可能性も高まる。たっぷり元は取れるのではないだろうか。プラス、1冊の専門書を読み、数日間そのテーマと関わり続けることによって、自分の専門性もわずかだが広がる。今後、同じテーマで仕事がくる可能性だってある(いい仕事をすればリピートしてもらえる可能性だって高まる)。そのときに、その知識は決して無駄にならないのである。

端くれ翻訳者も棒に当たる

2009年07月08日 17時31分02秒 | 翻訳について
某翻訳会社の方からメールをいただきました。

某全国紙の某日の某広告記事は某翻訳をベースにしたものなのですが、その某翻訳を担当させていただいたのは某翻訳者、つまり何を隠そうこの某私でして、その某記事が掲載されたことをお知らせいただいたのです。某記事をPDFにして添付してくださいました。この方にはいつも非常に丁寧なご対応をしていただいています。深く、深く感謝です。ちなみにその某新聞は私も購読しているにも関わらず、某記事には気付いていませんでした。ああ情けなや。

私がその案件を担当させていただいたのは単なる偶然に違いありませんし、訳文もいろいろと修正、割愛されていました。しかし、全国紙の朝刊に自分の訳文が掲載されているのはやはり嬉しいものがありました。おそらく今まで自分が訳したもののなかで、一番たくさんの人の目に触れる機会があった文章ではないでしょうか?いつも私がそうしているように、その日の朝、日本全国でいったい何人の男子がトイレのなかで朝刊を広げ、その某記事を読んだのでしょう? そして何人が、あまりの文章の不味さに、思わずその紙面を引きちぎり、トイレットペーパーの代わりに使用したのでしょう?(なんて)

その一方、翻訳者が誰も読まない訳文を訳している場合もあることを如実に物語る、このような記事もあります。なんとも切ない話ですね。。。

実際、翻訳者は仕事を依頼される立場なので、読む人が誰もいない文章であろうが、数百万人の目に触れる可能性のある文章であろうが、来た仕事に全力で取り組むしかないわけですし、読む人の数によって加減をしたいとも思う人も少ないと思うのです。翻訳者にとって読み手は常に手の届かないところにいる、不特定多数の存在であるのです。いわばそのバーチャルな「唯一」の読者に向かって翻訳をする。それがこの仕事の地平線なのかもしれませんし、魅力なのだと思います。









部長、お言葉ですが、それはいかがなものかと.......

2009年06月18日 23時01分48秒 | 翻訳について
アメリカ英語のビジネス文書には、頻繁に"Vice President(VP)"という肩書きが出てくるのですが、これがなかなか訳すのが難しいのです。

"vice"には「代わりの」「代理の」という意味があり、"president"は「長」、「社長」という意味があるので、よく「副社長」と訳されているのを見かけますが、ビジネスの世界では「部門の長」すなわち「部長」と訳すのが一番適切なようです。

なぜVPが部長になるのでしょうか? 僕が思うに、すごくシンプルに考えると、会社とは「部門の集まり」です。部門にはそれぞれの長がいて、そしてその上に会社全体を代表する人、すなわち社長がいる。だから、部長は社長の次にエライ人になるので、Vice Predident = 部長になるわけです。

ちょっと例えが違うかも知れませんが、ある人がボーリング大会で「準優勝」したとします。すごいな~と思うかもしれませんが、ひょっとしたらその大会にはたった3人しか参加していなかったのかもしれません。その場合は、その人は3人のなかで2位だったわけですから、間違いなく準優勝したことになりますが、同時に下からみたら「ブービー賞」でもあるわけです。だけど、対外的には、準優勝のほうが聞こえがいい。いわゆる、「ものは言いよう」です。なので、VPにもこのような肩書きを大きく見せるような心理が若干ながら働いているのではないかと思うのです。この仮説を、「ブイピー(VP)のブービー理論」を呼ぶことにします(なんて)。

あるいは、会社組織がとてもシンプルだった牧歌的な「会社黎明期」(そんな時代が本当にあったのかどうかは知りませんが)、Presidentくらいしか役職名なるものが必要ない場合もあったのかもしれません。サッカーのチームにも、1人のキャプテンと1~2名の副キャプテン、そしてその他大勢のメンバーしかいないように。Presidentが全体を仕切り、それに準じる能力や権限をもった人たちは、Vice Presidentと呼ばれる。あとは単なるメンバー。そういう時代の名残で、「2番手の人をVPと呼ぶ」という文化が根付いているのかもしれないと(まったくの憶測にすぎません)。でもそういえば、実際、以前僕が関わったことのあるアメリカの小さな企業では、VPが部門において大きな権限を持っていました。会社全体のことについて意志決定を下すときにのみ、Presidntが彼の前に現れるというような感じでした。そのときは、なるほど、VPという肩書きは伊達ではないのだなと腑に落ちました。

でも、だからといってこれを「部長」と訳せばいいのか、というと実は個人的にはちょっと抵抗があります。日本の企業の役職と、海外の企業の役職は等価なものではありません。
無理に日本の役職を当てはめてしまうと、そこにはかならず齟齬が生まれてきます。
Vice Presidentを「副社長」にするのは、ある意味誤訳に近いことになる場合もあると思いますが、それでも「社長の次にエライ」というニュアンスは生きています。"Vice President"には、シャンパンを飲みながら高級フランス料理を食べているようなイメージがあります。しかし、それを「部長」にしたとたん、VPという言葉の華やかさは消え、なんとなくスケールダウンした印象が否めません。「居酒屋で焼き鳥をつまみに焼酎を飲んでいるちょっと強面で小太りの部長(九州男児)」の姿が浮かんできます。なんというか、「部長」にはものすごい「和臭」が染みついているのです。アメリカ人には、「部長」「課長」「係長」という言葉はなぜか似合いません。そもそも、「社長」という言葉すら微妙に似合いません。なので、VPを部長と訳すのは、アメリカのアマチュアレスリングのチャンピオンのことを、「横綱」と訳してしまったような居心地の悪さがあります。実際、VPは、日本でいうところの「副社長ほど偉くはないけど、部長よりは大きな権限を持っている」と位置づけることができるようです。帯に短し襷に長しですね。

なので、僕は「VP」や「バイスプレジデント」など、そのままの言葉で訳すのがいいのではないかと思うのですが、そうすると、「VPってなんだ?」と読んでいる人に思われてしまうようで、それはそれで手抜きをしたような気になってなんとなく釈然としません。できれば、「日本の部長に相当する」とかそういう注釈的な情報も盛り込めればよいのですが、常にそれができるわけでもありませんし、そこまでやるくらいなら最初から部長にしとけよという心の声も聞こえてきます。「カタカナに逃げた」と思われるのも嫌だけど、強引に日本文化の影響が色濃い言葉にも訳したくもない。難しいところですね。このジレンマを、「部長、島耕作」ならどうやって切り抜けるのでしょうか(なんて)。

ともかく、企業が新製品やサービスをアピールしたりする場合、頻繁にVPが登場します。社長は企業全体についてのコメントはできますが、ある製品やサービスについてのコメントを一番発言しやすいのはVPになるからでしょう。会社を代表して新製品を説明するときに、たとえば係長が出てきたりすることはあんまりないですからね。ちなみに、VPを「副部長」に訳している例も見かけますが、これは多くの場合、誤りなのではないでしょうか。VPの後には「~部門の」的な情報が出てくるので、それに引きずられてしまったのだと思います。

そんなわけで、Vice Presidentという言葉には、翻訳のエッセンスが詰まっているのではないかと思ったのでした。


最近仕事に追われて昨日も初志貫徹ならぬ「ちょっち完徹」をしてしまいました。いろいろと予定も狂ってしまいました。忙しいのは非常にありがたいことですが、仕事に追われているようではいけません。自分も仕事もうまくコントロールしなければ、よい仕事はできないと痛感しました。

明日からは天気もよくなるようです。ずっと雨ばかりだったので、本当に楽しみです。しかし、ここのところ、冴えない天気があり得ないくらい続いていましたよね。気にし出すとストレスがたまりそうなのであまり考えないようには心がけているのですが、毎年、6月ってこんなでしたっけ???


Need some help?

2009年06月12日 23時49分34秒 | 翻訳について
原文を読んでいると、日本語にうまく訳しにくい表現にたびたび遭遇する(そう感じるのは僕のスキルが足りないからでもあるわけなのだけど)。あまりにも頻出するので、逐一それを何らの言葉に置き換えてしまうと、「翻訳調」という名の香水の匂いが、訳文からプ~ンと漂ってきてしまう(「お前の場合は、香水じゃなくて異臭だろ」というツッコミが聞こえてくるようですが…)。

たとえば"help"は、マーケティング資料などにやたらと出てくる単語だ。こんな感じ。

...to help determine the xx for your environment,..

...can help simplify the assessment, implementation, design...

To help reduce xx while increasing...

helpと言えば、「助ける」がもっとも一般的だと思うけど、実務翻訳の場合は、「~に役立つ」、「~を促す、促進する」、「~を支援する」という風に訳すことが多い。数回ならこの処理で問題ない。だけど、下手をすると一つの文書で数十回も出てくるので、いちいち訳出しているとくどくなる。too much helpになってしまうのだ。

このような状況で有効なのは、「このhelpたちをどう訳せばいいのか」と悩む前に、「原文には、(あるいはそもそも英語には)なぜこんなにたくさんhelpが出てくるのか」ということについて思いを巡らせてみることである。

私見としては、一般論として「すべて訳出すると日本語としてくどくなる頻出表現は、そもそもそれに相当する日本語表現が存在しない」と考えることができると思う。双方の言語に等価な意味が包含されているにしても、片方の言語にはそれを表出するという意識が薄い、あるいは表出させなくても意味を表せる機能を持っていると思うのだ。

helpの場合はどうか。原文を読み、同じ意味のことを日本語で書くとしたら、こんなに「役立つ」とか、「支援する」とか、「促進する」とか、は使わないのではないかと考える。つまり日本語ではhelpを使わなくても、同じことを言い表せるのではないかと。

だから、ここで「訳さない」という選択肢が強く意識されることになる。逐語的にhelpに対応する語を使わず、訳文のなかにhelpを溶け込ませるのだ。

だが、この方法は諸刃の剣でもある。うまく溶け込ませることに成功しなければ、その語が包含していた意味まで「消して」しまうことになる。それに、実務翻訳の場合では、ある語に相当する言葉を訳文に入れないことは、少々勇気の要ることでもある。

だからhelpを訳語のなかに入れるべきかどうかの判断が、大きな問題になってくるわけなのだけど、こういう時によい判断材料になるのは、英→日の視点を、いったん日→英に切り替えてみることだ。自分が作った訳文を今度は逆に日英翻訳したときに、そこにhelpが復活するかどうかを考えてみるのだ。もしそこに自然な形でhelpが蘇ったのであるならば、英日においてhelpを訳出しなかったという判断はある意味正しかったと言える。つまりその場合には、helpは消されたのではなく、うまく訳文に溶け込んでいたわけだ。だからこそ日英翻訳でhelpの力を借りる、まさに翻訳におけるヘルプが必要になったというわけなのである。


英日翻訳「ねえ、help。申し訳ないけど、どうもここには君の居場所がないみたいなんだ。席を外してくれないかな」

help、しぶしぶ退席する。

日英翻訳「helpがいないと、いまいち盛り上がらないな~。よ~し、電話してここに来てもらう」

help、嬉しそうに戻ってくる。


と、そんなことを考えてしまったのは、たまたま観ていた格闘技の動画で、まさにそのhelpの「復活祭」の現場を目撃してしまったからなのである。

「五味隆典vs川尻達也」の試合前のインタビューで、両選手の日本語のしゃべりに英語の翻訳がナレーションで挿入されている。

五味選手が、

「『PRIDE武士道(格闘技のイベント)』を盛り上げたい」

みたいなことを言っているときの英語の訳が、

“I wanna help PRIDE Bushido become more populer.”

だった。つまり、五味選手が言っていないhelpが、英語では付け加えられているのだ。たしかに、日本語ではひとりの選手が「(自分が)イベントを盛り上げたい」と言うことはよくあるが、それはイベントを、彼一人が盛り上げるのか、それともその一助を担いたいのか、その当たりは曖昧である。明確に表現しなくても、聞いている人にニュアンスは伝わる。しかし、英語の感覚からすると、そこら辺を曖昧にやりすごすことはできない。やはりいくら五味選手がPRIDEを代表する人気選手であるにしても、彼一人でイベントをやっているわけではないし、PRIDE武士道に関わる多くの人たちがイベントを盛り上げようと頑張っているわけだから、そこにhelpを加えたくなったのではないかと思うのである。たとえ五味選手の「オレが武士道を盛り上げる」というニュアンスを表すにしても、である。

だから、“I wanna help PRIDE Bushido become more populer.”の訳としては、

「PRIDE武士道を盛り上げるのを手伝いたいんです」

じゃなくて、素直に

「PRIDE武士道を盛り上げたいんです」

の方がこの場合は訳として相応しいと考えられると思うのだ。




そういうわけで、原文の語を訳語として表すか表さないか迷うときには、翻訳方向を逆にして考えてみることが有効ではないかと思ったのでした。逆に言えば、英訳時にカットされる場合が多い語は、和訳のときに付け足してもよいものであるとも考えられます。

ちなみに、件の五味隆典vs川尻達也の動画はこれです。いい試合です。僕は、どちらの選手も大好きです。



セントルイスの星

2009年05月24日 22時51分45秒 | 翻訳について
戦闘竜さんのファンである。彼は元大相撲の力士、現役の総合格闘技の選手で、今は名古屋のスポーツジムのトレーナーをしながら試合に出場している。背はそれほど高くないのだけど、体の厚みが尋常ではない。これ以上つけられないというくらい、がっちりとした筋肉の鎧を身にまとっている。この筋肉は、日頃のたゆまぬトレーニングの証だ。ちなみに名前の由来は、セントルイス出身であることから。それから、総合で戦うときは、本名の「ヘンリー・ミラー」を名乗ることもある。なんて文学的なリングネームでしょうか。

僕が彼のことを好きなのは、迫力のある見た目とは対照的な、誠実で優しい愛嬌のある人柄と、ものすごく真面目で練習熱心なところだ。年齢的にも1969年生まれとスポーツ選手としてはかなりの高齢だけど、厳しい練習によってまったく衰えを感じさせないところが素晴らしい。同世代としてとても頼もしい存在だ。見ていると励みになる。

彼のブログは英語と日本語のバイリンガルで書かれている。日本語もとても上手でびっくりする(可愛らしい顔文字も多用されています)。大相撲出身の外国人力士はおしなべて日本語をしゃべるのがとても上手だけど、書く方もこれだけ上手になるためには、相当の努力をしたんじゃないかと思う。そんなところにも、彼の真面目さが感じられていいのである。スポーツ選手で語学が堪能な人をみると、「スポーツの世界で一流になることだけでも、とてつもなくすごいことなのに、その上、外国語も喋れるなんてたいしたものだなあ。俺もガンバらなアカンなあ~」としみじみ思ってしまう。彼のブログはまさに、「セルフメイド翻訳」ではないか。英語の、翻訳の勉強にもなる。「天声人語」の日英版を比較して読むより、僕的には面白いな~。

脱線するけど、ビジネスの世界では「語学力があるだけでは社会では通用しない」と、よく言われる。つまり、英語はあくまで道具なのであって、本当に大切なのはビジネスで結果を出すための専門知識や技能、技術であったりするわけだ。たしかにこれは正論だと思う。で、「翻訳をしている」というと、「語学が堪能なんですね」とよく言われる。実際にはそんなに堪能じゃないので、なんだか困ってしまうのだが、同時に、実は遠回しに「語学しかできないんですね」と言われているような気がすることもある(被害妄想かもしれないけど)。

だけど、実は翻訳は語学力があればできるというものではない。翻訳をやっている人ならわかると思うけど、それは「翻訳力」とでも呼ぶべきもので、「語学力は」あくまでそのうちのひとつの要素なのだ。英日の翻訳者の場合なら、「英語力」「日本語の表現力」「翻訳技術」「常識力」「専門知識」「かゆいところに手が届く、サービス精神、"孫の手"の精神(おまけ)」などなど、そうしたものの総体が「翻訳力」であり、さらにはそこに経験や仕事人としての基本的なスキルなども求められるのだ。それらは単なる語学力以上の、専門技術であると信じている。

だが、だからといって語学力がなくてもいいというわけではまったくない。むしろ、「英語がペラペラなんでしょ?」と言われたときに、それを素直に肯定できない自分には大いに問題ありだと思っている。英語ひとつをとっても、非母語としてそれを学ぶものにとっては、どこまでも奥深く生涯勉強を続けていってもネイティブの領域には到達できないであろう果てしなさを持っている。だから、絶えず英語力向上のための努力をしなければならないと考えているのだ。

語学力のない翻訳者が、いくら「翻訳は語学力だけでやるものではない」と心のなかでつぶやいていたって、世間がそんないいわけを受け入れてくれるわけはない。そもそも、「翻訳=語学が堪能な人がやるもの」という世間一般の図式は、直球ど真ん中でこの仕事の本質を突いているとも言える。だから僕は決して「日本語表現力があれば英語がたいしたことなくても翻訳ができる」とは言いたくない。「英語ができるから翻訳もできるだろ」とも言いたくないのと同じように。何度かこのブログにも書いたけど、「翻訳はトライアスロン」なのだ。ラン、スイム、バイク、どの種目にも秀でていなければレースには勝てない。どれかひとつだけ速ければいい、というアプローチでは、真に優れた存在にはなれないのだ。

戦闘竜さんも、相撲の世界から総合格闘技に転向して、最初はかなり苦労したけど、最近はすっかりMMAファイターらしくなってきた。彼が日夜トレーニングに明け暮れているように、僕も言葉の総合格闘技である翻訳の世界でワークアウトに励み、いい汗をかきたいものである。それにしても彼、血色が良すぎる。ツヤツヤしてます。そんな彼の写真をみていつも、運動は大事だな~と思ったりしているのである。

戦闘竜のブログ


次の1万時間

2009年05月23日 23時03分40秒 | 翻訳について
ちょうど9.11の同時多発テロが起きた年だからよく覚えているのだけど、僕は2001年に翻訳業界に足を踏みいれた。そこで、とある男性と知り合った。その人はその年、某大手電機メーカーを退職し、翻訳者への道を歩み始めていたところだった。オンサイトのフリー翻訳者/チェッカーとして、僕が勤めていた翻訳会社に勤務していたのだ。僕より年齢は少し上だけど、年下の僕にとても気を遣ってくれた。誠実で、真面目で、謙虚で、優しくて、面白い人だった。僕はすぐにその人が好きになり、親しくつきあわせてもらうようになった。僕がその翻訳会社を退職しても、年に一、二回は彼の愛車(アルファロメオ!)でドライブしたり、自宅に来てもらったりするようになった。この1年くらいは会っていないけど、今でもこの関係は続いている。彼は海外サッカーが好きで、それがきっかけで、通信やITなどの彼の専門分野以外にも、某欧州サッカー関連のWebサイトの翻訳の仕事をしたこともあった。早朝に依頼が来て、500w~1500wくらいの記事を午前中に仕上げて納品するという、かなりタフな仕事だった。だけど彼は自己管理がしっかりしていたから、平然とその仕事をこなし、それが終わったあとにオンサイトで仕事をしたりしていた。好きな分野で翻訳ができるという幸福感が伝わってきた。信頼性という、翻訳者にとってとても大切な資質を持った人だった。

何より博学で世の中のことをよく知っている。そもそも、英語の翻訳者でありながら、仕事で使っていたというスペイン語の方がむしろ得意だという、僕からしたらあり得ない語学的な才能にも恵まれていた。中南米での海外勤務経験が長く、そのときのおもしろおかしいエピソードをたくさん教えてもらった。その会社では営業で、ずっと翻訳者になりたいとくすぶっていた僕のことを、「営業の経験は絶対に翻訳者になっても役に立つから」と励ましてくれた。後に僕が翻訳者としての仕事を始めたときも、我がことのように喜んでくれた。友人でありながら、常に尊敬を感じさせる人だった。

彼は、あるときを境に、翻訳者から弁理士へと進むべき道を変えた。弁理士の資格を取るための猛勉強が始まった。彼が翻訳の世界から離れていってしまうのは寂しかったけど、彼が選んだ道だから、もちろん応援した。彼は自分に厳しく、まっしぐらにその道を進んでいった。朝は早朝から、ほとんど一日中勉強漬けの毎日。弁理士の予備校にも通い、家で、学校で、喫茶店で、黙々と勉強を続けた。たまに会って話を聞く度に、彼の頭のなかに知識がどんどん詰め込まれていくのがよくわかった。試験に合格するためには、相当量の情報を暗記しなければならない。ものすごい記憶力だと思った。弁理士になるためには最低3000時間の勉強が必要なのだと教えてくれた。気が遠くなりそうに思えたけど、やっぱり何かの分野でプロになろうとしたら、最低でもそれくらいの勉強時間は必要なのだ。ビートルズだって、下積み時代の1万時間の演奏があったからこそ、あれだけのバンドになれたという話も聞く。

結果、彼はほぼ最短期間で超難関といわれる弁理士試験に合格し、数年間にわたった勉強漬け生活を終えた。彼の努力のすさまじさを知っていたから、合格の知らせを聞いたときにも、嬉しさと同時に、当然だ!という気持ちがしたものだ。彼は今、某大手企業で特許関連の仕事をしている。やはり、努力は裏切らないのだ。なんだか彼が遠くに行ってしまったような気がしたけど、僕は自分なりにこの翻訳の世界で頑張り続けるしかない。そんなことを思った。僕も、弁理士とか、弁護士とか、公認会計士とか、そういう難関試験を目指して勉強に打ち込んでいる人と同じような努力をしなければならないのだ、と強く感じた。

ただし、翻訳の勉強は、いわゆる資格試験のようなものとは勉強の意味合いが違う。参考書があって、頭にたたき込むべき訳例や公式みたいなものがあって、3000時間勉強すればいい、というものではない。日常にあふれている言葉を的確に捕まえることが翻訳者の仕事ならば、本を読むのも、新聞を読むのも、テレビを見るのも、友達と電話するのも、電車のなかで他の乗客の立ち話に耳を傾けるのも勉強だ。原書を浴びるほど読み、他の訳者の訳文を読み、実際に自分で翻訳をしてみることも勉強だ。直接的に言葉が介在しなくても、様々な人生経験をすることだって勉強だと言える。なぜなら、言葉は人生を語りうるものだからだ。言わば、生きることのすべてが翻訳者にとっての六法全書なのだ。だけど、だからといって漫然と生きていれば翻訳がうまくなるわけではない。それはあり得ない。いくら専業で翻訳をしていようが、学ぶという意識がなければ、時間は無為に流れていくだけだ。これまでに自分が何時間勉強してきたのかはわからないけど、僕には新たな気持ちで、これからまた意識的な1万時間を積み上げて行くという覚悟が必要だ。そのくらいの努力をしなければ、絶対にここから先には進めない。それだけははっきりとわかっているのだ。

あの鐘を鳴らすのは君だ

2009年05月06日 23時36分39秒 | 翻訳について
自分はどんな本を訳したいのか? と漠然と考えるとき、いろいろと思うことはあるのだけど、なんとなくピンとこない部分もある。でも、面白そうな原書を見つけて「あ、これ自分が訳したい!」と思うとき、それが現実のものになるかどうかは別として、そこで初めてそれまではっきりとは意識していなかった自分の趣向のようなものが見えてくることもある。この本はできれば他の人に渡したくない、と心から思えたら、たぶんかなりの確率でそれは自分にとって相性のいいテキスト、愛情を込められるテキストになるにちがいない。既読であれば、すでに愛情は宿っているかもしれない。当たり前のことかもしれないけど。

あるいは、すでに誰かの手によって訳された書籍を手にとり「ああ、これ自分が訳したかったな~」と地団太を踏むような気持ちになれば、それも自分の趣向に合った書籍であることはほぼ間違いない。訳の質があまりよくないという印象を持つのなら、なおさらその気持ちは強まる。ものすごくひどい訳だったら、「これじゃこの本が浮かばれない」と不遜にも思ったりする。鐘を鳴らすべき人が違うと思ってしまう。でも、その訳がとても上手で、訳者も名の知れた経験のある人だったら「自分が訳したいと思うけど、この人が相手なら身を引くしかないな」とも感じることもある。考えてみると、それは単に「こんないい本が訳せて、うらやましいな~」と思っているだけなのかもしれない。つまり「自分こそが」と心から思えない時点で、そこに「運命の赤い糸」的なものを見出すことはできない。その本を訳したいな、と大勢が思う中の、one of them に過ぎない。

それでも「自分が..」という気持ちが揺るがない場合、そこには何か特別なものがあるはずだ。自分より翻訳がうまい人など世界にはごまんといるはずなのだから、そう思ってしまえるのは単に傲慢で自分が見えていないだけなのかもしれない。だけど、本によっては「これは自分が訳したら絶対にいいものになる!」と強烈に感じるものもある。どんな大御所が相手だって「この分野のこの本だったら負けることはない!」と思えたら、やっぱりそれがその人の進むべき道になるのだと思う。そしてその通りに快心の仕事ができたら、こんなに喜ばしいことはない。それは出版社にとっても、読者にとっても幸福なことだ。

もちろん、仕事を依頼されて、翻訳をすることもとても楽しい。自分で本を探すのがお気に入りの店で気に入った服を買うことなら、出版社の人に依頼された本を訳すのは、他人に見つくろってもらった服を着るようなものだ(得てして、他人の見立ての方がよかったりする)。人から選んでもらんだ服を身につけることで、新たな自分を発見することもある。いろんな服を着ることで経験値が上がり、ファッション全般を見る目も肥えていく。

本にはジャンルや分野がある、だけど、1冊1冊が違う顔を持っている。たとえ同じ著者が書いた同分野の本であっても、Aはぜがひでも訳したいけど、Bはなんだか嫌だ、と思うこともある(現実にそういう場面に直面したことはないから、あくまでそう思っているというだけの話なのだけど)。そういう意味では、やはり常日頃から自分の趣向や特性を意識して、本を探し、「これだ!」と思うものを見つけることが大切だ。といいつつ、これまでの僕はほとんどそういう活動をしてこなかったので、これではいかんと、ここ最近はAmazonをそういう視点で彷徨っている。今日は、あわよくばという期待を込めて、某格闘技関係の洋書を注文した。いきつくところは、この分野? 現在のMMA界で最強と言われる、僕の大好きなエミリヤエンコ・ヒョードルの本があったので思わず興奮してしまったのだけど(今まで知らなかったなんて不覚)、それは彼個人の人生ついて書かれたものであるというよりも、彼の格闘技のテクニックの解説本みたいなものだった。残念ながら、その内容にも興味があるとはいえ、ぜひ自分が訳してみたいとは思わない。なぜなのかははっきりとはわからないけど、こういうところからも意外な自分の好みというものがわかってくるのだと実感した。

もっと自分の趣向にあったヒョードル本なら、ぜひに訳してみたい。ぶっちゃけ、誰が相手だろうが負けない自信はある。否、負けるかもしれないが、もし誰かがその本を訳すのなら、ぜひ負かしてほしいと思う。つまり、こちらが納得するだけのいい訳をして欲しいと思う。ヒョードルにも格闘技にも興味のない人には訳して欲しくない。逆に言えば、自分がやっている仕事も、常に他の翻訳者からそういう目で見られている可能性があるということなのだ。そう考えると怖いものもあるので、やっぱり出版翻訳は自分をプッシュする部分と身を引く部分をはっきりとさせるべきなのかもしれない。もちろん来たチャンスは逃しちゃいけないというのも別の側面では確固とした鉄則であるわけなのだけど。

あ、ポカリ飲みます、ナウ ~地獄の黙示録~

2009年04月23日 23時14分32秒 | 翻訳について
相当に旬を過ぎているけど、立花隆さんの『解読「地獄の黙示録」』を読了。
内容は、映画『地獄の黙示録』を立花さんがその豊富な社会、文化、文学の知識で解読していくというもの。僕もこの映画がとても好きで、たまたまビデオテープにダビングしたものを持っていたこともあり、数えきれないくらい繰り返し見ている。それだけに、読み応えがあった。プロパーの映画評論家の言説とは一味違う立花さんならではのアングルを楽しめた。

この映画は1979年に公開されてから20年以上の時を経て、2001年に完全版として再公開された。完全版では、コッポラは初公開時にカットされていたフィルムを使って、52分間ものシーンを追加している。オリジナル版でも相当に見ごたえがあるけど、完全版はさらにすごい。お好み焼きを3枚食べた後に、焼きそば2人前追加するみたいな感じ。もうコテコテだ。

立花さんは、この作品が単なるエンタテインメントではなく(エンタテインメント作品としても、興行的にも成功している)、文学作品と呼ぶにふさわしい傑作だ、というような意味のことを書いておられる。たしかにその通りかもしれない。でも、むしろ個人的にはエンタテインメントの上に文学が位置するのではなく、文学こそ究極のエンタテインメントではないかと思う。人間の存在、社会の在り方、時代精神を深くえぐることによって、それら自体がとてつもなく大きな普遍的な問いとなり、謎となる。それらは強烈なサスペンスであり、スリルなのだ。それを文学と呼ぶならば、それを最高の形で体現したのがこの『地獄の黙示録』だったのではないだろうか。

まず確固とした秩序ある社会の存在が前提され、それを乱す異分子を設定することによって「何もない世界に物語を引き起こす」のではなく、社会や秩序そのもの、それを作り上げている人間意識そのものの危うさを疑うことによって、文学は「世界それ自体を物語にしてしまう」わけだ。この映画の本当にすごいところは、そこだと思う。チャーリー・シーン演じるウィラードも、マーロン・ブランド演じるカーツも、「西洋の勝新」ことデニス・ホッパー演じるカメラマンも、そえぞれが見事な輝きを放っている。だが、この映画の物語は、彼らの関係性によって化学反応的に生じさせられているのではない。ずっしりとした物語が、金太郎飴みたいに全編をどこを切り取ってもあまねく溢れかえっている。登場人物たちは、その充満した物語世界の内部にいて、出口を求めて彷徨っているのだ。コッポラはこの映画が「ベトナム戦争についての映画ではなく、ベトナム戦争そのものだ」と言ったが、僕はさらに、単なるベトナム戦争という主題を超えた大きなメッセージが語られているのを感じる。などと、いろいろ思うことはあるのだが、あまりにいろいろありすぎて、何をどう書いていいのかわからないので映画の感想はここまで(なんて中途半端な)。

ところで立花さんはこの映画の字幕に関してかなり批判的である。たとえば、全編にちりばめられているコンラッドの『闇の奥』や、エリオットの詩からの引用がきちんと訳語に反映されていないとか、当時のベトナム戦争やアメリカの社会政治背景などを汲んだセリフが活かされていないなど、翻訳者がすくみあがってしまうような鋭い指摘をいくつもしている。コンテキストもあるからある語だけを取り上げて批判の対象にすることはフェアではない部分もあるし、翻訳、特に字幕翻訳では「訳さないこと」も一つのテクニックであるわけだから、一概に彼の指摘がすべて正しいとは言えないとは思ったのだけど、やはり立花さんクラスの人にそういう風に厳しい眼で見られていると思うと、翻訳っていうのはつくづく大変な仕事だと感じる。実際もう訳者としてはグーの根もでません、という指摘も多い。だが、少々訳者の肩をもってあげたくなるものもある。

たとえば、デニス・ホッパーのセリフで、

Do you know "if" is the middle word in life?

というセリフの訳が、

「人生では"もし"を考えろ」

になっていたことに対して、原文のニュアンスを汲んでおらず、"お粗末"だと指摘されている。たしかに文芸翻訳であれば、この訳を「"人生【ライフ】 "の真ん中の2文字が、"もし【イフ】"だって知ってたか?」という風に、ルビを使ったりして原文そのものに近い形で訳すことはできる。だけど、字幕の場合、これを限られた字数で表現するとなると難しい。だから字義どおりには訳さないパターンがとられたのだと思う。これはパンやダジャレをそのまま訳せない場合に使われるのと同じ翻訳の常套手段でもあるから、原文通りでないこと自体が批判されるのは少々訳者にとっては厳しすぎると思う。そもそも、これは表面的な言葉の裏で何かを伝えようとしているセリフだ。「Lifeのまんなかの2文字がifって知ってたか?」と、小学生が休憩時間に豆知識を友達に自慢してるのではない。これは、「"もし"(if)っていうのはそれだけ人生にとって不可分なものなんぞ、なんでお前はこの期に及んで"もし"を考えようとしないのか?」ということを、デニス・ホッパーが言外にチャーリー・シーンに伝えようとしているのだともとれる。そういう意味では、訳者がこの訳を選んだのにも一理あるのではないかと思うし、まったく的外れな訳ではないのではないか。ただし、理想的には言葉の表面的な面白さと、その根底にある意味が両方伝わる訳がよいと思うから、たしかにこの訳はベストではなかったのかもしれない。
しかし、立花さんのように翻訳の質について厳しい意見を言ってくれる方というのは、翻訳者にとってはありがたい存在なのだ。問題提起があってこそ、考察は深まっていくのだから。むしろ、「人生では"もし"を考えろ」の訳語に対して誰も疑問やひっかかりをもたずにいるほうが不自然な現象だと思う。

そういうわけで、翻訳でも常に"もし"を考えることが大切ではないかと思ったりしたのであった。

よくみるとTranslationの真ん中には"slat"の4文字がある。つまり翻訳者は、訳すのが難しいところを「スラッと」流していいのである、いや違う、流してはいけないのである。


B地点を目指して

2009年04月18日 22時42分57秒 | 翻訳について
10年以上前に、「翻訳を生涯の仕事にしたい」と考えた。それから勉強を始めた。英語の勉強もほとんどイチからやり直した。東京に出てきて、翻訳会社の営業になり、ソフトウェア企業の社内翻訳者になり、翻訳会社でチェッカーとコーディネーターをやった。その間に、翻訳学校にも通った。師に恵まれ、編集者の方に恵まれ、運よく出版翻訳の仕事をいただくこともできた。仕事を通じて様々なことを学んできたし、学校や勉強会などでも多くを学んできた。つまり、これまでの10年、ずっと翻訳の勉強を続けてきたことになる。でも、ずいぶんと効率の悪い勉強だったと言わざるを得ない。本当に体系的に、翻訳を学んできたのだろうか? 学んだすべてを、いつでも取り出せるように道具箱の中に綺麗に整理して入れているだろうか? 刃を常に、研いでいるのだろうか? 筋力を強化・維持するためのトレーニングを、どれだけしているのだろうか?

昨秋にフリーランスの翻訳者になって、翻訳漬けの生活が始まった。それまで企業で翻訳に携わっていたときは、助手席に座って運転手をナビゲーションしているような感覚だった。それが、今は自分でハンドルを握ってトラックを運転している。そういう実感がある。翻訳の仕事は配達の仕事にも似ている。どんな荷物を、どこまで運ぶかは毎回わからない。ひとつとして同じ道はなく、毎回新しい発見の連続だ。A地点からB地点まで、荷物を運ぶ。B地点に行く間に、すでに恋に落ちている可能性もある。B地点からC地点に行く間に、訳語に使う言葉を悩みながら探していることもある。深夜の急行便を発射することもある。『歌うヘッドライト』を聴きながら。なんだかよくわかりません。

ともかく、そういう風にコックピットに座って一日中仕事をしているわけなのだけど、そして仕事から多くを日々、学んでいるわけなど、なんだかやっぱり勉強が足りないとつくづく思ってしまうのだ。必要なのは、フリー翻訳者になる前にやっていたような勉強とはまた違った意味合いの勉強だ。翻訳者になるための勉強ではなく、フリー翻訳者としていかによい翻訳を目指せるか、という目標に向かっての勉強だ。「真のプロになるための勉強」といったらなんだかカッコつけすぎのような気もするけど、今、結構真面目にそんなことを考えているのだ。

これからの人生をかけた、ライフワークとしての勉強。時間もそんなに残されているわけじゃないし、生きていくことでまずは必死にならないといけないのだから、どれだけそのための時間が作れるのかはわからないけど、とにかく思いきり勉強・研究がしてみたい。

棋士の羽生さんの本を読むと、彼も日々試合をこなしつつ、勉強漬けの毎日を送っていることがわかる。その尽きることのない探究心には、つくづく頭が下がり、感服する。羽生さんにしてそうなのだから、僕など彼の何倍の努力が必要なのだろうか。

羽生さん曰く、良い将棋を指すためには2つの条件があるとのこと――それは1.知識を得る、2.クリエイティブなことを試す、だそうだ。彼はこの2つを意識して、勉強を続けているということだ。知識を得る、とは文字通り棋譜を大量に読み込むなどして客観的に過去現在の将棋の様々な手法を学ぶこと。クリエイティブなことを試す、というのは、そうした既成概念や定石に捉われず、新しい発想を目指すこと。だからこの2つは相反しているし、そのバランスが難しいのだそうだ。そして、どちらかひとつに偏ってもいけない。まさに、翻訳でも同じことが言えないだろうか。僕の場合は、1の知識を得る、の部分がまだまだ思いきり不足しているから、様々な翻訳書や指南書を読んで体系的に翻訳を学ぶことの方が今は重要だと思うのだけど、学んだことに縛られるのではなく、クリエイティブな部分を試していくことも重要ではないかと考えている。羽生さんたちが置かれている勝負の世界は、とても厳しい。翻訳では客観的に勝ち負けで評価を下される場面はないが、彼の生き方を見習って、僕もひとりの棋士、あるいはトラック運転手なったつもりで明日も仕事、そして勉強に挑みたい。他人の試合の棋譜を誰よりも読み込み、そのうえでクリエイティブな一手を積み上げていく。そうした努力がなければ、勝負の世界で勝つことはできないのだ。

読んではいけない

2009年03月10日 21時28分13秒 | 翻訳について
我ながら情けないのだけど、外出する時、ドアの鍵を閉めた直後に、ガスの元栓をしめたかとか、電気をつけっぱなしにしていないかとか、携帯を忘れずに持ったかとか、そういうことがとても気になってしまう。ドアの鍵を閉める前にも、うっすらと気にはなっているのだけど、鍵を閉めた直後に、なぜかそれをはっきりと自覚するのである。マーフィーの法則がここにもある。そのくせ、一番肝心な財布を忘れて外出し、途中で取りに戻るなんてことも結構頻繁にやってしまう。外に出て目的地に向かって歩きながら、「今日はなんだか身が軽いな~」とか思ってると、なんのことはない、万札がぎっしりつまった財布を家に置き忘れているのである(なんて)。

メールを送信するときもこれと似ている。メールを送信した直後に、ちゃんとファイルを添付したかとか、ファイルの内容に誤りはないかとか、メール本文に誤字脱字はないかとか、そういったことが気になってしまうのである。メールの場合は、ドアの鍵と違って、いったん送信してしまったら取り返しがきかない。だから「よろしくおへがいします」なんて書いてしまっても、修正できない。こういう変換ミスくらいならなんとか許されるけど、もっとひどいミスをしてしまった場合のことを考えると、非常に恐怖である。たまに、メールを送信してしばらくたった後に、ふと「間違って○×のファイルを□△さんに送付してないよな?」というようないまわしい妄想が、なぜかとつぜん延髄から尾てい骨のあたりを稲妻のように駆け抜けていくのである。

妄想が広がると、確認するのすら怖くなる。恐る恐る、送信したメールを確かめてみる。ファイルはちゃんと正しいファイルの最終版を添付しているか、宛先は合っているか、などなど。まあ、たいていの場合はセーフなのだけど、いつか本当にプロレス動画のファイルとか、秘密の日記ファイルとか、さらにもっと恐ろしいものとかを、よりによって絶対に送ってはいけない誰かに送付してしまいそうで、考えただけで身の毛がよだつ。実際、妄想状態にあるときは、僕からのとてつもないメールを受信した□△さんが、困惑しつつも、僕にそれを知らせるべきか、知らせざるべきかを悩んでいる姿すら想像してしまうのである。あるいは、実際に□△さんが僕からの変態メールを受け取って、人知れず苦悩し、結局は僕には何も言わずスルーしている可能性だってないとは言えないのである。

というわけで、外出するときはもちろん、メールを発射するときにも、送信ボタンをクリックする前に、ぐっと思いとどまって指さし確認しなければならない。特に、納品ファイルの中身はもう一度見直さなくてはならない。そうすると、そらいわんこっちゃないという感じで、誤字脱字をはじめ、さまざまなエラーが見つかったりする。このブログでも頻繁に誤字脱字をやらかしている僕は、別名、誤字魔多寒(「ご」じまおさむ)とも呼ばれておりまして、仕事でも誤字脱字を連発しております。というのはちょっとだけ冗談で、さすがに仕事では一文字のゴちゃんもダっちゃんも許さない覚悟で臨んでいるのだけど、やはり納品前のチェックでは、少なからずエラーが見つかる。

だからチェックというのは、最低でも二段階でやらないといけない。一回目は原文と訳文との突き合わせチェック、二回目は訳文だけの素読みだ。業界では、前者をバイリンガルチェック、後者をリードスルーといったりする。翻訳会社でも、サッカー用語的にいうとチェッカーを「二枚」にして、この二段階でチェックをやっているところが多い。素読みにはいろいろあって、誤字脱字だけをチェックする場合もあるし、訳文を思い切ってブラッシュアップする場合もある。ブラッシュアップの場合は訳文にかなり変更が加わることがあるから、さらにその後で誰かに素読みしてもらったほうがいい。でも、この素読みのときにも気づきにくいエラーがある。それはいわゆる「約物(やくもの)」と呼ばれている部分や、レイアウトの微妙なズレなどだ。訳文を「読んで」しまうと、意外とこれらの部分には気づけないものなのだ。だから、この辺をさらにDTPオペレーターなどがチェックする工程を組んでいる翻訳会社も多い。

訳文を読んでしまって、テキストばっかりに目が行ってしまうと、箇条書きの部分の最後に「。」があったりなかったりとか、改行の数が微妙にオリジナルとちがっていたりとか、そういうところになかなか気づけないのである。だからあえて文字を読まないというチェックをするわけである。実際、校正の仕事をしている人が、新人に「読んだらだめだ」とアドバイスしたという話が、最近読んだ本のなかに書いてあった。

あとは、多くの人がやっていることだと思うけど、最後に印刷して確認するとさらによい。紙面に表示することでファイル全体の可読性が高まり、それまで気づけなかったエラーを検出しやすくなるからだ。僕もよほどページ数が多くない限りは、印刷するようにしている。ちなみに、原文ファイルも、ほぼかならず印刷する。その方が読みやすいからだ(お風呂でもトイレでも読めるし、突然外出することになったときに電車の中でも読める)。書きこみだってできる。

なんだか途中から真面目な話になってしまったけど、ともかく見直しの回数は多ければ多いほどいい。時間との闘いがあるから毎回余裕をもって何度も確認するのは難しいかもしれないけど、3回以上見直しをしたら、かなり気持ちがすっきりする。完璧にエラーはないとは言い切れないけど、とりあえずは一点の曇りもないくらいの気持ちで送信ボタンをクリックすることができる。その後で変な妄想につきまとわれることも、たぶんない。

といってもドジな僕のことだから、いつなんどき爆弾メールを誰かに送付してしまうかわからない。なので、みなさん、もし僕から変態なメールが届いたときは、どうぞ読まずに破棄してください。それは、「読んではいけない」のです。